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エントリ1 偏頗 しろくま
ジャカルタから飛び立った飛行機はスマトラ島の都市の近くの滑走路に着陸した。隆が派遣された日本語学科は隆の他に日本人がいなかった。他十数名の先生達は皆インドネシア人だった。インドネシアの年度初めは九月だったが派遣されたのは二月の中旬だった。後期の授業がもう始まった頃だった。
日本人がいない日本語学科だったので最初はお客さん扱いだった。先生、学生、職員、すべての人が親切に接してきた。日本人というだけで、一部の学生からはアイドルになったような視線も受けた。授業には現地の先生とチームティーチングのかたちで授業に入った。
学生達の顔と名前は全部覚えるよう努力した。学生はコースによって午前と午後に別れていて、一年生から三年生まで、総計約三百人の学生の顔と名前を覚えることになった。
女子学生、特にムスリムのジルバブを被った女の子達の名前を覚えるのに苦労した。髪が隠れるだけで情報がだいぶ減った。キリシタンの学生は、食事をする時にお祈りをするのでその時に分かった。最初ジルバブを被っていない女子学生は皆キリシタンだと思っていたが、ジルバブを被っていないムスリムの学生もいた。
隆はクラス毎に学生達の集合写真を撮り、B4サイズにプリントアウトして、顔の下に一人一人名前を書いた。名前を確認してから授業に入る習慣をつけ、教室に入ってからは写真を見ずに学生の顔だけで名前を当てられるようにした。週一回の授業でしか会わない学生達の名前をすべて覚えるのに数カ月を要した。
また最初は学生がそれぞれ何族なのか分からなかった。民族によって宗教が違うということも分かっていなかった。ある女子学生から中華系だと言われて、そうだ、この顔、この肌の色は東南ではなく東アジアのものだと、やっと気付く始末だった。「学生」というひとくくりで捉え、学生達を分け隔てなく見ようとしたために、顔や肌の色という大きな違いが見え難くなっていた。
学生達にとって歳の近い日本人ということもあって授業外でも色々と要望が来た。日本語の勉強に関するものでいえば会話会や日本語能力試験対策の勉強会、他に学生達が好きなFacebook、Twitterだったり、カラオケ、旅行にも誘われた。
学生からの要望が強かったので、隆もFacebookを始めた。すぐにリクエストが集まり簡単に友達の数が二百人を超えた。隆にとっても学生の名前を覚えるのに役に立った。しかし、いつしか日本語学科以外の学生や、よその学校など、顔の知らない学生からもリクエストが集まるようになった。毎晩のように来る友達のリクエスト、書き込み、チャットが続くと、パソコンを開くのが億劫に感じることもあった。できるだけ対応したい気持ちも強かったので、それからはパソコンを開く時間を決めて対応した。
会話会はよく昼食の時に行なった。一年生から三年生までそれぞれ時間を設けた。学生の参加は自由だった。会の内容は事前に話すテーマを決めておいて、会話会の時に皆でそれについて日本語で話すというものだった。
日本語を学んでいる彼らは食べる前に日本語で「いただきます」と言った。先生のことも、日本語で「○○先生」と呼んだ。学生達は鳥肉を食べるときも右手だけを使って器用に骨から肉をそぎ取り、ご飯を食べた。隆も彼らに合わせて右手だけで食事を採るようにした。
この日の三年生達との会話会のテーマは「結婚」だった。食べ物を口に含んだまま男の子の学生が言った。
「でも先生、アディ先生もアギス先生も学生の人と結婚しましたよ」
「え、そうなの?」
「はい。学生だった女の人と結婚しました」
「学生の時から付き合っていたの? それって困らない? 授業の時とかテストとか」
女の子の学生が説明するように言った。
「先生はプロフェッショナルでしょ。だから大丈夫ですよ」
「そうかなぁ。でももし私だったら、ちょっと自信ないなぁ……」
一年生の学生達に旅行に誘われたので、中間考査の後の休日を利用して行くことにした。運転手と車をレンタルして近くの海岸へ行った。日本語がまだ上手くない一年生達。隆も十分にインドネシア語を話すことはできなかった。それでもお互い意思を疎通しようと努力し、そして気持ちを共有できたことに、隆は幸せを感じていた。人は人との間に幸せを見出すということを改めて強く感じた。同じ母語である日本人同士でも、気持ちが分かりあえて幸せを感じるというのは難しい。隆はいつか付き合っていた女のことを思い出していた。お互いを信じあう信頼関係が必要で、言葉が違っていても、それがあれば大丈夫だった。
一部の一年生の学生達と旅行をしたことはすぐに他の学年の学生達や先生達にも知れ渡った。
この日は学科主任との打ち合わせがあった。多くのテストは隆が作っていたために、それらの丸付けも隆のところに回ってきた。
「先生、このテストの点数もお願いします」
「はい、わかりました」
「これが私の家でできたマンゴーです。どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
「この前、学生と旅行に行きましたか?」
「はい、一年生の子達と行ってきました」
「他の学生は、行きたがっていますね」
「そうですか。ぜひ他の子達とも行きたいです」
隆は下宿に戻って、外で食事を採ってきてからテストの丸付けを始めた。任されたのはこれで五クラス目だった。一クラスの学生の人数は大体四十人。テストは選択と筆記の問題を作っていた。
