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第2回6000字小説バトル Entry11

その明け方をおよぐひと

 海の音は重砲になり、繰り返し午前三時を揺り起こす。世界全てが誰かの心臓の様に鼓動するその夜の海と風は眠る事を許さない、多分、もう二度と。
 リズムを失った風景と自分の体を感じ乍ら生島は思う。
 傍を歩く女の素肌は、彼女があれ程迄に自慢した馬鹿馬鹿しいジバンシーのコートのたてた襟から2センチ程白く覗く首であり、それですら直ぐに長い髪と不分明に混じり合った闇の群れに溶けて行くのだ。一体今自分がどんな感情を持つべきなのかまるきり彼は分からず、そうなると本当にどんな感情も自分の中には止まらない事を知った。それではとどこかから借り物を持って来る事は今迄の人生で散々やって来た事故に容易かったが、それをしたくない生島は結局漠然とした記憶を垂れ流し乍ら変に安定しない体を持って彼女を何も言わず追い続ける。
 そう、借り物はもう許されない。例え愛しさと言う感情はそれで代用がきくものだと知っているにしても。
 コートの下は薄いパジャマだけ、薄着で彼等は二月の世界を歩いている。
 風が心臓の位置から吹き荒れ闇をも流す真夜中の海を、まるで酔っぱらった二匹の犬の様に何かを探して歩いている。

-1-

 真冬子(まゆこ)の父親が死んだのは海が黒く染まる冬だった。
「自殺ですって」
 プラスチックで出来た様な妙に軽い声だった。生島が真冬子を覗き込んだのはそれなりの必然性があっての事だ。本当に彼女がここに居る事を今その瞬間に確認しないと彼女は消えてしまいそうだった。モノクロのコート(ジバンシーらしい)を思う様風に靡かせ、膨れ上がる海を前に真冬子は突っ立っていた。
「そうか」
「生島。私は自由なのよ」
 まるで黒い鳥で出来ている様な偽物めいた海だ。あれはきっとその内全部飛び立って空を埋める。
「自由って私はもっと違うものだと思ってた。夜明け頃に夏の海にコーラ飲んで一人で泳ぐみたいな、そんな清々したものだとずっと思って、欲しくて、どんな卑しい事でもするつもりだったの。
 父が死んで私は自由よ。
 でも、私が望んだ海はもう二度と見られない気がするの」
 掠れた声の向こうにいるのは、望んだ通りの女にはなれない一人の怯えた子供だった。それだからその怯えを捕まえ、殆ど条件反射の様に生島は言ったのだ。
「じゃあ俺とまた恋でもしてみるか」
 自分が容易くこなせる同情だと知っていたから恐らく彼はそう言った。真冬子は驚きもせず自分を見、それから海を見た。「この向こうに私が生まれた場所があって」声に殆ど出さず呟く声が聞こえる。「そこでお父さんは絶望したのね」

 それが肯定の返事の恋を彼等は始めた。

-2-
「真冬子、元気そうだったね」
「ああ」
「三十になってもまだきれいだ」
「…ああ」

 真冬子と彼女の父親との確執は要するに、田舎の厳しい父親と野心家で優秀な娘の間に起こるであろうそれだ。何処にでもある平凡な哀しみで平凡な苦痛なのは間違いないが、それだからと言って彼女の痛みが軽減される事も無論ない。
 大学時代、彼女の最も親しい友人であり一時期は恋人どうしでもあった生島は、彼女が父親の事を俗物だと憎み軽蔑し乍らも怯え切っているのを知っていた。要するにそれが彼女と恋人で居られなかった理由だ。何処か楡の木を思わせる、凛とした姿と気質の彼女の中にあるその膿を、遂に生島には許せなかったのだと思う。
 その事について後悔した事はない。実際、別れた後も彼等は確かに友人であり続けた。少なくとも生島にとってはそうだ。実際、卒業し結婚し、仕事に忙殺され挙句離婚していやに身辺がすっきりしてしまうと、そんな時でも「友人」と自分を呼んでくれそうなのは暫く連絡をとっていない彼女くらいに思われたのだ。
 実家に電話をすると泣き腫らした声の彼女の母親が出た。そして聞き出した知らない海へと、生島は自動車を走らせたのだ。

