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エントリ1 ウーティスさん
(本作品は掲載を終了しました)
エントリ2 汽水圏 アレシア・モード
南方の地、赤道近く、幅広い河口の畔。水辺に茂るマングローブの木々の足元、鈍く濁った灰色の泥の中に、一人の若い兵士の体が横たわっていた。
陽は傾き始めている。
彼の右半身は泥に沈んでいた。潮と泥の匂いが混じる汽水に半ば沈んだ顔の、左眼の視界には、撃墜された戦闘機の破片、飛び散らばった軍装がぼやけた霧の島々のように映る。右の視界は闇だった。動かぬ彼の右肩はすでに泥の中で冷たくなり始めていたが、左肩にはまだ辛くも、陽射しの温もりがあった。樹木の狭間より僅かに射してくる陽光が、彼の左肩を照らしていた。だがそれも、陽の傾くにつれ弱まっていく。彼は、概ね死んでいた。
孤独の静寂の中、彼の意識の写幕にはただ薄ぼんやりと、異郷の光景が、幻灯のように映っているだけだ。故郷から遠く離れて数千キロ、彼が命を懸けた戦場は、今は静寂に包まれて、奇妙な鳥の声の時折響くばかりとなっていた。
やがて彼方から冷ややかな風が吹き始める。ゆるやかに流れる河の水面がさわさわ波立ち、静かに満ちてくる潮に戦闘機の折れた翼は影を長く落とし、軋んだ音を立てて僅かに揺れた。前線の空に、黄昏が来る。兵士もまた、次第に暗くなりつつある視界の中で、その末期を迎え、意識の幕を閉じようとしていた。
彼方から、動かぬ彼の身体に何かが近づいてきたのはその時だった。
(……ダレ、ダ……)
反射的に、兵士の意識が動く。
(……テキ、カ……)
薄れた意識が激しく揺らぎ続ける。小さな影は微かな音を立てながら、泥の上を近づいていた。細い脚の影を落として。兵士の意識は波立ち続ける。
(……ミカタ、カ……)
敵か、味方か。それは今日まで彼に与えられていた絶対の選択肢だった。彼はこの戦いの前線で、この選択に従う時のみ、その存在を認め得た。そして終極の結果として、生と死が目の前に置かれていたのだ。
生か、死か。
二者択一、その選択が世界の全てを明快に帰結させる。彼はそう教えられて今日までそうして生きてきた。いま彼の思考はほぼ停まっていたが、ただ彼の意識に僅かにこびり付いた声が、今なお残響となって彼に叫び、命じ続けていた。二者択一を選択せよと。
彼の瞳の中の、その僅かな意識の揺らぎを確かめるように、小さな影は静かに兵士の眼前へと近づいて行った。
(……テキ、カ……、ミカタ……カ……)
(……テキ……ミカタ……)
『うーむ♪ 大したものだね、人間というのは』
小さな影の本体は、細く角張った八本の脚と、大きな鋏を愉快気に振り回して兵士に語りかけた。それはマングローブの河畔に住む小蟹の一匹だった。
『敵か味方か、この期に及んでその発想、それがお前の本能なのか?』
もう一体の小蟹の影が、するすると兵士に近づいていた。
『言っちゃ悪いとは思うけど。二者択一が真実なんてそりゃ単純なインチキさ。分かり易けりゃ正しい気がする、それはお前が阿呆だからさ』
『人間というのは、分かり易くて楽な便利を好むものらしいよ♪』
『便利って?』
『だから阿呆でも分かるって事だろう』
さらに影は増えて行った。小さな影は、めいめい好き放題な批評を語りつつ、泥の上を三々五々と、兵士の体に寄り集まるのだった。
『でも便利によって阿呆が底上げされたんで、それで人間は発展したとも聞く』
『?底上げ?上げ底? その下はただ空っぽじゃないの?』
『いやいや、そこにはね――他の阿呆が、阿呆になって頑張った分が詰まってるのさ☆』
『はうっ。そうなのか?』
影たちは鋏をかつんと打ち鳴らした。
