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エントリ1 G AND C 鈴矢大門
僕がここに来てから、もうどれくらいだろうか。ふと、窓に迫る闇を見つめてそんなことを考えてみた。少なくとも、僕が少年から青年になるほどの時は経っている。昔の、寸足らずの手足が、今では長すぎて邪魔になるほどだ。彼女がお仕事から帰るまでの間の、ソファの上でのまどろみの中で、初めて彼女に連れられてここに来た時のことを思い出した。雨の日だった。傘を持たないでずぶぬれの僕を、彼女は家に連れてきてくれ、さらにホットミルクまでご馳走してくれた。そうしてそのまま、行くあてのない僕は彼女の家に泊まらせてもらった。その日に、部屋に漂う甘い匂いと、ふかふかのソファが、僕の心をとりこにしたのだ。そうして、それ以来、僕はここに居ついた。彼女はとてもやさしかったので、僕がここに留まることをなんとも思っていなかったようだし、それにここでは何もかも自由に出来た。今までとは大違いで、はしゃぐ僕を見て、彼女はよく笑ったものだった。そして、そんな彼女を見て、僕も笑ったものだった。まるでこう言うと蜜月のようだが、まさしくその通りだったんだ。幸せは、けれど、長くは続かないものだ。彼女はだんだんと僕にかまわなく実匸
なり、僕はつまらなくなって、外に出て行くことが多くなった。にもかかわらず、今でも彼女が大好きなのは変わらない。彼女の存在は、僕にとっては絶対すぎて、ちょっとやそっとのことではこの思いを変化させることなど出来はしないのだ・・実匸
カチャリ、と音がして、扉が開いた。彼女が帰ってきたようだ。僕はソファの上から身を起こし、心躍らせながら、玄関まで彼女を出迎えに行く。玄関で靴を脱ぐ彼女。おかえり、と声をかけると、こちらを向いて、
「ただいま。良い子にしてた?」
と言ってくれた。もちろんだよ、と言うと、彼女は僕の頭を一撫でし、奥へ向かった。
「おなか空いたでしょう? ちょっと待ってね…今作るから。」
ぼくは、わかった、と言い、邪魔にならないように、また、ソファの上へと逆戻りをする。
「今日はねえ、久しぶりに楽しいことがあったの。あのね……。」
僕は彼女のお話のところどころで、そう、とか、へえ、とか、良かったね、とか、ご飯まだ、とかの相づちを入れていく。彼女は僕の相づちになんかたいして頓着しないけど、要は気分の問題だ。いつもどおりのルーチン・ワーク。毎日、内容がいい事だったり、悪いことだったりするだけの変化だ。お話も手元もよどみなく、彼女はあっという間に僕らの食事を作ってしまった。
「今日はあなたの好きなものをちゃんと買ってきたのよ。いっぱい食べてね。それじゃあ、いただきます。」
いただきます、と言い、僕も食べ始める。彼女の作るご飯はいつでもおいしいのだ。今日は、僕の大好きなお刺身もある。先ほどつけられたテレビの音と、カチャカチャと食器の触れる音の響く中、僕は先に食べ終えて、彼女のそばへより、一言、ご馳走様、と言って、身だしなみを整え始める。鏡の前に行く必要もなく、ぞんざいな手つきで全身を整える。僕のお仕事はこれからだ。チェックし終わると、再び僕は彼女のそばへ行き、行って来ます、と挨拶をする。
「あら、もう行っちゃうの? 食後のホットミルクはどう?」
今日はいいや、と返事をし、部屋を出た。その直前に、彼女の言葉。
「………………。」
大通りを進みながら、僕はさっきの彼女の言葉を思い出す。その通りだ、と思う。僕も彼女には賛成だ。でも、世の中にはどうにもならないことがあるんだ。望みとか、夢とか、希望なんて、往々にして叶わないものなんだよね、悲しいことに。夜風が冷たく僕をよけて通り過ぎた。暗い大通りは、街灯の光を受けて鈍い暗黒を放っている。通り過ぎる雑踏や車の音が迫っては消え、また迫っては消えた。僕は目線を上に上げて、雑踏を避けるようにして歩いていく。体中に気を張って、堂々として見えるように。こうして見回りをするのが僕の仕事だ。ちょっとした給料のようなものも出るので、今ではこれが僕の日課だ。ふと向かいのビル群に目を向けると、閉じられたカーテンに影絵の舞が見えた。彼女のことを、思い出す。そうだなあ、今頃は、君はあの部屋の中で、ホットミルクを飲みながら、つまらなそうに、さびしそうに、鼻歌なんか歌っているんだろう。そうして、そのうちマグカップをコトンとおいて、ため息を一つついて、また、さっきの言葉をつぶやいているんだろう。でも、僕にはどうすることも出来ない。その欠失を埋めるには、僕では駄目なのだ。何とかしてあげた実匸
いのに・・実匸
斜暑僕が来たばっかりの頃は、まだ、彼女はそんなことは口にはしていなかった。彼女はまだ、一人暮らしをはじめたばかりで、毎日が発見の連続だったようだ。いつでも楽しそうに些細な事件を僕に話してくれていた。些細な事件のことを話さなくなるのと同じころに、彼女はあることを話すようになっていった。いわく、今日彼は私にこういった、だの、彼はこんなことをした、だの、彼のここが好き、だの、といったことだ。僕はもちろん全部をきちんと聞いていたし、相づちを打った。僕にとっては、彼女が誰を一番に愛そうが、大して問題はない。僕のことを何番目かに愛してくれればいいんだから。でも、やがて、ある日を境にそのお話もしなくなった。それから、彼女はだんだんとこのことを口にすることが多くなってきた。初めの頃は、僕はあまり乗り気ではなかったけれど、彼女がそれを繰り返すたびに、だんだんと、その気になってきた。本当に、今では、彼女の言うようになれば良いと思う。でも、理想や思いや真実なんて、大概役に立たないものなんだよね。僕はそのことを、小さい頃から、そう、彼女に出会う前から知っている。
ああ、君はきっと今も、あの部屋の中で、一人きりで、つまらなそうに、さびしそうに、鼻歌を歌ってるんだ。そして、僕は、それをどうすることも出来ないんだ。どうしてこんなに無力なんだ。どうしてこんなに駄目なんだ。どうしてこんなに役に立たないんだ。君が大好きなんだ。君のためなら何をしてもいいんだ。君に全てをあげたいんだ。なのにどうして、どうして、どうして、どうして…………。
そこまで考えた、いや、考えすぎていた僕に、神がチャンスをくれた。
突然の爆音。
目前に迫ってくる光。
大通りの上の。
赤信号の。
横断歩道の。
上で。
ああ。
あのホットミルク、飲んでおけばよかったなあ。
今度はそうなれば良い。絶対に、そうなれば良い。僕の命や尻尾や毛皮なんかで君の幸せが買えるのなら、構わない。神を殺してでも、生まれ変わって見せるさ。僕の彼女。僕の受けた恩は、死んでも返せるものではない。死んで、もう一度生まれ変わって、そして、君のために尽くしてやっと返せるほどのものだ。死の淵にいた僕を、引きずり上げてくれたのは君。だから、僕は絶対にもう一度生を受けるんだ。この身から最後の血の一滴の、流れ出るまで、祈りを尽くして、君を思う。
そうだね。
本当にそうだ。
僕が
人間だったなら、良かったのにね。
翌日、轢かれた黒猫の死体が、一人の少女の手によって埋葬された。
エントリ2 私、そして再び私になるために 中川きよみ
風神雷神現るときに御山の祠で決して契ることなかれ
するどい光線が「私」を切り裂き、「私たち」にした。
分かつことならぬものが一瞬の巨大な力で分かたれてしまった。
そして誰にも知られることなく誰にも助けられることなく「私たち」の一方はただちに短い命を終えた。
すべてはあたたかな胎内で進行し、後には「私」だけが残された。
私は友人の代役としてボランティアでその病院へ行った。病人の話し相手になるボランティアらしい。
経験がなくあまり乗り気でもない様子はすぐに見抜かれ、外科病棟の担当になった。外科の患者は命に関わる病気ではなくいずれは元気に退院してゆくのだから、要領を得ない上にやる気もないボランティアが多少気の利かない話をしても実害はないという訳だ。
そして転んで腕を折ったというおばあさんの話を談話コーナーで聞き流していたら、その子に逢った。
見るからに症状の重そうな男の子だった。青白い顔でぐったり横たわりストレッチャーで看護士さんに連れて行かれる途中だった。まだ5、6歳にしか見えないのにもう長くないだろうなと、素人の私がなぜか直感した。
ああ、忘れられない。目だけが異様な光を帯びていたのだ。顔すらもはっきりと覚えていないけれど、そのただならぬ雰囲気だけが強烈に焼き付いている。
「あのね…」
彼は私の横を行き過ぎてからようやく言葉を漏らした。掠れた甲高い声。看護士さんはやっと気付いて止まる。彼が無理に首をねじ曲げて振り返っている先には私しか居ない。
「お知り合いですか?」
「いいえ。」
私は即座に否定する。それでも彼の視線は私に張り付いたままだった。
切羽詰まった命がけの視線に、私も目を逸らすことができなかった。身じろぎもままならない濃さだった。彼と私との空間が重く充ちる。