「同じ恋をするつもりかい?」
「何だって?」
 真冬子と付き合い出してからと言うもの、酒を呑む度に現れるこの年若い友人が誰かと言う見当は生島には付いている。呑んだ頭で一々正確な思考をしないだけの話だ。只分から無いのは何故今更彼が現れる必要があるのかと言う事だ。つらつら表層だけをなぞる思考をして居ると、彼は静かな声で続きを話しだす。
「あんたがあんたを繰り返し、その外に飛ぶ気がないのなら、真冬子に欲しがるものでも買ってやって、あんたの立場をゆるがせない程度の優しさと同情とで接してやればいい。
 でももしあんたが間違って居て、失うべきではなかったものを失ってしまうのなら、あんたは深夜、昔の自分の稚拙さを過ぎる程に悔いる事になるんだよ」

 その夜の話題は実に散漫だった。直ぐに他にうつり、互いに少しは笑った。その流れの中で生島は酔い矢張笑い、目が覚めた自分のベッドにどう戻って来たのかすら記憶は曖昧だった。

-3-
 真冬子と生島の恋は、それが恋と言えるなら、それなりに滑り出していた。
 「恋人って何をするものなのかしら」と途方に暮れる真冬子にたいし、生島はその答えを知り尽くしていたからだ。生島は今迄自分に附随する全ての出来事と感情を分析し収め所を見つける事で、降り掛かる膨大な事態に対処していた。「恋人のすること」頭の何処かに入っているそれを言って聞かせる。
「夜中に電話するとかな、食事一緒にするとか」
「セックスは」
「それなりに折を見て。それとドライブ、」
「生島」
「なんだ」
「恋って出来事の集積なの?」
「人生だってそうだ」
「そうじゃなくて選択して自分を恋って言う状況に置くんじゃないの」
 恋をしようと言ってから彼等は休日毎に会う事にしていた。会った所で始まるのは堂々巡りの状況分析の真冬子について、鬱陶しさと哀れみをバランスよく持てるのが多分自分という男なのだ。
 その日彼等が選んだのは、真昼のドライブだった。ろくに鋪装されていない道路を走る内に海に行く筈だった道を僅かに外れ、そしてもう戻れなくなっていた。潮の匂いの微かにする街並を、おそらくはこの家々の向こうにある海を感じ乍ら彼等はもう三十分ばかり走り続けている。
「いくしまは」
「ああ?」
「生島は何で恋なの?」
 助手席を見ると、彼女は首だけを勢い良く窓の外に向けてあとは深く椅子に寄り掛かっている。大学時代とさして変わらない端正な容貌が少しだけやつれ、ターコイズブルーのセーターから出て居る白い首だけが変に生々しかった。殆ど影になった彼女の体のそこだけに日が当たっており、そういえばこいつは色白だったななぞと考えていると彼女はぽつりと呟く。
「なんで私の事好きなの」
「父親を亡くしたお前に同情しているからだ」
「それは半分ね」
 煙草の灰を落としがてらそちらにもう一度目を向けても彼女は姿勢を崩さない。そして彼女の言葉に疑問を持つより早く真冬子は重ねて問うて来る。
「何も私達の関係は恋でなくとも良かった筈だわ。
 どうして?」
 エンジンの回る音がする。
 潮の匂いはもう無くなっていた。きっともう自分達は海から遠い場所に居るのだ。横で真冬子がふふ、と笑う気配がし、同時に彼女は見えない海を探す様に窓から身を乗り出した。

