第2回6000字小説バトル Entry12
洗いたての真っ白いシーツが、青い空にはためいている。やっと洗濯物を全部干し終えて時計を見ると、時刻はすでに十一時を回っていた。
香織はルーフバルコニーに置かれたお気に入りのデッキチェアーに腰を下ろすと、エプロンのポケットから煙草を一本取り出して慎重に風を避けながら火をつけた。吐き出された白い煙が、雲ひとつ無い空に吸い込まれて行く。
マンションの中庭にある公園では子供達が元気に走り回っている。その様子を見守りながらお喋りに花を咲かせる若い母親達のグループが、公園内にいくつかの小さなコロニーを形成していた。
結婚して十年目にやっと授かった子供を去年、流産してしまった。妊娠初期の避けようの無い事態だった。でも夫にはこれで「自分は赤ちゃんを授かりにくい体質なんだ」という言い訳にも説得力が加わったような気がして、香織は内心ホッとしていた。
本当は、子供なんて欲しく無かった。特に姑からのしつこいくらいの電話攻撃には心底、辟易させられた。気持ちはわかるけど、夫だって悪いのだ。結婚する時に「子供はつくらない」と約束したはずなのに、結婚三年目くらいから手のひらを返したように「子供が欲しい」と言い始めた。裏切られたと思った。
初夏の風はどこまでも爽やかで、心の中に巣食う鬱屈した気持ちも全て洗い流してくれるような気がする。この広いルーフバルコニーがあるのは、このマンションの中でも香織の所だけだ。その分、他の部屋よりも割高だったけれども、やはりこの部屋にして良かったと香織はあらためて思った。
二本目の煙草を取り出し火を着けようとした、その時だった。
「眩しい……何!?」
ふいに眩しい光を感じて、香織は手に持っていたライターを落としてしまった。一瞬、何が起きたのかわからなかった。ライターを拾い上げ、気持ちを落ち着かせてからあたりを見回すと、意外な場所にその光源はあった。
その光は香織のマンションから少し離れたアパートの二階らしき所から発せられているようだ。誰かが鏡を使って香織の顔を狙って太陽の光を反射させている。
香織が動くと、その光も一緒に動く。振払っても振払っても、その光は香織の体に吸い寄せられるように貼り付いて、しつこいくらいに離れない。
「まったくもぅ……誰かのイタズラ?」
子供の頃から視力がいい事だけが自慢だった。香織はその強烈な光を避けながら、イタズラの主の姿を確かめようと目を凝らした。その主が、香織に向かって手招きをしているのが見えた。大きく手を振りながら、明らかに香織に誘い掛けている。
香織は自分の中に、得体の知れない好奇心がムクムクと頭をもたげて来るのを感じた。それに、向こうは香織の存在を知ってて仕掛けて来ているのに、自分だけが相手の事を全く知らないのにも無性に腹が立った。香織はその光を連れたまま部屋に戻ると、携帯電話と財布の入ったバックを持って急いで家を出た。イタズラの主を、この目で確かめる為に。
「たしか、この辺だったはずなんだけど……」
マンションを出て少し歩くと、街の景色は一転した。元々、この土地は古くからの工業地帯で、香織の住むマンションのあたりは、大きな工場があった跡地に建てられたものだった。その一帯だけは再開発が進み、道路も広く整備され巨大なスーパーも建てられた。
香織が今、立っているあたりは昭和の高度成長期の時代の面影を色濃く残しており、木造の小さなアパートや昔から営んでいるであろう小さな飲み屋や銭湯などが雑然とした空間を作り上げている。
「おーい、こっちだよ、こっち!」
背後から大きな声がして振り向くと、何軒か先のアパートの二階の窓から見知らぬ若い男が微笑みながら手を振っていた。
「あなた……誰?どういうつもりであんな事したの?」
香織は、不快感をあらわにして男に訊ねた。
「ごめんね、そんなに怒らないでよ。ちょっと話しがしてみたかっただけなんだ。怒らせた事は謝るよ……本当にすみませんでした」
自分よりも十くらい年下だろうか。男は、まだどことなくあどけなさの残る顔で、本当に申し訳なさそうに何度も香織に頭を下げた。
「で、何の目的であんな事を?」
謝られたからって、そう簡単には怒りはおさまらない。香織はぶ然とした表情のまま男を見上げた。
「ねぇ、お腹すいてない?良かったら何か作るから上がっておいでよ」
男は拍子抜けするくらい無邪気な笑顔で香織を部屋に誘った。たしかにお腹はすいていたけれど、見知らぬ男の部屋にいきなり上がり込む事に、香織は女性として当然のとまどいを感じた。
「玄関はそのまま歩いて左にぐるっと回ったとこだよ。二階の五号室だから」
それだけ話すと、男はさっさと部屋の奥に姿を消してしまった。
「ちょ、ちょっと。何なのよ……一体」
