Entry1
悪魔を憐れむ歌
サヌキマオ
悪魔ーっ
ちょお可哀想ー
足も臭いしぃ―
今日もパパのピアノと歌で目を覚ました。実に不愉快だ。
ピアノは職人に頼んでそうとう変てこな調律にしてあって、来る職人は全て途中で仕事を拒否してくるか、気を病んで音沙汰がなくなっていく。ママだって三年前、私が八歳のときに「療養」と称して故郷のドブロジャに戻ったきり帰ってこない。
パジャマのままパパの部屋の方に向かおうすると話し声がする。早朝だというのに人が来ているようなので、慌てて部屋に戻って着替える。
「おはようございます、お父様」
「やあおはよう」
私はパパとのおはようのキスを済ませると、部屋にいた燕尾服の紳士に深々と一礼する。
「娘のヘンリエッタです……こちらは帝国銀行副頭取のマクマディンさんだ……お父さんはもうちょっと仕事をせねばならないから、お前は先に朝食を済ませてしまいなさい」
食堂の扉を閉めるとピアノの音がしなくなる。ふっ、と静寂が訪れて、窓の外に並ぶ幾何学模様の庭園がいっそう朝の光に輝いて見える。
メイドのパーシモンに促されて席に着く。食堂にはメイド二人と執事の他には誰もいない。食卓の反対側に父が座ると、いつもの光景となる。
「おはようございます、お嬢様」
「おはようガンギエイ」
「本日の予定をお知らせいたします。本日は九時半よりピアノのレッスン、休憩を挟んで十時半より家庭教師がまいります。正午より昼食ですが、グレタ様がお見えになりますので、ご一緒に」
「グレタってどのグレタ?」
「サイモン家のグレタ様です。ヘンリエッタ様のお祖母様の従兄の玄孫の嫁ぎ先で出来たお嬢様」
「つまり、私の従妹ね。ひいお婆様でもアナ叔母様の旦那さんの妹でもグレタ=ガルボでもなく」
「左様でございます」
「それはジョン叔父様とお祖母様の従兄の玄孫との間に出来た娘こと従妹、とどっちが説明として簡潔か、という話よね」
「おそれいります」
――そりゃあザンギエフののほうがいいわ。
急に時間が飛んだ気がする。目の前のグレタは相変わらず全身ころころとして悩みもなさそうだ。ジャムを挟んだビスケットを三つ四つ口に放り込むと、べたべたと食べにくそうにしている。
「ガンギエイね。ザンギエフじゃなくて」
「それにしても」グレタは話に飽きたように食堂の外に耳を澄ませる。
「あなたのお父様は天才ね。伯父様のレコードのお陰で屋根裏に鳩が卵を産まなくなったわ」
「そりゃああなたね、必要なときだけレコードの針を落とせばいいのなら気楽なものよ。こっちったら、何もしなくても聞こえてくる」
「そんなこと言わないであなた。今度の曲もすばらしいらしいと父様から聞いたわ。なんでも海軍が海賊どもに蓄音機で聴かせるんですって」
「そうすると、どうなるの?」なんだか変てこな曲を作るだけの父にうんざりしていたが、作られた曲がなぜそれほどまでに珍重されているのかというのは、ついぞ考えたことがなかった。
「私もよくは聞かなかったんだけど」さほど興味がなさそうにクレタは続ける。「なにしろ悪さをしなくなるらしいわ。きっと改心するのよ」
「あの曲で!?」
「もしくは、嵐を呼ぶとか」
「あの曲で!?」
「じゃあ、何もかもイヤになってみんなして海に飛び込むのかも」
「あ、それならわかる。海軍の人々も含めて」
しばらく二人でクスクスと笑う。食堂にガンギエイが入ってくる数秒の間「ドケツに塩を揉み込んでぇ」という一節が流れ込んできて、二人して黙り込む。
「でもいいなぁ、お国のために役に立つ仕事だもの。私もここの家に生まれればよかった」
「それは違うわ。ジョン叔父様だって素晴らしいお仕事をなさっているじゃない」