言葉もないまま見つめ合う私たちに看護士は仕方なくそっと告げた。
「今から検査ですので、30分くらいしたらまたここを通ります。」
カラカラと乾いた音を響かせて行ってしまった。
喪失感と開放感に、どちらもこれまで経験したことがないくらい大きなものだったが、同時に襲われた。
残った力を振り絞るようにして私は逃げ出した。おばあさんを放ったらかしにして、友人への義理立てもなげうって、誰にも告げずに病院を出るとそのままバスに乗って帰ったのだった。
逃げ出すべきではなかったのかもしれない。いや、恐らく逃げ出してはならなかった。千載一遇とも言える好機、気付くことができなかったけれどそれは邂逅だったのだから。
でも私は逃げ出した。初めて体験する濃密な対峙に、単純に恐怖を覚えたのだ。
友人は怒っているようにも当惑しているようにも見えた。どちらにしても会いたくなどなかったけれど、朝から私の勤めるパン屋の店先に突如現れたので避けようがなかったのだ。
「ごめんなさい」
仕方がないのでまず詫びた。
「いくらボランティアとは言っても、相手は病人なのだし責任感を持って欲しかったわ。それくらい当然できる人だと感じていたから頼んだのに。」
友人は当然の苦言を溜息と共に吐き出してから、見慣れない封筒を差し出した。
「どういういきさつがあるのかは知らないけれど、小児病棟の看護士長さんから預かったわ。昨夜、電話をもらった時に危篤状態だと言っていたから、もう会えないかもしれないけれど。一応、私も年休を取って寄った次第だから一応読んでもらえるかしら。」
他に客もいなかったし、友人は私が封を切るまでは立ち去る気配がなかったので、嫌々白い封筒を受け取ると封を開けた。薄い事務用の便箋に小学生らしく不揃いで力無い文字が並んでいた。
『あなたはぼくが何かい死んで生まれるまで生きてるのですか
せっかく会えたのにざんねんです
また生まれてきます』
ホラーのような遺書だった。
私を恨み、捜し、今頃はもうあの男の子の身体から抜け出して、また生まれてきている。そんな幻想が迫ってきて寒気がした。まるで悪霊だ。
友人が店を出るとすぐ、封筒と便箋を店のゴミ箱に投げ捨ててしまった。
9ヶ月後、ジンバブエの難民キャンプで女の子が生まれた。母乳の出が悪く食糧事情も良好ではなかったために148日後に息を引き取った。
その日、ボスニア・ヘルツェゴビナの売春宿で若い女性が避妊に失敗した。4ヶ月後にそのことに気付くと彼女は経営者に借金をして堕胎する。
かろうじて視覚的な記憶に残るのはあの目の光だけだというのに、彼の印象は日を追う毎に急速に私の内部で密度を増していった。今になってあの時逃げ出したことをひどく悔やんでいる。
今の私では影が薄すぎる。彼が居て初めて当然の濃さなのだ…
ノイローゼになりそうだった。祟られていると本気で思った。
「決定的に欠けた感じがしますね。」
除霊をすると評判の神主は私の顔を見ていきなり言った。
ああ、やっぱり。彼に持って行かれたのだ。
そんな気がしたからこそ無理してこの神社を訪れたのだ。
除霊が有名になるだけのことはあって、神主はどこか商業的な臭いが芬々たる人物だった。私の欠けた部分を埋める術を指南する代わりに胡散臭い科学者を伴って直接私の実家へ乗り込んで来た。
無遠慮な科学者は研究スタッフや機材をどんどん実家に持ち込んだりしてひどく迷惑だった。厄介なことに巻き込まれたとしか思えなかった。
『風神雷神現るときに御山の祠で決して契ることなかれ』
科学者は汚い和綴じの書物を開いて見せた。そう書いてあるのかどうか、私などには分かりはしない。
「もちろん山の祠ではなく、かつて祠があったらしいとされるこの新興住宅地、まさにこのお宅での出来事です。先人の忠告も開発で消えたのですね。
祠跡とは言ってもせいぜい3cm四方という極めて限られたスペースに強烈な磁場異常が確認されています。ご両親は雷が激しい嵐の晩に禁を犯した契りを結び、お嬢さんという受精卵が着床したのだと思われます。当時の天気は調査しておりますので後ほどご確認下さい。交渉に及んだ場所はご当人に思い出して頂かないことには断定できかねますが、現時点での磁場異常はこのリビングのこの位置です。当時も多分同じ場所だったと思われます。」
科学者はソファのすぐ前、床から50cmくらいの場所をぐるぐると指先を回して示した。
還暦を越えた両親は、30年も前、若かりし頃の夜の営みを赤の他人に理不尽に暴露され呆然としていた。
「稲妻が頻発するような時にまさにそのスペース内で受精があると『分断』が起こり得るのです。
『分断』とは、本来ひとつの魂がふたつ以上の欠片に分かち断たれることで、我々の最新の研究テーマであります。論文も既に2報出してはいますが、実のところ実際に『分断』の現象を確認しているわけではなくて、あくまでも状況からの推論にすぎません。
漠然とした喪失感等の他には日常生活に及ぼす害は特に確認されていませんが、お嬢さんの場合出会われたのはお嬢さん自身の魂の残りと思われるので我々としては非常に注目している次第です。とりあえず症候群として登録することも検討して…」
あなたはぼくが何かい死んで生まれるまで生きてるのですか
ひりひりとした焦燥感と喪失感。私がこうして生きている間にも私を捜して転生を繰り返しているのだろうか。
ああ、きっと分断された魂は成仏できずに、再びひとつになるために捜し続けるのだ。
また生まれてきます
太陽が昇るのと同時に、アラスカの原住民の夫婦に待望の男の子が生まれた。
エントリ3 平和を手に入れろ 夢追い人
「お昼の校内放送をジャックしよう」
リーダーが作戦会議に持ち込んだ提案はとんでもないものだった。いくら校内平和を目指すとは言っても、そんなことをしては、逆に教師を敵に回すことになる。奴らは敵に回すと最も厄介な連中だ。もしも奴らが敵に回れば、僕たち、校内友愛隊が結成以来最大の危機を迎えることになるのは間違いないだろう。
「これがうまくいけば必ず校内に平和が訪れる。ただし、それなりのリスクが伴うこともまた事実。どうだ。みんな俺を信じて付いてきてくれるか」
「リーダー、校内放送をジャックしてどうするんですか」
勢いよく手を挙げて質問をしたのはマサユキだった。
リーダーは腕組みをして、少し唸ってから、
「これは実行日の前日に公表したいと思う。と言うのも、まだ作戦が完全でないということもあるのだが、これはあくまでもジャックであるからして、徹底して水面下で綿密に計画を練りたいのだ。理解してくれるかね」
軍隊の隊長のようにこんなにも勇ましく語るリーダーを見るのはいつ以来だろう。
「リーダーに付いて行きます」
「俺も付いて行きます」
僕とマサユキはとことん隊長に付いて行こうと決意した。
革命前日。昼休み。リーダーと僕とマサユキはいつものように図書室のカウンターの裏に集合した。読書週間が終わったせいで、図書室の中には数人の生徒がいるだけだった。校内友愛隊には、小学生のくせに昼休みに本を読む奴は右翼と同じだ、決して右翼とは関わるな、という二つの条例があったから、僕たちは図書室に入る時は、誰にも見られないように注意しなければならなかった。
「よく集まってくれた」
いつもリーダーのこの一言で会議が始まる。
「いよいよ革命の日が明日となりました。ここで大きな問題が発生したことを君たちに伝えなければならない。発生したというより、今まで気付かなかっただけなのだが。問題というのはだな、明日の放送当番はマサユキともう一人、クラスのアイドルであるユキちゃんも一緒だということだ。これは問題だ。さあ、どうしようか。みんな意見を聞かせてくれ。じゃあ、ノリオ、意見を申してみよ」
「それは大問題ですね。あっ、そうだ、ユキちゃんを人質に取るというのはどうでしょう」
僕はユキちゃんのことが好きなのだ。大好きでたまらない。
「マサユキはどうだ」
何故かマサユキは顔を赤らめていた。
「えっ、僕は、ノリオちゃんに賛成。拉致とかしてみたい」
「マサユキ、拉致はダメだ。拉致は犯罪だ。ノリオの言うとおりユキちゃんを人質に取ったまま作戦実行に移ろう」
「人質も犯罪なんじゃないでしょうか」
「ノリオ、意見を述べるときは手を挙げなさい。よし、ノリオに陳述の時間をあげよう。さあ陳述せよ」
校内友愛隊では条例に違反したり、過ちを犯すと、必ず陳述と呼ばれる、言わば、告白のようなものをしなければならない。誰も陳述という言葉の本当の意味など知らない。
「ノリオ、陳述します。僕は昨日、駄菓子屋コバヤシでチョコレートを持ち逃げしました。窃盗です。やってしまいました」
「そのチョコレートはどうしたのだね」
「はい、偶然通りかかった、本当に偶然通りかかったユキちゃんにあげました。罪を半分ユキちゃんにあげてしまいました。僕はユキちゃんのおかげで罪悪感を半減させてもらいました」
「けしからん。ノリオは革命失敗がもしも失敗した時の責任請負人になってもらう。全くけしからん」