香織は納得できない気持ちを抱えたまま、アパートの玄関に向かって歩き出した。いざとなったら大声を出して窓から飛び下りたっていい。普段は慎重すぎるくらいの性格なのに、なぜか今日は大胆な自分に内心驚いていた。
築三十年くらいは軽く経っているだとうと思われるそのアパートは、壁のあちこちが汚れてはがれ落ち、一種、異様な雰囲気を漂わせていた。入り口近くに繋がれた大きな老犬が、薄目を開けてチラッと香織を見てそのまま再び寝てしまった。番犬ではないらしい。
玄関には大きな下駄箱が鎮座しており、住人及び来客者はここで靴を脱いで上がらなければならないようだ。香織は埃っぽい三和土でスニーカーを脱ぐと、下駄箱の一番端に自分の靴を押し込んだ。
五号室のドアの横には『FUKUSHIMA』と書かれた簡単な表札が掲げられている。それをぼんやりと眺めていると、いきなり中からドアが開いて男が顔を出した。
「お待ちしてました。さ、どうぞ、どうぞ」
「おじゃまします……」
香織はドアをわざと少し開けたままおそるおそる部屋に入ると、少し緊張した面持ちで部屋の中をぐるっと見回した。六畳二間ほどの部屋はきれいに片付けられており、こざっぱりした印象を香織に与えた。
「チャーハン、好きですか?」
「え?ああ、まぁ普通に」
「良かった。すぐ作りますから、適当にくつろいでて下さい」
男は冷えた麦茶をちゃぶ台の上に置くと、そのままキッチン(とは言っても、部屋の隅にとってつけたような小さな流し台があるだけだった)に戻り、チャーハンの材料をきざみ始めた。トントントンと包丁を使うリズミカルな音がふたりだけの部屋に響く。
(どうして私、こんな所にいるんだろう……)
何もかもが不思議で、ふと「これは夢なんじゃないか」という思いにかられる。でも夢じゃない。白いTシャツに洗い晒しのシーンズをはいた見知らぬ若い男は、香織の目の前で鼻歌を唄いながら手際よく料理をすすめていく。
「おまちどうさまー。さ、どうぞ食べて食べて」
「……いただきます」
チャーハンをひとくち頬張ると、香ばしいゴマ油の香りが口いっぱいに広がった。たっぷりのネギの香りが食欲をそそる。
「美味しい!」
「そう?あー、良かった」
男は香織の反応を見届けると、満足したように自分も食べ始めた。ヘタな中華料理屋の出すチャーハンよりも、ずっとずっと美味しい。
「ごちそうさま。本当に美味しかった」
「でしょ?実はチャーハンには誰にも負けない自信があるんだ」
男は自慢気に微笑んだ。笑うたびに、長めの前髪がサラサラと揺れ、その奥の丸っこい瞳がまるで子犬の目のようにくるくるとよく動く。
「今、コーヒー入れるね」
「ありがと。あのさ、あんた名前なんていうの?歳はいくつ?」
「名前は福島洋平。福島県のふくしま、に大平洋のよう、にたいらだよ。歳は二十三歳になったとこ」
「二十三!?私よりもちょうどひと回り年下だぁ」
「えーと、あの……」
男は、少し戸惑ったような表情で香織を見た。
「あ、あたし?あたしは安田香織。高い安いのやす、に田んぼのた、お線香のこうに織る。で、やすだかおり。君と同じ未年の三十五歳」
「香織さんかぁ」
「そ。ちょっと煙草吸ってもいい?」
「あ、どうぞ」
香織はバッグから取り出した煙草に火をつけると、窓を大きく開けて満足そうに煙を吐き出した。それを洋平が食器を片付けながら見つめている。
「ここの部屋の窓から、香織さんの住んでるマンションがよく見えるんだ。香織さん、よくルーフバルコニーの椅子に座って美味しそうに煙草吸ってるでしょ。それがなんか気になってて、一度、お話してみたいなってずっと思ってたんだ」
なるほど、ちょうど高い建物の隙間に建つ感じで香織のマンションが一望できる。今までそんな事考えもしなかったけど、あのバルコニーでしょっちゅう主婦がエプロン姿のまま煙草をふかしていれば、それは目立つかもしれない。
「ん……何?ああ、この傷?」
洋平の視線が自分の指先に注がれている事に気付いて、香織は火のついた煙草を灰皿に押し付けた。香織の右手首には直径一センチくらいの丸いやけどの跡がいくつか残っている。
「これ?根性焼きの跡……なんてね。うちの母親の愛人に煙草の火を押し付けられたの。うるさいって。子供の頃の話しよ」
「あ……辛い事、思い出させちゃってごめん……」
「昔の事よ。もう全然気にしてないから大丈夫」
嘘だった。忘れられるはずもない、残酷過ぎる幼い頃の思い出。それは大人になった今でも、香織の心の奥で嫌な音をたてながらくすぶり続けている。
「君……えっと洋平君は、仕事は?それとも学生?」
「働いてたんだけど、年度末で辞めちゃった。なんか俺、駄目なんだ……都会とか……どうしても馴染めなくて。すいません」
