第9回チャンピオンofチャンピオンバトル小説部門 Entry7
夕方、橙の綺麗な陽が落ちていく。
犬は手馴れた仕草で前足を舐めながら、空と対峙している。犬の首は環状に毛が刈り取られ、その痕は黒ずんで痛々しい。首輪の跡という訳ではないそうだが、それにしてもくっきりと黒いワッカが見えている。若い頃はこの痕を見られるのが恥ずかしくて、背中を丸めて随分と縮こまっていたらしい。今では、笑い話だと言わんばかりに悠然と構えている。私はまだ若いからよくわからない。
以前、犬の首に触れようとしたことがあったが、触れられなかった。
吠えるでも嫌がるでもなく、ただじっと尻尾を畳んで座っていただけだったが、気安く触れれるモンじゃないんだとその時思った。犬からはなんで首の毛が刈り取られたのかは聞いてない。黒ずんだ理由も聞いてない。肝心な話はしないのが、この犬だった。
冬の冷たい風が容赦なく私を打ちつけると、ブルゾンががさごそと音を立てた。商店街の景色は寂しいものだが、まばらに人はいる。子供たちの自転車が目の前を通りすぎると、スッと小さな竜巻が現れて、フッと消えていった。
記憶に残っている、曖昧で捨て切れなかったような残滓の風景。私が住んでいた街は賑やかだったと思う。
「ごはん、今日は作るわ」
「いいよ、無理しないで」
母の手は干からびていた。豆だらけだった。髪の毛が美しかった。きらきらとシルバーが首や耳や腕に光っていた。遊んでいるだけのように見えただろう。手のひらのことは聞けなかった。気安く触れることもできなかった。店屋物で揃えられた毎日のテーブルに対して何も愚痴らない私に、優しいコね、と言う母を前にして割り箸を噛み殺していた。
ふらふらと街を出てからも鮮明に覚えているのはこの会話だけ。なぜだかはわからない。
ブルゾンのポケットに何か入っている。私がポケットから何か出そうとしている様子を犬がじっと見つめてきた。煙草でも期待していそうな目だが、そんな大層なモノじゃなさそうだ。
取り出したものを見ると、ガムだった。犬はフンと鼻を鳴らしてまた空と対峙しはじめる。ガムなんて犬は食べない。煙草ぐらい持っておけ、と犬に言われて煙草ぐらいもっておけばよかったと思った。煙草ぐらい。
ぽつぽつと水滴が落ちてきた。
そう思っていたら瞬く間にざぁざぁと地面を叩く音が激しくなった。夕立だ。
犬は毅然として小刻みに震えている。私はブルゾンを犬に被せると、煙草じゃないけど、と呟いた。