 真冬子は夏の海は白と黒と青なのだと言った。随分寂しい取り合わせだなと納得行かずに呟く生島に笑い「明け方の海をおよぐひとの色よ」と答えた。
「私の知ってる海には二つある。一つは両親と見た真昼の海で、もう一つは夜中に起き出してホテルを抜け出した私だけの、明け方の海よ。
 地元の子が瓶のコーラを飲み干して放り出して、そのまま海に入って行ったの。真ッ暗な海だったのに火がついたみたいにざーっと青くなってね。夜が終わったのよ。空はまだ暗かったけれど朝が来てた。
 けど私は海に入れなかったの。
 その子はどんどん沖に泳いで行くんだけど、私は行けなかったのよ。ホテルでお父さん達が待ってる。
 そう思って、行けなかった」

 道路に転がって来たコーラの瓶が間に合わずに生島の車の下で砕ける。
 その事について話し合う事も無く、その日の彼等はそして別れた。

-4-
 同情だと言われても真冬子は生島と恋をし続ける事が出来た。
 生島は面と向かってそう言っても収める事のできる人間としか恋をした事がなかったし、実際それ以外の方法は知らなかった。出来事と感情なら、生島は徹底的に出来事を選んだ人間なのだ。出来事を客観的に分析し系統的に整理する事で彼は人生を渡って来れた。一つの出来事にはそれに附随する計算された量の感情。それを超えるものは膨大な出来事の波の中で過ぎる彼の身を滅ぼす。定量を守ってさえ居れば、彼はいつも「与える側」の人間として安定した立場を保ち続けられるのだ。
 同情だと分かって居ても真冬子は生島と恋をしていた。

 「何故だ?」

 面と向かって同情でしかないと宣言されたのに、真冬子は生島を恋人だと言い続ける。だってそれは

 深夜自室のベッドに眠り乍ら、分かっているはずの答えを生島は見失っていた。

「真冬子、もう直クリスマスだろう。お前の欲しいものは何だ」
 その日も彼等は海に行けなかった。「かっなわないわねー。何処にあるのかしら」と笑う真冬子を見、自動車と人とでごった返す夕暮れの信号待ちのバスの中、生島は問い掛ける。
「あー、要らないわ」
「俺がやりたいんだ」
「欲しいもの今ないのよ」
「海は」
 急に言った生島に真冬子は振り返る。
「お前、いつか言ったろう。白と青と黒の海が欲しいって。それを俺はやる」
 真冬子の目の中に一瞬あった驚きは、まるで間違って空気中に出てしまった揮発性の液体の様に一瞬で何処かに溶けてしまった。その感情が実に久し振りに見るものだという事を、生島が自分の中で反芻する前に、無くした目の光を隠して真冬子は少し笑った。
「やっぱり無理ね」
「あ?」
「恋とか、いいでしょう、もう」
 珍しく真冬子は目を逸らさない。微笑んだまま、彼女は静かに言葉を続ける。
「私達きっと無理なのよそういうの。生島は借り物をあげるのに慣れてるし、私はそういうのを受け取る事に慣れてる。
 きっと、私達は最初から間違っているのよ。
 あなたは本当に白と黒と青の海に物凄く似たものを私にくれるだろうし、そして私はきっとそれで本当にちゃんと嬉しいんだわ。
 でも私達はきっと疾っくに知ってる。
 あなたは私にくれるものは偽物で私が全然そんなの欲しくないって事、私はあなたがそう思って居る事と、だのに自分にすら上手にそれを隠し通す事を知ってる。
 私はもう、偽物は要らないの。
 生島の偽物は精巧で、ほんと、きっと本物以上だけど、だとしても、あなたも偽物をくれてやる人生はもう止めなきゃね」
 彼女は急に立ち上がってバスを降りた。驚いて止める間も追い掛ける間もないまま雑踏の中バスはうるりと動き出す。
 生島は窓ガラスに両掌を付けて真冬子を目で追った。真冬子は何か喚いて手を振っていた。そして笑って、背を向けた。

 バスが山肌に近付く頃、その向こうに真冬子が居た窓から遠くうすりと光る海が見えた。自分達が辿り着く事のなかったその場所を白でも青でも黒でもないと、座る事も出来ない男はぼんやりと考えた。