「私は嫌よ――そんなのわかりきったことじゃない! 知ってて言うんだから、ヘンリエッタ姉様の意地悪!」
グレタは手に持っていたジャムのビスケットを無理に口に押し込むと、食卓に突っ伏した。
「いえ、きっと素晴らしい仕事だわ。叔父様のお陰で、橋の掛からない崖でも荷物が運べて」
「だからといってね、だからといってちょっと考えてよヘンリエッタ姉様。自分の父親がオナラで空を飛び回るとか、耐えられないわ!」
「ほらほら、興奮しないで」
仕事を切り上げたらしいパパが食堂に入ってきた。
「グレタ御機嫌よう。ジョンは元気にしてるかね」
「ええ、おかげさまで鼻風邪一つなく」
「そいつは重畳――で、何をそんなに盛り上がっていたのかね、ふたりとも」
「その、ジョン叔父様の仕事のことで」
「おお、神様からいただいた才能を存分に使えているのだ。こんな幸福なことは他にないだろう」
「そうかもしれませんが、私には納得いきません」
グレタが金切り声になりかけるのを、パパは柔らかな笑みを浮かべて見ている。
「だがねグレタ、我々もこうして今はそこそこ裕福な暮らしを送れているが、あの屁っこき虫のジョンがいなければ、きっと我々兄弟は一生貧乏な豆屋のままだったろう。おそらく君もヘンリエッタも生まれていなかった。それに比べれば洗濯物が少々増えるくらい、瑣末なことだと思わんか。――そうだろう?」
「それでも、それでも私は――」
「いや、ちょっと待った」パパはグレタの声を制して動きを止めた。「来た。『洗濯物が少々増えるくらい瑣末なことだ――』来たぞ、きたきた! きた!」
泣きながら
ちぎった邪神王にー
まあまあと
洗わぬ洗濯物をかぶせちゃうー
後に「洗濯物で縛る。夜を」と名付けられたこの曲は家政婦協会が二十七万で買っていった。なんでも、アイロンの熱量をうまく制御できるようになるそうだ。
夕方からはパパと町に食事をしに出かけた。家から馬車で泥炭の野を走らせると、毎日夕方になると立ち込める霧の合間から、ぼつぼつと街の明かりが見え始める。私はこの風景が好きだった。合間の光は段々とひとつひとつが輪郭を持ってきて、町境の橋を渡る頃にはすっかり人々の賑わいが見渡せる。馬車は大通りを駅に向かって緩やかに走ると、一軒の大きな建物の前に停まる。まだ新しく清潔にしてあってガス照明の下で「猫と棍棒亭」の看板がぶら下がっているのが見える。
「おや、これは私の『ぶいやべーす甚句』だ」
店内には蓄音機からのものらしき落ち着いた管弦楽が流れているが、その奥で、たしかにごく小さい音量で男の唸る声が耳の底に届く。厨房からだろうか。
店のオーナーは丁重にもてなしてくれる。旦那さんのお陰で牡蠣が長持ちする、と礼を言われる。
「水揚げから実に五日経つけど誰も牡蠣に中らんのです。あの曲は実に神様の贈り物です実に」
生牡蠣にキャビアとレモンを添えたものが運ばれてくる。きっと体には大丈夫なものなのだろうが、未だに私にはどうしても美味しいと思えない。
「たしかに私の作った曲のなんらかの力で腐ってはいないようだが、とてもこの牡蠣は新鮮だとは思えない」
シャンパンはよく冷えていてとても美味しい。加えてアンチョビのパスタはいつでも美味しい。なぜならアンチョビだからだ。ここからクレームブリュレまでの流れを私はいつも楽しみにしている。
「ヘンリエッタ、お父さんの人生は当人のあずかり知らぬところで人の役に立ってしまう人生なのだが、決して真似をしてはいけない。本人のわからぬもの、きっと何処かで間違いを起こしているからだ」
その夜からしばらくパパは鬱々と過ごしていたが、結局私の息子、パパにとっての孫を見るまで曲を作り続けている。