Entry1
菠薐
サヌキマオ
目の前で土鍋が煮えている。こうしてビールを差し出すところは新婚家庭のようだが、場所はバイト先の乙坂ヱデン商会のレジ裏だし、携帯コンロは床に直置きだし、相手は店長である。もっといえば叔父である。レジカウンターの裏は三畳ほどの板の間なので暇な時は寝転がったりコンビニ弁当を食ったり出来るのだが、鍋というのは流石に初めての経験だ。
建物の二階にある店長の住居から持ってきた土鍋はいかにも時代がついている。「昔さ」店長はなんだかわからない肉の塊を箸で摘んで鍋に沈めている。
「『美味しんぼ』で、鼈屋さんで散々使った土鍋には鼈のエキスが染みているから、ただの米と水を炊くだけで美味しい鼈雑炊が出来る、というのをを見たことがあって」
「あ、これ、鼈なんだ。鼈って美味しいの?」
「食べてみればいいじゃん」店長は鍋の底をかき回すと、あらかじめ突っ込んであった、肉塊のよく煮えたやつを取り出してきた。
「鼈」私は取り皿に置かれた塊をしげしげと眺めた。確かによく見ると、亀のパーツだ。亀の前脚、で思い出すのはEテレか何かの番組で、池の中を必死に泳ぐ亀の様子だ。水の中を泳ぐのに、なんであんなに立派な爪をしているのだろう、と思った記憶と目の前の塊がリンクする。
「やめときます」
「え、だめか、鼈」
「鼈がだめというよりも、亀を食べるというのがちょっと」
「そうか。じゃあ、鶏だ。鶏を食べたまえ」店長は「これは坂の下の業務用スーパーで買った、百グラム五十八円の胸肉だから」と付け加えて鍋の底から肉の塊を引き出した。鼈の肉と違って輪郭がしっかりしているので信用してもいいだろう。
「しめじと水菜もあるし」
肉と一緒にずるずるとついてきた水菜や菠薐草を一緒にすすり込むと湯気で鼻水が出てくる。ただでさえ寒いのだ。高校には二時間目の途中から出て(移動教室だったのでずっと教室で寝ていた)、午後イチから体育だというのに雪が降って来たので面倒になって学校を出た。家に帰ると面倒なのは目に見えているので、予定にもないのにバイト先に来て現在に至る。夜まで客は一人も来なかった。雪は降り続けた。
「今日は独りでこの鼈をやっつける気だったんで、援軍がいて助かった」
「それはどうも。でも、アタシが食べないと踏んだからこそ『鼈だ』って云わなかったでしょ」
「まぁ、そうか。そうかも」店長は手づかみで菠薐草を鍋に押し込んだ。鍋が沸くまで、と鍋に蓋をする。
さっきの続きだけど、美味しんぼで観て「うちもやってみよう」って思うじゃん。で、自分の家の鍋でもさんざんやった鍋の味が出るんじゃないか、とか思うじゃん。そうしたら親が止めて。結局やらなかったけど。あれ、素焼きの鍋じゃなきゃだめなんだよね。家庭用の鍋だと鍋そのものには染み込まない――
鍋が開かないのでアタシは取り皿に残った鍋のつゆを飲んだ。詳しいことはともかく出汁はとてもおいしい。亀のスープだがおいしい。亀の残り湯だと思うことにする。
「この鼈はどこで手に入れてたんすか」
ああ、駅からの道に幼稚園、あるだろ。あそこの池に三十五年生きた鼈だ。
またそんな。
「ああ、少なくとも三十五年前には『生存が確認されていた』鼈だな。正確には」
そういう問題ではなくて。
「それをこの期に及んで、殺したんですか?」
「いや、死んだ、というから引き取ってきた――昨日連絡があったんだよ。園児たちには刺激が強すぎますから、あとでお墓だけ園庭の隅に作っておきます、って」
「いや、そういう話ではなくて」
「だって軽く百キロあるんだぜ? 朝の四時に行ってなんとか軽に積んで持ってきた」
