また来た。 この着信によって、私の携帯の履歴は全て、彼一色に塗り替えられてしまった。つまり、20回目の不在着信というわけか。 ターミナル駅といえども、終電も尽きたこの時間では人影もまばらだ。12月の澄んだ夜気の中で、携帯の振動音が不自然なまでによく響く。 日曜の深夜、厳密にはもう月曜か。終電にまかせてこの駅に降り立ち、頭を冷やそうと外のガードレールに腰掛けてみたものの、さすがに寒すぎる。震える携帯を握り締め、腰をあげた。体に直接振動が伝わる。 どこか、風をしのげる場所に移動しよう。辺りを見回したが、ファミレスに漫画喫茶、ましてやカラオケなんて到底入る気にはなれない。 どこに行けばいいんだろう。どこに行きたくて、何をしたくて、こんな所にいるんだろう。 携帯がせわしなく震えて、心臓のリズムが狂う。 どこに、 何をしたくて、 何のために、ああ、携帯が鳴ってる。 でも、 行きたくない、 携帯が鳴ってる。 寒い、 そうだ、 携帯が、鳴って・・・ ふと、振動音が鳴り止む。 我に返る。 今、私は何をしてるんだっけ。 立ち上がったまま次の一歩の方向を失った私を、静寂が包んだ。 コトの起こりは10日前にさかのぼる。 心当たりのある女性にとって、月に一度のアレがやって来ないということは大変なことだ。一般的な避妊は欠かさずしているものの、予定日を3日も過ぎると、非現実的に思えていた不安がみるみる生々しさを帯びてくる。 何度か彼に相談しようと考えたが、その度、今言ってもしょうがないという思いが邪魔をした。決定的に子供が出来たのなら言うべきだが、まだわからない。彼に言ってところで、いたずらに心配させるだけで無駄なことだ。だから、私はいつもどおり、くだらないことでよく笑った。彼もいつもどおり無邪気に笑った。 それは、今まで幾度も繰り返してきた私と彼の日常、それ以外の何物でもない。ただ、私だけが不安でたまらなかっただけだ。 7日目は決戦の日だ。市販の検査薬が可能となるその日、私はひとりドラッグストアで余計な買い物をした。まだたっぷりストックがあるトイレットペーパーに食器洗剤。山盛りにしたカゴの底に、運命の棒ッキレを隠した。 そういえば、私は今まで一度も避妊道具を買ったことがない。そういう物を使うことになったのは彼が初めてで、いつも彼がコンビニで買ってきてくれていた。 「ドラッグストアで買えばもっと安いのに。」 何度か彼にそう言った。 「そんなとこ、あんまり行かないからね。コンビニの方が近いし。」 付き合い始めの頃、シャンプーをコンビニで買う彼を見て驚いたことを思い出した。もったいないと呆れると、時は金成りだよ、と何故か自慢気にされたんだった。 「今日で一週間遅れてるの。明日、検査するね。」 決戦の日の終わりに、とうとう私はこの言葉を吐き出した。 金曜の夜、外で待ち合わせて夕飯を食べ、彼のマンションに行って音楽を聴き、お風呂を借り、布団に入る。その間、私は常に言い出すタイミングを窺っていたし、実際いくらでもチャンスはあった。だって、言葉にすればいいだけの話なのだから。 でも、それがなかなかできなかった。この期に及んで、例の「しょうがないじゃん症候群」が発症したからだ。まず検査してからの話にすればいいじゃないか。でも、一人では怖くて検査できないから言うんじゃないか。でも、彼に言ったところで検査結果は変わらないじゃないか。だから、今言っても、しょうがないじゃん。 私がこんな葛藤を繰り返している間も、彼は穏やかによく笑った。結局検査もしないままに二人並んで布団に入り、おやすみを言った後にも、優しく笑っていた。 そこで気付いた。 彼に言い出せない本当の理由は、この幸せな日常、彼の笑う顔が曇ることが怖いからなんだ。好きな人には困った顔をさせたくない。だから、こんな簡単な一言さえも言えないんだ。 なんて子供臭いんだろう。 彼がどうじゃない。自分の体のことだ。ちゃんと彼に伝えて、検査して、万が一なら然るべき行動をとらなくては。そうしなくては。 そういうわけで、決戦の日の最後の最後になって、私はようやく1週間分溜めに溜めた一言を吐き出したのである。 「心配なの?」 彼はそう言った。そりゃ心配だよ。 「大丈夫だよ。おやすみ。」 ぎゅう、と私を抱きしめ髪を撫で、彼は眠ってしまった。1週間悩みに悩んで打ち明けた割には、酷くあっさりとあしらわれてしまった気がした。それだけなのか。 その夜、私は明け方まで寝返りを打ち続けなければならなかった。 次の日、私は彼よりうんと早く起きた。