『えっと――阿呆が互いに頑張って、互いの便利となって支え高めていくというのかな。面白い構造だ』
『なかなか良いのかも』
蟹たちは勝手な解釈に喜びながら、皆で鋏をかつん、かつんと打ち鳴らし続けた。一通り打ち続けて、ふっと動きを止めた。
『――で、お前は』
蟹たちは、兵士の顔に順々に鋏を突き出して尋ねた。
『お前は一体、誰の何を支えるため、ここに来て頑張っていたのだ』
蟹たちは黙って兵士の顔を眺め続ける。吹いてきた風が兵士の頬を撫で、刈上げたうなじの短い毛を僅かに震わせた。彼の瞳の奥底には、まだ微かな残り火が覗けた、ようにも思われた。だが彼からの反応は、もうそれ以上何も現れる事はなかった。
『人として、言いたい事は無いのか?』
蟹たちはしばらくそのまま彼の瞳を覗き込んでいたが、やがて頷くように、鋏を静かに泥へと下ろし、目を伏せた。
『少しはしゃぎ過ぎたね――悪い事をした』
『――ああ』
『我々にとっても残念だった』
『ああ。しかしいずれにせよ――彼は救われる』
『そうだね』
大気の色が変わり始める。蟹たちに射す陽光もすでに色を帯びつつあった。
『――そろそろ、お喋りを終えるときが来たようだ』
『始めよう』
蟹たちは兵士の顔の前を離れる。長く伸びた無言の影が、何度も何度も彼の眼前を横切り、蟹たちは円陣を組むように彼の体を大きく囲んで暫く待った。
やがて一匹が、言葉の封を解く。
『――人間よ』
風が再び静かになる。
『空より降ってきた人間よ。お前が――最期に、ここに辿り着けた事は――お前にとっての僥倖である。
我々の、そして総てにとっての――僥倖である』
太陽は、水平線に迫っていた。
空の色は次第に濃くなり、雲を染め、泥を染め、河畔を染めて、彼方の海まで一様に、黄金の色へと染めていく。
『今ここ、お前の横たわる、この場所――陸でなく、河でなく、海でなく。
――そして昼でなく、夜でない――今ここ、この時――ここにお前の知っていた、
世界すべてに刻まれ続けた境界は――みな融け合って沈み込む――そしてお前も一つとなる』
兵士の体に鋏を伸ばしながら、蟹たちは呟いた。
『最も美しく、最も豊穣な――この黄金の場所、黄金の時』
服の裂け目から、彼の左胸へと鋏が侵入する。冷たく堅く、そして温かな鋏の爪が。
『――総ての境界なる、この時この場所に――いま総ての境界は融け落ちて――ここに総ての可能性は成立する。
それらをお前に――総て与えよう』
(お前は、ここに死んで、生きなさい)
蟹たちはちぎり取った兵士の肉片を、ゆっくり口元へ運び、咀嚼した。
いつしか光と陰は止まる。風も止まる。音も止まる。
半ば没した南洋の陽が、マングローブの河畔の大気を、水を、世界を一つの偉大な色の大域へと融かし尽くしていく。言葉も意識も、何もかもを失い、何もかもの無くなった存在の中で、兵士は自分のその真実の形を知り始める。
彼は分割されていく。海と河、昼と夜、生と死、すべての境界が融け合う泥の中で、いま彼は、この満ち足りたトータルへ、なお無限へと、無限へと、静かに分割され、無となり、そして全となる。
拡がり散る無数のベクトル。希薄にして絶対の存在。それが生まれて以来の、すべての目的であったかのように。
無限の粒子となった彼の意識に、永遠の夕陽の粒は再び輝き始め、緩やかに散っていった。
マングローブの河畔を、やがて夕闇が包んでいく。誰も見ず、誰に語られる事もない、ただいつもの通り、いつもと同じく太古より繰り返され続けた日没だった。
若い兵士の亡骸は、やがていつか誰かに見つけられるかもしれない。元の形をすっかり崩し、泥に沈んだ彼の姿は、悲しく痛ましい最期と人に言わしめるだろうか。それはその通りかもしれないが、そうでもなかったかもしれない。そう思いたい。
