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第19回3000字小説バトル Entry19
「誰も知らないけれど、この部屋には窓があるのよ」
記憶の彼方、世界の一番深い所を探す様に響く少しひび割れたテナーボイス。階段下の軋む闇を抱えた半地下の物置で、その声の流れる先を探して私は汚れた両手を伸ばす。
「窓を探して開けるって事は必ずしも面白い事じゃないわ。見つからないかも知れないし、見つかったとしても、望んでいた景色が見えるとは限らない。それに窓を開ける段になったら、それまでそこそこ心地よかったその部屋に外の空気が入って来て不快になるかも知れないもの。
それでも窓をあなたは開けなきゃいけないわ。だって、」
だって?
だって、何だっけ?
四方を棚で囲まれた小さな部屋は、まるで砒素みたいに少しずつ私の中に浸透する闇を持ってる。この段ボールを動かして棚をずらせば地の壁が見えるだろう。だけど、そこに本当に窓なんてあるのだろうか。
汗を拭って目を閉じた。
工場の町の雑踏に混じって、風の流れる音が確かに聞こえた。
世界にはひかりも風も届かない終末の場所と言うのが確かにあって、それが私の育った町だった。外への出口は失われ、誰もそれを探す事すら忘れて世界が終わるのを待っている。産業廃棄物で汚染された土で出来た道が町の中央を通り、母の働いていたハム工場はそこをずっと真直ぐに行った所にあった。
アイロンの掛かったブラウスと姿勢の良い姿で、母はいつだって午後五時半の道を私に向かって歩いて来た。彼女はひどく自分勝手な女だったけれど、その時私に向かって笑いかけていたのは覚えている。
彼女に捨てられる迄、私は五時になると、壁一面に棚が備え付けられている窓のない元物置の小さな部屋を飛び出した。そして母の笑顔を待ったのだ、
他の男の元へ私を置いて去って行ってしまう迄。
真夏の森が幾重もの深い陰影を持つ様に、彼女も闇と光とを持っていた。お嬢さんがそのまま奥様になったおっとりした女だった癖に、結局他の男の子供を妊って家を飛び出す無鉄砲さがあった。私を愛してくれたと思えば、恋をしてどうしようもなくなると、私を捨てる判断力しか持っていなかった。
私は生涯「母を愛していた」とは言わないだろう。
だけどそれは森の色を一つだけに絞れないのと同じ事だ。
揺れる葉、光を弾いて乱舞する青揚羽蝶の群、風がそこら中に散らす蜜色の光、それらが一つの塊になって古代の神の様に荒ぶって居る、そんな七月の森を只一つの色だけで表現するのはきっと不可能だ。
そう、私はいつも母の声を聞く度に見た事もないそんな森を思った。
彼女の声がやがて還って行く先、世界で一番深い場所。
私にとってそこは、そんな真夏の森だった。
母が出て行った後、哀しみと憎しみとでは後者の方が耐える事が容易である事が判り、私は彼女を憎む事にした。そして彼女から貰った全てのものを捨ててしまった。手作りの洋服、金魚の付いた白い皿、あの声の記憶、真夏の森。
私の中には大きな空虚だけが残った。
それでも構わない、と思ったのだ。
彼女に捨てられた過去を反芻するのは刺す様な痛みを伴った。それよりだったら痛みごと捨ててしまった方がいい、この冷たい空虚にだって私は耐えてみせる。
少しずつ五時半の道に来るのが遅れて行った彼女を思った。上の空になり、夢見る様に遠くを見ていた彼女は、確かに恋をして居たのだ。
私は一つの予感を抱いて日々を過ごした。七時過ぎても彼女が現れなかった夜、八つの私は一人で部屋に帰り、封筒に入ったお札と母の両親の電話番号を見つける。
それで私は決めたのだ。
恋と言うものがこんな薄汚い紙幣二三枚置いて子供を捨てて行くものならば、私は生涯恋等しなくていい。この窓のない闇で生き抜いてみせよう。