起きあがってすぐトイレに向かい、まだ頭がぼうっとする中で検査薬の封を開けた。 頭が働き出して、また余計なことを考え出す前に済ませてしまうんだ。 寝起き作戦は大成功だった。滞りなく説明書どおりの動きを遂行した結果、検査薬の棒ッキレは明確な結論を示してくれた。 妊娠はしていなかった。 彼が起きてきたのは昼を過ぎた頃だ。その日は彼が言い出して映画を見に行った。公開されてすこし日が経ったハリウッド映画だったが、土曜の昼だからだろうか、映画館は割と混雑していた。 「面白かった?」 訊かれて頷いた。彼はいつもどおり笑っていたのかもしれないけれど、頷いて下を向いてしまった私には見えなかった。映画館を出るともう日はとっぷりと暮れていて、そのまま私のアパートに泊まった。 日曜の朝、私はまたしても早く起きる羽目になった。私を起こした原因は、毎月身に覚えのあるお腹の痛みである。遅れること9日、待ち焦がれたものがやって来ていた。これで心から安心できる。なのに、何故か空虚なわだかまりを感じてしまう。下着を着替えて痛み止めを飲み、私の部屋で眠る彼の顔を眺めた。 どうして、悲しいんだろう。 悩みは消えたのに。 パジャマを着替えて、そうっと家をでた。よくわからないけれど駅に向かい、よくわからないけれど電車に乗った。 そして今は真夜中。人気の無い駅前に突っ立っている。 寒いけれど、明るくてうるさいファミレスやカラオケに行くくらいなら、静かなこの場所のほうがましだ。そう思い直して、再び同じガードレールに腰を下ろす。 なんでこんなことしてるんだろう、本当に。 遠くに行きたいから電車に乗ったのならわかるが、今私がいる駅は、実のところ出発駅から4つしか離れていない。一時にはかなり遠くまで行ったはずなのに、気付いたら引き返してきていた。しかもこんな中途半端な駅で終電が尽き、戻るに戻れないなんて。 結局なにがしたいのか、全くわからない。 自分で自分が可笑しくて笑ってしまう。 その時、私は背後からの白すぎる光に照らされた。 「なんで、笑ってるの。」 そう言ったのは彼だ。目を細めると、道路に止まったタクシーから降りている彼が見えた。こちらに向かっている。ヘッドライトが消え、残像がちらつく。 「帰るよ。話をしよう。」 ガードレール越しに手を引っ張られる。 「昨日は悪かった。ちゃんと話そう。」 話。 話か。そうか。 意味があろうと無かろうと、自分の気持ちを「話す」。 聴いてもらって、そしてまた彼の気持ちを「聴く」。二人の間で滞ることなく、全てさらさら流れる。 そうでないと、いつの間にか澱んでしまう。 さらさらした空間の中で笑う無邪気さが、彼と私の日常なのだ。 今までの気持ちを、全て話そう。 帰って、話そう。 「で、どうして笑ってるの。」 彼が聞く。まずは、今の率直な気持ちを話そう。 「タクシー、こんな時間まで一体いくら使ったの?もったいない。」 今度は彼が笑う。 「あのね、時は金なり、知ってる?」 12月の乾燥した空気が、肌にさらさらと流れた。
秀樹が自分の頭頂部の毛がだんだん薄くなってきているのに気づいたのは二十六歳ぐらいだった。育毛剤を使ったり、お酢を薄めてリンスしたり、蜜柑の皮で頭皮マッサージしたりと、いろいろ手段を講じたが全然効き目がなく、三十五歳でまだ独身というのに頭の方は大分薄毛が目立つようになって毎日憂鬱だった。どこかの雑誌で男はこれからの人生を髪の毛が抜けた状態で過ごさなければならないと思った時から、心の中に大きな変化が起こると書いてあったが、秀樹の現在の心境がまさにそれだった。世田谷に住んでいる叔母も彼の頭をしげしげと眺めては、 「秀ちゃん、大分薄くなったわね。お父さんの遺伝かしら」 彼は五年前に心筋梗塞で死んだ父親の頭を思い出した。まばらになった髪の毛を一九分けにしていた。全体に体毛が濃い点も父親譲りだった。 「カツラ試してみたら。最近精巧なのができていて殆ど分からないらしいわよ」 叔母の言い方が少しからかい気味のように受け取れたので、彼はむっとして、 「冗談やめてよ。カツラなんか始めたら職場の人に何言われるか」 勤め先の女子社員の顔がちらついた。ひそかに思いを寄せている子もいた。 三月。黄砂まじりの強風の吹く日、秀樹は人事部長から大阪営業所転勤を申し渡された。 「大阪はえげつないリフォーム業者が多いけど、うちの会社は誠実、信頼が売りだから。しっかり勉強して帰ってきてくれよ」 ショックだった。十年以上も本部営業所で頑張ってきて、それなりの販売実績もあげてきた。係長のポストも目前だと思っていた。