リーダーは物凄い険相で僕をまくし立てた。これほどにリーダーがむきになって怒ることは珍しかった。
「ノリオはよく反省するように。駄菓子屋コバヤシで窃盗をしても窃盗品は自分で処理すること。もしくは教師に賄賂としてプレゼントすること。この新たな条例を胸に刻んでおくように。それではいよいよ明日の作戦の全容を伝える」
図書室のカウンター裏には重い張り詰めた空気が停滞して、僕たちの身体を圧迫した。
「明日、ユキちゃんを人質に取った後、一人一人誰かに向けてメッセージを言う。誰に向けてでも構わない。ただし、そのメッセージは必ず平和を目指した内容でなければならない。俺たち校内友愛隊が今まで目指してきた平和を明日こそ投げかけるのだ。それと、ジャック中は鍵をかけて教師たちが入室できないように完全封鎖するから。いいな」
了解です、と僕とマサユキは、右翼の連中に聞こえないように声を低めて返事をした。
革命当日。ついにこの日が来てしまった。廊下では給食の配膳を急いでいる生徒たちで溢れかえっていて、開け放たれたドアからその騒音にも似た声が放送室に入ってくる。そのドアからユキちゃんが入ってきたら作戦実行だ。僕たちは革命を実行する直前になって、ようやく事の重大さに気付いてしまった。マサユキの身体は痙攣を起こしてしまったようにブルブルと震えていた。
「おい、覚悟はいいか?」
リーダーの声もやや上擦り、その声が異様なまでに室内に響いたものだから身体が強張ってしまった。この室内だけに声が響くなら問題は無いが、校内全体に声が響けば、悪の巣窟の一番奥に腰を下ろしているドンである校長にも僕たちの声が届くことになる。
「覚悟はいいのかと聞いてるんだよ。返事をしろ」
「大丈夫です」
マサユキは小さく頷くことしかできないようだ。
その時である。ユキちゃんが室内に入ってきた。
「みんなどうしたの?」
僕たち三人はなかなか動くことができなかった。しかし、予想外にも一番最初に行動を起こしたのはマサユキだった。
「ユキちゃん、ごめん」
マサユキは震えた声でそう言いながら、手際よくドアを閉め、ユキちゃんを確保し、放送開始のボタンを押した。すると校内にお昼の放送の音楽が流れた。
「何をしようとしてるの?」
「平和を手に入れるんだ」
マサユキの行動を見て、なんとか僕も身体が動くようになった。が、リーダーはユキちゃんを見つめたまま凍りついている。
「じゃあ僕から実行するよ」
マサユキがマイクの目の前に座った。
「あー、あー、みなさん聞こえますか。六年一組の担任の落合先生、体育の時間に張り切るのはやめてください。次はノリオです」
もう終わりかよ、それに俺の名前まで言っちゃってるし、と心の中でマサユキに向かって叫んだ。
「あー、続いては僕です。六年一組の村松君、かわいい女子にばかりやさしくするのはやめましょう。あなたの魂胆は丸見えです。いくら君がかっこいいとは言え、あの子が君に振り向くとは思えません。あの子はきっと僕のことが好きです。だから無駄な抵抗はやめなさい」
言い終わるのと同時に、いきなり後ろからリーダーがマイクに駆け寄ってきた。
「松村君もノリオ君も僕には勝てません。あの子のことを一番好きなのは僕です。吉田ヨシオが一番なのです。僕は誰よりもユキちゃんを愛しています」
思いもしなかった。リーダーも僕と同じ人を好きだなんて、思いもしなかった。
教師が、ドアを開けろ、と外から大声で叫んでいる。と、今度はマサユキがマイクを奪った。
「田中マサユキが一番ユキちゃんを愛してます」
「……ごめんね」
ユキちゃんが呟いた。
「みんなごめんね。私、村松君のことが好きなの」
終わった。僕たちの平和活動は幕を閉じた。まもなく鍵を持って突入してきた教師に連行された。
放課後の太陽がこんなにも真っ赤に見えたのは初めてだった。無垢な赤い太陽が僕たちの心の涙をそっと乾かした。
エントリ4 パルオちゃん 佐藤yuupopic
夏休み明けの自由研究発表もすっかり過去の出来事となり、通常授業に戻った、はずなのにまた、作文かよ。まあ、教師に「俺も休みボケ抜けなくて、教科書あんまし読みたくねえや」と正直に云われては、拍子抜けしてやらざるを得ない感じになるんだけど。でもさ、テーマは『実録☆ご両親のなれそめ』だと。カンベンしてくれ。三流ゴシップめいたインタビューしたくねえよ、親に。俺ら、もう小学校準最高学年だし、塾も忙しいし。何より、あんまり上手く行ってないしな、我が家。
矢間田晴男三十二歳、独身男子、担任。
新学期の自己紹介で「姓はヤマダ、名は窪田のパルオちゃんと同じ字のハルオ。以後ヨロシク」なんて云われたけど、誰一人『クボタパルオ』が何者なのか、俺を含め判る奴がいない。親にも塾講師にも聞いたけど知らなかった。教科書にも出て来ないから歴史上や政界の要人ではないのだろう。知ってるヒトがいたら教えて。
他の教師がいつも『俺たちゃジャージがユニフォーム』を全うし、プーマやケーパ着用の中、パルオちゃんは、『拝啓女王陛下殿!』とか『'77年、イングランドでは馬鹿げたコトが起こっていた』とか英語で書いてあるTシャツや、ボロボロのガーゼのシャツを着て、耳にルーズリーフみたく、輪っかのピアスを一杯くっつけている。
夏でも、固い革の真っ黒いブーツ(甲に鉄板入りで、踏まれても痛くない模様。一度試しに乗っかって、がしがしジャンプしてやったが平然としていた)を履いてゴツいバイク(ミラーに『未来なんかねえ!』てステッカーが貼ってある)でやって来る。週末はバンドでドラム叩いていると云うんだから、意外性ゼロを画に描いたような野郎だ。体育の時は一応アディダスとかを着るんだけど、足下はやはりドカドカのブーツ。TPOて知っているのか? 去年ヤツのクラスだった男曰く『じょー・すとらまー』(誰、ソレ?)の追悼とかで、一週間黒い服を着て来たらしい。相当ショゲて授業も上の空だったと云う。かなり出鱈目だ。
ヤツが歩くと、ジャらジャラ、ジャかジャか、腰にチェーンで下げた鍵やら、ジーパンのポケットの中身やらが、やかましく鳴る。そうそう、ヤツは財布を一切使わない。
以前昼の掃除中にポケットの底が抜けて、ヤツが通った後に、ヘンゼルとグレーテルの目印のパン屑みたく、点々と小銭が残されていた事があった。みんなで拾ってあげたら、「ありがと」と云い残してバイクをブッ飛ばして出て行って、五時間目の始業時間になっても帰って来なかった。
何が起こったのか理解不能で、もう「教師がいねえから騒ぐゼ!」なんて年齢は通過している事もあり、五年三組一同、所在なく、ヤツの帰りを待っていた。ら、ラスト二十分位に両手にビニール袋を提げて戻って来た。
お礼に、なんて、わざわざ高速使ってうまいアイス食わせる店まで買いに行ったんだって。拾ってあげてない奴の分も全員分あってさ。シンプルなバニラなんだけど、ミルクが濃厚で、本当にうまかったなあ。
「ウレシイ、て思った事は、すぐ態度で表さなきゃ伝わらないからな。これは、家族だって、恋人だって、一緒。まして他人ならなおさら、て奴だぜ。野郎はこれが出来ねえとモテないしな。覚えとけよ。諸君、サンキュウ! ま、丁度俺も食いたかったトコなんだケドな。あ、これ他のクラスには内緒な。授業中にアイス食ったなんてばれたら、遠藤サン(学年主任)に俺ギタギタにされっから」
だってさ(しかし直後に「授業放り出して買い物に行くなんて何事だ」と、全く違った観点からこっぴどく叱られていた……)。
こう云うの、説教臭く云われると、うっとうしくて、聞きたかない、なんて思うんだけど、当たり前みたくサラッとやられると、ああ、そうか、そうだよな、「ありがとう」て態度に表すの、て大事だよな、て素直に俺らも思うよ。パルオちゃん、悪くない教師だよな、て、思う。普段はテキトーな男だけど、イイ事たまにポロッと云うんだ。
「俺みたいのだって、教師になれたし、まあ、要はやる気だな。お前らもやる気さえあれば、なりたいモノになんかしらなれるぜ。でも反対に、なかったら何にもなれねえ。いつも頑張るとかは、疲れるから俺も出来んし、人間ダメな時もあるからさ。ダメな時に無理すると、飲んだり飲まれたりボロボロになるし、そう云う時は休んでさ。本当に欲しいモノのために、ここ一番だけでいいからやる気出せる、つーのが格好イイと思うんだよな。今我ながら大事な事云ってる気がするから、ノートなぞ取る必要ねえケド、心のHDDに保存しておくように」
なんて。俺、今後卒業して、パルオちゃんや、クラスの奴誰とも会わなくなったとしても、いつか、何度もきっと思い出すんじゃないかなあ、て気がする。
そんなパルオちゃんらしくて「かったるいから作文な」てのは納得がいくけど、テーマがな。よりによって、何が『実録☆ご両親のなれそめ』だ。なんかクサい。裏がありそうな匂いがする。同じ事を思ったらしく、斜め前の席の早川義人が「パルオちゃん、なに、参考にしようと思ってんの、結婚の?」だとさ。早川、お前、いくらなんでもストレート過ぎだろ。