「筆記試験の丸付けならネイティブがいいことも分かる。しかし、教科書から抜粋した問題の丸付けまでネイティブに任せる必要はない。点数の計算もお願いしたい。点数の記録は、現地の先生達のほうが慣れているに決まっている。これは仕事の押しつけだ」
教師としてここに来ている隆にとって、いま自分の存在する理由はすべて学生達だった。学生達のためなら、なんだってできる。その気持ちが自身の仕事を増やさせることもあった。
しかし、これは嬉しいことでもあった。一年前、大学院で一人、机に噛り付いて研究していた時にはなかったものだった。しかし、きょうは勢いで丸付けを終わらせてしまった。
「教師は学生達に博愛でなければならないだろう。しかし、同僚の先生達にも、博愛でなければならないのだろうか。いい先生もいる。彼らだって昔は日本語学科の学生だったんだ。それだけじゃない。僕の大先輩で、自分の母語でなくて、日本語を教えてくれている先生達だ。しかし、どうも同じように愛せない。日本語が下手な学科長の先生、やたらと仕事を押し付けてくる先生、好きになれない。……いや、これは疲れているせいだ。考えるのはもう辞めよう。きょうの仕事は終わったんだ」
隆はテストを仕舞うとパソコンを開いてインターネットに繋いだ。きょうもまたたくさんのコメントやメッセージ、リクエストが来ていた。一つ一つコメントを返さなくてはならないわけだが、疲れがなくなるような嬉しい気持ちだった。
Facebookのチャットに、留学についてよく相談しに来るムスリムの女の子がいた。四年生でこの七月に卒業後、日本で学ぶことを希望していた。隆は四年生の授業には出ていなかったので、これといって交流があったわけではなかったが、一度論文を見たことがあった。大学では隆から挨拶をすると、少し下から覗く意地悪な、少し歪んだ笑顔を返してくる子だった。暫くすると、きょうもチャットが来た。
『先生こんばんは』
『はい、こんばんは。元気ですか?』
『はい、元気です。先生はこの前、一年生の学生と旅行をしましたか?』
『はい、行ってきました。とても楽しかったですよ』
いつものように留学について訊こうとはせず、様子が少し違っていた。
『先生はやさしいですね』
『そうですか。ありがとうございます』
『きょうは大事なことがあります。えっと、わたしは、先生がすきです』
隆は学校の皆が見ている自分と自分が感じている自分が大きく離れているような気がした。一人だけの日本人ということがそれを助長しているのだろうか。自分は学生達のためと思ったことをやっているだけなのに。
隆はそうじゃないんだと軌道修正したい衝動に駆られた。
エントリ2 蛍 (前編) 〜2006年 夏〜 百
「タケ、そろそろ降りる準備をしなさい」
加奈子はせわしない。降りる駅は終点なんだからゆっくりさせてやればいいものを。
「ほら、父さんも!」
こっちにお鉢が回ってきた。まあ、加奈子の気持ちもわかる。緊張しているのだ。
旅行に誘われOKを出した後で、加奈子が真剣な表情で話を切り出してきた。
「この旅行で父さんに会って欲しい人がいるの。同じ会社の山田さんって男の人」
旅行先で父親に合わせたい人ってのも強引だなあと思ったが、加奈子なりにいろいろ考えたんだろう。
「その人は……」
加奈子が私の質問を遮るように早口で目を伏せて話す。
「結婚を前提にお付き合いしている人。タケのことも知ってるし、タケも何度か会ってる」
「そうか、わかったよ」
その時はいろいろ話を聞くのも悪い気がしてそれだけ答えた。
加奈子も再婚を考えられるようになったんだなとほっとする気持ちもあった。
三枝子も喜んでくれるだろう。妻の三枝子は加奈子が健志を妊娠中に病気が発覚し、加奈子が離婚した直後に亡くなった。
母親としてはとても死にきれない、後ろ髪を引かれる思いだったと思う。
病気のため加奈子の出産の世話がしてやれないとしょんぼりしていた姿や離婚を相談してきた加奈子に「お母さんはもうなにもしてやれないけれど、あなたが幸せであることが健志の幸せにもなるの。あなたがしたいようにしなさい」とすっきりとした表情で諭してしていた姿が思い出される。
ロマンスカーが箱根湯本駅のホームにゆっくりと進入し、止まる。
ホームへ降り立った健志が驚きの表情で周囲を見回す。
「なんか空気がちがう。葉っぱのにおいがする」
「葉っぱの匂いか。そうだな」私は笑って答える。
箱根は久しぶりだ。しかも夏は加奈子が子どもの時に家族旅行で来たことが一度あったぐらいだ。最後に来たのは秋、三枝子とふたり、最後の旅行だった。
きょろきょろする健志と妙に緊張している加奈子の間を取り持ちながら、旅館の送迎のバスに乗り込む。
「ほたる?」
車の中から健志が駅前ののぼりを見て言った。
「こんな駅そばの公園で蛍が見られるのかね?」
私は運転手に話しかける。
「はい、見られますよ。ご希望があれば送迎もしますのでフロントにおっしゃってください」
「夜になったら見に来よう」
「うん。ぼく、ほたる初めて〜」
健志は両手を頬にあてうっとりとした表情をする。男の子なんだが、こういう素直な子どもらしい仕草が似合う健志はかわいい。
旅館に着くと健志と加奈子は旅館周辺の散策に行くと言う。私は疲れたし、夜に備えて休むことにした。
「昼寝でもさせてもらうよ」
部屋の畳の上にごろりと横になる。
窓から深い緑が揺れるのが見え、川の音が聞こえる。
私はぼんやり考えていた。
―加奈子の相手も山田というのか―
相手も?
も?
