第9回チャンピオンofチャンピオンバトル小説部門 Entry3
崇が期待しているのはわかっていたし、同じ研究室にいた頃は当然のように淹れていたけど、狭い台所に立って上半身のバネだけで調理をこなしている今の私にそんな余裕はない。
大学助手の給料なんて知れたものだけど、とにかく崇と一緒にいたかった。お互いの家から家財道具を掻き集め、プレハブ式に夫婦生活を始めたのは今年の春のことだった。でも困ったことに、三畳のキッチンに六畳一間というアパートの間取りに、運び込んだ家具たちは見事に合わなかった。七人家族の私の生家で食卓を守ってきたテーブルがキッチンで幅を利かせ、食べた後にのびをする崇の癖は壁に阻まれる。謙遜でなく慎ましい食事が終わると、崇は持ち帰った研究の続きを隣部屋で始める。彼は三流大学勤務だが祖父は貿易商だったそうで、机はその社長室にあったという重厚な造りだ。六畳はそんな由緒ある机と彼の本棚と私たちのベッドに占領されている。幾つも山と積まれた原著や資料のコピーに埋もれて崇は仕事に没頭する。私はテーブルに遠慮しながら食器をシンクへ運び下ろし、せっせと洗い物をする。
パジャマに着替えた私は机の左隅の山に乗せておいたプルーストを片手に、威圧的な肘掛椅子の隙間をよっこらせっと抜けてベッドに入る。最近崇の体が椅子に合ってきているのが嫌だ。仰向けになると頭の上でシェイクスピアの全集が作る大きな影のせいで落ち着かない。分厚いプルーストを繰り、うつ伏せて失われた時を求めながら私は眠くなるのを待つ。
買い物帰りの夕間暮れの朱がみるみる夜の藍に溶ける。そんな風に季節が過ぎてゆく。ドアを開け、両手に提げた買い物袋の置き場を探していると何だか部屋の様子が違った。どうも崇の周りだけ奇妙にこざっぱりしている。袋をテーブルの下に押し込んで傍へすり寄る(狭いのでそうするしかない)と、シェイクスピアもコピーの山もすっかり机の上から消えていた。それらはごちゃっと本棚へ押し込まれていたけれど、それを咎めるより早く、机の左隅に、背表紙の日焼けしたプルーストではなくて、私の好きなリルケの真新しい詩集が置いてあるのを見つけてしまった。
「ここに遥ちゃんがいないと落ち着かなくて」
卒業までいた研究室で、大学院生だった崇の半ば本に隠れた横顔を、私は隣の席からカップの湯気越しにいつも見ていた。
うん。貴方がそういう心がけなら、あのテーブルをよけて机までコーヒーを運んであげてもいい。