●Entry8 新聞配達 文字数=2948
 KAZU三式
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 『早起きは三文の得』――ではなく、亮にとって早起きは、今月のアパートでの生存権そのものだ。ブルブル震える目覚まし時計をたたいて消して、布団の奥から這いだして、二枚重ねのシャツの上からウインドブレーカーをがっちり着込み、軍手をはめて、部屋を出る。向かった先はバイト先。新聞配達所だ。
 「おはようございます」「おはようさん」と、新聞の山をわたされる。それを自転車の前と後ろにあふれんばかりに積み上げてから、白っぽい、「しん」と空気の張りつめた街へ、亮は今日も乗り出していった。
 ギィ、ギィと、ペダルを踏むたびに老自転車はきしみを立てる。しかし、亮はおかまいなしに決められたルートをたどり、いつものポストたちに新聞を噛ませていく。冷たい朝の風は亮のほほを突っ張らせ、残っていた眠気を吹き飛ばし、寝ぐせを強引に直していった。次第に暖まってくる空気よりも早く、亮の身体は汗ばんでいく。イヌを連れたジョギング姿のおじいちゃんや、あくびをしているサラリーマンを追い抜かし、次々と亮は予定をこなしていった。
「……ふう」
 あと五件を残すところで、亮は坂の上の公園にやって来た。この街で一番高いところにある公園に。ここで熱いコーヒーを飲んで脳の血糖値を上げ、街を見下ろすことができるベンチで手帳を広げつつ本日の予定を組む。それが、一年半、亮が続けてきた日課だった。
 誰もいない公園に自転車を乗りいれて、いつものようにサイフを取り出しながら自販機に近づく。しかし、その手は途中で止まった。
「――!」
 なんと、先客がいた。誰かが座っている。いつも亮が腰掛ける、日当たりと見晴らしが一番いい桜の木の下のベンチに!
 野球帽をかぶったジョギングウエアのそいつは、まるで亮と同じようにベンチに座り、手帳をペラペラめくっていた。横には新聞配達用の自転車。そして――なんとコーヒーまで買っているではないか!
 亮は、なにかものすごい不条理なムラムラ感が腹の底からわき上がってくるのを感じた。誰なんだ、あいつは? 野球帽のせいで顔は見えないが、すっかりくつろいでいる。
「…………」
 亮はサイフをポケットに戻し、自転車にまたがると、方向転換して、登ってきた坂道を駆け下った。
 残りの新聞をポストに突っ込みながら、亮は部屋の目覚まし時計のことを考えていた。

 案の定、その男はいなかった。
「……そりゃ、そうだよなあ」
 なんといっても、今日は十分も早く部屋を出たのだ。
「それにしても……」たったの十分でこうも景色が変わるものか。見慣れている街の景色はまだ晴れきっていない濃い霧につつまれ、なにもかもがかすんでいる。
「…………」
 亮はコーヒーを買ってベンチに座り、手帳を開けた。今日の講義は昼過ぎだから、それまで時間をつぶさなくてはいけない。資料はこの前に集めたから良し、食料も買い込んである。
「部屋の掃除でもすっかな……」
とつぶやいたのと、後ろでブレーキ音がしたのは、ほぼ同時だった。
 ふりむくと、あの男がいた。
 亮と同じ、新聞配達の自転車にのったそいつの顔は、やっぱり目深にかぶった野球帽のせいで見えなかった。だぶっとしたトレーニングウエアを着ていて、いやみに髪の長い、やたらと線の細いヤツだった。そいつは亮の視線に気がつくと、プイと顔をそむけて行ってしまった。
 亮は、坂を下っていくそいつの姿を見下ろしていたが、またすぐに手帳に目を戻した。

 しかし、翌日、公園についた亮は再び立ちすくんだ。
――なんで?
 なんでいるんだ? なんで時間ずらしてまで座りたいんだ? おれの邪魔がしたいのか?
亮は公園の時計をにらんだ。――まだいける。亮は再び自転車に乗った。

 それが始まりだった。それからはもうヤケだった。亮が早くついた次の日か、その次の日には、男はゆうゆうとベンチに座っていたし、男が座っていた次の日には、亮は目覚まし時計をずらし、息を切らして早朝の街を駆け回った。ベンチ男と亮は、一度も声をかわしたこともなく、亮は相手の顔をすら知らなかったが、それでも、なぜかあの男にベンチをとられるのはガマンならなかった。慣れない早起きと運動のせいで、大学の講義では居眠りをくり返し、遊びもキャンセルするようになった。それでもなぜか、亮はベンチに向かった。ベンチ男があきらめていなかったから。

 それは、にぎやかなマーチによってやぶられた。亮が男より早くついたその日、自販機の赤いランプがチカチカなって、ガゴ、ガゴンと音がした。
――あれ?
 受け取り口には二本のコーヒーが落ちていた。よく見ると、「あたり」という字が点滅している。
「へえ、ちゃんと当たるもんなんだ……」
亮は、コーヒーを取り出した。両手に持ってみたが、どうも余計なものを貰ったという感じだ。缶コーヒーというのは少しだからおいしいのであって、二本も飲んだら胸焼けしてしまう。かといって飲まないでおくのも……。せっかく当たったんだし……。
 亮はベンチに座って、一本目を開けた。コーヒーをすすりながら、生まれたての朝日が照らす街を眺めた。街は白い霧の中で、まだまどろみに沈んでいる。冬をのせた風が、熱く火照った顔をそっとなぜた。
 亮は、ふう、と息をはいた。そして、手帳を一枚、ビリッと破いてペンでなにか書きつけてからベンチの上の手つかずのコーヒーの下にはさんだ。亮はまだコーヒーを飲みながらベンチを後にして、自転車に乗った。
「ふつうは飲まないよなあ……」
亮は風を切りながら思った。

それから三日ほど、亮は男を見かけなかった。
「勝った」と思ったのはそれくらいまでで、それからさらに五日がたつと、亮はひどく後悔しはじめた。一回、わざと時間を遅らせて公園に来てみたが、やはり男の姿はなかった。やっぱりあのコーヒーがマズかったのか……。
 ――まあそりゃそうだろうな。ベンチに座りながら亮は思った。 亮は缶をギュッとにぎって、少しへこませてから、それをゴミ箱に放り投げた。

その日は、最後の早起き日だった。まだ、朝日が昇っていない薄暗い通りを走り、亮は、いつもの公園にたどり着いた。
 ――いた。
 男は、今日はベンチに座らずに、その横の桜の木にもたれかかって、街をながめていた。 ギュギュッ、というブレーキ音で、男は振り返った。あいかわらず、野球帽を目深にかぶっていた。男は木から体をはなし、こちらに近づいてきた。
亮はおもわず身がまえた。
「――あ、こ」ケホケホと男が咳きこんだ。すごく高い声だった。――まさか。
「コーヒーありがと」その人は歩いてきた。
「わたし、もうやめるんだけどね、このバイト。続けるんでしょ、あなた?」
 亮はこくこくと首を振った。
「じゃあ」彼女は、紙袋をさしだした。亮は、反射的にそれを受けとった。「コーヒーのお礼ね」
 そういうと、彼女は、公園のすみに止めてあったスポーツタイプの自転車にまたがり、公園を出ていった。亮はしびれたようにつっ立っていたが、はっと我に返って、紙袋を開けた。
 若草色のマフラーが入っていた。
 亮は、坂の下を探したが、彼女の姿はもうなかった。
「……顔、見ときゃよかった」
 しかし、マフラーと一緒に入れられた小さく折り畳まれた紙片に、亮はまだ気がついていなかった。



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