好きな女の子とも別れなければならない。もっとも彼女の方は秀樹の転勤のニュースに何の反応も示さなかった。示すわけが無いのだ。彼が好意を抱いているなどとは露ほども思っていなかったのだから。 その日の晩、彼はテレビの前でぼんやり考えた。今度の転勤を自分の人生の転機にしようか。そろそろ結婚も真剣に考えないと一生独身ということにもなりかねない。イメージチェンジも必要かもしれない。 その時テレビに大手カツラメーカーのCMが映った。美人の若い女性が男性のヘアーチェックをしているところだった。男性はうっとりとした表情で女性の頭皮診断を受けている。 (これだ!)と彼は思った。先ずヘアーチェックをしてもらう。その上でカツラを買うかどうか決める。ひょっとしたらカツラでなくて、今まで試したことのないような育毛法を教えてくれるかもしれない。 翌日、秀樹は都心のカツラメーカーの営業店へ足を運んだ。テレビに出てくるような美人のお姉さんではなく、中年の眼鏡をかけた神経質そうな男性がコンサルタントだった。コンサルタントは椅子に腰掛けた秀樹の背後に立ち、彼の頭皮を指で押さえつけるように揉んだり、スコープを近づけてモニター画面上の白っぽいグロテスクな毛根をチェックしたりした後、大きな溜息をついて、 「今さら育毛は無理でしょう。こんなに抜けてしまう前にもっと早く来るべきでしたね。私としてはカツラをお勧めします」 所詮行き着く所はカツラかと思って暗鬱な気分になったが、一応値段を尋ねてみる。聞いて驚いた。一個四十万円以上、百万円もする物も有るとのこと。それにカツラの耐用年数は二年から三年。途中で壊れた場合は修理に出したりしないといけないが、その間はげ頭をオープンにしておく訳にはいかないので、最低二個は持ってないといけない。ランニングコストも考えに入れると大変高額な買い物になる。下手したら車が買える値段だ。 秀樹は別のやや地味な感じの店へ行ってみる。ここでは先刻の店の半額から三分の二程度の価格で購入できる。ただオーダーメイドではないので、安くなる分自分の頭の形や髪色に合わないことがあるとのこと。装着方法もピンやテープのみといった代物だ。どうしたものか考え込んでいると、これまた中年の店員兼コンサルタントのおじさんがアドバイスをくれた。 「売る立場でこんなことを言うのも変だけど、カツラを使うかどうかは慎重に考えた方がいいですよ。一度カツラを使うとなかなか外せないし、ストレスも溜まりますよ。カツラは始める時よりも止める時のほうが勇気がいるんです。ばれないように一生使い続けようと思って、最新の技術を施してもらったら年間の費用はすごいですよ。家庭のある方は特に大変です」 秀樹が今度新しい職場に変わるのでイメージチェンジしたいのだと話すと、おじさんは秀樹の頭を映した写真をプリントアウトしながら、 「それじゃどうでしょう。カツラを一生使い続けるかどうか決める前に安いカツラで試してみるのは」と言った後、サンプルを棚から取り出してきた。 「これは全頭カツラです。髪の毛は全部剃ってつければ地毛との境も色の境もないし、とにかく安くてお得です」 「安い分すぐばれませんか?」秀樹は不安になった。 おじさんは少し躊躇いがちに、 「ううん…… 実はカツラはいつかは必ずばれます。どんなに精巧なものでも、やはりどこかに不自然な点が出てくるんです。立場上大きな声では言えませんが、いっそスキンヘッドで通したらどうですか」 そして一段声を落として、 「私の甥も若はげで悩みましたが、転勤の時、頭ツルツルにして安いカツラをつけて新しい職場へ行ったんです。自己紹介をした時に自分でそのカツラを外して実は私はズラなんですと言ったら大爆笑。すっかり人気者になりました。そのうち面倒くさくなってカツラなしのスキンヘッドで通しましたが、その頭を気に入ってくれる彼女もできましてね」 朝十時に新大阪駅到着。地下鉄に乗り淀屋橋で降りる。昇降階段を上がって御堂筋に出た途端ビル風に巻き込まれた。秀樹は慌てて頭を押さえた。おじさんの言うとおり髪の毛を全部剃って、両面テープでカツラを固定したが、強風に煽られたらたちどころにずれてしまいそうだった。でも自己紹介のときにカミングアウトすれば大丈夫。そう思ったら緊張感が解れてきた。 営業所は御堂筋沿いに整然と林立するビルの一角、損害保険会社所有の建物の十八階にあった。オフィスに入る前にトイレで入念にチェック。堂々と胸を張って受付の女性に来意を告げる。 「田所秀樹君は新宿の本部営業所に十二年おったベテランや。