第2回6000字小説バトル Entry17
メリサの後方、テラス沿いの席の辺りで、かしゃん、と音が上がった。
「ごめんなさい」
盆を落としたのは、くすんだブロンドのウェイトレスだった。謝りながら割れたグラスのカケラを、いかにもおっかなびっくりといった手つきで拾い集めている。
「良いのよ。慌てなくても」
側の席にいた品の良いロングワンピースを着た婦人が微笑んだ。
「慣れてないのだものね、仕方無いわ。どれ、私も手伝いましょう」
「え。いや、大丈夫ですよ、一人で出来ます」
「良いのよ遠慮しないで」
「じゃあ私も手伝おうか」
「私も」
ウェイトレスの周りに、にわかに人だかりが出来始めた。
「あ、有り難う御座います」
申し訳無さそうにそのウェイトレスは、顔を俯かせた。
「良いのよ。ねえ、あなた、何年生?」
「二年です」
「そう。じゃあ今年が初めてね。頑張ってね、すぐ慣れるわ」
「はい、有り難う御座います」
「頑張れよお嬢ちゃん」
「楽しいよ、ここは」
仲良くグラスの始末をしながら、人々はその若い、まだそばかすの残るウェイトレスに笑いかけた。
ウェンストンホテルは、この時期だけ学生寮めいた雰囲気に包まれる。教育者でもあるオーナーの「良い環境で働くのは最大の学習である」という意向から、この夏休みの時期だけ地元のウェンストンスクールから学生をアルバイトとして大量に受け入れるのだ。
毎年、学生の4割が参加すると言われているこの伝統は、既に今年で30回を越える、ウェンストンの夏の風物詩になっていた。
ホールはがやがやとした活気に包まれている。その中で、ただ一人メリサだけが黙って荷物をまとめ、席を立っていった。
別にあのウェイトレスやスクールの卒業生達が悪いわけでは無かったが、やはり気が散った。中庭で煙草でも吸ってから自室に戻って仕事の続きをしよう。メリサはそう決めた。
中庭への廊下は、アテネ様式の凝ったレリーフに埋め尽くされた、そこだけでもかなりの美術品的価値が有りそうな、荘厳な作りになっていた。非常に天井が高い。見上げると、天井も見事なレリーフで覆われている。
確かにそれは素晴らしい眺めだった。
壁や柱は綺麗に埃一つ無く磨き上げられ、一糸の乱れも感じさせない。良く見れば長い年月が所々を犯し、傷や痛みが有るには有ったのだが、それらも、この美しい廊下にさらなる深みを与える、手の込んだ細工のようにさえ思えた。
メリサは回廊の見事さに感嘆し、立ち止まる。
(ここもあの時のままか)
その時だった。
廊下の奥、中庭の方で声がした。
言い争っているような激しい声。
メリサが行ってみると、中庭の奥に二人の男がいるのが見えた。一人は背が高く、横幅もがっしりとした黒髪の男。もう一人の眼鏡を掛けている方は、それより若干背が低く、横幅も細かった。
顔付きや物腰から、アルバイトの学生達に間違い無かった。
「なあ、何もあんな風に言う事は無いだろう? もうちょっと皆に気を使ってあげてくれよ」
眼鏡の男の方がどうやら何かを諭しているようだ。
「わざと嫌われるような態度をとることは無いじゃないか」
「うるせえ」
背の高い方は、獰猛に吠えた。
「貴様に何の関係がある。いつもそうやって偉そうに説教くれやがって。何様のつもりだ」
びんと通る声だった。背が高いのもあり、そうやって大声を出すとなかなか迫力があった。
「別に説教をしてるつもりは無いよ」
男の声に負けずに、眼鏡をかけた男は静かに答えた。細い見かけに寄らず、こちらも堂々とした態度だ。
「そういう風に取られていたならこちらが悪かった、謝るよ。済まない。ただ、僕は君のことを思って」
「黙れ」