急にあの夏の日に引き戻された。
「みちお〜!」
母ちゃんがよぶ声が聞こえる。
ぼくは川に魚をとりに行こうとしていた。なにかようじをいいつけられるのだとがっかりして、外から母ちゃんの声のするえんがわへまわった。
えんがわには母ちゃんと山田のおじさんがいた。
ぼくは山田のおじさんはきらいじゃない。けれど、母ちゃんと山田のおじさんのことでからかわれるのはきらいだ。
「みちお、ゆきおさんと一緒に役場に行っておくれ」
母ちゃんは山田のおじさんを「ゆきおさん」とよぶ。それも、きらい。そんなふうによぶから、へんなことを言われるんだよ。
「みっちゃん、暑いのにすまんね。役場に集まるように連絡があってね。もしかしたら特別配給があるのかもしれない。みっちゃんも相田家代表で行っといたほうがいいと思ってね」
「すいません、いつも気にしていただいて。みちお、ほら、この風呂敷持って」
「母ちゃんは?」
「ばあちゃんのぐあいが悪くてね。母ちゃんは行けないんだよ」
「あれ、おばさん、また腰かい?」
おじさんが心配そうな声で続けた。
「後で湿布作ってきてやるよ」
「すいません」
「なあに、多めに作るだけのことだから」
山田のおじさんは「よいしょ!」と勢いをつけて立ち上がった。おじさんは左足が悪い。引きずって歩いている。だから、戦争に行かない。
「みっちゃん、行こうか」
ぼくはうなずいて歩き出す。
「小学校はどうだね?」
「楽しいよ」
山田のおじさんのことでからかわれなければ、もっと楽しいと思う。
「そうか、よかったな。みっちゃんのお父さんの秀雄とは小学校の頃からの友達なんだよ。秀雄は足が速くて力も強かったな」
「おじさんは?」
山田のおじさんはちょっと笑って「おじさんも走るのが大好きだったよ」と答えた。
「山田のおじさんとお父さんは仲良しだったの?」
「うん、仲良しだよ。今でも仲良しだ」
「でも、お父さんは戦争に行ってるのにおじさんは行ってないよ」
山田のおじさんはちょっと悲しそうな顔をした。
「おじさんは足を怪我してしまって走れないからね。戦地では役に立たないから……。だから、おじさんの役目は銃後の守りだと思っているよ」
橋をわたる時、同級のさとし、まもると会った。ふたりは魚とりのあみを持っていて、ぼく達に気づくとおたがいのわき腹をつつきあってくすくす笑った。
「魚とりに行くの?」
ぼくが声をかけるとふたりはにやっと笑って答えず、すれちがってから叫んだ。
「弟か妹ができたらどうするんじゃ〜い!」そして笑い声と走りさる足音。
ぼくははずかしくって、くやしくって、ぎゅっとふろしきをにぎりしめた。
「なんだい、ありゃ?」
山田のおじさんののんきな声に頭にきて、思わず叫んだ。
「おじさんのせいだよ!」
「おじさんの?」
「おじさんがうちの母ちゃんにやさしくするから、だから……」
「だから?」
「みんな言うんだ。父ちゃんが戦争に行ってるのに、妹か弟ができるだろうって」
おじさんははっとした表情でぼくを見た。
「いつもいつもからかわれるんだ。おじさんのせいだよ!」
「みっちゃん、おじさんは親友の秀雄の家だから、みっちゃんの家のことを心配してお手伝いしているんだよ。そんなことはないから安心しなさい。今度言われたら『そんなことない』と言い返してやれ」
「ほんと?」
「本当だよ」
役場につくと役場の裏の広場に大人がたくさん集まっていた。
ぼく達を見て変な笑顔を見せる人もいて、ぼくは心の中で『そんなことない!』と叫び返していた。
おじさんとぼくは広場の外れの木の影のところに立っていることにした。そのうち、役場の方で人が行ったり来たりばたばたしていたと思ったら、みんなひざをついて座り、静かになった。ぼく達も座った。山田のおじさんはひざをついて座るのがつらそうだった。
お経みたいな声がとぎれとぎれに流れてきた。
泣き出したおじいさんがいた。うずくまるおじさんも。
「なんだろう?」
ぼくは不安になって山田のおじさんの肩につかまった。
山田のおじさんはまゆをよせ真剣な顔で、音を、声を、ききとろうとしていた。
「戦争に負けた!」
急に向こうでだれかが叫んだ。
「負けた?」
ぼくはびっくりした。戦争に負けるということは、みんな戦死するってことじゃないのか?
「戦争が終わったみたいだ」山田のおじさんが言った。
「ぼく達生きてていいの?」
僕の質問におじさんはびっくりしたようだが、納得したような表情をしてからうなずいた。
「生きてていいんだよ」
エントリ3
(本作品の掲載は終了しました)
エントリ4 修羅の国から Vol.5 国津武士
マシェルとリーは、エアダクトの中を這って進む。
「じいさん、手榴弾を肉で埋めるなんて、よく考えついたな?」
後を進むマシェルが、リーの靴の裏に向かって囁くように言う。
「まあな。前にも使った事がある手だったし、肉の性質はそれなりに心得てるからな」
振り返らずにリーは答える。そもそも、振り返るだけの隙間がない。
「前? 軍人だったのか?」
「パイナップル農家さ。君こそ、何かやっていたのか? 俺の通ってたエレメンタリースクールじゃ、あんなタックルは教えてくれなかったぞ」
「……ん、まあ」
マシェルは苦笑いを浮かべる。
「うちの国じゃ文字を教えてくれるのは、軍隊と刑務所だけだったんでね。ま、軍じゃ、銃を撃つよりもシマをこねる方が上手いって言われたんだけどさ」
マシェルにとって、エアダクトは相当狭いが、スイスイと進めている。
「それで、じいさんは、この戦局をどう見るよ?」
「ソイソースなしで日本食を作れって言われてるようなもんかな」
「それって全然無理って事じゃねーか」