「にひひ。近々、俺も決めるトコ決めとこうかと思ってさ」
え、本当に? なんだ、その緩みきったニヤケ面は。何てヒネリのない男なんだ。
そう云えば俺、一度塾の帰りにパルオちゃんがバイクの後ろに女の人を乗っけて走っているのを見た事がある。ヘルメットをかぶっていたけど、あのバイクと格好を見間違える訳がない。振り落とされないように、パルオちゃんの腰に身体ごとギュ、としがみついていた、パンツ、見えそうな程のミニスカート、から、真っ白い脚、パルオちゃんみたいなごっついブーツ、あの時のヒトなのかな、なんて瞬時にフラッシュバック。
突然の『ついうっかりのフリして本当は云いたくてたまらなかった』的発言に、クラスの中心的人物の鈴木慶子や町田まち美が奇声を上げ、それを引き金に、堰を切ったように女子が泣き出した。嗚咽だったり、号泣だったり、泣き崩れちゃって、男子一同文字通り呆然。一体……何がどうした、て云うんだ。 普段は「パルオちゃんはだらしなくて困る」とか「すぐ伝達事項を忘れるからなんとかして欲しい」とか、文句ブーブーだったくせして、なんだかなあ。『女心と秋の空』なんて曲があるくらいだからな。乙女ゴコロは判らん、相当。
「女子達の気持ちはかなりありがたい。しかし、俺は惜しまれつつも、自分の大切な女のコと結婚するのだ! ようし、今晩、絶対、決める!」
だとさ。こんなの授業中に話すテーマかよ。そんな大事な事今決意していいのか? それも小学生相手に。……まあ、いいよな。いいのか? よくなくても、仕方ない。
何だか滅茶苦茶だしさ、クヤシイから面と向かって云ってはやりたく無いけど、パルオちゃん、確かに、あんた、結構イイ男だと思うぜ。結婚がハッピーの終点じゃないと、うちの親を見ていると、どんより暗澹たる気持ちになるし、俺は全然興味ないけど、まあ、とにかく末永くシアワセにな。
あれ、でも、まだこれからプロポーズする訳で、決定事項じゃないんだよな。まあ、ダメだったら俺たちが聞いてやるからさ。まだ酒は一緒に飲めないけど、放課後の屋上で叫ぶとかだったら付き合ってやるよ。とにかく頑張れ、パルオちゃん。
huki:註1:クボタパルオ……窪田晴男(音楽家)
註2:じょー・すとらまー……ジョー・ストラマー(英国人音楽家、'02年没)
註3:『女心と秋の空』……ハッピーズ1st.アルバム「都会のハッピーズ」収録曲
エントリ5 ハロワで ハンマーパーティー
ハローワークに通いはじめて半年たった。大学や専門学校も出てないし年も年なので、検索機で検索してもヒットする件数は限られてくる。特殊な資格はいくつか持っているが、特殊なので求人数が少ない上にやはり年齢制限でひっかかる。
通いはじめて二、三ヵ月たったころから求職目的でなしに、なんとなくハローワークに行って自分と同じ無職の人々を眺めたり、希望や絶望や羨みや嫉みが淀んでいる空気に浸りにいくのが日課になった。失業手当てがとりあえず半年支給されるという安心感もあった。
求人件数はひどく多いのに、いざ応募してみるとさんざんである。
男女雇用機会均等法だかのおかげで、37歳、男性、で検索してヒットした求人票なのに、いざハローワークの担当の人にお願いして連絡を取ってもらうと「女性だけなので」と先方が言ったりした。
先方としては求人票には「女性のみ」とは法令上書けないが、わざわざ履歴書を書いてもらって面接までして落とす、というのは手続き的には筋が通っているがそこまで足労をかけるのは忍びないということだそうだ。
私は、先方には何の感情もいだかなかったが、いわゆる、めくらめっぽうな平等主義的なものに嫌悪感と根拠なのない憤りを感じた。「女性のみ募集」ならそれでいいではないか。ちびくろサンボは名誉白人に奴隷にでもされていたというのだろうか。
そんな卑屈なことを考えてしまうくらい、意味もなくイライラしたりした。二時間待たされたあげくの返事がそんなことだった場合。
四十前の私でさえそうなのだから、六十歳前後以上の人たちにはもっと厳しいことになっている。ハローワークの自動ドアのすぐそばに透明なプラスティックでできたキャビネットがあり、そこに「五十五歳以上のための求人」と書かれたプリント数枚がホッチキスで止めてあった。「五十五歳以上の人のための求人はわざわざ検索しなくても、このプリントに掲載されてるだけしかありませんよ」というわけである。ありがたいことである。
そんな、どう見ても六十歳前後の一部の人々が、ハローワークの入り口手前右手にある駐輪場兼広場によくたむろしていた。常連の三名はすぐ顔を覚えてしまった。彼らはなぜか、自分たちと同じ匂いがするような人間を見つけると声をかけていた。
いつもハローワークへ行くたびに、彼らが通る人全員に一瞥をくれていたので最初は不快だったが、いつの間にか気にならなくなり二ヵ月くらいたったころに声をかけられた。
「お兄ちゃん、なんかいいのあったがい? あんた、よぐ来てんない」
私は少し戸惑ったがもう警戒心はなかったので、頭をさげて近づいた。
「ダメですね。ことごとく」
「何件くらい申しこんだんだ?」
「いや、まだ三件です。全部ダメでした」
「嫁さん、いねのが?」
「独身です」
「じゃあ、おれらど同じだな」
「ちがべ、くまさんはかがあど娘っ子いっぺさ。孫もいんだ」
「いっしょに住んでねえべ。会う気もねえべ。なあ熊田さんよ。プーのくまさんよ」
プーのくまさんと呼ばれた男は、顔中ひげだらけで鍔の部分が手垢で汚れたヤクルト・スワローズの帽子をかぶっていた。そして、どでかくカバのイラストがプリントされたピンク色のトレーナーを着ていた。異様なルックスであった。
「ん、んー」
くまさんは唸りながら胸のあたりをさすった。
「調子悪いんですか?」
「あー、いや、ん、んー」
くまさんは顔色が悪く息が荒かった。
「気にしねでいんだ」
「そうですか。でも悪そうですね」
「酒飲むど治んだ」
増田というよくしゃべる男がそう言って笑った。増田に相槌を打つ杉山という男は小柄で細身でいつも増田に気を使っていた。私は立ち上がった。
「おれ、ちょっと検索してきますんで」
「いいのあっといいない」
「はは、ダメでしょう。でも一応」
検索機はすでに満員である。受け付けのところでノートにカタカナで名前を書く。約二十分ぐらい待たされて名前を呼ばれた。三十分ぐらい待たされるときもあるし、待ち時間無しで検索機に向かえることもある。家でインターネットで検索しても同じなのだが、ハローワークから紹介状を書いてもらえない。
通いはじめて三ヵ月ぐらい過ぎたころ、プーのくまさんと初めてまともに話ができた。その日は体調がよさそうだった。私はハローワークに早く着いてしまい、駐輪場に常連の人たちはいず、くまさんだけがスポーツ新聞片手に腰をおろしていた。
「増田さんと杉山さんは?」
「来てね。知らね。仕事ダメが?」
「ダメですね。ないことはないですが。くまさんはどうです?」
「おれ別に探しさ来てるわげじゃねえがら。ん、んー」
くまさんはまた胸のあたりをさすりはじめた。
「くまさん、奥さんと娘さんに何年会ってないの?」
「十年ぐれだな。もういんだ。娘っこ、嫁さ行ったがら」
「そのトレーナー、派手だよね」
「ん、んー」
くまさんは笑いながらピンク色のトレーナーの笑っている巨大なカバの顔をさすった。
「これはな……」
そこに増田と杉山がサンダルを摺る音をたてながらやってきた。
「よおー、兄ちゃん、早えごど」
「今日は早く着いちゃって」
「早起きしたって三文の得はねえべした、職安は。電話で即決はねえぞ。がはは」
「そうすね。へへ」
すでに八時過ぎていて、どんどん職探しの人が増えていた。増田と杉山は例によって五十五歳以上の求人情報のプリントを二部持ってきて、私とくまさんの横に座ると広げてブツブツ言いながら求人情報をチェックしはじめた。
いつもハローワークから家路につくときは、自虐的な気分に襲われることになった。不景気、不況が悪いのではない、結局は私自身が問題なのだ。ではどうして私がこんな人間になったのか。連鎖反応でなんでも悪いほうへ考えていってしまう。働くことに意味なんてあるのか? 生きることに。
ハローワークに通いはじめて六ヵ月が過ぎ、失業手当ての支給も今月限りとなった。失業手当てやら何やらに甘えていた部分もあったが、いい加減この辺で身を入れて探さなければ、と思った。
気合いを入れてハローワークに行った日、私はいつもよりも元気よく三人に声をかけた。
「ちわーっす!」
「おー気合い入ってごどー、兄ちゃん」
「もうなんでもやるつもりっす」
よく見ると三人のうち、一人はくまさんではなかった。
「あれ、くまさんは?」
「死んだんだど」
「あ、そうすか」
「内臓悪がったみでだぞ。よぐ胸のあだり触ってだもんな」
私は言葉が出なかったが、無理にいろいろ言葉を吐き出した。
「まあ、いろんなごどあっぺさ」
「そうですね。まあ誰でもいつかは死にますよね」
