●Entry1 人魚の涙 文字数=954
 葛籠 令人
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 夜の暗さで墨のような水をたたえた湖は、静かに波打っている。そ
の湖の中から一人の少女が霧のように現れた。
 少女の髪は淡い真珠色で、腰まで長さがあった。瞳は銀色、顔は
人形のように整っており、透き通るような肌をもっている。
「誰かわたしを助けて」
 わずかに色を帯びた唇からこぼれる言葉は言葉であって言葉では
ない。誰も聞いてはくれないのだから。
「どうして?」

 彼女は大罪を犯してしまった。

 湖の底には人魚の涙が沈んでいる。人魚の流した涙が石になり、
湖の底で眠っている。人魚の涙は生きている。その石があるから、物
が物としての形を留めることができる。
 無機質なもだけでは形を留めることができない。感情が必要なの
だ。それが石であり、悲しみである。悲しみから何も生まれない、と
思うだろうが、悲しみこそが感情の塊であり、いつまでも消えないも
のなのである。
 石は最初は海の底にあった。いくつもあって山を一つ作るたび、川
を一つ作るたび、月が拾い、太陽が大地へばらまいていた。だから
今は海の中には人魚の涙という石はない。しかしどうして海が海で
あるのかというと、海は涙であり悲しみであるからだ。
 石の悲しみは土を作り、草木を生やし、大地を潤わせた。その後
に足を持った生き物たちが美しい大地を徘徊するようになったので
ある。
 足を持った生き物たちは石のことを知らない。知っているのは月と
太陽と海、そして大地と人魚だけ。 

 人魚は生まれたときから人魚であることを自覚していない。人に混
じって大きくなり、海へ帰るらしい。本人が自覚していないから、「ら
しい」としか言いようがない。
 目の前にいる彼女も人魚である。人魚であるから本能で石に気付
いたのだろうか。森へ、湖へ迷い込んだのも本能だったのだろうか。
 石の悲しみは美しすぎた。魅せられた人魚は石を握りしめ、元の
涙という液体に戻してしまったのだ。
 石は海へ帰ってしまった。人魚の涙の本当の悲しみは海へ帰れな
いことだったのだ。しかし、悲しみがなくては森が、湖が形をなくして
しまう。新しい悲しみを作らなくてはならなかった。

 大罪を犯した彼女の形を消し、湖から外へ出られないようにした。
それが新たな悲しみであり、人魚の涙である。

 そして、彼女は自分の犯した罪にも気付かず、永遠に悲しみ続け
るのである。


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