「いやぁ、料理と上がった後の女ってのは、奥深いもんだぞ」
リーは言葉を切ってから、少し先のダクトを指さす。ダクトの床面が格子になって、明かりが洩れていた。
リーが先に通り過ぎて、マシェルは格子の直前に辿り着く。
格子越しに、下の部屋の様子が見える。
船の両端にあるサロンのうちの前端部で、拘束された乗客達が床に這いつくばっていた。見張りの三人の海賊は、乗客の部屋から集めた大量のバッグやスーツケースから、紙幣やアクセサリー類を抜き取って布袋に詰めている。
「三人……か」
マシェルは呟く。
「こっちは二人。不意打ちが成功しても一人残る計算だな。銃声の一発も上げたら、他の海賊にも気付かれる」
「マック」
「どうする、じいさ――」
「一人になった方をよろしく」
リーはポケットから財布を出すと、コインを一枚取り、エアダクトの格子へ向けて転がす。
「えっ、おいっ、心の準備がっ!」
コインは格子まで辿り着き、床に落ちた。
見張りの海賊のいる箇所から、暖炉の陰になっているドア近くにコインは転がった。毛足の深い絨毯に落ちたコインは、音を立てる事もない。
「……あれじゃ、誰も気づかないぞ」
マシェルが呟く。
だが、リーはそれ以上何もしない。
「おい、打つ手ナシか? ひょっとして」
「……シチューとトラップは、じっくり待つもんだ」
リーは言ってから、じっとしている。
海賊達は、コインなど気にする事もなく、アクセサリーを品定めしている。
海賊の一人が、ルビーのはまったネックレスを手に取る。そして、ルビーの輝きを確かめるように、灯りにかざそうとする。
視線が壁にかけられた灯りに向かう、その途中に。
コインがあった。
海賊はコインに近寄る。
次の瞬間。
マシェルが外した格子蓋を落とす。
金属製の重い格子蓋が縦に落ち、海賊の頭に激突する。
落下音に気づいた海賊が、昏倒する海賊に気付き、駆け寄ろうとする。
だが、その時には、マシェルが飛び降り、続いて、リーが飛び降りていた。
「イヤッ、ハッ!!」
マシェルはタックルで海賊を倒し、喉を踏み折る。
「アチョオオオオ!」
リーは叫びつつ肉切りナイフを突き付けてもう一人の海賊を牽制する。ほんの二秒の牽制の後に、マシェルの援護が来る。
悲鳴も銃声を立てずに、三人の海賊は斃された。
「四〇ヤードゲインだぜ!」
「クォーターバックに感謝して欲しいもんだな」
マシェルとリーは、軽く拳を打ち合わせた。
乗客達は、異変に気づいてはいるが、制圧時の恐怖心からか、顔を上げて確かめる者はいない。
リーとマシェルは、暖炉に海賊の死体を詰め込み蓋をすると、サロンから出て行った。
客室の一つに、マシェルとリーは隠れる。
客室には窓があり、ベッドが二つとテーブルが一つ、それにボードとテレビが置かれている。簡素な内装のスタンダードクラスの客室で、利用者はいなかったらしく、荷物や使用の痕跡はない。
「交戦中かと思ったら、何かもう、完全制圧されてるんじゃねえか?」
マシェルは、海賊から奪ったAk47を握り締める。
銃声や交戦の声はないが、船のエンジン音は連続して鳴り続けている。仮に遠くで銃撃戦が行われていても、聞き取ることは出来ない程の音量だった。
「それほど簡単には行かんだろう。通常、海賊が狙うのは商船やタンカーのような、少人数で操舵している船だ。客船は不適切な標的と言っても良い。付け入る隙は大いにある」
「アウェイのスタジアムに来たチームって事か」
船体は波にゆっくり揺られている。
「もっとも、こちら側は観客を寄せ集めた急造チームだがな」
リーは、椅子に腰掛け腕組みをする。
「窓から確認出来るだけでも、海賊船は七隻。一隻十人だとして七十人。ディナーを出すには、皿が足りないな」
窓の外には、海賊が乗り付けた高速艇が何隻も停泊している。総力戦のつもりなのか、船番に相当する海賊は見えず、全くの空っぽだった。
「……あんな数、どうすれば良いんだ?」
「皿が足りないんだから」
リーの言葉には静かだが熱がこもっている。
「キャンセルしてお帰り頂くしかないわな?」
「言ってくれるな、じいさん」
マシェルは唾を飲み込む。
「まさか本気でドンパチやろうってのかい?」
「……客に幸せなディナータイムを提供するのが、コックの矜持ってものだろう?」
「まったくクレイジーだ。黙って冷蔵庫に隠れてりゃ、もう少し長く生き延びられるかも知れねえのによ」
マシェルはAk47を肩に担ぐ。
「寒がりでね。君は隠れていて構わんのだぞ」
リーは肉切りナイフをベルトに差す。
「ママからお年寄りは助けてあげなさい、って言われてんだよ。破ったらおやつのパンケーキにメープルシロップが付かなくなっちまう」
「……良い母親を持ったな」
「料理が下手な事を除いてな」
「今度会ったら、俺の分もキスしておいてくれ。濃厚なのをな」
二人はゆっくりと立ち上がり、そして廊下へと飛び出して行った。
ピンポイントの一斉射撃は、ドアにこぶし大の孔を作る。
孔からは、僅かにバリケード替わりの机や椅子の脚が見える。
間髪入れずにテーブルを構えた海賊達が突進し、一人が孔に催涙手榴弾が押し込んで、転がって離れた。
数秒経たぬうちに孔から煙が洩れ、ドアの向こうからは咳き込む声がし始める。
「踏み込め」
恰幅の良い海賊の指示と共に、ガスマスクを装着した五人の海賊が、巨大な斧でドアを砕き、バリケードを押し退けて突入する。
立て籠もっていた船員達は、ガスのせいで発砲も出来ずにほとんど一瞬で制圧された。
「援軍すまねえ、リーダー。助かった」
ひょろりと痩せた海賊は、ガスマスクを着けたままでペコペコと頭を下げる。
「礼は良い。油断をするなよ」
リーダー格の海賊は、二人の部下を連れてサロンから出て行く。
