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第2回6000字小説バトル Entry18

なみだみち

「やっすなが、やっすなが」
体育館を震わすような大歓声と手拍子の中、安永は真新しい白いバレーボールを大事そうにその小さな胸に抱え震えていた。体育大会で一番の盛り上がりを見せるバレーボールの決勝戦、マッチゲームのデュース。一番の大切な場面でサーブの順番が回ってきたのはその日ほとんどサーブの入っていない安永だった。

 三十年近く前の中学での体育大会、学年最強と謳われたバレーのチームに学年一体が小さく、運動神経が鈍く、ついでに成績も悪い絵に描いたような劣等生の安永を入れたのはあいつにも勝利を味あわせてやろうというのが表向きの理由だったが、もちろんバカにするようないじめ半分の気持ちや負けてしまったときの言い訳になるといった理由がなかったとは言えない。クラスのスポーツ神経万能な人間ばかりを集めたバレーのチームに安永を入れることが既にいじめのようなものだったようにも思う。それでもあの日のバレーボールを安永を含め僕たちは楽しんだ。サーブはほとんど入らなかったが、それまでだったら顔をそらしていたようなスパイクをいくつもレシーブし、ネットの上に手が出なくてスパイクは打てなかったが、ここぞというときにいくつかの絶妙なトスを上げた。他の五人がクラストップのスポーツマンだったわけだから当然といえば当然だったが決勝で最大の敵である六組と当るまでは一セットも与えることなく勝ち続けた。この秋の季節にはいまでも明け方の夢の中、あの日のことを思い出す。

「お腹が痛い」
体育大会の近い十月のこの季節に次男のシンジが良くそう口にするようになったのは中学に入った去年からだった。まさかスポーツ万能だった自分の息子が運動が出来ないなどとは思ってもみなかったが二年連続なのを不審に思った妻が担任の先生に聞いたらしい。「別にいじめられているわけではありません。ただ運動が苦手で体育の時間になると友達から疎ましく思われることはあるみたいなんですよ。ただ成長期ですからじきに体も成長すると思いますし…」信じられないことだった。自分自身スポーツマンであることは自他共に認めるところだし、妻も大学時代に山岳部で知り合っただけに世間よりはタフだろう。長男のマサオに至っては高校で長距離走と水泳のエースであり十五キロある学校まで電車を使わず毎日自転車で通う親から見ても大したスポーツマンで将来はトライアスロンでもするんじゃないかと思える程だ。
 だからシンジがスポーツ音痴であるなど信じられるものではなかった。いや、本当は認めたくなかっただけなのかもしれない。分かっていた。体は一般的平均から見てもかなり小さいし、小学校の運動会でもびりっケツが多かった。泳ぎのほうも金槌に近かった。それを父親として心配したことは一度もなかった。しかし「運動が出来なくてもいいんだ」と言ってやったことも、思い返せば一度もない。「すぐに大きくなって運動も得意になるさ、父さんの子供だからな」と言い続けてきた。シンジは中学二年生で、今でもクラスで一番背が低い。
 学校休むと言い残し自分の部屋に戻るシンジの後ろ姿を眺めながら飲む朝のコーヒーはなんとなく無機質で味がしなかった。このぶんではテーブルの上に並べられたベーコンエッグとサラダとイングリッシュブレッドのオシャレな朝食も味がしそうにない。西洋風の朝食は結婚するときに僕がリクエストしたものだ。実家はずっと御飯に味噌汁に納豆だったが、だからこそなのかテレビに出てくるオシャレな西洋風に朝食とそのゆったりとした雰囲気に憧れていた。妻は律儀に毎日オシャレな朝食を作り続けてくれている。自分の子供じみたわがままに付き合ってくれてることに大きな感謝はしている。でも頭の片隅でシンジの体が小さいのは朝食のせいかもしれないと思うこともある。パワーの持ちが違うそうだ。テレビで言っていた。長男のマサオのほうが単に特別に頑健にできているだけなのかもしれない。もちろんなんの確証もない話だ。ただキレイに並べられた幸せを絵に描いたような朝食を見ているとときどきやりきれなくなる。シンジは最近は朝食を食べない。朝の早い商社勤めの僕にも最近はゆっくり朝飯をとっている時間がない。昔よりわずかでも多くの睡眠を体が欲するようになってきてパンだけくわえてドアから飛び出すこともたまにある。全て食べ尽くすのはマサオだけで、毎朝手の込んだ朝食を作るために早起きしている妻も最近は用意した半分程しか食べない。やはり若くないということなのだろう。それでも妻は毎日完全な朝食を作り続ける。家族をきちんと維持させる基盤を築くように。