エントリ3 英雄の足下で ごんぱち
「グイツ市長国、と、言ったか、ユーリ?」
ボマー・フェイトは、ロシャ国制式人型戦闘機――通称:ヨソユキ――『ボーカーII』のコックピット内で、インターフェイスのユーリに聞き返す。
ボマーは二〇代後半の男で、一見したところ細身の学生のようだが、四肢の筋肉はパイロットスーツにはっきりと浮かび上がっている。単純に鍛え上げたというだけではない、人為的な意図の加わった肉体をしている。
「はい、ボマー。あの『方天画戟』を保有しています」
三面ディスプレイの右面の片隅に、疑似人格の仮想ボディが表示された。二〇代前半の女性の姿をしており、長い黒髪と整った切れ長の目をしている。
「大陸の向こう側じゃないか」
「間違いはありませんよ」
「……移動は任せる」
ボマーはシートに座ったまま、あっという間に寝息を立て始める。
「よくこんな拘束具みたいなシートで眠れますね」
ユーリは苦笑して、ボーカーIIを動かし始める。
周囲に散らばる戦闘車両の残骸と、立ち昇る煙は、すぐにブリザードに隠れて見えなくなった。
「……『方天画戟』もろとも無放射能核で吹き飛ばす、か」
合流してからのブリーフィング後、ボマーは作戦書を見ながら呟く。
「ジェノサイドは、気が進みませんか?」
「俺なら」
ボマーは、フットペダルを一気に踏み込む。ボーカーIIは猛然と走り始める。
「ボマー! 止まれ!」
隊長のカルキが怒鳴る。
「命令違反だ! ユーリ、強制割込、コード〇九三〇!」
ボマー機は走り続ける。
「止まれユーリ! 何故止まらない!?」
「――こいつは本来、アラフスク国軍の鹵獲機だ」
通信の発信をオフにして、ボマーが呟く。
「命令の優先順位はアラフスク市民の方が上だ」
ボマーはグイツ市国防衛ラインを超える。
哨戒用の小型監視器が反応し、格納庫からヨソユキが続々と現れる。
「援護する、砲弾を通常弾に換装!」
カルキが怒鳴る。
ボマー機は、二機編成で斬りかかるヨソユキのすぐ脇を、限界まで姿勢を低くして走り抜ける。
追おうとするが、直線移動するボマーに追い付く事は出来ない。
続くヨソユキが両脇からアサルトライフルを発砲しつつ突進して来る。
ボマー機は、攻撃をせず、ただ全力で走り続ける。足運びは絶妙で、通常のボーカーIIの二割り増しで速い。
次々に現れるヨソユキをいなしながら、防衛線を越えるなり、建物に向かって発砲する。
無数の一〇ミリ弾が、コンクリートの家を崩す。
「増援一、早いです!」
ユーリが叫ぶ。
側面からボマー機と同じくらいのスピードで突進して来るヨソユキが見えた。
鎧武者をイメージした、鮮やかな緋色のボディ。手には柄の長い戟を構え、腰には刀を提げている。
「方天画戟です!」
「見れば分かる!」
ファインスティール製の戟の切っ先が、ボマー機の前面装甲を切り裂く。
ボマー機は思い切り飛び退き、間合いを取る。
「痛いっ、痛っ!」
「ユーリ、背面警戒任せる!」
「はひー」
方天画戟の戟が、急激に向きを変えて振り下ろされる。
的確な踏み込みと鋭い振りは、当たれば即座に粉砕されそうな勢いがある。
ボマー機は、大きく後ろへ下がり、発砲しようとする。
だが、方天画戟は鋭く踏み込み間合いを詰め、再び戟で斬りかかる。ボマー機がかわしつつ発砲した弾は、地面を抉り土を散らす。
「長柄ですから、間合いに飛び込めば!」
「その前に真っ二つだっ!」
方天画戟の戟は鋭く、刃の壁のようにボマー機を近寄らせない。振り終わりを狙おうとしても、戟の柄の石突きに食い止められる。発砲をしようとすれば、その隙を衝かれ態勢を崩され、狙いを乱される。
そうするうちに、装甲を細かく削られていく。