「リーダー、これで二階まで完全に制圧ですね」
走りながら、部下が嬉しそうに言う。
「制圧出来ていないのは、第二厨房と三番シガールームだけです。我々が援護に向かえばバランスが崩れて、いずれもすぐに落ちるでしょう」
「……船は、な」
リーダーは眉間にシワを寄せる。
「問題は、船会社との身代金交渉だ。こいつが一番厄介になるだろう」
船内放送用のスピーカーを見つめ、そして腕時計を見る。
十四時三十四三分を指していた。
「ウズ……頼むぞ……」
エントリ5 紙折りの富子さん 4 ごんぱち
木々が僅かに色付き始めた山の中を、蒸気機関車が走る。
「四方式――と、言いましたか」
弁当の箸袋を結び文の形に折った逸見は、ふと、思い出したように言う。
「え?」
藤田は弁当の包み開けようとしていた手を止める。
「あの時、人知れず土門に手傷を負わせていた術は」
神戸行きの東海道線の上等車の個室で、逸見と藤田は向かい合わせに座っていた。
「唐突ですね、逸見さん」
「どのような術なのです?」
逸見は煮しめの高野豆腐を食べる。
「名の通り……式を使う術です」
改めて藤田は包みを開ける。海苔を一面に貼った大砲の玉ほどの丸いおむすびが五つと、端には大根菜の漬け物が一掴み、それに茹で卵が三つ添えられている。
「そこですよ。式は土御門の得意分野でしょう? 土門ならば、気付いた瞬間に強制的に札に戻す事も出来る。なのに何故不意を打たれたのですかな?」
「四方式は、正方形の符に封じた気だけを用いる術。洩れる気も他に紛れる程に僅か、注ぎ足す気の流れもありません」
藤田はおむすびをかじる。
「確かに正方形は持国天・増長天・広目天・多聞天を角に備えた十全の符。どれほどの気でも溜められ、洩らす事もありますまいが……」
逸見はしかし、納得の行かない顔で塩鮭を食べる。骨を噛み砕く音がした。
「ならば、何故土御門が使わんのです?」
「使えないんですよ」
藤田は竹の皮を畳み、次の包みを出す。
「正方形そのままでは、式の形を意識出来ない。切って形を変えれば気が洩れる。故に折り物にするが、繊細に式を折り切るには天賦の才が必要になる」
次の包みは、緑色の菜漬けで包まれたおむすびだった。
「四方式の術を伝える木藤家も、術師は全て外縁の者でした」
「なるほど、修行で身に付かぬという点では、術というよりもむしろ、神通力に近いですな」
逸見は食べ終えた弁当箱に蓋をする。
「そして、その特徴から」
藤田は大口を開けて、おむすびを一口で半分以上かじる。
「ひほーふぃひひほふはんはいは、ふへへほーいふはんほはんへいしへいいんへふほ」
「……お茶、どうぞ」
富子と彩世は、下等車の対面席に斜向かいに座っていた。
「汽車だ、汽車だ、うわぁあ、汽車だ。デュフフフ、汽車だよぉ」
「彩世ちゃん、汽車への愛情が時代を先取りしてるわよ」
車両内に他の客はまばらだった。
蒸気の大きな音の後、ゆっくりと列車は動きはじめる。
「うわ、う、うう、うわ!」
彩世が窓にしがみつくようにして外を見つめる。
「外が動いてる! 地滑り? 山津波!?」
「落ち着いて彩世ちゃん! 動いてるのは私たちの方よ!」
富子の声も若干上ずっている。
「そ、そ、わ、分かってるって! 分かってるって! ちょっとした冗談よ!」
しばらくの間、二人は瞬きも忘れて外を見つめ続ける。
「……ふう」
彩世は背もたれにもたれかかる。
「でも……それ程速くないね、姉様?」
「そうね」
「全力なら、姉様の式の方が、速いね」
「そうね」
「……姉様、聞いてる?」
「そうね」
「お寺にいるのは?」
「僧ね」
「教会にいるのは?」
「神父ね」
「……以外と聞いてるわね」
富子は目をキラキラさせ、窓の外を見つめ続けた。
「姉様ってば、子供なんだから……」
太平洋の波は穏やかで、秋晴れの空は青く高い。
汽車は走り続ける。
「そろそろお昼にしましょうか」
懐中時計を見ながら、富子は隣りに座って窓の外を眺めている彩世に言う。
「そだね」
彩世はバッグから、大きな風呂敷包みを取り出す。
包みを解くと、竹編みの大きな弁当箱が現れる。
「宿のおかみさんは何を作ってくれたかしらね」
「おむすび以外の何があるのかと思うけど」
彩世が蓋を取る。
「わあ!」
中には海苔で包まれた三角おむすびが並び、脇には芋と人参の煮しめに、菜物と大根とキュウリの漬け物、それから。
「うわぁ、卵だ!」
「あら本当」
卵が三つ、入っていた。
「いただきまーす!」
彩世はおむすびを一つかじってから、卵を手に取り指先の力だけでヒビを入れ、殻を剥き始める。
「人の情けが染みるわねぇ」
嬉しそうな顔で富子は座席の手すりに卵を軽く打ち付けて、剥く。
彩世は剥き終わった卵に、バッグから出した塩をかけ、かじる。
「んまー」
「本当に」
二人は卵を食べつつ、おむすびを食べ、漬け物を食べ、煮しめを食べる。そして、瞬く間に弁当箱は空に近付いて来た。
そして。
残ったゆで卵が一つ。
富子と彩世の視線がぶつかる。
「譲る気は、ないみたいねぇ?」
「姉様こそ」
紙の盤の上に、白の五目が並ぶ。
「じゃ、私の勝ちね」
紙の碁石をつまんで、富子がにっこり笑う。
「あ、あら、こう言う時は、三本勝負よ?」
彩世は引きつった笑いを浮かべる。
十五分後。
盤の上に、また白が五目並ぶ。
「そゆ事で」
富子は駒を片付けようとする。
「待った! 待った、姉様!」
彩世は富子の肩を掴む。
「三本勝負っていうのは、ほら、三勝しないとダメなの!」
十分後。
盤の上に、白の五目が並んだ。
「私の勝ちね?」
「うん、そうね、そうだね、姉様が白の場合は、そうだね。でも、あたしが白だったら、どうか分からないわ」
