Entry1
壊れたストーリー
林徳鎬
「『影がない!』って誰かが叫んだ。通勤客からいつもの無関心さがすっと消えてさ。電車がもう入ってくるときなのに、列が乱れだした。そこでまた『影がないぞ!』って叫ぶんだ。すぐ後に金切り声がした。ホームに突き落とされたんだ。」
その話をしたときから、法川は姿を見せてない。
彼自身、特別にやさしいところがあるわけではない。ただ、物事に対して誠実であろうとする信念がある。今回の事件はとくにそうした種類の人間を混乱させるようだ。
自分はどうだろうか?
理屈は理屈によって曲げることができるし、好きなときに好きなものが選べる。精巧な飴細工みたいなものだ。だから器用にいろんなものを作れてしまう。価値感とか。信念とか。そうやって作ったものを着ているだけで、自分には信念なんてないのかもしれない。
だから不安なんだ。飴細工なんて簡単に壊れてしまう。
「おい、聞いてる?」
ぼんやりしていた。周りがうるさいので聞えなかったふりをする。
「おれ帰るわ」
渡部の驚いた顔を背に、店を出た。
今朝の政府発表は安堵をもって受け止められた。
世論がひとつに落ち着いたのを確認してからの重大発表だ。それでも多くの人間が当事者となるわけだから大騒ぎだった。
異常な事態が発生したのはほんの一ヶ月ほど前だったが、それだけの間にたくさんのキャラクターが殺された。誰と会ってもいまはこの話題だ。渡部みたいにはっきり賛成する人間も今では多い。
携帯を見るとまだ八時前だった。藍子からの着信がある。
「法川くん来なかったんでしょ?今日」
うなずいて缶ビールを開ける。そうだ。それでなかったら飲みになんか行かなかった。
「よかったと思うけど。ケンカになってるよ」
テレビではピノキオの映像が映し出され、それから今朝の首相の発言が繰り返される。
「これでいっぺんに増えちゃうのかな?」テレビのほうを見ながら言う。
「どうだろう。害がなければ積極的にはやらないはずだけどね」
一度、見たことがある。
まだ最初の事件が報道されて数日しか経っていない頃だ。自治会が「キャラクター狩り」をやったと聞いて現場になった公園に行ってみた。砂場で倒れているのを見たとき、ワニかと思った。近くで見ると確かにゴジラだった。
「それに影がないだけで見た目普通の人間と変わんないから。とくにエキストラなんかはね」
「でもさ、キャラクターが悪さしたなんてほとんど聞かないでしょ?」
彼女は怒っていた。この事件があってから怒ってばかりだ。
「腹立つね」
ぽつり、と言った。
仕方ないとは思わない。でも、そう言いそうになった。
翌日はずっと家で寝転がって過ごした。
テレビから目が離せず、ワイドショーの言葉を頭のなかに迎え入れ、いちいち反発し、それに疲れるとチャンネルを変えて、ただ耳を浸した。話はすべて残念である、仕方がない、という言葉で締めくくられた。ワイドショーのリポーターも、コメンテーターも、どこかの教授も、みんな同じ事実を挙げ、同じ解釈を行い、同じ価値感がそれを支えていた。ただ違うのは、いつその言葉を吐くかだ。仕方ない。するとその場にいる人間はとても安心するようだった。魔法の言葉だ。とにかくたった一ヶ月の間にこうした結論に落ち着いたのは残念だった。
残念?
携帯が鳴った。渡部だ。
「あのさ、昨日ごめんな。言葉が悪かった。今夜また飲もう」
断る理由を考えようとしたが、それよりも法川がどうしているのか気になった。
「いいよ。法川にも電話しとく」
電話を切るとすぐに法川にかけた。長めに鳴らす。テレビでは臨時の留置所をテレビレポーターが訪れていた。拘留された人達は暇そうに、一見何の不自由もない部屋で思い思いに過ごしているが、中には書類の山を広げ机を占領している人もいる。いまのところほぼすべての人が不起訴になっている。しかし、キャラクターの大量出現と同時期から急増した死亡事故や行方不明の事件の数を考えると、どこかで辻褄が合わなければいけないので警察も必死だ。キャラクターと誤って殺された事件が相当数を占めると予想されているが、公式の発表は控えられている。キャラクターに対する殺害が現行法では裁かれないし、新たに法案を作ることもないことが昨日の発表で明らかにされたのに対し、こちらの発表は伸ばし伸ばしになっていた。それが意味するところを読み解こうと各局とも連日報道の構えだ。法川は目の前でキャラクターが殺されるのを見たと言っていた。通勤ラッシュの時間帯にホームから突き落とされたらしい。彼は「良心が死んでいく」と言っていた。たしかに反対する人はほとんどいなくなった。自治会で反対派をまとめていたおじさんも行方がわからない。電話は繋がらなかった。
その晩飲み屋に現れたのは法川の弟だった。留守電に入れたのを聞いてやってきたらしい。法川が部屋で死んでいるのが見つかったこと、いまは実家に移されていることを教えてくれた。彼はそれだけ告げると席を立ち、何か言おうか迷ったが、誰に向かって何を言えばいいのかわからないように見えた。それはこちらも同じで、渡部は目をそらしたまま一点を見つめていた
「では、帰ります」
と言って法川の弟は店を出た。
「今日も来なかったよ」
「そうなんだ。本当に心配だね」
家の前に着いた。
「ねえ、じゃあさっきのニュース見てない?」
「見てないよ。いま家の前」
電話の向こうで沈黙があった。
「警察の発表があったの。変なの」
声に戸惑いがある。自分の声もそう聞こえるかもしれない。
「後で見てみるよ」
部屋に戻ると、とにかく眠ってしまいたかった。閉じたまぶたに力が入り、気を楽にしようと意識する。体の芯がどうしても暖まらない。
カーテンが揺れている。布団を出てみるとカーテンの後ろで窓がわずかに開いていた。ふと目を落とすと、すぐ下の床にカエルが張りついている。曇りガラス越しのぼんやりとした月明かりが、消しゴムほどの緑色を照らしていた。
黒い瞳、体を覆う薄い粘膜が光っている。でも影がなかった。
動く気配のないカエルをじっと眺めた。
これは御伽噺に出てくるカエルだろうか。ただのエキストラかもしれないし、悪い魔法でその姿を変えられた王子なのかもしれない。
怖くなった。灰皿の隣りに置いた携帯を手探りし、藍子にかけてみる。繋がらない。耳元で鳴る軟らかい呼び出し音にじっと注意し、部屋の静けさを忘れようとした。でもカエルから目を離すことができない。
窓をきっちりと閉めカーテンをひいた。途端に抜け殻になった布団や、本棚や、壁に貼ったポスターが闇に沈んだ。それと一緒に、胸にあった飴細工のような考えも、まとまりのない不安も、溶けて消えた。
はっきりとわかる。
ただカエルだけが暗闇のなか、にぶい光を放っていた。
考えることはなにもなかった。カエルを足で踏みつけた。
呼び出し音は同じ調子で鳴りつづけた。足に感じるぐにゃりとした感触。なにかを思い出しそうになったが思いだせなかった。法川の言っていたことだ。思い出せないまま、とても整然とした気持ちでいっぱいだった。このことを早く伝えたかった。家にいないのだろうか。さっき電話したときはどこか外を歩いているようだった。潰れたカエルを見た。なぜそうなのかわからない。誰かが死んでしまったように感じた。