「んだんだ。死ぬ死ぬ。仕方ねえべ。弔い酒でも飲むが。へへへ」
増田がそう言うと、杉山がバッグから発泡酒とワンカップを取りだした。
「おれも今日は飲みます!」
三人で酒を飲んでいると、駐車場の警備をしている若い警備員が注意をしにきた。増田が、今日だげ勘弁してくんちょ、と言った。仲間が死んだ。警備員は、んじゃ、ハローワークの人に見つかるまでない、と言った。私たちは気分よく酒を飲んだ。
何はともあれ。
くまさんのあのピンク色のカバのイラストのトレーナーは、会ったことのない孫娘からのプレゼントだそうだった。あれ以外のトレーナーを着ているのを見たことがない、と増田が言った。
生きてりゃなんかいいことあっぺさ、と根拠なく私は思った。
エントリ6 『エンゼル・ブルー』 橘内 潤
その青はまるで、天使の青だった。
いまにも天使が舞い降りてきそうな、そんな空の青。
手をのばせば、はるか天上の彼方まで掴めそうな、そんな澄んだ青。
空気と星と祈りと――儚く脆いものだけをあつめて刷いた、そんな青。
むかし見た絵画。細部はよく憶えていないのだが、抽象画だったか宗教画だったかだと思う。ともかく、はっきりと憶えているのは、描かれていた「青」だった。
幼心にそれはまるで、全身の細胞が沸騰するような感覚だった。身体の隅々までが、まだ生命が誕生する以前の空を思いだし、むせび泣いていた。
どこまでも深く濃く、それでいて果てなく突き抜けた透明な空の青――それが、誠司が画家としての道を選んだきっかけだった。
「――だから、初めての個展にはぜったいに、あの青を描きたいんだ」
「それは理解してるわ。だけど、そういってからもう一ヶ月よ。それなのに絵は全然描けてないし……ねえ、今回は他の作品で我慢しましょうよ」
「いや、だめだ。これが描けなかったら、個展を開く意味なんてない」
「そんな――! いまさらキャンセルだなんて、そんなことが許されるわけないの、わかってるでしょ?」
「だったら、由美子だってわかってるだろ。ぼくにとって、あの青を描くことがどれだけ大事なことなのかって」
由美子は言葉なく、誠司をにらむ。なにをいっても無駄なのは、これまでの付き合いでわかっているから。その青い絵について熱く語る誠司にほだされて、仕事以外でも彼のパートナーであることを了承したのだったから。
「いろんな人に謝ってまわるのは、いつもわたし。……いいわよ、あなたの好きにすれば」
「すまない。由美子にはいつも感謝して――」
頭を下げようとする誠司の唇に、由美子の指先が添えられる。
「そういうときは、言葉じゃなくて態度で示して。いつも言ってるでしょ――ん……」
言葉の最後はキスに途切れる。
誠司は唇をかすかに離して、
「感謝してる」
もう一度、触れる。
……いつもこうして、由美子は誠司のわがままに付き合わされるのだった。
「違う! こんな青じゃない。こんな安っぽい青じゃないんだ!」
もう何度目かも忘れてしまった台詞。
どれほど手をつくしても、誠司の求める青は生みだせなかった。あの、細胞が打ち震える感覚が起きないのだ。
「もうこれ以上、延期はできないわ。今回は諦めましょう」
「だめだ。いま放りだしたら、ぼくはもう二度と自分の絵を描けなくなる」
「だったら、個展を中止にするとでも? いまからキャンセルだなんて、それこそ画家生命の終わりよ」
「……ればいいんだろ」
「え?」
「初日までに仕上げればいいんだろ、この絵を!」
「……そうよ。でも、その絵が描き終わらなかったとしても、個展は開くわ。もう、あなた一人の挫折で済む問題じゃないんだから。いいわね」
「描けばいいんだろ、描けば」
その言葉はもう、由美子に向けられてはいない。誠司の目は、いつか見たはずの青しか映していなかった。由美子は、青に取り憑かれてしまった恋人を泣きそうな顔で見つめるも、すぐに踵をかえす。誠司が夢を追い求めるのならば、由美子はその足許で奔走しなくてはならないのだ。
個展開催の前夜、やはり絵は描けていなかった。
「なぜだ……なぜ、描けない?」
自答する誠司のまわりには、油彩画、水彩画、アクリル画……青一色で塗りたくられたキャンバスや画紙が散乱している。しかしそのどれもが、ペインティングナイフでずたずたに切り裂かれていた。
「どうして、描けない? 目を閉じれば、たしかに見えるのに……それなのに、どうしてあの青が描けないんだ!」
吐き捨てる言葉とともに拳を打ちつけられたイーゼルが、倒れて乾いた音を響かせる。部屋を埋めつくす青のなかで、誠司は自分の限界に打ちひしがれていた。
――描けないのだ、思いどおりの青を。目を閉じれば、瞼の裏にはいつでも青を思い浮かべることができる。身体の内側までを濃密な酸素に浸されるような、息苦しいほどの充足感を感じられる。
しかし、ひとたび目を開けて絵筆を手にすると、そのイメージは霧消してしまっているのだ。思いどおりの絵を描けないことの歯痒さと絶望感――これまで信じてきた自分の才能というもが、がらがら崩れていくのを音をきいていた。
「ぼくには才能がない。あの青を自分のものにできるだけの才能が、ない」
敗北宣言は、むなしく口をつく。
「天使はただ才能を愛するから、ぼくの許には降りてこない。だから、あの天使がおどる青い空は、描けない。あの青は、才能に――天使に愛されたものにしか描けない」
諦めるしかないのだろう――いやだ、諦めきれない。あの青が描けないのなら、個展を開く意味も、画家でいつづける意味もない。ぼくは、あの青を描かなければ。天使に愛されなければ、生きている意味などない。
「くそ!」
傍らにあったペインティングナイフを逆手に握ると、大理石のパレットに振りおろす。
「――っ!」
折れたナイフの先が、飛びあがって誠司の喉を狙う。とっさに手で払い落とすと、手首の内側、柔らかい部分にペインティングナイフの鋭くもない刃先が突き刺さった。
痛みに顔をしかめながも引き抜けば、血がぼたりと滴って、ひびの入ったパレットにぱっと弾ける。暗く赤い華が、ひとつ、ふたつと咲いていく。
「……くっ、……くくっ」
それを見た誠司の口から、ふいに笑いが零れおちる。はじめは雨垂れだったその声はすぐに、ドラム缶をバットで殴りつけるような激しいものに変わっていく。
「くっははっははは、はぁっははははは――ぐっ、はっ」
むせて咳きこむ。咳きこみながら、背を前後に揺すりたくって笑う。
「ど……どうして、ぼくの血は赤い? なぜ青くない? どうして、ぼくの血はこんなにも深く、暗く、吐き気がするほど鮮やかで、こんなにも胸を焦がすほど、赤なんだ!」
笑いながら、泣きだす。泣きながら、叫ぶ。右手に先の折れたペインティングナイフを握りなおし、尖った切れ口で左手首の傷をえぐる。溢れた血がパレットに河を描く。
「どうだ、美しいじゃないか。こんな素晴らしい赤は見たことがない」
手のひらで、血をパレットに塗りつける。手近な溶き油の瓶を持ってきてパレットに流しかけ、手のひらでもって血と練り混ぜる。すぐに血は足りなくなり、折れたナイフで手のひらの皮を破って血を流させる。溶き油がなくれなれば、また手当たりしだいに取ってきた瓶の中身をぶちまける。赤が薄くなれば、傷をえぐって血を注ぎたす。
「すごい、素晴らしい。素晴らしい、これこそ最高の色だ。天使の青など、くそ食らえだ! あぁはははっははははっ」
苦痛すらも面白く。青に取り憑かれてからこの方、すっかり忘れていた「笑う」という行為。もうただひたすら大声で、げらげらげらげらと笑った。
大理石の上で溶き油やニスを練りこまれた血は、総毛立つような艶を放ちだす。それにつれて、誠司の頬からは血の気がうせて青白くなっていく。それでも両眼は爛々と充血し、けたたましい笑声とぐちゃぐちゃ練り混ぜる音がやむことはなかった。
村山誠司の遺作、「エンゼル・ブルー」。
村山由美子によって名付けられたそれは、生命が十億年をかけて手に入れた「死」――絶対の終わりを具象させた、赤い絵具である。
エントリ7 足下の虹 ごんぱち
「これから……どうしよう」
ショルダーバッグを手に提げたまま、トグルク・アムは川の水面を見つめる。
バッグの半分開いた口から、プラスチック爆弾が見えていた。
信管の起爆ピンは既に抜けている。
「異教徒の侵略者共を道連れにする筈だったのに」
生活排水の混じる広い川には船が行き交い、その波に自分の髭面が揺れる。
ズボンの股間の辺りが、濡れていた。
(――神の思し召しのままに!)
市場の中を、トグルクはその軍用車に向けて走る。
走りながら、爆弾のピンに手をかける。
――どんな構造かは知らなかった。
親戚が占領軍に殺され、復讐のため教会で殉教を願い出た後、郵送されて来た爆弾だった。ピンを引き抜けば五秒から十秒以内に爆発する、そう書かれていた。
雑踏をすり抜けつつピンを抜く。
爆発すれば、周りの人間の何人かも死ぬ。だが、この聖なる一撃に加わった者として、天の扉は開かれるに違いない。
(皆に、祝福を!)