最近うちの営業所数字が下がっているから強力な助っ人が欲しいって人事に頼んでたところや」 恰幅のいい五十がらみの営業所長が秀樹を皆に紹介した。社員が仕事を中断して立ち上がり、一斉に秀樹の方を見た。ざっと二十人くらい。殆ど若い女性ばかりだった。男は営業で出ているのだろう。可愛い子がちらほら混じっている。(いいぞ! 手順どおり行くぞ!) しかし手順は狂ってしまった。 「田所です。よろしくお願いします」 大きな声で叫ぶように言ったまではよかったが、勢いよく頭を下げた拍子にカツラが…… オフィスの中がシーンと凍り付いてしまった。営業所長も目を丸くし、口をポカンと開けている。 秀樹は額にずり落ちてきたカツラをはがして、 「僕、実はズラなんです。ハ、ハ、ハ」とおどけた調子で言うと、場の空気が少し和んだ。 しかし、ばれたから仕方なく告白したと皆思っているに違いない。無念だった。
私は慌てている。 電車の出発時間まで、後十五分。それまでに銀行へ行って金を下ろさなければ、切符が買えない。楽しみにしていた家族旅行に行けなくなってしまう。 昨日のうちに金の準備ぐらいしておけ、と妻を叱りたいが、その時間さえない。そもそも私が布団から出たのは、ほんの今さっきのこと。三人の子供たちの「おなかがすいた」という泣き声で目が醒めた。 私は慌てて二階の寝室から駆け下りた。 なんと、妻はそのとき何の用意もしていなかった。まず一番に弁当を作っていなければならないはずである。朝ごはんは、その後、弁当のおかずの残りで充分だ。 「何しているのよ、今ごろ起きて」 ……と、言わなければならないのは、こちらのはず。 が、妻に先手を打たれた。 「お前、いったい何してたんだ」 「朝シャン」 髪をぬらして洗面所から出てきた妻の顔は、薄ぼんやりとしていた。 「弁当は……?」 「これからだけど……」 ……とは、まったくどういうことだ! 子供たちは今日の家族旅行を心から楽しみにしていたのだ。彼らの気持ちを裏切るつもりか。 とにかく、早くしろ! 私は心の中で金切り声を上げた。 「だったら、お弁当ぐらい自分が作ってよ。ふん、何よ、その顔は。なんか文句ある?」 文句……そんなものありすぎる。 文句が胸板を弾き飛ばして、家中を埋め尽くし、なおかつ外に溢れ出そうだ。が、今さらどうしようもなかった。 「文句なんかない!」 「そういうことは、凄んで言わないでよね。低血圧なんだから、頭に響くわ」 「ソーセージは? 卵はちゃんと買っているのか?」 「冷蔵庫の中よ、見て」 「なら、君は飯を炊け!」 「ごめん、服着替えてくるわ」 「なんだ、いつもいつも……! この低血圧のトカゲ女!」 「何か言った?」 すでに妻はクローゼットの中に姿を消している。私の罵倒など聞こえていない。もっとも一家の安泰のために聞こえない声しか出せなかったのだが。 だいたい新婚の頃は、こうではなかったはずだ。いや、もうはるかな良き日を思うのはよそう。 とにかく、私は台所に急いで駆け込み、まず米を研いだ。 炊飯器に水に浸した米を仕掛けながら冷蔵庫の扉を開き、おかずになりそうなものを一瞬のうちに見極めて、弁当のレイアウトをパズルでも組み立てるようにイメージした。あとは頭の中のレシピを時系列に並べて、マニュアルどおり行動に移すだけだ。 何ごとも一気呵成にやり遂げなければならない。電車の時間はきまっている。効率よくしなければ間に合わない。 コンロの上に二つのフライパンを乗せて、卵を焼きながら、ソーセージを炒めていると、再び子供が私を呼ぶ声がした。 「ど、どうしたんだい」 「パパ、あそこのリュックサックとってよ」 リュックは子供部屋の一番上の棚に整理してある。 私はすぐに子供部屋に駆け込むと、椅子を台にして棚に手を伸ばした。たちまち埃が雪崩れのように頭に振りそそいだ。 「日頃から手の届かないところもちゃんと掃除しておけ」 と、私は聞こえない愚痴をこぼしながら、手ぬぐいで口を塞ぎ、やっとのことで子供のリュックを三つ引きずり降ろした。 「さ、これに着替えを詰め込むんだ。パンツはお泊りの数だけでいいぞ」 と、子供たちに明瞭かつ的確な指示を与え、再び台所に駈け戻った。コンロの火はつけっぱなしだ。 途中、階段で転び尾てい骨を打った。あまりの痛さに、台所に立っていても笑いがこみ上げ我慢がならなかった。 ところが、またまた子供の呼ぶ声がする。 「今度はなんだい!」 私は笑いながら大声を上げた。 気分はうんざりしているのに、笑い顔を止めることができないのは、尾てい骨の痛みを緩和するには、そうするしか方法がないからだ。 