Entry1
野ねずみの幸福
卯木はる
どさりと土間に放られた竹籠は、収穫したばかりのサツマイモでいっぱいだった。
「ずいぶん、やられたよ」
首に掛けたタオルで額の汗を拭いながら、サトシはため息をついた。
「おかえり、あら」
玉葱を刻みながら、エミが顔だけこちらに向けた。調理台にはさっき収穫し終えたばかりのほうれん草と間引きした人参葉が、やはり竹籠に山になっている。
サツマイモは、ところどころいびつに欠けて白っぽい身を晒しており、鮮やかな赤紫の皮の色と好対照を成していた。
「こんなに好評だったなら、きっとおいしいに違いないわ」
エミは微笑み、少しふてくされたサトシを宥めた。野ねずみは畑の美食家で、りっぱに実った収穫物を一番おいしい時分に試食する。
「悔しいよな」
「いいじゃないの、お腹いっぱいで幸せになってるわ」
鼻歌まじりに大きいのを二、三本選ぶと、エミはたわしを手に取り流水でごしごし泥を落とした。
「サラダにするわね、野ねずみみたいにお腹いっぱい食べましょ」
水音に負けない声で言う。お腹いっぱいの幸せか。ピーラーで皮をむく妻をサトシは静かに見つめた。
黄金色の身は、ほくほくとよくほぐれて白いマヨネーズと馴染んでいた。
「牛乳でヨーグルトを作ったのよ」
顔を上げると、エミがいたずらっぽい目で微笑む。
「マヨネーズを割ったの、しつこくないでしょ」
「ああ、うまい」
サトシと目が合うとエミは満足そうに箸をすすめた。
サイコロに切ったチーズの塩気でイモの甘さが引き立つ。本当にうまい。エミの手はおいしいものを作るためにあるのかもしれない。二人きりの食卓を囲むときサトシは本気で考えるのだった。
Uターン、Iターン希望者募集の広告をインターネットで見つけたのは、三年前のことだ。縁もゆかりもない農村。都会育ちで土いじりすらしたことのないサトシだったが、心はすぐに決まった。エミは何も聞かずについていくと言った。
一年間の体験入村は農繁期に断続的に行われた。農業指導員の沢木夫妻が受け入れてくれ、土日あるいは休暇を取って、サトシとエミは徐々に収穫の喜びと苦労を覚えた。
空家になっていた民家を借りる算段は沢木夫妻が引き受けてくれ、一年を過ぎる頃には週末は必ずこの農村で過ごすようになった。
沢木夫妻の畑仕事を手伝いながら、土の匂いと命を育てていく時間を慈しむ気持ちが芽生えた。少しずつ地元の人間にも慣れていった。
完全に移住して一年と半分。ネックになっていた仕事は最初の定住者という地位を生かさないかと誘われた。
道路事情がよく、都市部への通勤に比較的便利なこの土地は、都市生活者にとっては手軽に田舎暮らしを実現できる理想郷であり、移住とまではいかなくても週末のみの利用や、農繁期だけの短期入村者が後を絶たず、専任のコーディネーターが必要になったのだ。
田舎暮らしに憧れる都市生活者は、大抵の場合、身勝手な理想を思い描いていることが多い。時間がゆったり流れていて、人々は温和でやさしく、滋味のある大地の恵をいただいて、といった理想に隠れた、はっきり異質な現実とのすりあわせを、いかにするかが一番重要なことだと、この頃わかりかけてきた。
エミは初めこそ笑顔をこわばらせていたものの、野を渡る風やせせらぎや小鳥の陽気な歌声の中で、つぼみが花開くように気持ちを開いていったように見える。野に放ったハーブとサトシが畑で作った野菜をうまく組み合わせて料理に凝りだしたのは新鮮な収穫物のおいしさを知ってからだ。
自分以上にここの暮らしに親しんでいる、言葉はないが、そうあってほしいと心から願っていた。
ふと気が付くと、隣に寝ていたエミがいない。
