Entry1
鬱金香
サヌキマオ
橙の灯は夕立の闇に飲まれた店の中を照らしている。耳の裏の汗ばみを鬱陶しく思いながら、バイトの身だという意識の束縛だけが私をこの場に留まらせていた。そもそも、この乙坂ヱデン商会の客なんか、週に一人か二人くればいいほうである。店番と言う名の、レジの後ろにある畳に転がってスマホでまとめサイトを見る仕事だ。クーラーはかかっているが、涼しさを上回る湿気でスマホを持つ手と、畳に接した後頭部が同じくらいじっとりとしている。
珍しく客が来たのは気の安めとなった。客は三駅くらい向こうにある白鶸女子の制服を生真面目に着こなしている。ひっつめた髪をひとまとめにおさげにして、フレームの細い眼鏡の奥の目が実に神経質そうだ――店番が自分と同じくらいの年の女であることにどんな気持ちであっただろう。白鶸女子はお嬢様学校だし、私のような友達などいなさそうな気配がする。
問・この時の客の気持ちを三〇字以内で答えよ。答・「随分楽だったか、または死ぬほど厭だったかの何れかだったろう。(三〇字)」客はずいぶんと逡巡しているようであった。逡巡、いや、もしかして、思い返せば単に危ない客だったんだけれど。
「何かお探しで?」私のバイトとしての、最大限の心配りだ。
「いえ」
なんでもないです、というフレーズを言外に押し込んで回れ右、女は店の外に出ようとする。お前何に驚いた。店の暗さにか。私にか。キャミソールで悪いか。貧乳で悪いか。
と、女が引き戸を開け放った途端、健康的な、夏の、雷が落ちる。
泣きそうな表情で振り向く女に対して「ま、ちょっと見てったらどうです、止むまで」と最低限の営業をかける。おっと忘れかけていた、口角を釣り上げる。
店長は名古屋にいるらしい。通話の向こう、名古屋は三十五度の猛暑日で、ただ人が魂消るほど暑い、と聞いた。
私は店長の指示通りに土間の隅にあった木箱を持ってくる。木箱には新聞紙がかけてあって、はぐるとつやつやと黒光りする塊が四つほど入っている。ナカネと名乗った客は一部始終、恐る恐る見ている。
「別に噛みつきやしませんって」私は塊を一つ摘んで手のひらに載せる。「球根です。球根」
「球根」緊張の緩むのが判る。私の手のひらの上を凝視する。「これが?」
「ご入用の件ですと」球根を指先に捉え直す。つやつやとした淡いオレンジ色の根が生えかけている。「これを膣の奥まで、ぐぐっと」
「ぐぐっと……膣?」
「で、アンタ、ナカネさん、処女?」
「はぁ?」
よほど驚いたのか眼鏡が漫画のようなずれ方をする。面白いなぁ。
「いやね、入んないっしょ、こんなの。中に」
「入……らないでしょうね、多分」
「まぁ、アンタの身体のことなんかどうでもいいわ。でも、突き詰めるとそういうことなのよ。あなたは後輩のなんたらさんが好きで」
「シオリです。長瀞詩織」
「まぁじゃあその、長瀞さんに並ならぬ好意を抱いててラブラブだったんだけど、今度その長瀞さんに彼氏ができたんで、その彼氏にヤられる前にナカネさんの処女をぶち破りたい、と」
「いや……っていうか、詩織ちゃんをあんな男と一緒にさせるくらいなら、私のものにしたいってだけなのよ。ねぇ、聞いてました? 私の」
「そのための道具ったら、これなのよ。だったら自分で傷物にしたらいいじゃない。この女は自分のものだってことにするしかないじゃない」
「自分の」
ナカネはしばらく視線をさまよわせて考えている。お、ビビるかと思ったら、案外喜んでないか、こいつ。
「まあ、端的に言ってそういうこと、ですよね」