「水筒が割れてるよ!」 すでに卵もソーセージも準備オーケーだった。弁当のおかずを指差し確認すると、即座に子供のところへ走った。 なるほど、水筒のコップの部分がひび割れている。が、もはや新しい水筒を買いに行く暇などない。 子供たちの顔が見る見る歪んだ。 「泣くな、大丈夫だ。接着剤でくっつけよう」 私は自分の部屋に走ると、机の引き出しの中身を全部床にバラ撒いた。 ちまちまと探していたのでは時間が掛かる。片付けるのは旅行から帰ってからでいい。 雑多な小物の中から接着剤を見つけ、フタとって中身を絞った。しかし、古くなっているせいで、なかなか接着剤が出てこない。力を込めると、容器が破裂して中身が飛び出した。私はそれを手ですくい、そのまま水筒の割れ目になすりつけた。 子供たちがこの応急処置を納得したかどうかを確認する間もなく、慌てて台所に返る。弁当の最後の仕上げがまだ残っていた。 途中、廊下に出るところで敷居につまずき、三回転して受身を取ったが、鼻柱を痛烈に打った。鼻血がぼたぼたと廊下に落ちた。 台所に戻ると、卵焼きを一口大に切っていった。 この華麗な包丁さばきは、並みの主婦にはマネできまい。 「お弁当できたの? 朝ごはんまだ〜」 とその時、妻の暢気な声が食卓から聞こえてきた。 卵を切りながら、なぜか突然、涙が流れた。無性に情けなくなってきた。 まるで、たまねぎを切ってるみたいだ、と私は小さく呟いた。そう思うと、卵がたまねぎに見えてくる。 妻のためじゃない、家族のためだ。 別に辛いわけじゃない、私はたまねぎを切っているんだ。林檎をうさぎの形に剥きながら、自分にそう言い聞かせようとした。涙に鼻血が混ざって、目の前がぐじゃぐじゃになった。 家族を大切にするのは、本当に大変なことだ。自分を「百点パパ」だと、褒めてやりたいぐらいだった。 こうして私は、早朝のけたたましい喧騒の中で家族旅行のためのあらゆる準備を終えた。 だが、朝食を食べ終えた後で、財布の中身のことをやっと思い出した。昨日は、銀行へ行く暇がなかったのだ。 「考えたくもない事実だが、このままでは切符も買えない」 その時分になってそろそろ目が醒めたのか、妻が俄然慌て出した。 「なんてこと、もうあとは電車に乗るだけなのに……」 だが、ここまでこぎつけたのは、もちろん全部私の努力のおかげである。妻は何の貢献もしていない。 「銀行へ行ってお金を下ろしてきて!」 「しかし、もう電車の時間がないぞ」 私は半泣きになりながら反論した。 「あと五分で九時よ。これから銀行へ行けば、ちょうど開業時間だわ。その後、駅まで走れば充分間に合う。わたしたちは先に改札口で待っているから」 時間ぎりぎり、なんとか私は銀行の前に立っている。 その窓口で「すぐに金を出してください」と叫んだとき、あっと気がついた。 口に手ぬぐいを巻いたままだった! そのうえ、女子行員に差し出した右手に、しっかりと包丁が! 接着剤のついた手で握っていたため、手のひらに張り付いたままだったのだ。 慌てて手ぬぐいを剥ぐと、さらに大変なことになった。 鼻血が点になって、カウンターの上に滴り始めたのである。駆け込んで息を切らせたのがいけなかった。 目の前の女子行員は動揺して、それが誰の血なのかも判断できなくなっているようだった。 が、私が一番困ったのは、そんな時でも笑い顔を我慢できないことだった。尾てい骨の痛みが延々と続いていたせいだ。 まさにその瞬間の私の形相は、人々に恐怖心を抱かせるには充分なほど不敵で、かつ凄まじいものになっていたのである。
「こんにちは、おせいぼです」 「ぶぷわああっ!」 四谷京作のくわえていた歯ブラシが飛び出し、鏡に当たる。 「な、なんだお前は!」 「おせいぼです」 鏡越しには、筋肉質の毛深い男が白い歯を見せて微笑んでいた。その顔には、鼻を隠さんばかりの巨大な充血したイボがついている。 「本年中はお世話になりました、来年もよろしくお願いします」 おせいぼは深々と頭を下げる。 「あ、はい、どうも」 釣られて四谷も頭を下げかけて――。 「待て! お前、どこから入って来やがった!」 「玄関、開いてましたよ? それに、おせいぼって、ちょっと意外なタイミングで届く方が嬉しいでしょう?」 あくまでさわやかにおせいぼは笑う。 「ちっとも嬉しくない! 不法侵入だろうが」 怒鳴った拍子に四谷の口からハミガキ粉がたれそうになる。 「ああ、ほらほら」 おせいぼはティッシュで四谷の口元を拭く。 「ハミガキ粉の白いのは、落ちないんだから、気を付けないといけません」 「ありがと」 四谷は口をゆすぐ。 