洋平は本当に申し訳無さそうにそう言うと、何故か香織に向かってペコリと頭を下げた。そうか、この子も社会に馴染めないはみ出し者なんだ。香織は洋平に妙な親近感を覚え、黙って二本目の煙草に火をつけた。
そんな事があってから、香織は気が向くと洋平のアパートに押し掛けるようになった。時には道すがらスーパーで食料品の買い物を済ませ、豪勢なランチをふたりで作って楽しむ事もある。
洋平は、気のおけない友達のようでもあり、弟のようでもあった。ふたりでたわいないお喋りに花を咲かせ、話し疲れると並んで昼寝をする。金魚が泳ぐ水槽を飽きる事なく眺めて、またお喋り。読書好きの洋平は狭い部屋に不釣り合いなくらいの沢山の本を持っていた。それを読みながら洋平と語り合い、まどろむ時間は香織にとってまさに『至福の時』だった。
「洋平の部屋はさ、まるで楽園みたいだよ。パラダイス!」
「えー?何それ」
「なんかさー、ここに来るとすっごく落ち着くんだよね。不思議。なんでだろう?」
「俺も香織さんと一緒にいるの、すごく楽しいよ」
洋平の事を、男として全く意識していない……と言えば、嘘になる。でも男と女の関係になるのが怖かった。自分が既婚者である事や、あまりにも歳が離れ過ぎている事ももちろんあったけれど、そうなる事で今のこの心地よい関係が壊れてしまう事が何よりも怖かった。
いつまでも過去の傷をひきずる女と、都会に馴染めずにはみ出した男。そんなお互いの傷を舐めあうような関係に今はどっぷり浸かっていたいと、香織は切に願った。
「香織さん、今度神社の風鈴市に行こうよ」
「何?風鈴市?へぇーそんなのあるんだ。いいよ。行こう」
近くの神社では毎年梅雨が明ける頃に、大きな風鈴市が開かれるらしい。
その日の洋平は、なんとなく「心ここにあらず」といった感じでぼうっとしていて元気が無かった。香織ももちろん心配ではあったけど、こっちからあれこれ詮索するのもどうかと思って黙っていた。
風鈴市の日は、朝から真夏の強い日射しが容赦なく降り注いでいた。時折、熱風とも思える湿気を含んだ熱い風が吹くたびに、色とりどりの鮮やかな風鈴達はその体を揺らして美しい音色をたてた。
「うわー、すごい綺麗!夏らしくて風情があっていいね」
露天の屋台で冷えたラムネを買って、ふたりで飲みながら歩いた。こうやって仲むつまじく歩く自分達の姿は、端から見ると歳の離れた姉弟に見えるのだろうか。店先のガラス戸に映るその姿を、香織は少し複雑な気持ちで眺めていた。
「香織さん、この風鈴可愛いよ!ほら、この赤い金魚のやつ」
「あ、ほんとだ。可愛い」
「俺、これ香織さんにプレゼントするよ」
「いいの?……ありがとう」
ふたりは風鈴をひとつ買うと、またぶらぶらと歩いて神社の境内の脇に腰を下ろした。香織の指先には、赤い金魚の描かれた風鈴が涼し気な音をたてている。
「話しがあるんだ」
風鈴の音色を遮るように、洋平が真剣な面持ちで切り出した。
「今住んでるあのアパート、取り壊される事になったんだ」
香織は黙ったまま、洋平の話しに静かに耳を傾けていた。木陰はまるで別世界のように涼しい。蜩の鳴き声が高い空に響いている。
「それで、俺、この機会に田舎に帰って家業を継ごうと思うんだ。オヤジももう歳だし。いつまでもブラブラしてる訳にもいかないし」
「家業って……?御実家は何をしているの?」
「……中華料理屋」
そう答えると、洋平は香織の肩をそっと引き寄せた。蝉の声がひときわ大きくふたりの上に降り注いだ。
八月の終わり、香織の元に一通の絵ハガキが届いた。
『安田香織さま
残暑お見舞い申し上げます。
お元気ですか?俺は汗ダクになりながら、チャーハンを作る
毎日です。俺もがんばります。香織さんもがんばってください。
福島洋平
P.S タバコは控えめに!!!』
それを読むと、香織は笑いながら煙草の火をもみ消した。
あっという間の、夢のような日々だった。洋平は確実に香織の心の中に何かを残し、そして変えて行った。心の傷はそう簡単には癒されないけれど、あの楽しかった楽園の日々が、これからも生きて行く為の少しの勇気を香織に与えてくれたような気がする。
もうすぐ夏が終わる。ツクツクボウシがあちこちで名残り惜しそうに鳴き続けている。来年、また真っ白い入道雲が空に沸き上がる頃までに、また見つけられるだろうか。作り上げる事ができるだろうか。自分だけの楽園を。
香織は絵ハガキをエプロンのポケットにしまうと、替わりに煙草を一本抜き取って指に挟んだ……けれど、黙ってそれを元に戻して立ち上がった。
風が吹くたび、バルコニーの手すりに掛けられた風鈴が、ちりんちりんと心地よい音を奏でた。香織はそれを聞きながら、よく乾いた洗濯物をリズミカルにランドリーバスケットに放り込んでいった。