完全に方天画戟のペースだった。
「痛っ、痛いっ、ダメージが蓄積してます、このままじゃやられちゃいますよ!」
「――よし、大体、だな」
ボマー機は、引き金から指を外す。銃剣術の槍としての使い方に特化した持ち方。
「ユーリ、戦闘記録から軌跡解析、微調整は任せる!」
怒鳴るなり、ボマーはアサルトライフルを突き出す。
方天画戟の戟が、これを払い除けようと振られる。
方天画戟の切っ先は。
アサルトライフルの銃口に引っかかった。
ほんの一瞬だけ、戟の軌跡が乱れる。
ボマー機はアサルトライフルを放棄し方天画戟に組み付く。そして、方天画戟の腰から刀を引き抜き、腰関節の継ぎ目に切っ先を突き立てる。
伝達系の回線を切断され、糸の切れた操り人形のように、方天画戟は動きを止めた。
「……こんなに脆いなんて」
「方天画戟は伝説級だが一点ものだ。点検もし切れないし、耐久性はどうしても落ちるものだ」
ボマーは辺りを見回す。
カルキ達が既に突入しており、他のヨソユキとの戦闘が始まっていた。
「こっちへ視線下さい!」
カメラマンに言われるままに、会見席のボマーは顔を向ける。
ボマーの胸には、金のツルハシを摸した勲章がかかっている。
「和国連合最強の方天画戟、それが残っていた事も驚きですが」
隣りに座る司令官が、笑顔で語る。
「それを打ち破り、しかも鹵獲出来た事が何より素晴らしい」
ボマーは穏やかな笑みを浮かべ黙っている。
「伝説的ヨソユキから得られる技術は大きく、これにより我が国のヨソユキは、飛躍的な進歩を遂げるでしょう」
「チェルネンコ司令官!」
記者の一人が挙手する。
「今回のグイツ市国攻略において、多数の損害が出たと信頼できる筋から聞いていますが、ヨソユキ戦以外の解決法は想定しなかったのですか?」
「……うむ」
司令官は記者を見る。
記者は意味ありげな含み笑いを浮かべている。何らかの情報を掴んでいる事を示唆しているようだった。
「確かに、戦略砲撃による解決が立案もされました。しかしながら、ボマー・フェイト上級曹長――今は准尉ですな――の、正義を愛する心によって、そのような無差別攻撃は行うべきではないと――」
目隠しをされたカルキの後ろに、刀を持った執行人が立つ。
「死んぢまえ!」
「人殺し!」
「悪党!」
見物に詰めかけた群衆が、フェンス越しに怒鳴る。
時折、石やゴミが投げられるが、距離があり届かない。
処刑場内に入ったカメラマン達は、群衆とカルキ、両方を交互に撮っている。
カルキは、僅かに震えている。
「心配するな、痛みを感じる間もない」
処刑人が嘲笑うような口調で言う。
「僕は」
カルキは呟く。
「何より、ボマーを、助けたかった。あの才、こんなところで失うのは、惜しかった」
「何言ってやがる」
処刑人は刀を振り下ろした。
カルキの首が切り落とされ、遠くへ飛んで、転がった。
その表情に苦悶と恐怖はあったが、幾分微笑んでいるようでもあった。
ボーカーIIのコックピット内で、ボマーはモニタから視線を外す。
「悪は滅んだ、か」
「悪趣味ですね、ボマー」
「ヒーローを持ち上げるには、貶められるアンチヒーローが必要だ。カルキ隊長は、充分過ぎる程働いてくれた」
ボマーは笑う。
「まあ、本人は何もしてないがな」
ボマーは手動でモニタのニュース番組のウィンドウを消す。
「これで、間違いなく、俺は英雄だ」
目を閉じる。
「生き延びられる、これ程素晴らしい事があるか?」
「ボマー」
「なんだ」
「悲しんでも、良いんですよ?」
ボマーは、ユーリの映っている右側のサブディスプレイを小突く。
「笑って人を殺す訓練は、受けてるさ」
早い雪が、ちらつき初めていた。
エントリ4 ハンズ LORTO