「あんまり念入りにゆすがない方がいいですよ。このハミガキ粉はフッ素入りですから、少し残ってないと歯が強くならないんです」 「なるほど――って、そうじゃない、そんな話をしてたんじゃないだろ!」 四谷は歯ブラシをゆすぎながら怒鳴る。 「一体誰に頼まれたかは知らんが、勝手に人の家に侵入するとは何事だ! 財産が目当てか、それとも身体が目当てか、このケダモノ!」 「だからおせいぼって言ってるでしょう」 「おせいぼったら、花王石鹸とか屋号入りタオルとか日清サラダ油とか、お茶と海苔セットとか、そんなんだろう!」 「まあ、ヒラ社員だとそんなもんですよね」 おせいぼは哀れみの目を向ける。 「ヒラって言うな! 仮にも副部長補佐代理(仮)のこのオレに向かって!」 「そんな役職あるんですか?」 「今度の忘年会をするに当たって、任命されたのだ」 「……それはただの幹事役では?」 「いーじゃねえかよぉ! オレにとっちゃ、初めての役職なんだよぉ!」 「ほらほら、泣かない泣かない」 おせいぼは優しく四谷の肩を叩く。 「良い子は泣かないものです。いいおっさんだったら尚の事です」 「いいおっさんでも泣きたい夜はあるんだよ」 「分かってます、分かってます。ですが、そんな悲しみも今年に置いて行きましょう」 「……置いて?」 四谷は顔を上げる。 「ええ」 大きくおせいぼは頷き、微笑む。 「その区切りのために、おせいぼはあるんです。今年の悲しみにサヨウナラ、来年も悲しみはやって来るけど友達迎えるように笑うわ、きっと約束よ」 「区切ってもまた来るんかい!」 「そりゃあそうです、人生は思い荷物を持って坂道を登るが如しです。それは誰だって一緒なんですよ」 「……まあ、そりゃあ」 「無論、歩くのはあなたのような取り立てて才能や取り得のないヒラ社員ばかりで、優秀な人は乗り物に乗ったり、出発地点が随分上だったりする訳ですが」 「フォローしてねえ、こいつ、全然フォローする気ねえ! 出てけ出てけ!」 四谷は怒鳴るなり、おせいぼを玄関の外まで押し出す。 「ああっ、おせいぼに向かってなんて事を!」 それからドアに鍵とチェーンロックをかけた。 『ちょっとちょっと、おせいぼ粗末にすると、後悔しますよ、ねえ後悔』 「するかっ!」 四谷は玄関から離れ、瞬間湯沸器の湯でインスタントコーヒーを淹れる。 「えーとミルクミルク……」 「ああ、お気遣いなく。コーヒーはブラックって決めてるので、砂糖だけでいいです」 「おい」 「はい?」 いつの間にか、先ほどのおせいぼが四谷の淹れたコーヒーを持っていた。 「砂糖入れたらブラックじゃねえだろ!」 「えー? でも黒いでしょ?」 「ブラックコーヒーは何にも入れないもんだろ」 「だったら、コーヒー豆もお湯も入れないんですか!」 「小学生か貴様は――って、いつの間に入って来やがったんだ!」 「おせいぼですから、煙突さえあればどこからだって入って来られます」 「説明になってねえよ! よし分かった、警察呼んでやる!」 四谷が受話器を取る。 「……いや、それは冗談じゃ済まないんで、やめて下さい。あなたは遊び半分かも知れませんけど、私には女房子供に対する責任ってものがあるんです。独身のあなたには分からないかも知れませんけどね、家族を養うっていうのは大変なんです。どんなに稼いでも、毛嫌いされて、みんなの笑い者にされて」 「あ、ゴメン、ちょっと言い過ぎた」 「分かればいいです。それじゃ、はい」 おせいぼは自分のイボを指す。 「いぼ?」 「はい。おせいぼなもんで」 「仕方ねえなぁ」 四谷は救急箱からイボコロリを取り出す。 「うわっ、そんなの塗ったら荒れちゃうでしょ!」 部屋の隅までおせいぼは飛び下がる。 「取って欲しいんじゃないのか?」 「取って欲しかったら形成外科に行きますよ! まったく、最近の大人は常識をわきまえてない」 「非常識の結晶に言われたくないな」 「年の暮におせいぼが来る、どこか非常識な部分がありますか?」 「おせいぼがお前な時点で根本的に間違ってるだろ」 「そうでしょうか?」 おせいぼは四谷をびしりと指す。 「人を指さすな」 「いーじゃないですか、減るもんじゃなし」 「減らなかったら何をしてもいーなら、著作権はいらん」 「いいですよ、どうせ印税生活なんて夢また夢なんですから」 「お前本出してんの?」 「誰が本なんか出しますか。私はおせいぼですよ? あなた、おせいぼが本出すなんてあり得ないでしょう」 「おせいぼは普通喋りもせんだろうがよ。それでどうして欲しいんだ、お前は?」 