第8回チャンピオンofチャンピオンバトル小説部門 Entry1
平日の早朝。どんてん模様の空の下々の市営住宅。
母がチベットから帰ってきた。家族のリアクションに期待したのだろう、垢でよごれた法衣を着たいでたちでだ。突然の帰省に、僕たちはそろって白い目を向ける。母はすこぶる陽気に何事かを発声した。
僕らの反応が予想外だったのか、母はよく日に焼けた顔にかげりを落とし、おそらくはみやげものだったはずのドライカレーらしき物体をレンジで温め、一人でたいらげはじめた。
父は淡々と家事をこなし、いつもの和食をテーブルに並べる。僕はなんとなく三人分のご飯をよそっている。兄だけがテーブルについていて、朝食が来るやいなや、いそがしげにかきこむ。母がちらちら皆を見ている。
兄が部活の早朝練習に出かけたあと、父は無言で新聞を読み、僕はテレビをザッピングした。母は少しぼーっとしていたようだったが、やがて法衣を脱いで普段着に着替え、荷物の整理をしだした。気づくと父がいない。
兄は部活で朝早くて夜おそい。父は本来が一本気な仕事人間だ。
競争社会から脱落しつつある僕だけが、母の長話の餌食になった。
例のごとくまず大量の写真を見せられる。母の作風である、人物を写したものが少ない、は健在だった。雲ひとつない青空、夕日、雄大な山並み、なんて書いてあるのかわからない看板、汚れた犬、花、どうも僕という人間は自然というものの美しさがわからないようだ。
そして母は話の切り札を取り出すように、マーガリンみたいな名前の高僧から「夢見の術」を習ったと自慢げに語った。「夢見の術」は、夜ねているときに見る夢を自由自在に操る瞑想法だそうだ。いきいきと話す母には言えなかったが、「夢」違いじゃないかと僕は思った。悟られないよう心の中で苦笑を浮かべる。
話を合わせて、どうやるのか教えてくれと聞くと、母はノリノリの笑顔で、教えない、とそっぽを向いた。僕はテレビに目を移した。
今度の母は三分と黙っていられなかった。僕にこんこんと「術」を体得するためにどれだけ苦労したかを語った。じゃあやめとくよ、と言いかえすと、おやまあ冷めた子だよとでも言いたげな、おどけたしかめ面を作った。
それからあまりにもしつこくすすめてくるので、ドライカレーを一口もらって食べたがパサパサしてあんまりおいしくなかった。
今度はエベレストの単独登頂に挑戦するそうだ。
いいからもうテレビみせてくれよ。という言葉を飲み込んだ。