トグルクが呟いた時。
誰かにぶつかった。
勢いの付いていたトグルクは、転んだ。
信管が燃え尽きる。
起き上がる暇はない。
爆弾が爆発して、辺り一面が吹き飛ぶ。
トグルクが思わず目を閉じた時。
「おい、兄ちゃん、大丈夫か?」
ぶつかった男が、トグルクを心配そうに覗き込んでいた。
「――だ?」
ショルダーバッグに入れた爆弾に、爆発の気配はなかった。
雑踏は先ほどと同じようにただ流れ、占領軍の兵士たちもトグルクの事など気にも留めていない。
「怪我はねえか?」
「だ、だ、大丈夫です」
トグルクは起き上がるなり、路地へ逃げて行った。
「不発、か」
一時間前の光景がまるで、何か遠い世界の出来事のようだった。
行き交う船には、占領軍の払い下げなのか、武器のようなそうでもないような、金属の部品が山のように積まれていた。
「あー冷てぇ」
ピンを引いた時だったか、転んだ時だったか、ズボンは失禁で濡れ、膝が破け、血が出ていた。
「ズボン勿体ねえ。膝痛ぇ……」
川に石を蹴り込むと、波紋が広がった。
広がる波紋を眺めていると、吸い込まれそうだった。
(いっそ)
トグルクが一歩、踏み出そうとした時。
「あっ、あなたは!」
その時、辺りをはばからない大声がした。
「うわっ!」
トグルクが思い切り振り向くと、そこには十歳ぐらいの子供がいた。
「殉教の戦士様ですね!」
「え? え?」
「違うんですか? だって、爆弾を」
丁寧で綺麗な発音で喋る子供だった。
「あ――ああ、うん。そうだ」
トグルクは、爆弾の入ったバッグで濡れた股間を隠す。
「戦士様にお会い出来るなんて、光栄です」
「いや、そんな大したもんじゃないさ」
「だって、戦士様はそれと分かった時にはもう死んでる人ばっかりだから」
「あ、はは、まあ、そう、かな」
「これから戦いに行かれるんでしょう?」
少年は、真っ直ぐでキラキラした目をしている。
「お、おう。侵略者の車を吹っ飛ばす」
「素晴らしいですね。その量のプラスチック爆弾なら、周囲百メートルはただじゃ済みませんよ」
「ひゃく!?」
トグルクの頭から血の気が引く。
弾丸の発射薬しか扱った事のないトグルクにとって、爆薬の破壊力は考えてみれば未知数だった。
(市場で使ったら……)
「頑張って下さい! あなたの遺志は、きっと僕たち子供が継ぎます」
「遺志……」
トグルクはぞくりと身体を震わせる。
股間がとても冷たかった。
「そして」
少年は僅かに言葉を詰まらせる。
「そして、僕の父と母の仇を、取って、下さい」
占領軍の兵士たちが、軍用車両の脇で談笑している。
「今なら隙だらけですよ!」
路地から様子をうかがっていた少年が、路地の奥に隠れているトグルクに声をかける。
「そっか」
トグルクは爆弾の入ったショルダーバッグを抱え、路地から通りへ近付く。
ズボンの股間は乾いていたが、中はまだ濡れていた。
「お願いします、父と母の仇を」
少年は、悲しみと怒りに燃える真っ直ぐな目をしていた。
トグルクは、バッグのベルトを握り締める。爆弾は爆発しない。だが、撃ち殺されるだけでも、少年の恨みを晴らす、幾ばくかの救いになる。
恨みを。
少年の恨みを。
少年の。
恨み。
(ん?)
トグルクはふと首を傾げる。
(俺、死ぬんだよな?)
少年の期待に満ちた目を背中に感じる。
(占領軍に親戚が殺された時には占領軍を恨んだけど、これは仇討ちには、ならない――か?)
殉教して、みんなに勇気を与える。侵略者との戦いの勝利の礎となる。自分が死んでも、他の誰かが侵略者を殺してくれる。
(そうだ、殉教だ。神の意思に準じる事だ。英雄になれる、英雄に)
二時間も前なら、そう考えただけで、気分が高揚した。何でも出来る気がした。
だが、股間の冷たさが、気持ちを冷ます。
少年の手前、進む足は止められない。
(でも、自爆って俺が初めてってワケでもねえしなぁ……あんな兵隊殺したって、別に歴史に名前が残るとかじゃないし)
「神の思し召しのままに」
少年が呟く。
(そう、神のためだよ――あれ? 何でだ? 何で変わってるんだ? 俺はただ、親戚の仇討ちをしたかったんじゃなかったっけか?)
遠くに見える占領軍の兵士は、呑気そうに雑談をしている。
(そもそも、親戚を殺した兵士って、どいつだ? あいつらなのか? あれ? あれ?)
「戦士様?」
じぃっと少年はトグルクの顔を覗き込む。
「な、なんだ?」
「本当にやる気、あるんですか?」
「勿論、だ」
「だったら早くやって下さい」
「でもな……この爆弾実は……」
「さあ! 僕らに希望と勇気を与えて下さい!」
トグルクは振り向いて、少年の顔を改めて見た。
陶酔にも似た色が浮かんでいた。
「早く。さあさあ!」
トグルクの股間が冷えた。
「やだよ」
「……え?」
「やっぱり止める」
「なんですって? あなたはあの悪の侵略者たちを許すんですか! それは神の意思に背く重大な犯罪です!」
「知るか! 俺は死にたくないんだ!」
「そんな……戦士様がそんな事を言うなんて。そんな憶病な卑怯者だったなんて」
「お前、爆弾のピンを抜くのがどんなに怖いか分かってんのか!」
トグルクは、爆弾の信管部分を突き付ける。
「俺は一度引いたんだ!」
「だったら卑怯者だ。果たすべき義務も果たさず、おめおめ生き延びようなんて」
「悪いか馬鹿野郎!」
「僅かばかりの恐怖に正義をねじ曲げて良いんですか!」
「僅かだぁ? 死んだ事もねえヤツが偉そうに言うな!」
トグルクは拳骨で子供を張り飛ばした。
手加減はしていたが、子供はゴロゴロと転がって通へ飛び出した。
「うわああああああん!」
子供は泣き始める。
(真っ平だ)
子供をそのままに、トグルクは逃げた。
通りの人と人の間をすり抜け、走る。
(嫌だ、嫌だ、もう嫌だ)
川へ差し掛かる。
走りながら、トグルクは爆弾を川に捨てた。
大きな水音がして、爆弾は沈み、見えなくなった。
繁華街を外れ、静かな住宅街に入った辺りで、走り疲れたトグルクは足を止めた。
「はぁ、はぁ……」
股間は、まだ冷たかった。
「……これから、どうしよう」
トグルクは身震いを一つすると、路地裏の物陰に入りイチモツをズボンから出した。
小さく小さく縮んでいたイチモツが、熱い外気を受けて弛んでいく。
と。
膀胱に残っていた小便が、一気に出た。
それは、路地裏に射し込む細い光を受け、虹を作った。
小さな小さな、虹だった。
エントリ8 月光のアーチ 伊勢 湊
「えっ、あっ、普通のOLです」
仕事を聞かれてどうしてだか嘘を付いた。この飲み会、いやゆる合コンというのだろうか、に誘ってくれた咲子の視線を感じる。言いたいことは分かっている。どうして隠すのか。でも、それは自分でも分からない。
私はイルカの調教師だ。確かに苦労も多いがやり甲斐のある仕事だと思うし、この仕事が楽しくて好きだ。そのために二十代のほとんどを費やし、流行の遊びもあまり知らないけれど、イルカたちと過ごした日々に決して後悔はない。生まれ変わってもきっと同じ道を選ぶはずだ。
なのに私は四つ下の従姉妹の咲子に救いを求めた。
「ちょっと待ってよ」
一次会が終わり、そそくさと駅へ向かう私の肘を、改札少し手前で咲子が捕まえた。
「なに?」
「なにって、真樹ちゃんが誘ってっていったんじゃん。そんなにつまらなそうに帰らなくても」
「違うのよ。体調が悪いの、ほら」
「そうなの?」
私は嘘をついた。体はどこも悪くなどなかった。ただ、なぜだか分からないイライラだけが溢れ出てきてその場にいたくなかった。
「楽しかったよ。また誘ってくれる?」
次に行っても、また馴染めずにイライラするだけなんだろうな。そう思いながらも、でも誘って欲しい自分がいる。
「う、うん。いいけど…」
咲子は渋々と私の肘を離す。そして、苦い薬を一気に飲み干すように質問を投げかける。
「ねえ、真樹ちゃん、私がいうのもなんだけど、こういうの、なんていうか似合わないよ。仕事のことまで嘘ついちゃって。どうして?」
私は精一杯頑張って、今までの経験を総動員して優しい笑顔を作る。そしてどこかで見たドラマのワンシーンをトレースするように人差し指で咲子のおでこをちょこんと突く。
「こら、私は男漁りに来てるわけじゃないぞ。やっと仕事に慣れて余裕が出来てきたから少しいろんな世界を見てみたいだけなの。ちょっと遅いけどね。職場の人たちはみんな良い人だし、仕事も大好きだよ。ちょっとイタズラでOLの振りしてみただけ。だからまた誘ってね」
笑顔で嘘を付く。曖昧に頷く咲子に手を振って人並みに流されながら改札をくぐる。その場に座り込んでしまいそうな痛みを抱えたまま、笑顔で。
「真樹ちゃんも餌あげてやんなよ。オレばっか人気者になっちゃうぜ」
イルカたちに鯖をあげていた先輩が屈託なく笑ってそう言った。それに私が少しむっとしたのにはぜんぜん気がついてない様子。私は鯖の入ったバケツを手にプール際へ行ってしゃがむ。するとすぐにエースがやってくる。一番動きが鋭くてリーダー格のエース。私の一番の仲良しだ。と、その後ろでランが跳ねた。空中後方宙返り。調教師は特定のイルカと仲が良くなりすぎると他のイルカに嫉妬されるから気をつけなくちゃいけないという。ランは得意の宙返りで私の気を引いているのだ。そんなところがとても可愛い。私はランにも声をかけて手渡しで鯖をあげる。そしてみんなにも手渡しで餌をあげていく。そういうときには、ふと心が軽くなったりする。
「真樹ちゃん、イルカたちのことよっぽど好きなんだなぁ」
かたわらでそう言う先輩に、十分前ならそうできたか分からないけど、「先輩ほどじゃないですって」と微笑み返す私がいた。
咲子に誘われた二度目の飲み会は、前回より楽しめそうな雰囲気だった。メンバーが同じだったからかもしれない。いつもより少しお喋りが出来て、何度か声をあげて笑いもした。いつのまにか当たり前の事すらぎこちなくなっていた、そんな感じが少しずつ溶けていくような心地よさを感じていた。
「イルカ食べちゃうの?」
突然のことだった。咲子の同級生の恵ちゃんという女の子が隣の梶谷さんという男の人にびっくりした様子で聞き返していた。私は凍り付いてしまった。
「オレの実家って静岡なんだけど、うちのほうじゃあ普通だぜ。スーパーとかでも売ってるもん」
「うわー、なんか可哀想」
私は息を呑む。膝の上で両手を握り締める。これは私の知っている世界の話じゃない。言葉の意味に否応なしに形成されそうになるイメージを追いやる。これは別の話なのだ。でも転がり始めたボールは止まらなかった。
「そうかあ? でもさあ、よく水族館なんかで芸やらされてる、狭いプールに囚われの身のイルカたちのほうがもっと可哀想だと思うけどなぁ。奴隷扱いより、感謝されて食べられちゃったほうがましじゃない?」
眩暈がした。でも引けなかった。それを認めてしまったら私はいままでいったい何をしてきたというのだろう? 私が費やした時間の意味はなんなのだというのだろう?
