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第13回中高生1000字小説バトル Entry5

水を抱く

濡れた艶やかな十二月の闇に、水面はゆるやかに波打ち、蜂蜜のような甘い色の月を映す。風も無いのに水は静かに揺れ続く。だからもうそれは、外界の静かな景色を正確に映し出す役割を果たさず、喉の奥にからみついてくるような、粘つく黄色がゆらゆらと揺れるだけだった。

とろりと深緑色に濁ったプールの真ん中に浮かぶ、男。かつての、無邪気な歓声と輝く飛沫をその一身の内に囲った黄金の季節を、果たしてこいつは覚えているのだろうか。今は忘れ去られて、その内にあるのは腐敗しきった体液だけだというのに。それとも、また確実に、あの光輝く季節がやってくるのを、こざかしくもこいつは知っているのか。ねっとりと飴のように光る丸い天体を遥かに見、彼はそんなことを考えた。

静寂は完全であるように思われた。彼の目に映る映像、それはまるで時が止まったかのようで、全てのものが呼吸することを忘れたかのようだった。だが彼の浮かぶ水面は絶えずゆり動き、映るものを歪めて動かし続けた。

「ああ。」
 
たまらなくなって彼は目を閉じる。まだ、俺のどこかに残っているのだろうか。彼女が口移しに与えてくれた、あの温度は。あのすべらかな唾液は。だとしたら、今すぐにこの体のどこかを引き裂いてでも、それを探し出し、一滴も残さずに飲み干してやる。きっとその雫は、極上のラム酒のように湿った甘い匂いを伴って、俺の体の隅々にまで染み渡り、熱く喉を焼くだろう。そして、冷酷な何もかもをまでも暖めてしまうに違いないのだ。

閉じた彼の瞳からは、幾筋も涙が頬を伝って流れていった。いまや彼が見るのは静止映像では無く、揺らめき続ける世界だった。涙で満ち溢れた目で見る、あたかも水の底から見上げているような光景だった。

まるで海の底に沈んでいるみたいだ。そうだ、彼女も抱きしめると、こんな感じがした。冷たく滑らかな体が、不思議とどこまでも広がっている気がしたものだ。

揺らめく景色を夢現に覚えながら、彼は空を掻き抱こうとした。だがその手に触れたのは、あの懐かしく冷たいものだった。指を、腕を、すり抜けていくそれを彼は夢中になって捕まえようとした。そして最後には、自らを抱きしめる様にその胸にしっかりと抱き寄せた。ああ、戻ってきてくれたんだな。そう言おうとして彼は初めて、もう呼吸さえできないことに気づいた。だが汚水の底の、涙の底で、彼は息が止まるのも気づかぬ程に幸福だった。

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