五分後。
盤の上に、黒の五目が並ぶ。
「もちろん、これも三勝しなきゃよ!」
十分後。
盤の上に、二度、黒の五目が並ぶ。
「あの……その、ええと、あのさ」
「はい、おしまい」
富子はゆで卵を出し、手早く殻を剥いて食べる。
「ごちそうさま」
「ああ……」
卵の殻を見つめ、彩世は嘆息する。
「ふふっ、折紙は理詰めで完成形を作り出すものよぉ。同じく理詰めで進める五目並べみたいなのは、結構得意なのよ」
「ずるい」
うなだれる彩世の声に力はない。
「彩世ちゃんが勝つには、やっぱり銭投げか、壺振りみたいなのが良かったのよ」
少し塩の付いた指を、富子は舐める。
「だって、そういうのは式でイカサマ……」
「いつも身体に付けてる四方式は、攻撃を受けたときに自動反撃する命令しか折り込んでないわよ」
「……それを先に言って」
話しているうちに、列車長が車両に入って来た。
「間もなく名古屋、名古屋です。お忘れ物のないよう、ご仕度下さい」
行く手には、新しい建物が幾つも建っている、名古屋の街が見えて来た。
汽車は名古屋を発ち、線路は海から内陸部へ続く。
「姉様」
窓の外を見ていた彩世は、振り返って富子を見る。
「なに?」
「これから行く大垣って所、何があるの?」
「分からないわ」
「……また、竜脈の変動?」
「ええ、今までとは桁違いよ」
富子は一枚の折紙を取り出し、二つ折りにして放る。
折紙は本物の紋白蝶の姿になるや、猛スピードで窓から飛んで出ると、線路沿いの森まで行って戻って来る。
直後、森の大木が一本、ゆっくりと倒れ始めた。
「見張りだけの蝶の式が、あんな大木を……?」
「竜脈が不自然なまでに活性化させられてるわねぇ」
富子はにっこり笑って彩世を見る。
「何が起こるにせよ、多分、どの雑誌社も、新聞社も書かないような記事が書けると思うわ」
「そうなんだ、楽しみだね」
「今度こそ、死ぬかも知れないわねぇ」
「ふーん」
彩世は富子の目を真っ直ぐ見返す。
決して動揺がない訳ではない。
だが、富子を真っ直ぐ見るその目には、不安を凌駕する決意があった。
何も言わずに富子は、背もたれにもたれかかり、目を閉じた。
「えー、次は、木曽川ー、木曽川で、ございまーす」
傾きかけた日が、車窓から射し込んでいた。
根尾川沿いの落ち葉の積もりつつある、柔らかな獣道を十分ほど歩くと、急に木々が切れた。
そこでは、三十名程の洋装の者達が、木々には五芒星の呪を刻み、地面には鉄杭を打ち込んでいる。
「これは一瀬殿」
作業をしていた土御門晴栄が、顔の泥を袖で拭う。ほっそりとしていながら均整の取れた身体付きをした、三十前後と思しき顔立ちだった。
「息災のようで何よりです」
晴栄は訪れた警官隊の中の藤田五郎に会釈をする。
「今は藤田五郎です、土御門さん」
藤田も一礼した。
「五を織り込みましたか。強い名だ」
晴栄は警官隊達を見渡す。
「皆様いずれ劣らぬ剣豪ばかり。本来、土御門だけで対処すべき事態に、これ程の配慮を頂き、警視庁の厚意には感謝します」
「がははは! 我らの手で生み出した大日本帝国の為ならば、この剣、幾らでも振るって差し上げよう」
隊長の逸見宗助が胸を叩く。
「心強いお言葉嬉しく思います、逸見警部」
「術は順調ですか?」
「海軍の結界が完成し、大陸からの干渉も防げるようになりました。これで、術が組めます」
大金槌で杭を打つ音が、木々の間にこだまする。
「シベリア鉄道線敷設と同時進行で竜脈の流れを狂わせ国を乱す。世界的に存在を否定されつつある霊的攻撃に、政府は公式には対応は出来ない。大津の報復としてこれ以上の手はない」
藤田の言葉に、晴栄は表情を引き締める。
「もう後手には回りません」
「俺たちも配置に付くとするか。自然の釣り合いを崩す程の悪霊の大量発生を――怨霊会を、防げば良いんですね」
「お願いいたします」
晴栄は深々と頭を下げる。
「可能な限り、被害は減らして見せます。土御門の名にかけて」
根尾川沿いの森の中に張られた結界内に、児玉富子と児玉彩世はいた。
食事の後、富子はバッグから五千枚はあろうかという折紙の束を出し、文机の上に置く。
富子はヤッコを三つ折り、放る。
ヤッコは作業着姿の三人の男に変じた。
富子が剃刀を使い、折紙の一辺をコンマ五ミリ程の幅で切る。
最初のヤッコがそれを受け取り、水の付いた筆で気を集める梵字を描く。
次のヤッコがそれをゴザの上に並べていく。
最後のヤッコが、ゴザに置かれて五秒経ち、気の充分に溜まった折紙を拾う。
富子はそれを受け取り、先に切ったのと直角の一辺をコンマ五ミリ切り、正方形に戻し、気を封じ込める。
優れた工業機械のように、スピーディーに作業は進み、どんどん気を封じた折紙が出来て行く。
「ううっ、目が回って来る」
彩世はぎゅっと目を閉じ、結界の外へ出た。
「……ああいうの見てると、あたしが四方式使うのって、絶対無理だって思い知るわ」
食器の片付けを終えた彩世は、作業を続ける富子を残して森の中を歩く。
「もの凄い事って、いつ起こるんだろ」
その表情には、不安と期待が混じり合う。
「あんなに沢山式を用意しなきゃならないって……雑誌の為の天変地異の取材にしても大袈裟過ぎるけど」
川沿いの道を上流に向けて歩く。
獣道に近い道が、他の道と合流する度に次第に大きくなっていく。
道端に、大小一対の石碑が立っていた。大人の男女が並んでいるのと丁度同じぐらいの大きさで、朽ち果てた文字は僅かに「道祖神」と読める。
更に進むと木々は次第にまばらになって、森が切れた。
収穫の終わった畑が広がり、その先に栗林と茅葺き屋根の家が建つ。
栗林では子供が何人か栗を拾っていた。