画面の向こうに男が映っており、映像の主観側にいる相手と怒鳴り合いをしている。今にも掴み合いになりそうな雰囲気だが、両手は力なくだらりと下がっているだけだった。
「介入しましょうか? 久我課長」
モニタに向かっていた葉山紀孝が、上司の久我瑞樹に尋ねる。
「『手』の搭載AIだけで大丈夫でしょう」
久我が応えると同時に、相手が映像の主観側を蹴ろうとし始める。
一瞬遅れて、相手の両手が不自然に動き始める。両脇腹を掴み、這うように身体を降りて行き、腰の下、両足首を掴んだ。馬跳びの馬のような格好になり、その場に転がった。
「――『手類所持等取締法』は、非常に大きな成果を上げていると言って良いでしょう」
講演会後のパーティー会場で、議員の増田洋七が蕩々と話す。
「かつて日本は、銃やナイフを取り締まる事で犯罪の抑止を狙っていましたが、それは大きな遠回りでした」
後援者達の人だかりが出来ている。
「犯罪を起こすのは、人間の手だったのです」
増田は、内ポケットのメモを取り出す。
「手を禁止して以来、犯罪数は実施前の七〇パーセントにまで減少しています。当初は人工手の不具合から、見落とされがちだった犯罪も、監視員の導入と本体性能の向上から予防・摘発可能になっています」
宴会場フロア特有の、赤を基調にした絨毯と、きらびやかな照明。ロビーを横切るとトイレに辿り着く。掃除が行き届き、便器は大理石模様が付いている。
ガラスの割れてぶつかる音が、一回、二回。
映像が傾き、倒れ、そして血の赤を写した。
「殺人……ですね」
葉山の顔から血の気が引いている。
「殺人ね」
久我の声も震えている。
「今、通常通りの業務をしていたわね? 増田議員の『手』の映像を監視していた」
「はい。業務マニュアル通りです。他の『手』も緊急停止や手動解除等は、していません」
「でも……警察は共犯と見なすでしょうね」
「だったら……」
「警察が到着するまでの間に、真犯人と手口を見つける、これしかないわ」
少し小走りにロビーを横切り、トイレに入って行く。
入り口近くまで来たところで足を止め、そして、映像が二秒ほど暗転した後、トイレから立ち去る映像に繋がる。
「これが、容疑者である向井の右『手』の映像ね」
「はい。犯行の瞬間、一番近くにいた男です」
久我は時計を確認しながら、モニタを見る。
向井は、少し小走りにロビーを横切り、トイレに入って行く。
入り口近くまで来たところで足を止め、そして、映像が二秒ほど暗転した後、トイレから立ち去る映像に繋がる。
「左『手』も、同じ……」
「画像補正を外すわ」
久我がコントロールパネルを操作する。
右『手』の映像は、激しく縦揺れを繰り返す、五つの映像として表示される。五つの映像のうち、二つは真っ暗で、三つは壁と床と天井が各々映っている。
左『手』の映像も、同じ。
「暗い二つは、掌側ですね?」
「そうね。拳を握って歩いている。両手を全部隠していたらアラートだけど、これだけ曝していれば監視対象にならないわ」
映像は、トイレの前まで来る。
「左『手』が持ってる、それ、何ですかね」
右『手』からの映像に、左『手』が時折映る。左『手』は、白いものを持っている。
「ハンカチ……いや、タオルね。トイレに入るための手拭きでしょ」
右『手』の映像がタオルの白で覆われる。
左『手』の映像は、トイレの壁のタイルがアップになる。
それから、瓶の割れる音がして、後は足早に現場から立ち去る。
「タオルで目隠しをして、その隙に殴打、かしら」
「ちょっと待って下さい、『手』の目隠しをしたらアラートが出る筈ですよね?」
「AIが目隠しと判断する基準は、一ルクス以下の暗さになった時。大体、月明かりがボーダーね」