「黙らないよ。大きな声を出したって無駄だ。なあ、ウェスカー。ちゃんと話し合おうよ」
「馴れ馴れしくウェスカーなんて呼ぶな。級長だか何だか知らんが偉そうにしやがって」
「級長とかそんなものは関係無い。ただ、僕個人として君と話がしたいんだよ」
「俺はお前と話なんか無いんだ」
「ウェスカー。君は一体何が気に入らないの?」
「黙れって言っているだろう」
「ウェスカー」
「黙れと言うのが解らんのなら」
ウェスカーと呼ばれた男は、いきなり相手に飛び掛かった。胸ぐらをその大きな手で掴み、体重を掛け、相手を地面に押し倒す。
「何をする、離せ」
「てめえは前から気に入らなかったんだ。アラン、良い機会だ。ここで決着を付けようじゃないか」
「僕は君と殴り合いなんか望んではいない」
押し倒されながらも、そのアランと呼ばれた男は、もがこうともせず、真っ直ぐ相手を見つめている。
「僕が気に入らなければ殴れば良い。だけどウェスカー、その後でも良いから、僕の話を聞いてくれないか?」
「貴様」
ウェスカーは勢いを付けて右拳を振り下ろした。
がつんっ、という硬く鈍い音が響く。
「ウェスカー。これで気が済んだかい」
「アラン!」
ウェスカーはアランの胸ぐらを両手で掴み、がくがくと揺さぶった。
「もうそんなお芝居は沢山だ。俺が憎いだろう? かかってこいよ。どうした」
「僕は君と話がしたいだけだよ」
アランは口から血を滴らせながらも、穏やかな態度を崩さない。
「まだ昼は済ませてないだろう? これから一緒にどうだい?」
「……!」
ウェスカーはまた拳を振り上げ、殴りかかろうとした。が、結局それを振り下ろしはしなかった。代わりにアランの身体を突き飛ばし、ウェスカーは立ち上がった。
「ウェスカー」
「貴様など、殴る価値も無い」
そう言って彼は埃を払い、服の乱れを直し、くるりと背を向けた。
「ウェスカー。待てよ、話は済んで無い」
「放っておいてくれ」
そう言い放ち、ウェスカーは庭の奥へと駆けていった。
「ウェスカー」
アランはその後も何度か呼んだが、ウェスカーが振り返ることは無かった。
中庭に静寂が戻った。
良い天気だった。その事を、メリサはこの時ようやく知った。
アランは暫くそこにうずくまっていた。が、やがて彼は花壇の白枠に手を掛け、立ち上がろうと身体を起こした。
メリサはどうしようか迷った。放っておくべきだ、と思った。しかし立ち上がりかけたアランがよろけるのを見かねて、結局メリサは中庭へ入っていった。
足音に振り向くアランに、メリサは歩み寄り、ハンカチを差し出した。
「お使いなさい。血が出てるわ」
「見てたんですか?」
アランはさすがに困惑していたようだ。声に先程のような張りが無い。
「まあ、見てた、っていうか、あれだけ大きい声だとね」
「そっか。まいったな」
「まあでも大丈夫よあたし以外は誰も居なかったから。だから安心しなさいねアラン君」
「名前も知られちゃったか」
アランは笑った。
「そうよ。初めましてアラン君」
「初めまして」
アランは身を起こし、言った。そうやって二人並ぶと、彼は頭半分メリサより背が高かった。
少し痩せすぎの身体。筋肉は確かについているが、神経質な印象を受ける。整った顔立ち。正面を向いた。眼鏡をかけているせいか、老成して見えた。
「初めまして。ハンカチ有り難うございます。ええと」
「メリサよ」
「メリサさんか。有り難う。これ、洗って返します」
アランはそう言って、頭を下げた。
アランは落ち着きを取り戻したようだった。良く通る澄んだ声が中庭に響いていく。
「良いのよ。それよりあなた大丈夫? そろそろ昼休み終わるわよ? ケリーは時間にうるさいんじゃなくて?」
