Entry1
山女魚
緋川コナツ
渓流釣りが趣味だった僕は、その年の夏も一人で山に入った。
渓流での釣りは、養殖されているニジマス釣りなどと比べると格段に難しい。しかも僕は本流、支流、源流とある渓流釣りの流域の中でも山岳地帯を流れる源流域での釣りを好んでいたので、それなりの装備や登山経験も必要とされた。
天然の渓魚は警戒心がとても強く、人影を見たりするとあっという間に岩陰に隠れてしまう。だから源流域では一か所で釣り続けずに、常に遡上して場所を移動しながらの釣りとなる。
その日も万全の態勢で渓流釣りに挑んだのだけれど、何故か思うように釣果を上げることはできなかった。
下流から徐々に上流へと遡上していると、いつしか僕は急激な喉の乾きをおぼえた。リュックの中に水筒はあったけれど、目の前には冷たく澄んだ沢の水が流れている。手にすくって喉に流し込もうと試みたけれど、急な水の流れに躊躇してしまった。
「そうだ、滝だ」
ここに来る途中、滝の音が聴こえたことを思い出した。そこの滝つぼなら水をすくって飲めるかもしれない。それに今日は全く釣れずに煮詰まっていたので、気分転換のつもりで散歩がてら行ってみることにした。
鮮やかな緑の木々の葉と、降り注ぐ蝉しぐれを掻き分けながら前に進む。都会では聴いたことのない鳥の声に耳を傾けながら歩いていると、突然ぽっかりと視界が開けて滝つぼに出た。
流れ落ちる川の水が轟音となって青い空に吸い込まれてゆく。幸いにも、注意して岩場を歩けば水際までたどり着けそうだ。僕は清水を求めて慎重に歩を進めた。
「うわっ、冷たい!」
思った通り、滝つぼの水は驚くほど冷たく澄んでいた。両手ですくった水を口に含んで喉の奥に流し込む。あまりの冷たさに頭の先がキーンと痺れた。僕は靴を脱いで適当な岩の上に座り、山歩きで疲れた足先を軽く水に浸した。
滝つぼの周りには、水飛沫によるマイナスイオンが多く発生しているらしい。きっとそこには目には見えない結界が張られていて、邪悪な者の侵入を阻んでいる。ふいに照れ臭くなって、僕は湧き上がる厳粛な気持ちを打ち消した。
「気持ちいいなぁ……最高だな」
僕は試しに、持っていた釣り糸を滝つぼの水の中に垂らしてみた。ほんの戯れのつもりだった。そして清らかな水面をつま先でパシャパシャと叩きながら、大きく伸びをして目を閉じた。
どのくらいの間、そうしていたのだろう。僕は何者かの気配を感じて目を開けた。ゆっくりと首をまわして辺りを見渡す。そこにはただ、木々の葉がざわざわと清浄な山の風に揺れているだけだった。
「おかしいな……気のせいかな」
ひとりごちて水面に視線を移す。すると大きな黒い影が水面近くに留まって、僕の様子をじっと窺っているのが見えた。
「魚……巨大魚か?」
すると魚は僕からの問いかけに答えるかのように、大きな水音を立てながら跳ねた。
「ヤ、ヤマメだ!」
山女魚は「渓流の女王」ともいわれるくらい美しく、美味しい高級魚として有名だ。魚形は滑らかな流線型で、パーマークと呼ばれる小判型の模様が特徴となっている。僕は数ある渓魚の中でも、子どもの頃から山女魚が一番好きだった。
山女魚は本来とても用心深い魚のはずなのに、一体どうしたことだろう。巨大な山女魚はしばらくの間、僕の目の前をぐるぐると泳ぎまわり、やがて岩陰へと消えた。
すると呆気に取られていた僕の目の前で、信じられないことが起きた。滝つぼの中央あたりから、女がぽっかりと顔を出したのだ。僕は自分の目を疑った。ごしごしと目を擦ってみたけれど、やはりそこには黒く長い髪を艶やかに光らせた、美しい女の顔があった。