「だからこれ」 おせいぼは再びイボを指さす。 「だからほら、イボコロリ」 「違うって。おせいぼなんですから」 「イボにはイボコロリだろ」 「もう、察しの悪い人だなぁ。おせいぼ、ですよ。ほら、ほらほら」 おせいぼはぐいぐいイボを四谷に付きつける。 「おせ・いぼ」 「分かっててはぐらかしてんだよ! なんだ、その昭和の駄洒落みたいなのは!」 「いーから、いーから、悪いよーにはせんから」 がしり。 おせいぼは四谷の手を掴む。 「うわ、離せ、このっ」 もの凄い腕力に、四谷はなす術もない。 「おい、こらっ!」 そのまま四谷の手はおせいぼのイボへと導かれる。 そして四谷の指先がイボに、触れた。 はちきれんばかりの弾力と微妙な震えが指先を刺激する。尚も押すと、指先はめり込み包み込まれ、温かな感触とねっとりとまとわりつく皮膚とのこすれ具合と、そこから感じる確かな脈動は指のみならず手、腕、肩から脳、足先に至るまでを共振させ、神経を響き渡らせるようなかすかな痛みを伴いつつ快楽へと誘う。指先を弛めると、離れ行こうとする指に吸い付く皮膚の剥がれ行く瞬間のぴりびりという感触が、快楽に麻痺しつつあった脳髄を再び別角度から刺激しより複合化した快楽をもたらす。 四谷は恍惚とした表情で、ひたすらいぼを押し続けた。 「違う、こんなんじゃない」 帰って来たトナカイは、首を横に振ります。 「一体、何の為なんだ。どうしてこんな風に生まれて来たんだ? 意味はないのか、いや、結論を急ぐな、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、ぼくはどこにいていいんだろう……」 「……だから言ってるだろう? 暗い夜道の明かり代わりだって」 サンタのおじさんは、マッハのスピードでプレゼントを包みながら言いました。 クリスマスはもうすぐです。
まず会議費と交際費は半減ということで。本部長が会議の冒頭に予算案を配布しながらそう宣言した。冗談だろ、と同期で営業の細野がつぶやいて、見るだけでウンザリするような資料の山を隅から隅まで検め出し、会議そっちのけで予算のやり繰りを始めた。 会議費と交際費の違いもよく知らず、自分に利害のない額の小さな金銭にはやたら鈍い細野だが、なぜか桁数の多い数字には、経理の僕も感心するほど勘が良い。ほんの一時間足らずで、ざっと二千万円弱の理屈と帳尻を合わせて役員達を驚かせ、大手柄を立てたのは良かったが、これが図らずも役員たちの無策ぶりを露呈させてしまった格好となったからか、ほどなく最年少部長代行として東北支社へ飛ばされ、もとい、めでたく栄転した。 最近は多忙のためか音信不通だったのだが、半年ぶりに携帯電話に連絡があった。 「メリークリートリース」 「ぷっ、細野か?」 「そう、ケータイ変えたから。こっちの番号登録しといて」 「また何か悪さしたんだ、相変わらずだね出世頭。そっちはどう?」 「支社っていっても、経理のおばさんとか嘱託のじいさんばっかでヒマだし残業ないしさ、俺のハンコで多少の交際費も落とせるから、打ち合わせの名目で飲みに行くぐらいしか楽しみもなかったんだけど」 決済権を持って、会議費と交際費の区別がつきましたか、部長代行殿。 「ところでどうしたの? 急に連絡なんかよこして」 「あの、実は、年明けに結婚することになって」 「お! もしかして総務のユキちゃん?」 「いや、そうじゃなくて」 赴任してすぐ、界隈で随一と名高いキャバクラに接待と称して入ったらとんでもない美人がいて、何度か通って指名し続けているうちに、なぜか口説き落とすのに成功しちゃって、お互いのアパートを行き来し始めて二ヶ月で、うっかりその娘を妊娠させてしまった、のだという。 「赴任して避妊し忘れかよ、細野らしいなそりゃ」 「そう笑うなよ、キャバ嬢って言ったって、こっちの子はみんなきれいで家庭的で料理も上手いし、東京じゃあり得ないぐらい清楚だぞマジで、それに彼女は、すんごい……」 「妊娠させといて清楚も何もないだろが」 そんな事件を知るべくもなく、ユキちゃんは細野の帰りを待っているんじゃないかと聞くと、ある週末、驚かそうとして黙ってアパートへやって来たユキちゃんが、たまたまキャバ嬢、じゃなくて彼女を部屋に上げていた「現場」に踏み込んでしまったらしい。それは大変な修羅場だったそうだが、それ以上は聞きたくなかったので話の矛先を変えてやった。 「しかしまあ、細野がそんなに入れあげる美人てのは、相当なもんなんだろ」 「高橋、ケータイのアドレス、まだ変えてない?」 