そして私はそうした。遠方に居た祖父母に連れられて行った先の大きな屋敷で、広い部屋を与えられたが、結局、あの日々だって私はあの窓の無い部屋にずっといたのだと思う。大学に進むと奨学金とバイトだけで生活する様になり、祖父母との連絡も途絶えた。
けれど、夏がやって来た。
母が恋をした七月がもう一度、世界に巡って来たのだ。
『江間です。
七時迄待っていますが、それから俺は行きます。
それまでに連絡をくれませんか。無かったなら、俺は諦めます。
それじゃあ』
雑然とした部屋に立ち尽くし、何度目かの留守電メッセージを聞く。
耳の底で響くそれは母の声に似ていた。「世界で一番深い場所」を想像させるのだ。初めて会った時にそれを伝えると、彼は笑って答えた。
「じゃあ、いつか俺達は森へ行きましょう」
それから良く二人で出かける様になり、彼は或る日「生家の傍に馬鹿みたいに大きな雑木林がある」と呟いた。
「だから俺達は、そこに行きましょう」
私は笑った。彼の言葉は一々心地よかったのだ、硝子越しの美しいものみたいに。
彼と私の間にはいつだって永遠に開かない窓があった。それがあの部屋の棚の向こうにあったものであろう事を察しはしたが、それをどうこうしようと言う気も特に無かった。
暫くすると彼は時折酷く沈んだ目で私を見る様になった。そして「実家に帰るから俺達は別れた方がいい」と言い、頷く私を見ていた。
硝子越しに与えられていた誰かの体温も私は失った。そんな風に失う事には慣れているつもりで居たのに、彼の留守電メッセージを聞いて私は電車に飛び乗った。
母と暮らしていた小さな町の、あの暗い部屋目指して、私は鳴る心臓の音を聞いていた。
崩れかけたアパートは取り壊される寸前だった。今は完全に物置になっているその部屋で、私は棚を動かしベニヤ板を取り外し、段ボールを畳んで窓を探す。
きっと無い。
最初からここに窓なんてないのだ、従って私が開けるべき窓は世界の何処にも存在しない。
心の奥から囁く声を押し潰して棚から段ボールを下ろした。そこで私の手は一瞬止まる。それからばね仕掛けの人形みたいにがくがく本棚を揺らし、大きな音をさせて荷物ごと床に倒した。
「だって、窓を開ける事は、とても似ているのよ」
「なにに?」
その三日後に私は彼女に捨てられるのだけれど、その時私はそんな事知らなかった。戻らない過去の中、あの声で彼女は私に向かって言ったのだ。
「恋をする事に。
新しい世界を手に入れる事によ」
私は彼女の言葉の意味は判らなかったけれど、その声が好きで聞いていた。そして意味が判る大人になる迄、母が言った事を覚えていようと思っていた。
「だからあなたはいつか窓を見付けて欲しいの」
眠る私に彼女はその晩呟いたのだ。それは多分子供を捨てようとして居る母親の自責の念かも知れないけれど、私はその声にもっと透明な意図を見る。
私が取り戻そうとして居る、世界で一番深い場所へと続く回路を見る。
「そして、それを開いて、新しい世界を見付けて欲しいの」
「私の生まれた部屋には窓があったの」
たった一度のコールで出た電話に、私は静かに話し出す。木枠で囲まれた小さな窓は随分と軋んで居て居り、私は力を入れて硝子を向こうへと押し出した。
「私は最初から窓のある部屋に居たのに、ずっと知らない振りをしていたの」
窓が開く。
世界に言葉が落ちる。
彼の返答を待つ間、私は私の中の空虚が燃え上がる真夏の森で満たされるのを感じた。
私は目を閉じ、長い事求めて来た世界で一番深い場所に、自分が今確かに居る事を知った。
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