「学生バイト担当がケリーさんだって知ってるって事は、メリサさんもウチの卒業生なんですね?」
「まあ、ね。随分前の卒業生だけど」
「バカンスですか?」
「ううん。仕事よ。出張。急に入ってね。じゃ無ければ来ないわよ」
「そうですか。大変ですね」
「まあね。でもあなたも色々大変そうじゃない。ウェスカー君とかさ」
「まあ、そうですね」
アランはウェスカーの名を聞くと諦めたように笑った。
「彼も根は良い奴なんですけど」
「放っておくしか無いんじゃない? 彼もそうして欲しそうだし」
「まあそうなんでしょうけど、でも放っておけなくて」
「好きなの? 彼のこと」
メリサが言った。
「嫌いじゃないですよ。もちろん級友としてね」
アランは真面目に答えた。
「あちらは僕のことは嫌いみたいだけど。でも強くて、自由で、何でも出来て。ああなれたら良いな、とは思いますね。無理でしょうけれど」
彼は癖なのか、眉を寄せて、難しい顔をして笑った。
「じゃあそろそろ僕は戻りますから。ハンカチ有り難うございました。後で何かお礼しますね」
「良いってば。ほら、早く行きなさい」
「はい。では失礼します」
彼はそう言うと、建物に向かって歩き出した。
その後ろ姿を見送りながら、メリサは一人の男の事を思いだした。
(少し似てたな)
中庭のベンチに腰を降ろし、煙草に火をつけて、メリサは一人、呟いた。
夏は穏やかに過ぎて行く。
少年少女達は、次第に日に焼け、黒くなっていく肌と共に、少しずつ大人の顔付きをするようになっていった。彼らの中には、この夏の間に恋をした者もいる。それが叶い、幸せを味わう者もいれば、叶わずに涙した者もいる。永久の愛を誓いながらも、わずか数日で心変わりもするし、嫌いだった子の、今まで知らなかった魅力に、急に恋に落ちたりもする。
それらを照らし、熱し、祝福するように、太陽は一層強く、彼らの頭上に輝いていた。
要するに、それはいつもの夏だった。
だから世界は、太陽は、空は、湿った暑い空気は、少年少女達は、とても眩しく輝いていた。
「ちょっと良いかな」
メリサが中庭のベンチに座って居た所にウェスカーが現れたのは、そろそろ夏の終わりの気配が差し始めようとしていた頃だった。
面長の浅黒い顔。なかなか整ってはいたが、浅黒さのそれが、日焼けなどとは違うように見えて、彼は一人、この夏に異質だった。
「話が有るんだ」
「私に?」
「ああ。急で悪いが」
こけた頬。長い黒髪。体中から溢れ出る力。他の同級生達と、彼は違う生き物に見えた。切れ長の目の光だけが、年相応に幼い。
「そう。良いわ。でも少し歩かない? ここじゃ人が多いし」
「解った」
メリサとウェスカーは並んで歩き始めた。庭の奥にある、丘への散歩道を選ぶ。
「そろそろ夏も終わりね」
「ああ」
「そろそろ黒トンボの季節か」
「黒トンボ?」
「知らないの?」
「ああ」
「呆れた」
メリサは歩きながら振り返り、ウェスカーに笑いかける。
「ウェンストンクロトンボ。ウェンストンの夏の名物。希少種なのよ。こんな小さくて、黒くてね」
「俺は」
ウェスカーが遮るように口を開いた。
「俺は、そんなものはどうだって良い」
静かな山道へ、投げつけるようにその声は放たれた。美しい声だった。この年齢でだけ可能なような、傲慢な声。自分が見つめるもの以外を全てどうでも良いと断じれる、若く、傲慢で、美しい声。
「どうだって良いんだ」
「そっか」
メリサは答えた。
その短い会話の後は、二人は黙って、暫く丘への道を歩き続けた。狂ったように鳴き続ける虫達。青く高い夏草。湿気。草いきれ。そのような夏の真ん中を、太陽に照らされながら、二人は歩き続けていく。
「なあ」
ウェスカーが、やっと口を開いた。
