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第19回3000字小説バトル Entry17

the day the world went away

「あ」
 日野は短く声を上げた。
 鳥を見たのだ。
 穏やかに寄せて返す青い海。その上に白く舞う海鳥を、日野は見た。
 久しぶりに見る鳥の軽やかさを目に焼き付けようと日野は目を凝らし、眺め、そして、それが見間違いであったのを知った。海鳥の正体はただの紙屑だった。どこからか飛ばされて来た白い紙屑が海風に乗り上空に舞い、それが日野の老いた目には鳥に見えたのだった。
「博士。どうなさいました?」
 有希子は日野の車椅子を押しながら、聞いた。
「何でも無い」
「寒いですか? 今日は風がちょっと強いですからね」
「有希子、何でも無いんだよ」
「お風邪をひいてはいけないわ。博士。これをお召しになって」
 有希子はそう言って、自分のコートを脱いで、それを日野に羽織らせた。
「これで良いわ。博士、寒くありませんか?」
「ああ大丈夫だよ。有希子、有り難う」
「どういたしまして」
 そう微笑むと有希子は再び車椅子を押し始めた。
 風のある日だった。幾つもの風が、二人の間を吹き過ぎていった。
「博士」
「なんだい」
「毎日海ばかりで飽きませんか? たまには違う所にも行きます?」
「いや、良いんだよ。私は今まで海を見たことが無かったからね」
「そうですか」
「私は海を見た事が無かったんだ」
「解りました。じゃあ博士、明日も来ましょうね」
「ああ。頼むよ」
 そう答え、日野は海を見た。
 白い紙屑は海風を受けながら、ひらひらと空を漂っている。
「あれはやはり鳥では無いな」
 日野は空の眩しさに目を細めた。
「え? 博士、何か仰いました?」
「あれはやはり鳥では無いな。私が知っている鳥というものはあんなに軽やかに飛ばないものだし、それに」
「やはりまだ寒いのね。博士、これを着て下さい」
 有希子は上着を脱ぎ、それを日野に羽織らせた。
「それに、地球上の生命は全て滅んでしまったのだからね。私以外、全ての生命は滅んでしまったのだから」
「さあこれでどうかしら。博士、まだ寒い?」
「大丈夫だよ有希子。有り難う」
「どういたしまして」
 有希子はそう微笑み、再び車椅子を押し始めた。



「博士、これもお食べになって」
「有り難う」
 日野はサンドイッチを受け取りながら言った。
 昼には風はもう止んでいた。二人は海岸にシートを広げ、昼食を始めた。
「有希子」
「なんですか?」
「これはトマトのサンドイッチじゃないか」
「そうです。トマトのサンドイッチです」
「私はトマトが嫌いだって知ってるだろう」
「でも博士。トマトは身体に良いわ」
「それでも仕方が無いんだよ嫌いなのだから。人間にはね、好き嫌いというものがあるのだよ」
「そうなのですか」
「ああ」
「博士はやっぱり色々大変なんですね」
 有希子は目を伏せる。
「あたし、博士のこと全部解ってあげられなくて、とても残念ですわ」
「良いんだよ。有希子は良くやってくれてる」
 日野は手を有希子の肩に置いた。
「好き嫌いなんて、特に理由は無いんだ。どうしようも無いだけなんだ。人間自身が、我々自身がどうしようも無い生き物というだけなんだ」
「博士のお話は難しいわ」
「そうか。まあ私自身何を言ってるか良く解っていないがね。さて、トマトか。一つ食べてみるか」
「博士、無理をしなくても良いのよ。お身体にさわるわ」
「身体に良いって言ったのは有希子だろう」
「それはそうですけど」
「大丈夫だよ有希子。心配するな」
 日野はサンドイッチを口に運んだ。
「ん、む」
「博士、どう?」
「悪くない」
「本当? 良かった」
「悪くないよ」
「嬉しい」
「どうして私はこれを嫌っていたのだろう。今となっては良く思い出せないが。少し勿体無かったかな」
「勿体無かったのなら明日も食べれば良いわ。明日も明後日も」
「そうだな。それも良いな。そうするか」
 日野は海を眺めながら言った。
 海は昼下がりの陽光を受け、ますます青く光り輝いている。




