このところウルソンは、憂鬱な心に鶏の世話をも怠るようになっていた。こまめに世話をしていたあの鶏たちに全く目も呉れず、心を動かすこともなかった。餌はおろか、庭先をうろつく姿を見れば棒を拾って掉り上げるようになった。片づけられない鶏小屋の中は汚れている。
二羽を売ると、一か月の授業料になる。小屋の中の鶏がだんだんと減っていくのはさほど切ない事ではなかった。むしろ然るべき時に持ち去られる運命を辿れず、ひと月後の殞命を免れて小屋の中をうろつき回る二羽の姿が目障りだった。学校へ行かない、そのひと月分の授業料が延ばされたということだ。
その二羽の中でも醜い一羽の雄鶏――最もみすぼらしい姿だった。不格好なうえ、隣の鶏と戦えばその都度負けた。噛み付かれた
鶏冠には、いつ見ても血が新しく流れていた。瞼は厚ぼったく垂れ、片方の脚を引き摺る。肩の羽が不揃いで、尻尾さえ短かった。ある時は、雌鶏にさえ追われた。雄としての役目を果たせぬ雄鶏は、見るからに哀れなものだったが、最近に至っては哀れを越えて目にしたくもなかった。その上ひと月の命脈を、小屋の中でさらに得たことがウルソンには憎らしく、醜く見えるばかりだった。
学校に行けない心が、とても息苦しかった。
林檎を取って楽園を追われて泣くのは伝説だが、学園を追われて泣くのは現実だ。
農場の林檎は禁断の果実だった。
ウルソン達は、その律則を破ったのだ。
仲間の誘いに陥ちたというより、ウルソン自身が林檎の誘惑に負けたのだ。林檎は贅沢な欲望ではない。必要な食欲だった。
当番は五人であった。蚕をみな上げたあと、別にやるべき仕事もなく暇であったのが問題を起こす始まりだったのかも知れない。雑談で深夜十二時になるまで待って、一斉に部屋を出て行くと闇の中に身を隠し、果樹園の金網を越えた。
食い残しを
竈の焚き口に入れるまでは全く良かったのであるが、最後の一つを部屋の隅の桑の葉の中に大事にしまっておいたのが失策だった。
翌日朝、果樹園の中の足跡が問題になった時、偶然にもその桑の葉の中の一個が発見された。
捜索の道筋は明らかであった。昨夜の五人の当番が、順番に班担任の前へ呼ばれることとなった。
堅く口約を交わしておいても、いつだって同じく、何処からか巧みに崩れていく。弱い一人の同志の口からとうとう事実が吐かれたようだ。一人ずつ繰り返し呼び出されて行った。
二度目の呼び出しが始まった時、ウルソンはおかしな所に居た。
身体が辛くて入ったのではなく、しばしの面倒な時間を避けようと、わざわざ其処を選んだのだった。
一人が入って辛うじてしゃがみ、坐るばかりの四角いその狭い空間――窮屈ではあるけれど、最も気楽な場所も其処だった。其処に坐れば、まるで海の中に沈んでいるのと同じように、身体がずいぶん軽くなるからだ。
外の運動場では、仲間らのしゃべる声、笑い声、走る音に混じって、ボールの転がる軽い音が絶えず聞こえて来て、身体はその楽しい音に乗って浮かび上がるようだった。
ウルソンは、現在取調べを受けている当番の同志らのこと、自分の状況さえも忘れ、悠々とポケットの内から煙草を一本拾って火を点けた。実際、すなわち煙草も林檎と同じく禁断のものであったが、律則を破る事は人類の祖先が与えた美しい功徳だ。しかも、其処で一服吸うのは無上の歓びだとウルソンは思うのだった。
これも其処の特異な風俗として、壁には服を着ない時の男女の原始的な姿態が幼稚な筆致で落書きされている。簡単な下手な絵ながら、それは一種の歓びだった。
ウルソンも分からない誘惑を受けてポケットの中から鈍い鉛筆を探し出し、香ばしい煙を長く吹きながら、想像を傾けて絵を描き始めた。