地蔵の陰に隠れるともなく身を隠しながら、子供らを眺める。
子供達は、棒でイガから取り出した栗をザルに拾って、カゴに入れていく。その中で一人、上手く棒を扱えていない娘がいた。
「ハルはとれぇなぁ」
小さい男の子が笑って、カゴに自分が拾った栗を入れる。
「清坊は早いなぁ」
ハルは明らかに他の子供達よりも動きがのんびりしていた。
ハルがザル一つ分拾う間もなく、他の子供達は三回もザルを一杯にしていた。そして、ようやくザル一つ分拾った時には、カゴは一杯になっていた。
十日が過ぎた。
今日も彩世は、地蔵の陰からハル達を眺めていた。
(今日は、薪拾いに行ってたのか)
子供達は栗拾い、木の実集め、自然薯掘り、茸獲り、薪拾い、魚釣り、実によく働いている。
山から下りてきたハルは、背負子に身長の倍も薪を積んで歩いている――だけではなく、清と呼ばれている小さい男の子を一人、片手で抱きかかえていた。
(相変わらず力持ちだな、ハルは。いつも力仕事任されてるし)
清の足には手拭いが巻かれ、血が僅かに滲んでいる。
彩世の身を隠す地蔵の前まで来たところで、ハル達は足を止める。
「もう平気や!」
「ダメだぁ、清。そげな足で!」
「ハル、分かったれや」
年長の靖士が、ハルの手から清を受け取り、そっと道に下ろす。
清はふらつきながらも、歩き始める。
「女に抱えて帰ったなんて、清にしてみれば格好が悪いやろ?」
「ほーかぁ」
ハルは心底感心と信頼に満ちた顔で、何度も何度も頷く。
「やっぱ靖士さんは、気配りが出来るなぁ。やっぱ靖士さんや、うん、うん、」
「こ、こんなの普通や」
靖士は半笑いでそっぽを向き、顔を真っ赤にして小走りで先に行ってしまった。
子供達の後ろ姿を見つめながら、彩世は自然、微笑んでいた。
彩世が空を見上げる。
スズメが一羽、空を横切って行った。
朝、大垣の駐在所の奥の仮眠室に、仕込み杖を抱えたまま眠っていた藤田は、片目を開いた。
まだ外は薄暗い。
僅かに開いた窓から、胸に五芒星の刻まれた小鬼の姿が潜り込んで来る。
「藤田殿、よろしいですか」
早口で喋る小鬼の声は、晴栄と同じだった。
「土門の工房から、宝貝が発見されました」
「宝貝? それは天狗の武器だろう」
「作成途上の模造品です。彼の死後も竜脈から気の注入が続けられており、霊気爆発直前でした」
「……撤去したら、今度はその分の気が竜脈に戻る」
「はい。溜まっている気と比べれば微々たるものですが、新たに気が流入すれば、既に作り上げた呪が狂わされます」
「結果、暴発か」
「応急の呪でこの竜脈を止め、完成している呪を再調整次第発動させます。藤田殿達は可能な限り住人の避難指示を!」
「分かった」
小鬼は紙の拠代に変わった。
「逸見さん!」
怒鳴りながら、隣の仮眠室を開ける。
だが、誰もいない。
「夜間警邏かっ! こんな時に!」
藤田は通りを走り、真っ直ぐ火の見櫓に向かう。
それから、必死に梯子をよじ登る。
「おい、あんた、勝手に上って来て――」
藤田は見張り番の消防組員の青年の首に手をかけるなり、一気に背後に回り込み頸動脈を極め、昏倒させる。
それから藤田は、半鐘をめたらやたらに叩き始めた。
音に驚いた者達が、家から飛び出して来る。
「何しておる!」
別の消防組員が梯子を登って来る。
「警察だ!」
藤田は怒鳴る。
「町中に伝えろ! ガス漏れが発生した、このままでは爆発する! 家から出て山へ逃げろ」
消防組員は梯子につかまったまま、まじまじと藤田を見つめる。
そして。
「はははは! なんやそら、ガス燈なんて京都まで行かなけりゃ、見る事もないやろ!」
「くっ……いや、違う」
「さあ、降りろや!」
藤田が消防組員の手をすり抜け、梯子を転がるように下りる。その時、彼のポケットから懐中時計が飛び出した。勢い余って鎖が外れ地面に落ち、蓋が開いた。
時計の針は六時三十八分、秒針は四十八、四十九。
――衝撃。
エントリ6 夢 石川順一
ホワイトジャックはエダニハ=カーテンから聞いた学長の要望を反芻した。(行方不明を装って)と言う事ばかりが強迫観念の様にホワイトの心の中をぐるぐる廻った。
エダニハ=カーテンとの会談でホワイトは心労に倒れ長い間寝込んでしまった。
深い眠りの中でホワイトは過去を思い出して居た。特に彼がヒトラー大学でどうしていきなり教授に就任出来たかの根拠に突き当たると莫大に彼の夢は具体的に過去をよみがえらせるのだった。夢の中なので彼が提出した論文群の様に体系的な物としてではなく、断片的でとりとめのないものとしてよみがえって来るのだった。
ヒトラーが1889年4月20日生まれた。オーストリアのブラウナウで税関の職員の息子として。ヒトラーの父親は税関の職員の前も皇帝陛下の近衛兵と言うか警護兵みたいな事をやって居た様な筋金入りの官吏気質の人だった様で、カイゼルよりもカイゼル的なカイゼル髭を蓄えて居る写真が残っている。
よっぽど厳格な父だったのか、アドルフ=ヒトラーの異母兄のアロイス=ヒトラー、通称アロイス2世(名前は父と同じ、父もアロイス=ヒトラーと言う名前。)は14歳で家を出て行って二度と戻って来なかったと言われている。
あるいは、異母弟のアドルフがアロイス2世にいたずらをするのにアドルフの味方ばかりする異母のクララが疎ましくって出て行ったとも言われている。クララは厳父アロイスにとって3人目の妻だったと言われている。晩婚の年の離れた年下の妻、考えただけでもぞっとする構図かもしれない。アロイス2世はいやな感じを一身に背負って居たのだろう。一家の長兄としての重荷を独りで背負って居たのかもしれない。とにかく彼は生れた家に二度と戻らなかった。