「端的もトンテキもなく、そういうことよ」私は店の奥でコピーしてきた取扱説明書をナカネに渡す。「球根は膣奥に密着させるとあなたの養分を吸って二、三日で膣の入口から顔を出す。成熟すると本人の興奮具合によって球根は膨張するようになる、と。へーえ。大体いい? あとは自分で読んどいて」
私は手元の仕入れノートに指をすべらせる。
「それで、お買い上げですと、一個六万円なんですけど」
「ろ、六万円?」
ナカネさんはあからさまにうつむいた。黒髪に照明の輪冠が出来る。
「そりゃあそうよ。アンタ知らないかもしれないけど、ウン百年前には球根一個と家一件くらいが同じような時代があったのよ」
だからって、今の時代に球根一個が六万円でいい理由にはならないけど。
「この品種だって当時のオランダの貴族がね、楽しみのために黒魔術師に作らせたってシロモノなんだから」
「安い」
「うん?」
「安いわよ! 私、本当に良かった。買います。買うので売りますよね? しかも即金ですし、ほらこれ」
ナカネさんがそう言うと、取り出した長財布から六万円が滑り出た。財布には六万どころか六十万は入っていそう。
「本当にこんなことがあるなんて。これで詩織ちゃんを、詩織ちゃんの中の詩織ちゃんを私のものに出来る……ふふ、うふふくふふふ」
本人は笑いをこらえて呟いているつもりなのであろうが、たまに漏れ聞こえる単語がいちいち卑猥に過ぎる。
「それは、ようございましたね」
「はー楽しみ。超超超楽しみ。じゃ、今すぐ包んでくださいな」
店長に球根が売れた頃をメールすると<それは重畳、儲かったから今日は店を閉めていいや>と返事がある。
――三日午後十時二十分頃、井祝町中央のマンションで投身自殺とみられる未成年の遺体が発見されました。亡くなったのは仲根梓さん十七歳。現場は仲根さんの友人の住居だということで、なんらかのトラブルに巻き込まれた可能性が高いことが井祝署の発表により明らかになっています。遊びにいった先の友人が119番通報し、心肺停止状態で救急搬送されましたが、約一時間後に死亡が確認されました。
「なんで!?」
「なんで、ったってなぁ。あと重い」
「あなただって、この球根さえあれば詩織ちゃんと両思いになれるって言ったじゃない」
「言ってねえし。向こうにその気がありゃ幸せになれるけどさ、その気がなきゃレイプじゃん」
私の上に薄ぼんやりとした影がのしかかっている。質量はないが、雰囲気だけがずっしりと汗ばんだ体を圧してくる。
「詩織ちゃんには嫌われるし、こんなものを股から生やしてなんか生きていけないし!」
「おい、シャワー空いたぞ」
「あ、はーい」
トランクス一丁の男を見て元・仲根はそうとうに動揺したらしい。拘束が緩んだので、私は布団の上をごろりと転がるとようやく立ち上がる。
「誰よあの男」
「え、あぁ、店長。ここの」
今日もずいぶん汗をかいてしまったがパンツの替えがない。どうしたもんだろう。
「どうしたもんかじゃないわよ! 私はこんなに苦しんでいるのに、あんたたちって、こんな……呑気に」
「ハイどいて、この店、狭いんだから」
脱いだパンツを振り回してナカネの霊を払うと、扇風機にパンツを引っ掛けてから回す。今はシャワーだけでいいや。
「アンタ冗談じゃないわよ、私をこんなにして自分たちは自分たちでイチャイチャとああ悍ましい憎らしい妬ましいっ」
ぼんやりとしていた影は急に凝縮したかと思うと宙に般若の相を形作ったがそれもつかのま、背後から近寄った店長がハタキでひと払いすると見る影もなく掻き消える。
「あれ、あっけない」
「人並外れた執念だと思うけど、ここ、その手の結界には事欠かないんだよね」
「ですよね」私は風呂の戸を開ける。うっすらと籠もった嫌な臭いがして、ああ、また掃除しなきゃ、と思う。