林檎を食べたうえ、煙草を吸って、落書きをして――違反を重ねるあいだに、ウルソンはふっと学校は嫌だという思いを浮かべた――例えば学校で林檎を盗んだ子に尋問した教師は、いったん家に帰った時、隣の家の畑の林檎を盗んだ幼い息子にはどんな方法で処罰するのだろう、また彼自身が林檎を盗んだ少年時代を思い出すとき、どんな感想と反省ができるのだろう。またあるいは学校で節制の美徳を教える教師自身が不義の情欲に陥ったとき、その境遇をどう説明するのが正しいだろう――まるで十戒を説教する牧師自身が姦淫の罪に苦しむにも似たその場合を。
我が身で思えば、特殊な科学と技術を習ったって、そいつを利用する自分の農地さえもない状況ではないか。
みすぼらしい、落ちこぼれ。ちっぽけな報酬のためにこの屈辱を受けているより、いっそ狭い窮屈な束縛を抜け出して、どこへでも広い世の中へ走りたい。
ウルソンの空想は手綱を離した馬のように、止まるところを知らなかった。
長い時間を過ごしたようだ。
下校の鐘の音が煩わしく鳴った。
翌日、父親は一張羅の服を着て、学校へと呼ばれて行った。
無期停学の処分だった。
父親は呆気にとられたようだった――わが子に鞭打つ事もできなかったので。
ウルソンは家の鶏を全部叩き売って逃げ出したい気持ちを火のように起こしたが、それも叶わず手ぶらで家を出た。
隣村をさまよい、三日ぶりに再び家に戻ってきた。
畑仕事も疎かに、数日は白痴のように過ごすほか無かった。
小屋の中の鶏たちが目に見えた。中でも醜い雄鶏の姿は一段とみすぼらしい。
辛味噌に飯を混ぜて食わせたって、隣の鶏に負けてしまう哀れな身上は、見るからに不憫だった。
無様な雄鶏、俺の姿じゃないか――ウルソンに怒りが湧いた。
忙しくないのなら、ポンニョとは何度も会う事ができる身ではあったが、気まずい心から逆に躊躇された。
確かにポンニョは、ウルソンの処分を良くは思っていない表情だった。
ポンニョはしっかりした女性だった。半年間の原蚕種製造所の研修生講習を終えたところで、来春からは村の蚕業指導生として出る身であった。放っておけば怠けがちなウルソンに勉強を勧め、鞭打ってくれるポンニョだった。学校を修了したら二人で稼ごうという約束だったが、ウルソンの今度の失敗がポンニョを失望させたのは確実だった。無能な男――ポンニョにこれほど意味のないものは無かった。
ある夜ポンニョを訪ねた時、ウルソンは全てをはっきり知った。
出てきたのはポンニョではなく母親だった。
「これからは互いに出入りも絶えるかと思うと、寂しい事この上ないね」
訳がわからず突っ立っていると、ポンニョの母親は話を継いだ。
「なんとか良い人を一人さがしてみたよ」
千斤に等しい銑鉄が背筋へ打ち落とされた。
「組合に落ち着いた人が居るというから、もう掘り下げずに決めてしまった」
ポンニョに尋ねようとも考えず、ウルソンはふらふらと走り出た。
(ポンニョの意思だろうか、母親の仕業であろうか)
水も欲しくなかった。
目の前は暗く、天地が崩れるようだった。
幾日の間は、目に何も映らなかった。
虚ろなイガ栗のような現実。
ひと月が過ぎても学校からは復校の通知もない。
夕刻であった。
鶏が小屋の中に入ってそれぞれの寝床を占めた時、村に行った雄鶏がゆらゆらと帰って来た。
また戦ったようだった。
裂けた鶏冠には血が生々しく、ねじれた肩の羽が逆立って伸びている。
足を引き摺るのはいつものままだが、歩いて来る方向が定まらない。よく見ると目が片方潰れているのだった。閉じた目から血が流れて羽毛を染めた。
残酷な姿だった。
痛ましい気持ちはたちまち憎しみの感情に変わった。ウルソンに火の怒りがカッと湧き上がった。
(そんなザマで生きてて何になる)
殺気を帯びた手がぶるりと震えた。手に触れた何かを、鶏に投げた。
運悪くも命中し、瞬間、脚を伸ばしてもがく姿から、ウルソンは目を背けてしまった。
絶えては継がれる哀れな悲鳴が、ウルソンの五臓を揺さぶるようだった。