-5-
 「無くしたのか」
 深夜、広い部屋に一人でまんじりともせずに居た生島に傍から声がする。部屋の闇と沈黙とを一枚の薄布にした様な、そんな冷たい温度の声と気配だった。
「なあ」
 生島は声をかける。
「どうしてお前はここにいるんだ」
「あんたが望んだからだよ」
「俺が?」
 発する声に思うより力はない。
「真冬子がどうして同情だと宣言したあんたと恋をしようと思ったか、そしてどうしてあんたはその答えを知らないか教えてやろうか。
 あんたは真冬子に恋をしようと言った時の自分の顔を自分で分かって居ないからだよ。
 あんたは泣き出しそうな顔で真冬子に言ったんだ。恋をしようって。僕が真冬子に言ったのと同じ表情で、そう言ったのさ。
 あんたはそれを知らないけど真冬子はずっと知っていた。父親を亡くした自分に縋っている寂しい男はあんたの方だって事を、
 あんたは自分でも気付かずに恋をして居る事を
 ずっと分かっていたんだよ」
 『そのまま、生島、乗って居なさい』昼間叫んで居た真冬子の声が耳に蘇る。『そのバスに乗ってれば、きっと、海が見える。あなたは、そのまま、海を見るのよ』
「あんたはだから途方にくれたんだ、僕を呼び出すくらいに」
「お前は」
「失ってしまった二十歳の自分を、現在の自分を責める為に呼び出す位に」
「お前は真冬子と恋をしたんだな」
 闇に囁きが二粒落ちる。

 初めて会った二十歳の真冬子は長い髪をして頬笑んだ。「いつか私きっとあなたと海に行くわ」
 滅多に彼女は笑わないのだと聞いたのは随分後だ。「予感がするのよ」
 木の匂いのする柔らかな声だと、自分はあの日そう、思ったのだ。

-6-
 海鳴りがする。

 自動車を降りた夜の海はただ波の音だけが響く大きな空洞だった。空迄昇り跳ね返って地に降りる海を聞き乍ら生島は乗り捨てられたもう一台の自動車から続く裸足の足跡を辿る。
 俺達は見つけられるだろうか。彼女が怯える過去を超える事はできるだろうか。その海を超えて彼女が望む海を見つける事はできるのだろうか。
 遠くに人影が揺らめいている。走るこちらの足音が例え聞こえたとしても、彼女は振り返る事はないだろう。パジャマに引っ掛けたコートのまま生島は走り出す。

 探しに行こう、真冬子。
 お前の見たがっている白と青と黒の海を探しに夜の果て迄歩こう。

 あと三時間で朝が来る。
 その先に見える海の色を俺達は知らない。

 海の音は重砲になり、繰り返し午前三時を揺り起こす。世界全てが誰かの心臓の様に鼓動するその夜の海と風は眠る事を許さない、多分、もう二度と。
 リズムを失った風景と自分の体を感じ乍ら生島は思う。
 決してこちらを振り返らず傍を歩く女の素肌は、彼女があれ程迄に自慢した馬鹿馬鹿しいジバンシーのコートのたてた襟から2センチ程白く覗く首であり、それですら直ぐに長い髪と不分明に混じり合った闇の群れに溶けて行くのだ。一体今自分がどんな感情を持つべきなのかまるきり彼は分からず、そうなると本当にどんな感情も自分の中には止まらない事を知った。それではとどこかから借り物を持って来る事は今迄の人生で散々やって来た事故に容易かったが、それをしたくない生島は結局漠然とした記憶を垂れ流し乍ら変に安定しない体を持って彼女を何も言わず追い続ける。
 そう、借り物はもう許されない。例え愛しさと言う感情はそれで代用がきくものだと知っているにしても。
 コートの下は薄いパジャマだけ、薄着で彼等は二月の世界を歩いている。
 風が心臓の位置から吹き荒れ闇をも流す真夜中の海を、育ち初めの恋を抱えて、朝に向かって歩いている。

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