「で、でも」
私は身を乗り出していた。
「ショーをしているイルカたちはとても楽しそうですよ。ああいうのが好きで自分からどんな芸教えてくれるのってせがんでくるのもいるし」
「そうなの?」
梶谷さんは納得してくれたように思えた。私は一瞬胸の辛さが和らいだ気がした。でも、一瞬だけだった。
「ふーん。食べられちゃうのよりかはいいのかもね。だとしてもさあ、広い海から連れてこられてあんな狭いプールじゃ、イルカもやってられないんじゃない?」
梶谷さんは笑っていた。他のみんなも笑っていた。咲子だけが心配そうに私を見ていた。それはとても純粋で、悪意とさえ呼べない代物で、私はいったいどうすればよいかも分からず小さく震えていた。ここのみんなは私が調教師だとは知らない。知っていれば、そう私が嘘を付かなければ、こんな話にはならなかっただろう。いやでも、だからこそ聞けた言葉なのかもしれない。だとしたら私はなんなのだろう。エースもランもみんな広い海に帰りたいのだろうか? そうかもしれない。狭いプールより広い海がいいに決まってる。じゃあ私はなんだというの? 誇りを持ってた。みんなが好きだった。でもみんなは本当は海に帰りたいし、私はみんなに好かれる調教師なんかじゃなくて、無理矢理に働かせる奴隷使いみたいなものだというの?
私は立ち上がった。涙がこぼれていた。馬鹿みたいだ、私。「ごめんなさい、ごめんなさい」そう繰り返しながら震える手で一万円札をテーブルに置いて店から駆け出した。
夜の街を当て所なく歩いていると、いつの間にか水族館の側にいた。そういえば、私には他に自然に足の向くところなんてない。この時間、水族館はもう閉まっていて入れない。でも、このフェンスの向うにプールがあってイルカ達が泳いでいる。もしかしたら、狭いプールに閉じ込めた人間を恨みながら。でも、わたしにはみんなを海へ返してやることすら出来ない。
「私はどうしたらいいの? ねえ、エース、ラン」
その刹那、水を切る音がした。私は顔を上げた。呟くように口にした名前。聞こえるはずもないのに。
エースが跳ねていた。ランも。そしてみんなが跳ねた。空の向うに浮かんだ月を背にして流線型の体がアーチを描いていた。それが、どうしてみてもとても楽しそうに見えた。
「みんな、どうして? 分かんない、分かんないよ」
涙がこぼれた。顔を伏せても楽しそうに跳ねる水飛沫の音が聞こえて止まなかった。だから私は叫ばずにはいられなかった。
「明日、また明日の朝会おうねー!」
帰ろう。いまは帰ろう。お化粧落として、シャワーを浴びて、歯を磨いて、そしていつものように目覚し時計をセットしよう。明日、きっと歩けるように。私は月光のアーチに向かって大きく手を振った。
エントリ9 滅ぶ前にやれること るるるぶ☆どっぐちゃん
「メジャーリーグベースボール?」
大体最初からおかしいなと思っていたのであって、だって待ち合わせを喫茶店と決めたなら普通は喫茶店の中で待っているでしょう? それなのに外です。ドア前です。彼女はそこに立っていました。まあ外人だから、まさに外で待っているんだな、とかその時は納得したけれど、今考えたらおかしい。雨が降っているのに傘もさしていない。まあ連れもさしていなかったのだけど。ていうかあたしもさしていなかったけれど。朝は降っていなかったのだから仕方が無い。雨も降っていないのに傘なんて持って歩くの、頭悪そう!
私達はしばらく黙って見つめ合った。連れの紹介で会うのに、連れは何も言わず、ぼうっと突っ立っている。まだ暑い九月なのに街の中で彼だけ長袖のジャケットを着て、寒そうに手をポケットへ突っ込んでいた。
外人はあたしの予想と違って白人では無く黒人だった。整った顔立ち。細く引き締まった顔。厚い唇。すらりとした立ち姿。典型的な黒人女だった。
「コンニチハ」
「こんにちは」
日本語に少し驚く。
「初めまして」
「ハジメマシテ」
彼女はそう言うと頭を下げた。あたしもつられて頭を下げる。連れは相変わらず黙っていた。向こうのビルに何かおもしろいものでも見えるのか、だらしなくアゴを上げてそちらを見ていた。
「とりあえず中へ」
あたし達は喫茶店の中へ入った。
話はすぐに済んだ。舞台のストーリー、主題、役などをかいつまんで説明し、出演を頼むと、彼女は、はい、と返事をした。これで助かった。格安の出演料で済んだ。彼女は黒いストッキングの役に決まった。本当は白いタイツの役が必要だったのだが、これはすぐに修正出来る。
「練習は明日からなんで、お願いしますね」
「ハイ」
で、舞台はどうなったのか、というとこれがなかなか成功で、まあ成功って言ったって結局赤字なんだけれど、良かった。何とか次が作れそうだった。
打ち上げは例の如くにお酒を浴びるほどに飲んだ。飲んでも飲んでも酔えないからねえ。誰一人酔えないからねえ。だから飲む。酔ったふりをして誰彼構わずキスしてみたりする。誰かが詩の朗読を始めた。大仰な言葉が並べ立てられた壮大な太宰治作の詩。あたし達はケタケタ笑う。誰かがさらに朗読を始めた。聞いた事も無いような大仰さソレラシサで、あたし達は腹を抱えて笑った。誰が朗読しているのだろうとあたしは顔を上げる。
彼女だった。
「ドウデシタカ」
真っ黒な顔をお酒で真っ赤に染めて、彼女はあたし達を壇上から見ていた。
「ワタシガツクリマシタ」
「え、うん、良かったよ、良かった」
あたし達はこそこそと下を向いて言う。
「ソウデスカ。ヨカッタ」
彼女はそう言って、にっこりと笑った。
そして彼女は喋り続けた。主に舞台関連のこと。彼女は、あたし達の舞台は目の付け所とストーリー展開は良いが、主題の掘り下げが甘く、核心に至っていない、と主張した。
「セカイニハウエタコドモガタクサンイマス。ソレヲムシシタゲイジュツはナンノイミモアリマセン」
彼女はお酒をガンガン飲みながら、次第に主張をエスカレートさせていった。
「アナタタチハオオアマデス。イツカホロビマス」
「一体誰、この人連れてきたの」
あたしは周りを見渡した。
皆があたしを見ていた。
連れて来たのは、あたしだった。
「ホロブマエニヤレルコトガアリマス」
仲間達は少しずつ帰り始めた。
「クイアラタメヨ」
彼女はそう言うと、前のめりに倒れた。
周りには、誰一人残っていなかった。
外に出ると大雨だった。今年三十個目の大型台風が、マクドリアハンバーガーの巨大ビッグバーガー看板を吹き飛ばしていく。
あたしは黒人女を引きずるように歩き出した。
黒人女と相合い傘。
台風に耐えきれず、遂にアルタのモニターが壊れた。
ガラスがキラキラと風に舞っている。キラキラ過ぎて、コインがばらまかれているように見えた。
「お帰りなさい。お客さんだね」
と居候は言った。言ったきり何もしない。
「スモウ。スモウヨ」
黒人女はマンションに入るちょっと前くらいに覚醒し、そのように連呼していた。
「クイアラタメヨ」
彼女は、とにかくあたしが気に入らないようだった。あたしと勝負しないと気が済まないらしい。
「セイセイドウドウ、スモウデショウブデス」
「アイシャ、今日も綺麗だね」
居候は呑気そのもので言った。あたしはそれでやっと彼女の名前を知る。
「スモウ」
「ノー相撲」
「相撲? アイシャ、相撲だって?」
「エエ、スモウデス」
「ノー相撲」
「相撲か」
相撲か、じゃなくて止めろよ、と思う。
それきり居候は黙ってしまった。何を考えているのだろうか。なんでこんなぼうっとしている男と、アイシャは知り合いなのだろうか。彼が昼間何をして、何処へ行っているのかあたしは全く知らない。だがそれでも彼は色々な人や物を知っていた。
「スモウ」
「ノー相撲」
「スモウ」
「ノー相撲」
これでは埒があかない。
「じゃあこうしましょう。相撲は日本の国技だから、あたしが有利でいけないわ。だからね」
「ダカラ?」
「野球で勝負は?」
「メジャーリーグベースボール?」
「そう。それならアメリカでもさかんでしょう?」
「ワカリマシタ」
こうやってあたしはやっとアイシャを騙すことにやっと成功した。
「ヤーキューウー、スールナラー」
居候は椅子に腰掛けあたし達の方など全く見ずに、パスタをのろのろと食べていた。
アイシャはもう既にパンツ一枚だった。
あたしは最初二連敗し、いきなり靴下とシャツを失ってその時はさすがに焦った。しかしアイシャはジャンケンを知らない国から来た人間で、百戦錬磨のあたしには彼女の癖はすぐに読みとれた。彼女はやはりグーに頼る傾向があった。あたしはそこを突き、一気に四つ勝った。
「コーユーグーアイニシーナシャンセー」