「有希子、夢を観たよ」
 午睡から覚め、日野は言った。
「どんな夢ですか?」
「娘の夢だった」
「博士に娘さんいたのね」
「ああ」
 日野は瞳を閉じた。
「娘が、いたんだ。17の時家出してしまって、それ以後二度と会って無いがね」
「そう」
「久しぶりに娘の夢を観たよ。泣いてた。私はどうして良いか解らず、ただおろおろするばかりだった」
 ゆっくりと日野は言った。
「優しくてあげれば良かったと思う。私には何も解らないのだから、優しくしてあげれば良かった」
「博士」
「優しくしてあげれば良かった」
「博士は優しいお方だわ」
「そうかな」
「博士は本当に優しい方よ」
「そうか。有り難う」
「博士は優しいわ」
「有り難う」
 日野は答え、目を開けた。
 もうあの白い紙屑は何処にも見えなかった。あの紙屑は何処へ飛んでいったのだろう、日野はそう思った。
「有希子」
「なあに?」
「寂しくないか」
「寂しくないわ」
 有希子は答えた。
 当然の答えだった。日野がそのように有希子を造ったのだから、当然だった。
 寂しがらない。奪わない。食べない。疲れない。不平を言わない。偏らない。忘れない。死なない。そのように有希子達を造るのは簡単だった。ただ人間がそうなれない、というだけで、そのように造るのは簡単な事だった。
 核の炎が世界を焼き尽くした後でも、有希子達、日野が作り出した千体のアンドロイドは平然と生き残った。
「博士がいますもの。寂しくないわ」
 有希子は微笑みながらそう言った。
 彼女達は人間が滅んだ後のこの地上で、新しい世界を作り上げるだろう。争いも憎しみも無い世界がやってくるだろう。人間が欲し、それこそ殺し合いをしてまで欲していた世界が、ついにやってくるだろう。
 日野はその世界のことを思い、少し泣いた。
「博士、どうなさったの?」
 日野は涙に濡れた目で世界を見た。自分達の手で焼き尽くしてしまった世界を見た。世界は涙に滲み、言い様のない色彩に包まれていた。涙はなんと不思議なものだろう。日野は思った。涙の先に、何故こんなにも色々な物が見えるのだろう。そう思った。涙の中で、世界は様々なもので溢れていた。青い海。太陽。歌。今は滅びたマンモス。恐竜達。
(有希子)
 無くした愛。忘れてしまった思い出。そして遠い未来。
 全てが在った。ずっと前から全てが在った。解らなかっただけで、気づかなかっただけで、全てはずっと前からここに在ったのだった。
(だがそれに気づいても、人にはどうする術があっただろう。滅ぶ他に、人にはどうする術があったのだろう)
(なんてどうしようもない、なんて哀れな。なんて愚かな)
「だけどな。だけどな有希子」
「なあに、博士」
「だけど人間は生きたよ。めしいた目を懸命に開いて、聞こえない耳を必死にそばだて、人間は生きたよ。滅ぶ以外にどうする事も出来なかったけれど、それでも人間は懸命に生きたよ。何も残せなかったけれど、それでも懸命に生きたよ。なあ有希子、覚えていておくれ。私達人間は生きたんだ。それを覚えていておくれ」
「ええ。博士の事忘れないわ。私達は、ずっと忘れないわ」
「いつかお前達に私達は追いつけるだろうか。私達は滅んだが、それでもいつか追いつける日がくるだろうか」
「待ってるわ。私達は博士をずっと待ってるわ」
「そうか」
「そうよ」
「有り難う」
「どういたしまして」
 有希子は笑った。
 日野は再び目を閉じた。
 波は青く、寄せては返し、寄せては返した。
 いつまでも、子守歌のようにいつまでも、寄せては返し、寄せては返した。

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