Entry1
ハミルトンの鯨―急
サヌキマオ
親愛なるお嬢様
今やコオルリッジ夫人とお呼びしたほうがよろしいのでしょうか。それはそれぞれの地方における慣習に免じていただくとして、なによりもまずはご結婚おめでとうございます。また、結婚式にお呼びいただいたことを大変嬉しく思います。
この手紙を受け取れる日が来ようとは思ってもみませんでした。もちろん、お嬢様が素晴らしいご主人と出会えたことを思ってもみなかったのではなく、私をこのような晴れの場に呼んでいただけることをこの上ない僥倖と考えているのです。くれぐれも誤解なきようお願いいたします。
運命とは不思議なものです。話のついでに昔話をしてしまいますが、あの当時、ハミルトンの城が崩落した夜に、あなたが「鯨が来てどうなるか」を教えてくれなかったら、私達は今頃城の周辺を亡霊になってさまよっていたことでしょう。この件に関しては、聞いた私も多少の栄誉に預かれるのではないかと自負しています。鯨はこの地下牢に来て、みんなを楽にしてくれる――「楽になる」とは? 子供のいうことにそこまで問い詰めるのは厳しいと考えた私は、旦那様と奥様に手紙を出しました。
旦那様と奥様は、決してお嬢様のことないがしろにして働いていたわけではありません。城から運ばれていく品物のうち、半分はロンドンに向かっていました――ええ、ご存知のとおり、旦那様は城を棄てて市街に移り住もうとしていたわけです。
どこから来た石だろう。知らない土の匂いがする。
四百九十五年の命を終えたハミルトン城の跡地に――といっても、城のあった場所は単なる崖になってしまったのでその近所に、城跡を示す碑が設けられた。こうなってしまうと城も住んでいた人も繋がれていた人も過去のものとなる。
マアサもセルバンデスの親父もすっかり見かけなくなった。相変わらず亡霊である俺も俺とて、あたらしい碑の座り心地を試す以外にはただぼうっとしていた。だが、今日はなんだか晴れやかな気分だ。天気のいいのが体に沁みるような、このまま青空と一緒になって消えて無くなりそうな……いや、違う。
夜明けから、十年ぶりの顔を見た。新しい情報が少ないから、過去のことはよく覚えている。農夫娘の格好で足元を泥だらけにしているが、こいつは間違いなくかつてあった城で働いていたメイド、柿だ。柿はシャベルと逆の手に持っていた薄汚れた金属を――なんだろう? 碑の前に置いた。柿は石碑の前でしばらく佇んでいたが、思い出したように肩にかけていたカバンから煙草を一本出して火を付けた。東風が吹いた。俺のよく知っている匂いだった。
全て合点がいった。
(はははは)
これほど俺の声が相手に聞こえればいいと思ったことはない。
(シャロンか)
俺の娘は一服だけ吸った煙草を踏みにじると、おもむろに穴を掘り始めた。娘が穴を掘っている間、俺は地面に転がった腕輪をまじまじと、いや、見なくても判る。娘の母親が働いていた店で買ったやつだ。どうしても彼女に気に入ってもらいたくて、一番高いやつを買ったんだった。
(そうか)
俺は手で自分の顔を撫で回してみる。すっかり忘れていたが、眼の前の落ち窪んだ目や頬、薄い唇はまさに俺の顔じゃないか。
こいつ、いくつになったんだろう。少なくとも、俺が死んだ年よりはずっと生きている気がする。シャロンは掘った穴に腕輪を埋めると、しばらく両の手を組んで祈っていた。この祈りは誰への祈りだろう。神様だろうか。それとも、俺にだろうか。祈ってくれなくても、俺はお前が生きていたというだけで十分なのに。今どんな格好をしていて、どんなことをしているかが判っただけでも御の字なのに。シャロンよ。お前はそうか。どうにかして俺の死体を助けようとして城にいたんだな。
しかしいい天気だ。どうにかして娘に俺の存在を知らせたいと思った。どうしたらいいだろう。腕輪はまた俺の腕に戻ってくれるだろうか。俺は土に潜って腕に腕輪を充てがってみる。うまくいかなかった。どうしたらいいだろう。とても焦っていた。自分でも判るくらいに、かつてあったところに心臓の記憶だけが激しく律動している。そうだ、これだけ心が震えているのだから、きっと届くに違いない――最後に娘のことを抱き寄せたのはいつだったかな。
俺の腕に背後から抱きかかえられた娘ははっと筋肉をこわばらせた。顔なんか見えなかったけど、泣いているのなんてすぐに判る。娘だもの。
親愛なるシャロン"柿"ホーキンス 様
返信を、しかもこんなに早くいただけるなんて! 夢かと思いました。しかも貴女、シャロンというのが本当の名前なんですね! 父や母がどうして貴女の本当の名前を教えてくださらなかったのかはわかりませんが、でも、本当の名前を知れたのは何よりです。今後会ったら是非シャロンと呼ばせてください。
あれから。昔だったら「どれからですか」と突っ込まれてしまうところでしょうが、城から逃げた成り行きでハンバーズ・ショアーの街でしばらく過ごして、私は独りポットウォールの寄宿学校に住まうようになったのはご存知のとおりです。あれからこの方、あの「鯨」はたびたび私の夢に出てきては世界中のあちこちに連れて行ってくれるようになりました。腰の高さほどのクローバーが生い茂る野原の上、いろいろな高さの塔が延々と立ち並ぶどこかの商都。遥か空から直接滝が降り注ぐ湖畔。中でも頻繁に訪れるのはずっと霧や雨に包まれた崖沿いの街で、私はシャロン、やはりパーシモンと呼んだほうがしっくり来ます――柿と私でカフェにいて、チーズ付きパンとアイスクリームを食べている。もう私達は従者と主人ではなくて、姉妹のようで。とても幸せな夢を見ることが出来ていました――この話がどこに着地するのか、読んでいる貴女も困惑されていることかと思いますが、もう少し読んでください。つまりは、私が寄宿舎で知り合いを、友達を増やすたびに鯨と遊びに行くことはなくなっていったということを報告したかったのです。私の夫となるジョン・コオルリッジは私の同室の親友、オリビエのお兄様です。私とオリビエは周りからも本当の双子の姉妹みたいだと言われていましたし、私達もお互い、ずっと一緒に暮らしたいと思っていました。そして、そう、鯨です。あれが最後の、最後の鯨だったのですが、私がクジラに乗って南洋の海に出かけていると、とてつもない大雨がありました。誰がどう考えても危険でしたので(夢なのに!)私は鯨の口の中に避難させてもらうことにしました。すると、先客に男の人がいたのです。信じられますか? それがまさか、親友のオリビアのお兄様だったなんて!
娘の肩越しに読んだ手紙の長いこと長いこと。それよりも娘だ。お前、今はどうやって生きてるんだ。俺はこうしてこの辺をうろつくしかないのだが、もしかして、俺がいるということをわかった上で、こんなところで手紙を広げだしたのかな。そうだとしたら大したものだけれど。
「お父さん」
いきなり呼びかけられて肝をつぶした。お前まさか、ホン――
「聞こえておいででないかも知れませんが、一応申し上げます。もうここには着ません。私はお嬢様の結婚式が済んだらアメリカに渡ります。鯨の最後の伝言で――鯨が無事に渡してくれる、と、お嬢様がおっしゃるので。では」
シャロンの後ろ姿を見送りながら「鯨が言うんじゃしょうがない」と思う。