「って事は、明るい色の手袋なんかはめたら……」
「手袋は隠蔽具登録されてるでしょう」
「ああ、そっか……とすると」
「向井はタオルを持って『手』のカメラを巧妙に目隠しする事で、一連の行動をAIに気付かれず、アラートを発させる事もなく、実行出来た」
久我が自身に言い聞かせるように、まとめる。
「大急ぎでレポートにまとめて。警察が来る前に提出するのよ。資料は準備するから」
「はいっ!」
警察への報告が終わり、久我が帰った後、葉山はコントロールルームに戻る。
そして、端末に向かう。
アラートは出ていない。
(……タオルで目隠し、か)
葉山は向井の『手』の映像をコマ送りでぼんやりと眺める。
(瓶……)
映像を巻き戻して行く。
パーティー会場で、向井はビールを注ごうとしてこぼす。ホテルスタッフがタオルを持って来る。
『どうぞ、こちらを』
『いや、結構』
『早く拭かないと……』
『結構! 持ってますから!』
向井は自分のタオルを出す。
葉山は自分の担当の他の『手』に、視点を変える。
タオルでビールを拭き、それから部屋を出て行く向井の姿が映っている。
(……ビール瓶、は?)
向井は、タオルを持って出ただけで、ビール瓶は持っていない。
(ん)
数秒遅れて、ホテルスタッフが一人、空き瓶を載せたワゴンを押して出て行く。
(協力者? あり得るか。テロリストは『手』に気付かれないように、読唇術で会話するとも言うし……)
何度かホテルスタッフが出て行くシーンを再生する。
(うちの担当の『手』じゃないな……)
向井の『手』に視点を切り替え、映像を進める。
トイレの中に入り、タオルに視界を遮られながら映像の暗転。
(――あれ? 何か、今)
葉山はヘッドフォンをはめ、『手』の拾った音を聞く。
立ち止まっている時に。
足音が一つ、聞こえた。
そして、暗転。
瓶の割れる音、刺さる音、倒れる音。
立ち去る音。
(トイレの入り口に来てから、立ち去るまでの間に、向井の足音がない。トイレの入り口から、小便をしている増田に手が届く訳がない)
音を更に大きくし、反転の時間を再生し直す。
葉山の耳に、それは、聞こえた。
タオルが風を切る音。
(ひょっとして)
葉山は無言で立ち上がり、ハンカチを一枚取り出す。
それから、傍らのペン立てから、消しゴムを取る。
ハンカチの角を握り、向かい側の角を指先でつまみ、間に消しゴムを挟む。
そして、ハンカチを一気に振り下ろす。同時に、つまんでいた指先を離す。
(もし、消しゴムの代わりに、協力者がビール瓶を挟んだら)
ハンカチに振り回され、遠心力のかかった消しゴムは一直線に飛び、壁に当たって大きな音を立て、跳ねた。
(向井はタオルを振っただけ。協力者は瓶を挟んだだけ……AIは何も警戒を発さない)
翌朝、社員達が出社して来る。
「お早う」
「お疲れ様です」
「お早うございます」
「夜勤お疲れ、なんか大変だったみたいじゃん」
「いやー、疲れたよ」
葉山は、笑ってコントロールルームの端末の前から立つ。
「おはよう、昨日はお疲れさま」
出社して来た久我が、コントロールルームに顔を出す。
「あの後、何かなかった?」
「あ、はい」
葉山は疲れたような表情で笑う。
「何も、ありませんでしたよ」
「そう。お疲れ様、ゆっくり休んでね」
「ありがとうございます」
帰り支度を済ませ、葉山はコントロールルームから出て行く。
(何もなかった)
廊下を歩く。
(そう、なかった、何にも)
『手』を振りながら歩く。
(――いつか、使う事が、あるかも知れないし)
朝陽の差し込む廊下は、目が眩みそうに明るかった。
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