Entry1
波濤館
サヌキマオ
渋滞を回避しようとあちこち走り回っているうちによくわからないことになっていた。駅前のロータリーから続く道は海に向かって急な下りで、崖に至ると五差路になっていた。左右の山中からの道三つを、港から崖沿いに続く道が受け止めているかたちだ。カーナビによると、崖に沿って峠を走ればゆくゆくは高速道路に至るらしいが、五差路ゆえに車が集中する。とうとう捕まってしまった。
それで結局、高速道に向かう道と同じ方向の山道を取った。なにしろ唯一道が空いていたし、稜線に沿って走っていけばいずれ崖沿いの道とも交差するだろう、という一瞬の判断があったからだ。しかしながら、そもそも車の通りが少ないということはその先に何もないということだし、裏道としても使えないのだと気づくのは、またあとの話だ。
道は緩い蛇行を描きながら続いた。右手には水平線が続く。曇り空のあちこちの切れ間から日が射しているのがわかる。トンネルをふたつほど抜けるとようやく道が下りはじめた。ずいぶん海に近いところまで降りてきてしまった。消波ブロックがずいぶん巨きく見える。
内心焦っていたのだが、もうガソリンがないのだった。
方向は間違っていなかった。しかし、いわゆる通行の途でないのは明らかだった。ガソリンスタンドの表示が近辺に一つあるが、曲がりくねった道を、どのくらいかかるかわからない。
道路の行き止まりにあった建物は古いホテルに見えた。「波濤館」と表札だけは立派でリゾート開発に失敗して打ち捨てられたように見える。
地元の人にガソリンをわけてもらうのが最適解だと思った。建物はどんよりと朽ちていたが、窓から明かりは見える。建物の脇にマイクロバスが一台停まっている。
車を停める音を不審に思ったのであろう、二人の女の子が手をつないで出てきた。一月だというのに同じ白いワンピースを来ている。
なんだなんだ。そう、口が動いている。こちらを遠巻きに見ているので、ガソリンを貸してほしい旨を声を張って伝える。ガソリンだって、と髪の短いほうが云った。ワンピースを着ているから女の子だと思うが、短髪の、眉のキリリとした子だ。どうしよう、ともうひとりの栗毛の子が云った。先生、出てったばっかじゃん。
電話しようか、と短髪の子が続けた。いや、そもそも、と栗毛の子がいいだしたが、あんまり当事者の目の前でひそひそ話もなんだと思ったのか、少々お待ち下さいね、と言い直して二人は走って建物に引っ込んでいった。
女の子たちは、自分たちは「エンゲキブ」だと語った。エンゲキブ? あの、学校の部活の? ええ、まぁ。学校なの? ええ、まぁ。
どうもイメージの像が頭の中で結びつかなかった。公演をするの? あ、しますします。みんなで行きます。
招かれた建物の入口は、やはりホテルのロビーとして使われていたものだろう。革のソファーが並べられている。「部長」と呼ばれる小太りの眼鏡の子が応対してくれる。さっきの短髪の子が奥からペットボトルのお茶とコップを持ってくる。ロビーには他にも十人くらいの女の子がいて、こちらの様子をずっと凝視したり、各々スマホをいじったりしている。
すみませんね、おとなは今買い出しに行ってて。部長が申し訳無さそうにする。いま連絡を取っていますから、そうしたら、ガソリンもなんとかなると思いますので。
すぐに戻ってくるって、と先程の栗毛の子が部屋に入ってきた。まぁしばらくですのでゆっくりしていってください。そう云われたものの、同じような白いワンピースの子がぞろぞろといて、異様な雰囲気だと思う。ここでみんなで住んでいるの? ええ、まぁ。お父さんお母さんは? ええ、まぁ、います。
急に風が吹く。奥の戸が開いたのだ。続けて朗々とした歌声がしてびっくりする。ロビーの奥、縄のれんのかかった入り口から魚のいっぱい入ったバケツを提げた女の子が歌いながら入ってきた。キンキンとした大漁節だ。髪を後ろにまとめた女の子はこちらを認めると、うわお客さんがいるならいるっていってよ恥ずかしい、と小走りにカウンターのわきの扉に向かおうとする。釣れたぁ? 部長が声をかけると、ぼちぼちだけど一人一匹には足りないかもね、まぁまた行くわ、と返事がある。釣りができるんだ? と聞くと、短髪の子が自慢げに、裏口からそのまま釣りができるんですよと教えてくれた。自給自足? いや、買うものは買いますけど、本当に暇つぶしというか。
エンゲキブということは、演劇をどこかに見せに行くわけだよね。そうです。外のマイクロバスがありますでしょ、あれに何もかも詰め込んで、役者も道具も詰め込んで旅に出るんです――あ、そうだ。部長に名案が浮かんだようだ。あの、バスのガソリンをお分けしたらいいと思います。え、できるの?
できるもなにも、と部長は立ち上がった。なんでもやらないと、やっていけないんです――とはいうものの、押し留めた。車から車にガソリンを移動する「安全な」方法が見つからなかったからだ。少女たちの提案した方法は、普段灯油ストーブで使っているポンプでバスからガソリンをバケツに移して、バケツから車に移そうというものだった。いつも顧問はそうやっていますから、と部長は言うが、どうも不安な気配がした。顧問? あ、先生です。エンゲキブの顧問。それはさておき、ガソリンの移動に使った灯油ポンプを、また灯油をストーブに使って大丈夫なのだろうか。後の部屋中にガソリンの燃える匂いが蔓延することは想像に難くなかった。
じゃあ、と部長が言いかけたところで、あ、帰ってきた! と外から声があがる。この建物まで降りてくるときに使った道路を、灰色のミニバンがゆっくりと降りてくる。
ミニバンから降りてきたのはワンピースの上からダウンジャケットに着込んだ少女二人と、運転手をしていた背の高い女性だった。ジーンズに革ジャンという出で立ちで、腰までありそうな髪の毛を後ろに結わえている。そこの三人は中に荷物を運んどいて。声は、明らかに男のものだった。手短に指示を出した男はこちらに視線を合わせると、これはお困りでしょう、とニヤッと笑った。
話といえばそれっきりである。「先生」と呼ばれた男は車のガソリンを買ってきてくれていた。タンクからの給油も慣れたもので、特に長居する理由もなかったのでカーナビを頼りに帰路についた。あの「エンゲキブ」はなんだったのだろう。帰って一服してからそれとなく検索してみたが、世の中に「演劇部」というのは数限りなくあるというのがよくわかった。ストリートビューにも、例のあの五差路のところからの撮影がない。どこをどう通ったものか、航空写真に――ある。確かにあの建物のような気がする。しかし、こういった建物も、その横に停められた車も、こういう僻地には山ほどあった。
ここでもう一度あの場所に向かおうとしてもいいのかもしれないが、実はそれほどの興味はわかなくなっていた。ただ一様に同じ白いワンピースを来た十数人のエンゲキブ達と、そこで「先生」と呼ばれる美女のような男。なにか確たる痕跡を残していないか。ああそういえば……
というものも、なかった。ただ、高速道路に乗ってから最初のサービスエリアで食べたラーメンの食券があった。あったからといって、それ以上は辿れない記憶だけが、忽然と脳裏の隅に置かれ続けた。