「変えてないよ」 「いまメールするから、彼女の写真。いっぺん電話切って待ってろ」 すぐに回線が切れたので、こちらも通話をオフにしてメールを待った。ほどなく着信音が鳴った。見ろ! とは、またご挨拶なタイトルだ。添付された画像を見て、僕のまばたきは停止した。確かに息も止まるような、六本木でもナンバーワン間違いなしの美人だ。ついつい見とれていたらケータイが鳴った。 「な。すげえだろ。しかもスタイルがさ、ほとんどクマダヨーコ」 その身重のクマダヨーコが安定期に入ってから式を挙げることになったので、真冬の東北で申し訳ないが結婚式に来てくれと言う。どうせ来るならスキーでもと、クマダヨーコの父が小さなペンションを借り切ってくれたのだそうで、せっかくなので同僚と示し合わせて有給を取り、ありがたくその誘いに乗っかることにした。 結婚式を二日後に控えた朝、男だけじゃ寂しいだろうと細野が、花嫁の元同僚らしき派手めの女の子をふたり連れてペンションへやって来た。新郎の行動としてかなり疑問はあったが、片方が割と好みのタイプだったので、おとがめなしにしてやることにした。肩慣らしに初心者コースのすみを隠れるようにチンタラと滑り降りたところを、横から板を担いだ細野に呼び止められた。遠目にも分かるほど真っ青な顔をしていた。 「高橋ぃ」 運動後のさわやかな汗、というよりは、見るものを不安にさせる脂汗を顔一面に浮かべている。 「どうした? 顔色悪いよ」 「転んで、骨、折っちゃった、どうしようぃててて」 普通に歩いていたし、一見して骨折した人間には見えない。どこが折れたのか聞くと、顔をゆがめてグローブをしていない手のひらを差し出した。 「薬指、しかも、左手の」 それは、僕には不気味な葉巻にしか見えなかった。思わず吹き出し、雪の上で笑い転げてしまった。 「おっおっ、おまえ、バッカじゃねえの? どうすんだよ指輪の交換は!」 「わ、笑うなよぉ」 「こりゃユキちゃんの呪いだな、間違いない」 「怖いこと言うなよぉ」 みるみる腫れていく葉巻がついに焼き芋のようになってきたので、キャバ嬢の疑いがある女の子の相手を同僚に託して、急いで山を降り街の外科に駆け込んで診察を受けさせた。診断によると、剥離骨折とかいう種類のもので、思ったより軽傷だったが、大事な左手の薬指は大げさに包帯でぐるぐる巻きにされてしまった。 すぐそばのファミリーレストランで、薬指を見つめる細野が大きなため息をついた。 「やっぱり、ユキの呪いか? よりによって」 「んなわけないって、あしたには腫れも引いてるかもしれないしさ。でも念のため東京の方に祈りは捧げとけ」 「そもそも結婚式の直前に、女の子誘ってスキーなんかやるから、いけないんだよなぁ」 それはその通りだ。だから、それ以上そのことに触れるのはかわいそうな気がした。黙りこくること数分。ちょっといいことを思いついた。 「細野、ちょっと耳貸せ」 「利子付けて返してくれる?」 「面白くない。いいからまあ聞け」 気勢のあがらなかった細野が、高橋に任せるよ、好きなもの飲み食いしてくれと、メニューを僕に差し広げた。まあ見てな。 賛美歌が、参列者によってつぶやくように平坦に歌われ、神父が説教し、天井の高いチャペルに、パイプオルガンの奏でる荘厳な調べが絶妙な音量で反響するなか、いよいよ指輪交換の儀式が始まった。 神父が差し出した深紅色の布が敷かれたトレイから、細野が震える右手で指輪をうやうやしくつまみ上げて、包帯を外した左の手のひらに、新婦の小さな左手を乗せた。指輪の向きと、埋め込まれた小粒のダイヤモンドの位置を確かめて、ゆっくりと細い薬指に、指輪を差し込んでいく。参列者が、物音も立てずみじろぎもせず、それを見守っている。 少し腹の突き出た新婦が、新郎の指輪を手にした。細野はおもむろに右手を差し出す。すかさずどこかのおばさん達がヒソヒソとささやいた。あらやだ、右手に結婚指輪するのかしら。スキーで骨折したらしいわよ、左の薬指。静寂から浮き上がったその噂は、参列者の好奇心を煽り立て、カサコソと新聞紙の上を虫が這いずり回るような、静かで、鬱陶しい詮索が始まった。神父が咳払いをし、手をゆっくりと叩く。下世話なざわめきが前の方で止み、誰かが神父に合わせて、手を叩き始めた。 まばらな拍手が、やがてパイプオルガンの音も聞こえないほどの喝采となった時、細野は新婦に、左手の薬指に包帯を巻いてもらって嗚咽していた。細野がおととい、ファミレスでこっそり領収書をもらっていたのは、まあ見逃してやろう。細野、ちなみにそれ、会議費な。