「なに?」
「あんた、最近アランと仲が良いようだ」
「仲が良い、っていうか。少し勉強見て上げてるだけよ」
「あんた、アランと付き合っているのか?」
唐突な質問だった。
メリサは暫し言葉を失った。
「なあ、どうなんだ?」
ウェスカーはもう一度言った。
「付き合ってるも何も」
メリサは笑った。
「そんなんじゃ無いわ。先輩と後輩よ。あたしもウェストンの卒業生だからさ」
「本当に?」
「本当よ」
「そうか」
「ねえ、どうしてそんなこと聞くのよ」
「あいつがどんな人と付き合うのか、興味があった」
溜めすぎた息を吐くように、ウェスカーは言った。
「それだけだよ」
「好きなのね、アランのことが」
メリサの言葉に、ウェスカーは大きく目を見開いた。が、すぐに彼は落ち着きを取り戻した。
彼は静かに、ああ、と答えた。
「どうしてだろうな。他にいくらでも人はいるのに。何であいつなのだろうな」
「そうね。何だろうね恋って」
「ああ」
「いつかその事を伝えるの?」
「そんなこと、するわけ無いだろう」
「それもそうね」
メリサはそう答え、登り切った丘から世界を見下ろした。
この夏も、人々は沢山の言葉を放ち、愛を誓い、約束を交わした。だから夏はそれらの百倍の、言えなかった言葉、忘れてしまった愛、果たされなかった約束達に、今も溢れている。
(あの人はどうしてるだろうな)
遠いあの夏の日に、メリサは恋をした。それを伝えぬまま、夏は過ぎた。
「伝えられる訳が無い」
「そうね」
メリサは答えた。
本当は違うことを言おうと思っていた。伝えてしまいなさい。今すぐ伝えてしまいなさい。本当はそう言おうと思っていた。だがやめた。人生には言えない言葉が一つや二つはあるものだ。
「大変だね」
「そうだな。大変だ」
二人の間に夏の遅い夕暮れが降りていく。昨日よりも少しだけ秋に近づいた夕暮れ。
遠くに、夕日が赤く揺れていた。
「さて、そろそろ帰ろうか」
「ああ。この話は」
「解ってる。誰にも言わないよ」
「有り難う」
二人は黄昏時の道を、少しだけ離れて歩いた。夜に向かって一層強く鳴く、夏の虫達。メリサは空を見上げた。赤く広がった太陽の光。その中に、小さく浮かぶ黒い影。
「見て」
トンボの大群だった。
「クロトンボ」
トンボ達は太陽を横切るように、ゆっくり空を渡っていく。
(伝えれば良かった)
(ああ言えば良かった)
(言わなければ良かった)
(どうしようも無かった)
(忘れよう)
(でも忘れられない)
(伝えよう)
(でも伝えられない)
夏。幾多の思い。幾多の恋。幾多の言葉。頭の中で何度も繰り返した問い。伝えられなかった言葉。
それらを引き連れるように、トンボは空を行く。夏の終わりの空を、トンボは何処までも飛んでいく。
「夏も終わりね」
メリサは言った。
「ああ」
ウェスカーは、振り返らずに答えた。
それから数年後の夏、ウェンストンホテルはオーナーの死を機に、老朽化した建物を捨て、移転することに決めた。住民の反対は届かなかった。残された建物は商社が買い取り、原色も派手な、大型のショッピングモールに変わった。少年少女達が過ごしたあの夏の森は、だからもう何処にも無い。
メリサと二人の少年の友情は、今も続いていた。アランは大学へ進み、そして来年は大学院の予定だ。ウェスカーは軍隊に志願した。彼は近々西部の戦線に配属される。
ウェンストンクロトンボはどうなったか。森を追われた彼らは、しかし絶滅を逃れ、今は国中至る所で季節を問わず見かけるようになった。
人々はそんな小さな黒いトンボのことは気にもしなかったが、メリサだけはそれを見かけるたびに、
(夏は終わったのだ)
そう思った。