トイレかとも思ったが、シーツに残った仄かな体温がすっかり冷めてしまってもエミは戻ってこなかった。
ベッドから這い出てフリースのパーカを羽織るとスリッパに足をくぐらせる。襖を滑らせると一つ部屋を抜けて、もう一枚襖を開けた。
ほんのりとした暖気に包まれる。居間は電話台のスタンドから広がる柔和な光で照らされていて、まだ沸点に達していないやかんが、石油ストーブの赤い炎の上で部屋の姿を映している。格子に嵌められた曇りガラスの引き戸。その向こうで小さな蛍光灯の明かりの中を行き来する後姿があった。
「あ、起こしちゃった」
引き戸を少し開けて覗いてみると、エミは悪戯を見つかった子供のように上目遣いに見た。低く直線のように続く機械音。
「なにしてるの」
電子レンジが出来上がりを告げた。エミはラップに包まれた皮付きのカボチャを取り出しながら、料理、と答えた。言おうとしたことを喉下に押し留めたままサトシが立ち尽くしているとエミは肩越しに、もう出来るから、と言った。
「手伝おうか」
「じゃ、ちょっとお鍋まぜて」
中華鍋が弱火にかかっていて、いい匂いをさせている。特大の蓋を取ると、濃厚に白いスープが旨味の凝縮した湯気の中から現れた。肉の姿は見えないが、コクになる油が表面に浮いている。ひたひたに浸かっている大きな白菜の葉の頭が見え隠れしている。
エミは、今までも何か心につかえがあると台所に立つことがあった。
「具が重なっているから底は返せないの。焦げつかないように少し大きく回してみて」
サトシは菜箸を白菜の重なりの下に差し入れて、鍋底を二、三度こすった。
エミは熱々のカボチャを千切りにしている。
「沢木の奥さんからいただいたの。今年はよくできたって」
「ああ、立派なカボチャだな、うちも植えればよかったな」
エミは少し微笑んだ。
ほどなく、総ての皿が調って、真夜中の食卓を囲んだ。やかんの湯が騒ぎ始めた。カボチャは胡麻和えになっていて、ミルクだけで煮た白菜と豚バラの重ね蒸しは、包丁を入れて取り分けた。
白ワインを開けた。ワイングラスに注ぎながら何に乾杯しようかと考えていると、察したようにエミが、野ねずみに、と言い、その通りに乾杯した。
豚バラの旨味の溶け出したミルクのスープがじんわりと胃に染み透る。
「メグミを産んだときにね」
エミが切り出して、サトシは顔を上げた。
やはり、と思った。メグミはまだ妻の心の大部分を占めている。
「女の子だと聞いて、涙が止まらなかった」
予想していない陣痛にエミは苦しんだ。
「こんな苦しみを、この子もいつか味わうんだと思ったの」
メグミは、かなり月足らずで産まれてしまい、保育器の中で三日もたなかった。出生届と死亡届を同時に提出することが、父親として娘にしてやれたただ一つのことだった。
「だめだったと聞いたとき、正直ほっとした。悪い母親かな」
エミが真っ直ぐにサトシを見つめている。自分が死んでしまったように、夜も昼もなく抜け殻のように佇み、時を止めていた妻の姿が思い出された。
「いや、そんなことないさ」
スプーンですくった白菜は芯まで煮えていて、肉厚の白い身が口の中でとろけた。エミも静かにスプーンを口に運んだ。
「うまいね」
「うん」
カボチャは胡麻の香ばしさで、深まる秋の甘さを熟らしている。
「おいしい」
「ああ」
来年は、とエミが少し伏目がちに言った。ふいに何かが弾けた気がした。
「これに負けないおいしいの作ってね」
妻の中に、来年という将来が確かにある。
「ああ、沢木さんに習うよ」
お腹いっぱい平らげた野ねずみは、確かに今幸せだろう。
妻と二人、ゆったり囲む食卓をサトシはいとおしく思った。