女はこちらに向かって静かに泳いでくる。やがて浅瀬に着くと水から出てゆっくりと立ち上がり、まさに生まれたままの姿を僕の前に晒した。
僕の視線は、神々しいまでの彼女の裸体に釘付けになった。濡れた肌は怪しくぬめり、ほんのりと銀色に輝いている。翡翠の色をした瞳、少し上を向いた丸っこい鼻、紅い唇、白桃のような二つの胸の膨らみ、そして足元まで伸びた長い黒髪。僕は一目で彼女に魅了されてしまった。
膝下まで水に浸かった状態で彼女が僕を見ている。僕は何のためらいもなく結界を破り、水の中に入った。山の水は心臓がキリキリと締め付けられるように冷たい。それでも僕は彼女に触れたい一心で、水の中を一歩ずつ進んだ。
僕は彼女の体を抱きしめた。不思議なことに痺れるほど冷たい水の中にいたはずの彼女の体は、驚くほど温かかった。それはまさに、彼女の体を流れる血の温度だった。
どちらからともなく唇が重なる。僕はたまらなくなって自分の舌を滑り込ませた。キメの細かい白肌は触れば触るほどぬめりを帯びて、彼女の体から生臭い水のにおいが立ち上った。
「アッ……」
彼女の一番大事な部分に指先を潜らせると、口元から切ない吐息が漏れた。そこは体のどの部分よりもぬめりが強く、温かかった。
奥まで。もっと奥まで彼女に触れたい。僕の胸の中に彼女を愛おしく想う気持ちが湧き上がる。連れて帰ろうか。それとも、このまま食べてしまおうか。
僕はたまらなくなり、彼女の体の奥にある深い滝つぼに中指をゆっくりと挿し入れた。
「うぎゃああああああ!」
一瞬、僕は自分の身に何が起きたのかわからなかった。とにかく指先が熱い。彼女の中で感じた温かさとは全く違う、燃えるような熱さだ。
水面はおびただしい血のせいで赤く染まっていた。そこに女の姿はなく、さっきの巨大な山女魚がその身を大きくくねらせながら、滝つぼの奥へと消えてゆく姿が見えた。
僕は恐る恐る右手を水から上げて指先を確認した。彼女の中に収まっていたはずの中指の第二関節から先が、なかった。
年老いた医師は僕の指先を見て首をかしげた。
「これは……何か動物に噛まれたんですか」
「山女魚です」
「ヤマメ? それは何かの間違いじゃないですかねぇ」
医師は怪訝な表情を浮かべて、即座に僕の言葉を否定した。
「山女魚はとても神経質な魚で、人間に襲い掛かる、ましてや成人男性の指を噛み切るなんて、とても考えられませんよ」
「噛まれたんじゃなくて……」
「はい?」
「いや、何でもありません。そんなことは百も承知です。でも本当に山女魚なんです。僕はあの山の滝つぼで、彼女と情を交わしたんですよ。そのときに噛み千切られたんです」
「彼女、ですか?」
医師が呆れたように目を丸くする。
「ええ」
不思議と彼女を恨む気持ちにはなれなかった。それよりも、たとえ一瞬でも彼女と魂が呼応した悦びのほうが大きかった。彼女の体の奥から湧き上がる水苔の匂いが、今でも鼻の奥にこびりついている。
「山女魚、ねぇ……ふむ」
医者は納得いかない様子で何度も首を捻ったけれど、もうそんなことはどうでも良かった。これは結界を破った罰だ。僕は途中までしかない中指を、じっと見つめた。
後に、あの滝には「巨大な山女魚が棲んでいる」という古くからの言い伝えがあることを知った。その山女魚は滝の守り神であり、決して獲ってはならないと。もし、禁を破って捕獲し食した者は、末代まで祟られることになると。
僕の中指は滝の守り神への捧げものだ。僕の指は彼女の中では咀嚼され、血肉となって永遠に生き続けるだろう。
あれから何度か滝つぼに足を運んだけれど、彼女にも巨大な山女魚にも、二度と逢うことはなかった。