目の前にアイシャの硬そうなおっぱいがあった。黒人女がセクシーと一体誰が決めたのか。全くエロい気分にはならなかった。外人はやっぱり白人に限る。しかし白人もあれだね、十五を過ぎた瞬間に、バターの匂いしかしない獣になりますね。十五を過ぎた奴は全員死ね。ああそれじゃあたしもか。でもジャパニは童顔だから十八まではイイや。どちらにしても二十二のあたしは死刑だが。
「ヨヨイノ、ヨイ」
心が折れ、迷った末のアイシャのチョキを、あたしのグーが粉砕し、あっさりと勝負はついた。
「さ。あたしの勝ちよ」
アイシャにシーツを渡す。彼女は身体にそれを巻き、部屋を出ていった。
「クイアラタメレバ、アナタナラスバラシイトコロヘイケタノニ」
彼女はどうしてもあたしに悔い改めて欲しかったようだった。あたしはほんの少しだけ悔い改めた姿を想像する。うっとりとした顔でステンドグラスの光に照らされ、神様の前に跪いている自分の顔にむかついて、すぐにやめた。
「これ食べる?」
居候がパスタをあたしの前へ突きだした。
いらない、とあたしは言った。
部屋にはアイシャの残した服が一塊りになって残されていた。見ている内にその塊が、昔飼っていた猫に見えてきた。
「にゃあちゃん」
名を呼んでみた。
返事は無い。
「にゃあ」
仕方無く床に寝そべり、猫になったつもりで鳴いた。
「これ、食べなよ」
仰向けになったあたしに、居候が言った。
あたしは横になったまま猫っぽく動いて顔を上げ、パスタを口の中へと受ける。
エントリ10 髪切虫 立花聡
男の中にある心配がひらめいた。それは最終電車の車窓を眺めているときだった。窓を通した視界に、ある男女が映り込む。女が見知らぬ男の胸に抱かれている。街灯の薄明かりはスポットライトの様で、一瞬の映像は写真のように沈澱した。
その女には見覚えがあった。「髪切虫」と呼ばれた女。男の中学時代の同級生。一学年に一クラスしかない都会の寂しい学校だった。
男の名前は佐々木勉。女の名前は佐藤千恵。勉は、千恵を自らの背後に感じていた。出席番号は一番違い。席替えは意味をなさず、移った近くにも必ず千恵はいた。三年間、一メートル以上を隔てて授業を受けた事はなかった。
勉は千恵を疎ましく思った。周りから赤い糸だとか、運命だとか冷やかされる事があったからだ。纏わり絡み付く声から逃れる為に勉は千恵を「髪切虫」と呼んだ。それは中学生のある種の羞恥心の為なのか、それとも単なる外見の為だったのか。今となっては、勉の記憶の中にはない。しかし、勉の予想に反して、あだ名は他の生徒の心を掴んだらしい。千恵がその為、辛辣な苛めの標的となった事は事実であった。
勉の心配は千恵そのものだった。抱き合う千恵を見て、薄ら寒い心地になった。それから「復讐」という言葉が追ってひらめいた。自分には復讐される理由がある。そう思うと、何か圧倒的に冷たい罪悪感が蘇ってくるのが分かった。
実際に千恵なのかも分からない。出会うはずもない。確率では限り無く零に近いはずである。しかし、寧ろ低い可能性が、勉の心臓で不吉な空気を大きくした。論理を越えたものが持つ力だった。
勉が高校教師になって、三年が過ぎる。初めての担任を任され、職員室には社会を教える恋人もいた。心配事と言えば、他の職員に交際を打ち明ける機会ぐらいのものだった。しかし、あの女を見かけた事で大きく現状は変わった。忘れようと心掛けた過去が、「千恵」という、分厚い悩みとなってむくむくと台頭してきていた。
相談は過去の告白を意味する。勉には、苛めだけでは片付けられない行為がある。同僚や、まして恋人に告げられなかったのは、その行為への罪悪感が大きい。
千恵を目撃してから三四日経ったある日、保護者からの電話が勉に繋がれた。
保護者は「学校に行こうとするとお腹が痛くなるらしいんです」と訴える。勉にとっては、寝耳に水の話だった。問題ないと思っていた自分のクラスの、それも苛め。そのタイミングが何かに引き寄せられているような気にさせた。「とりあえず、その生徒と今日、話してみます。明日も学校に来れないようでしたら、明日の放課後、お宅に伺いまして、一度典子さんとお話させて下さい」勉はそう取り繕った。
「便所虫」池田桂子の声はか細かった。
「便所虫? そう呼んでいたのか」
「だって、いつもトイレにいるし、なんか話もずれててムカツクから」
「そんな事であいつを苛めだしたのか」
「別に苛めてなんかいません。ただ、そう呼んでただけです」
桂子の言い分は、中学生の勉の言い訳と重なっていた。それでいながら、桂子を諭している自分がいるのだと思うと、ひどく滑稽に映った。
次の日、高橋典子の足は学校には向かなかった。
放課後、勉は典子の家を訪ねた。工場の近くの、マンションだった。午後五時、どこかのスピーカーが終鈴代わりの音楽をならしているのが聞こえる。どこかで聞いた、けれど思い出せないメロディーだった。ふと、勉は幼少の秋の頃を思い浮かべた。時折、顔を出すその情景には決まって、今はもうない河原沿いのススキの海が広がっていた。
303号と書かれ、高橋と表札が続いた一室の前には、母親の趣味なのだろうか、幾つかの鉢が置かれている。辺りの雰囲気とは少し異なっていた。
呼び鈴を鳴らすと、音もなく扉が開き、母親が「どうぞ」と呼び入れる。勉は、その母親の目が少し赤くなっている事に気が付いた。昨晩、家族で何かあった事は、勉にも容易に計り知る事が出来た。
典子は、机に向かって、何かものを書いている様子であった。勉が近づくと、振り返り「先生、こんにちは」と挨拶をしてきた。
「最近、どうして学校に来ないんだ」
「分かってるくせに」
典子は微笑を浮かべた。まるで全て理解しているかのような表情だった。典子は決して言葉数が少なく、言うなれば「暗い」生徒ではない。しかし、その顔は勉が考えている高橋典子のイメージからは懸け離れていた。勉の戸惑った表情を典子は見ると、自分から話を切り出した。
「先生、私、池田のこと嫌いよ、多分池田も私の事嫌いだと思う。普通は、そんな事で終わるんだと思うけど、私たちはそうはいかないの。単に私は、争いに負けただけ、代わりに池田が勝った。そうしたら勝った方にクラスはついていくわ、男子も女子もね」
典子は続ける。
「勝敗がついたら、すぐにみんなに伝わって、私を無視し始めた。先生ならどうする? 私はトイレに逃げ込んだ。それしかないでしょ。だって……」
声が震えている。
「だって、ねぇ、それしかないじゃない」
勉には何を言うべきなのか分からなかった。励ませばいいのか、叱咤すればいいのか。それから先、勉は何を喋ったのか覚えていない。曖昧な言葉を並べ立て、典子が少しでも上向きになるように心掛けたつもりではあった。しかし、掛けた言葉は、その端から忘れていった。
典子は一度も涙を拭わなかった。
その晩、勉は恋人を部屋に呼んだ。無性に誰かを感じたかった。
一つハイヒールの音が、部屋に届くやいなや、玄関に走り、到着したばかりの女の服を脱がせ、ベッドに運んだ。
女に首筋にキスをしていると、「なんでこんなことするの」千恵の声が聞こえる気がする。乳房を揉んでいると「お願い、もう止めて」頭に高い声が響いた。腰を振っていると、悲しい千恵の顔が浮かぶ。その目には大きな涙が浮かび、髪まで濡らしていた。
あの時が脳裏から離れない。
今、どこにも千恵の存在はないはずだ。しかし、なんだ、今また。おれは千恵を抱いているんじゃない、幸子を抱いているはずだ。何故、千恵ばかりが浮かんでくる。悪い事だとは分かっていた。自分なりに納得もしたはずだろう。忘れたはずだろう。なのに何故、今頃、出てくる。許してくれ、許してくれないか。頼む、お願いだ。
裸の女に向かって、勉は額を床に擦り続けていた。
女は恋人の平伏す姿に立ち尽くした。
冬場のホームは冷える。電車を待つまでの間、勉は缶コーヒーを飲む事が日課になってしまった。
勉がその後、千恵を見たような気はしない。すると、千恵の存在が徐々に薄れてきた。あれ程恐怖したのに時間が過ぎると何でもない。今では単なる見間違いだったのだろうと思うことにしている。
冬になると、典子も登校を再会した。少しではあるけれど、クラスでの立場も回復してきたらしい。時折、質問をしててきては戯けた顔をしてくる。
「ねぇ、ねぇ。宿題やってきた?」
「まだやってない。誰か貸してくれないか?」
「私やってきたけど、貸してあげようか」
「典子やってきたの? じゃあ、貸して」
「でも、最近世界史、うざいよね」
「ほんと、あいつ調子のってきたんじゃない」
「やっぱり、さっちゃんの方がよかったなぁ」
「なんで急にいなくなったんだろうね」
「髪切虫」そう呼んだ事から、自分の失敗が続いている。
勉は最近、また忘れるべき事が増えた。
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