アドルフ=ヒトラーは生母クララが胃癌か何かで亡くなった時は激しく嘆き悲しんだと言われる。その時既に厳父アロイスは亡くなって居たのだがアドルフにとっては厳父よりも生母の方がより身近に感じられて居た事だろう。だが後年のヒトラーの政治的な勝利と明らかに前世代のワイマール期の首相たちと比べると長期政権を経ての悲劇的な死を考えると彼に実質的に影響を与えたのは厳父アロイスであったと断じざるを得ないであろう。
勿論、戦後の西ドイツの首相、とりわけ東西ドイツ統一をまたいで首相を務めた首相など戦後の首相在任年数を見ると、ヒトラーの在任年数12年を遥かに超える首相が何人か出て居る。ヒトラーは立憲主義が確立されて強力な首相が在職年数を長期化させるとばぐちに立って居た政治家だったのかもしれない。彼には悪いが別にヒトラーが出現しなくてもドイツ政治史とりわけ、世界史的規模の政治史の流れから、ワイマール期に比して首相在任期間の長期化は必然的な流れだったのかもしれない
ああ私はヒトラーに魅せられてSS(親衛隊)も愛したしSD(諜報機関)も愛した。カルテン=ブルンナーもゲーリングもザウケルも愛したのだ。私が書いた論文は確か・・・・・
ホワイトは居酒屋でヒトラー教授が店員をやって居るのに驚いた事があった。名字がアドルフ=ヒトラーと全く同じのヒトラー研究家の中では一目置かれる天才ヒトラー研究家で、ヒトラー研究のカリスマだった。
「ヒトラー教授、どうしてあなたがここで・・・・」
「アルバイトじゃよ、最近大学側都合の休講が多くてな」
7月30日(土)18時40分ごろホワイトは居酒屋むのじへ来ていた。
店内に入って南進して最初の丁字路を右折して直ぐの西に向かって右側の座席に腰掛けたホワイトだったが、丁度ヒトラー教授がホワイトが腰かけた座席の通路挟んで南側の座席の客の注文を取って居るところだった。(ホワイトは教授だと思ったがもしかしたら違って居たかも知れない。と言うのは後でヒトラー教授に似た店員をもう一人発見したからだった。)
ヒトラー教授はその時は南側に向かって、つまり客席に向かって注文を取って居たが、ホワイトの注文を取る時には、西側に向かってつまりホワイトに対して横顔を見せる形で注文を取って居た。
「教授、忙しそうですね」
「うむ、君の方に顔が正面を向く形だとね、ここの通路狭いだろ、でね結構けつや腰が寒いのよ、無事通過したと思ったらエプロンの結び目が触れたりとかね、結構寒くて」
「そうでしたか。で、教授まさか研究の方を止めたのではないでしょうな」
「そんな事あるもんか。君の方こそ、教授になっただけで油断しとると、勢力を築けん事は勿論の事、教授の地位さえ危うくなるからな、研究を抜かりなくやるこったな」
「分かって居ますよ、では教授の方こそ入念な語研究をされん事を希望しますよ、お身体にも気を付けられて」
ホワイトは不思議だった。夢の中にしては妙にリアリティーがある。教授が景気づけの為か座イスのマットを力強く持ち上げんばかりに腿で強く押し上げた時も妙に現実感が無い様でいて、夢の中にしては教授の本職にそぐわない程の力強い印象がおかしい程不思議だった。
ホワイトの夢はぐるぐるしている。最初は何か曖昧で訳の分からない断片の様なものが渦を巻くようにぐるぐるじゃかじゃかして言る様な感じだったのが、次第に確かな輪郭を持ったり、再び曖昧な輪郭線がクロスして来たりした。
その中でも、ヒトラー教授の輪郭だけはずば抜けて確かな骨格を持っている。とても夢とは思えないリアルな輪郭だとホワイトは思う。この様な夢は与えられた任務から逃避したいと言うホワイトの意識下が見せた妄想の様な悪夢なのだろうか。31日の朝目覚めて下へ降りて行くと下へ降りたドンピシャのタイミングで呼び鈴が鳴ったが、母が居ないのでホワイトは居留守を使った。姉は居たのだが姉も居留守だ。姉はホワイトに似て学術方面で優秀で、国文学の修士号と博士号を有して居たのだが、今年の5月末乗馬クラブで馬の急な立ち上がりによって腰を痛めて仕舞った。幸い出講に支障は無く、難儀をしながらも大学の講義を普段通りこなしたが、家で愚痴る事が多くなった。
7月31日(日)の夜、夕食中、ホワイトはアサリの味噌汁のアサリの肉身を食べた時ごりっとなったのを聞いた。
「まさか、アサリの砂出しが不十分でも、せいぜいじゃりっか、どんなにひどくてもがりっだろ、ごりっは初めてだ」
ホワイトは一人騒いだが、何か自分の社会的地位などどうでもよくなって来る自分に対する嫌悪感が、んごーと喉元まで迫って来る様な勢いをふと感じて怖いと思うのだった。
「カーテンよ私はその任務を受けようか受けまいか迷っている。端的に言って行方不明を装っての特殊任務は学長が御専門だ。私がしゃしゃり出るのは僭越な様な気がする。学長は私の特殊任務の能力を試そうと言うのか。学長は常々私に学問研究を専一にして各自自分の専門領域をぬかりなく研究して居れば、他の雑務に対して別に気に病む必要は無いと仰られて居た。それを今になって雑務では無いかも知れないが、特殊任務を仰せ遣わされるとは。私は研究に専念したいのだ。そこをほんの少しでもいいから汲み取ってもらいたい。もう一回学長に掛けあってもらえんだろうか。私の真率な気持ちを学長に伝えて欲しいんだ。決して私が任務をさぼりたいからこう言っているのではない事を十二分に理解してもらいたのだ。どうか頼む。これだけは譲っては行けないような気がして来た」
ホワイトの必死の懇願をエダニハ=カーテンはどう受け取りどう伝えようとするのだろうか。
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