だからどんどん食べないと、と店長が鍋の蓋を開ける。蓋を持ち上げるほど入っていた菠薐草がすっかり熱で縮んで、くつくつと煮えている。
「鼈本体がだめならスープといっしょ菠薐草をお上がりよ。菠薐草なら低カロリーだしワンサとある」
そういえばここ最近葉物野菜を食べていない。母親に買い物を頼まれて白菜を四分の一買って帰ると「この高いときに」と詰られた。
「あの」
「ん?」
「やっぱりなんでもないっす」
「いや、察した。この菠薐草にも何らかの曰く因縁があるのか、という話だろ?」
「……話だろ、ということは何かあるんすね?」
「いや、ないことにしたほうが食べやすいのであれば、ないことにしておいたほうがいい」
ううう。
「……少なくとも食べられる、ということを前提で」
「うん」
「なにかあるんなら聞いておきましょう」
「因縁も何も、そこの幼稚園が呉れたんだよ。引取料みたいなもんだ」
「へぇ」
「裏庭に結構な畑があってね、園児たちに色々植えさせてるんだよ」
「あ、じゃあこれは園児が育ててるやつですか」
「おかしいでしょ」
おかしいと思わない? と店長が言い直した。
「この冬の最中に、これだけの量の菠薐草をポンと呉れる」
「あ」
そういえば外は雪であった。
「園長の先代――私立だからね。園長の先代が今の園長のお母さんで、先々代が園長のお母さんの旦那さん、つまり、今の園長のお父さんだ」
「文字にするとややこしいけど、園長(男)がいなくなって、奥さんが継いで、娘が継いだってことっすね」
「そう。そのお父さんが死んだときに、奥さんであるところの先代園長が遺骨を畑に撒いた」
「は?」
「その結果、菠薐草はすくすくと育ち、それはそれは根本の真っ赤な菠薐草が育った」
「……これ?」
いや、違和感があるなぁとは思ってたんですよ? そうか、真っ赤なんだ、茎が。
「それから数十年、菠薐草は毎年毎年園児の家庭に惜しみなく配られている――事情を知っている家庭は断るところもあっただろうが、恐るべきことに、夏が来て冬になっても一向枯れる様子がない――と。ここまで説明すればいいか?」
急に口の中に残っていた植物の筋に舌を絡み捕られたような気がする。頬の下から湧き上がってくる不快感に味のする唾がこみ上げてくる。
「ただ、菠薐草の品質に関して言えば、当店の保証をもって安全であると言える――そもそも先代が幼稚園から相談を受けていなければ、そんな私立幼稚園とうちの間になんか関係が出来るわけ、ないでしょ?」
それもそう……そうなのか?
「だいたい動物というのはそういうもんだ。口に入れたものに少しでも不安があれば不味くなるし、欲も失せる。菠薐草だって、亡くなった園長が善意で菠薐草をすごくしていると思ったほうが功徳になろうってもんだよ」
どっかで折り合いをつけたほうが色々楽しめる、と店長は鼈の肉を追加で鍋に入れ始めた。
結局雪が止まなかったのでその日は店に泊まり、翌日は珍しく早朝から目が覚めたので学校に行く気になった。店から駅に向かう間に件の幼稚園がある。園の入り口では自転車で連れられてきた園児たちが三々五々活動を始めようとしているところだ。鼈がいたという池は見えないが、園舎の裏だろうか。
あんまり柵の向こうを凝視しているのも怪しまれるので駅に向かおうとすると「おはようございます」と声を掛けられた。雪かきのスコップを持ったおじさんだ。園の周りを掃除しているのだろう、用務服にコートを着たその姿はがっちりとしていて、背はアタシより低い。反射的に「はざーす」と返事をして立ち去ったが、背後から「昨晩はありがとうございました」と聞こえた気がする。ぎくりとして振り向いたが、あれだけの巨体が一瞬の間にすっかり消え失せていた。