「あなたどうするの?」
マサオが朝食を平らげ元気よく出ていったあとで妻が口火を切った。何かをしなければいけないという確固とした意志の伝わる言い方だった。確かになにかしらの行動が必要なのかもしれない。弟の部屋を寂しげな目でちらりと見ながらも元気な振りをして家を出るマサオの姿が痛ましかった。しかしいったいどうすればいいというのだろうか。想像のつかないことだった。自分だけじゃない。妻もマサオもきっとそうなのだ。
「様子を見る」
俯いたまま言った。
「それでいいの?」
妻が聞いてくる。なんとかしてよ、という聞き方じゃない。妻にも分からないのだ。
「分からない。その…いじめとかに発展したりするのかな?」
妻は朝食にはほとんど手を付けずコーヒーだけを啜る。
「先生は大丈夫だろうって。でも…」
分からないわ、と言葉の続きは容易に想像できた。間違ってもシンジを疎ましく思うことだけはしたくない。それでも心のどこかで家族をシンジと他の三人でタイプ分けしてしまっている自分を見つけてしまう。シンジの気持ちだけがいつからか霧の中にあるように見えなくなっていた。
「オレの考えとかやり方がシンジが望むものかは分からんが…帰りに学校にいってみるよ。できれば昼くらいからでもシンジに学校に行かせて欲しいんだ。自分のいないときに親だけ学校にっていうのもあとからばれると気分悪いだろ」
「どうかしら。正直分からないの。わたしだったらそうでも、あの子がそうかどうかは分からないの」
親失格という言葉が頭を渦巻いた。話はそこで途切れてしまい、どうしようもなくて「行ってくるよ」と玄関のドアを開けた。

 昼休みに二度程携帯電話が鳴った。最初の電話は妻からだった。シンジが昼前に学校へ行ったということだった。どういう会話をしたかは聞かなかったが妻の声は軽くはなかった。たぶん僕の声も重かったろう。これで僕も学校に行かないわけにはいかなくなったわけだ。
 妻からの電話を切ってから五分と置かずにかかってきた電話は中学の時の同級生、あのバレーの大会で安永やオレと同じチームにいた古賀からだった。この週末、六年前にガンで死んでしまった安永の七回忌にあのバレーチームの五人で線香をあげに行く予定だった。家業である文房具屋を継いだ古賀が会社勤めよりは自由が利くと連絡役になっていた。
「ああ、古賀だけど。なあ、おまえ日曜予定通りで大丈夫か?」
「オレは大丈夫だ。みんなは?」
「大丈夫みたいだぜ。まあ、大切な友達の命日だし、幸いみんな近くにいるしな」
「まあな。でも不思議な縁だよな」
「そうだな。あのチームがこんなに続く友達になるとは思ってもみなかったな」
短い会話のあとで電話を切った。確かにあの決勝戦のあとで僕たちは親友といっていい友達になった。試合後も強く結びついたままのスポーツマン集団の中にひとりの落ちこぼれのチーム。はっきりいってスポーツでも学問でも大きく差のある僕たちと一緒にいるのは安永にとってそれだけで苦痛だったはずだ。劣等感を持たないというわけにもいかなかったろう。そんな中で何倍も苦労し努力したはずの安永が誰よりも早くガンで苦しんで死んだのは不運の一言で片付けるにはあまりに惨い出来事だった。
 
 仕事を早めにあがってシンジの通う学校に向かった。体育大会の練習にきちんと参加していればまだ学校にいるだろう。そういえばシンジの参加する競技もバレーボールだと言っていた。一緒にするわけではないが昼に古賀と電話で話してからシンジと安永がなんとなく重なって見えた。駅から学校に続く長い道を夕暮れの中自分の長い影を追い掛けるように歩く。校門が遠くに見えたとき何人かの学生服姿が固まって出てきて、そのあとから少し離れてもうひとり出てきた。シンジだった。付かず離れずのところをゆっくり歩いている。前をいく五人はみんないい体格をしていた。どうすればいいか分からなかった。明らかに仲間外れだったが特にいじめられているというふうでもなく、むしろシンジのほうから距離を置いているようにも見えた。下手なことをすればもっと悪い方向に進んでいくかもしれない。そう思って足を止めたが、その影の先に見える学生服姿が一瞬だけかつての自分達と重なり、そして元に戻った。シンジの気持ちになってやることは例え親でも難しいのかもしれない。気持ちになれたとしても答えが出せるかは分からない。ただ僕にはそれがなにか間違って見えた。まだ暖かい夕日に照らされてるのに前を行く人影は冷たい雰囲気を纏っていた。シンジも少し先を歩く五人もなにかやり辛そうに見えた。何をどうすれば分からなかったが足は小走りにシンジを追っかけていた。
「シンジ、今帰りか?」
後ろから肩をポンと叩いた。シンジが驚いて振り返り、前を行く五人も振り返った。シンジの顔がみるみる曇っていった。こういう風景を親に見られることと、それをクラスメートに見られることはシンジにとってはひどく自尊心を傷つける辛いことなのかもしれない。すまないとも思う。親としては失格だろう。でも本当に分からないのだ。だからやってみるしかない気がした。
「どうだ、体育大会の練習は。順調か?」
「別に…」
シンジは俯いたまま言った。先の五人も押し黙っている。会話は聞こえているはずだ。
「なんだ別にって。お前勝ちたくないのか?」
酷い一言だった。でも反応して欲しかった。勝ちたい。でも自分がいることで勝ちから遠のいていく矛盾を悩み、それでも闘って欲しかった。安永とシンジを重ねた。でもシンジは俯いているだけだった。何も言わなかった。取り返しの付かないことをしてしまったんじゃないかと恐怖が心に湧き出てきたとき、シンジが足を止めた。先を行く五人も足を止めた。シンジの足元に大粒の涙が流れ落ちた。
「僕だって…勝ちたいさ」
五人が振り向いてシンジを見ていた。やがてひとりが言った。
「だったら明日からもちゃんと来いよ」
次々と言葉が降り掛かる。
「泣いてんじゃねえよ」
「頑張りゃ勝てるって」
「ひとりで勝手に諦めねえでくれよな。優勝狙ってんだから」
僕は五人に会釈をした。その中のひとりが突然大声でシンジの名を呼んだと思うと顔をあげたシンジに大きく手を振りながら言った。
「おまえならできるって。期待してんだからな。じゃあ、明日な」
五人が大きく手を振りながら小走りに去っていった。シンジが遠のいていく影に大きく手を振り返していた。僕は彼等の言葉をもう一度頭の中で繰り返した。あの日のことが胸に浮かんだ。

 あの日の安永の最後のサーブは宙の高くに舞い上がった。割れんばかりの安永コールの中、ベースラインに立ち震える手でボールを持っていた安永は突然の叫び声とともにサーブを放った。喧噪は途絶え、誰もが放物線を描くボールの行方を目で追った。高く舞い上がったボールはまさにコートの真中、ネットの上にめがけて落ちてきた。祈った。僕たちだけじゃなかっただろう。面白半分で安永をバカにしに来ていたはずの観客もがみんな祈ったはずだ。ボールはゆっくり落ちてきてネットに当り、そして僕の目の前に転がった。落胆の声が観客から聞こえ再び安永コールが沸き起こった。安永はいつもそういうときにするように片手を頭の後ろに当てて誤魔化し笑いを浮かべて「ごめんよ。やっちまったよ」と言った。その姿がまたみんなの笑いを誘った。近ごろの陰湿ないじめではなかったがやはり一種のいじめだったのだろう。安永はそんな自分をも笑い飛ばすタフさを持っていたのかもしれない。「おまえら笑うなよ−」みんなの期待する言葉がまた笑いを誘った。ただコート上の僕たちは見逃さなかった。安永コールが始まるまでの短い間、あいつは奥歯を噛み締め悲痛な表情をしていた。見ているこっちの顎が痛くなるくらいの悔しそうな表情だった。
 試合には負けてしまった。その日の帰りには誰から言い出したともなくチームの六人で帰ることにした。下駄箱の踊りはで「ごめんよ」と言い続ける安永に僕たちは「気にすんじゃねーよ」と肩を叩き校門の先、夕日が影を長く延ばす道を歩いた。あのサーブが良かったとか、あのレシーブは奇跡的だったなとかガヤガヤと話ながら歩いていた。そして突然みんなが黙った。安永が涙を流していた。
「ちくしょう、悔しい」
安永は呻いていた。僕たちは押し黙っていた。考えてみればみんなの晒しものにされて笑われたのだ。あの安永コールはどれ程深く安永の心を突き刺したのだろうかと思った。
「勝てなかった…もう少しだったのに」
そのときみんなが息を飲んだ。安永が泣いたのはそういうことではなかったのだ。自分がすごく嫌らしくて悲しくはないけれど泣きたい気分になった。あいつも勝ちたかったのだ。僕たちと同じように。いやたぶん、僕たち以上に。
「今日は勝てると思ったんだ。みんな上手いし、僕も一生懸命やったのに」
夕日が暖かく体を包んでいた。やがてリーダー格だった鈴木が言った。
「勝てるさ。次は」
「泣くんじゃねえよ」
古川が肩を叩く。
「でも、あんなに頑張ったのに勝てなかった。どうしたら勝てるんだよ」
「頑張るしかねえだろ」
「あきらめなきゃ大丈夫さ」
古賀と鴫原が安永の顔を覗き込んで言う。やっと顔をあげた安永に僕は笑いかけて言った。
「おまえならできるよ」
赤い夕日の光は僕たちの弱さを照らし出し、そして暖かく包んだ。きっと僕たちはこの先ずっと友達で、きっとお互いの存在が必要になるんだろうなと漠然とだけど、はっきりそう思った。

 もう薄暗い夕闇の中、シンジとふたり黙って歩く。これで良かったのかどうかは分からない。親としては少し情けないが僕がどうにかしてやるべきことでもない気がしていた。ここに来る前は安永の話をしてやろうとも思っていた。でもいまはその話をしてやることもないんだと思っている。シンジの身にはこれからも辛いことはたくさんあるだろう。それはきっとマサオも同じだし、僕と妻にとってもだろう。いつかいまが思い出となったそのときこそ安永の、僕たちの話をしてやろう。
 振り返ると沈みかけた夕日の中にあの日の僕たちが見えた気がした。

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