第6回中高生3000字小説バトル Entry12
『雨をよごしたのは誰』
古い、とても古いその歌を、今ではそう聞くこともできなくなった。僕が聞いたのもレコードからではなく、ある少女の口からである。
古い、とても古いその歌を、今では知る者は少ないが、僕はこの歌を捧げる。
降り止んだ雨と、ディエによせて。
彼女は――ディエは、この辺りの人間にしては珍しくなだらかな頬骨と鼻をしていて、よく年下の従妹たちと遊んでいた。僕が今も覚えていることと言ったら、ほんのわずかなものだ。
「あのね、ハル、ひみつよ」
一年を三六五日で数えたならまだほんの十四、五年しか生きていないディエは、ある日黒い瞳をきらきらと輝かせて僕に耳打ちをした。
「あたしの四分の一は、よその国の血なの」
あと数年もすれば単に心苦しいだけのものになるだろう秘密は、彼女が言うとひどく新鮮なものに聞こえた。
「それなら、僕にも秘密がある。僕の半分もよその血なんだ」
僕は読んでいた本を閉じて言った。
その時のディエの微笑みと言ったら、どうだったろうか。僕はそれまででこんな笑顔を見るのは初めてだった。
「それじゃあ、ハルの方がおおきなひみつね!」
皆には内緒よ、とディエは指を立てた。
「ハジャールもマッジも、あなたにこっそり意地悪してるのよ。気付いてる?」
いいや、と首を振ると、もっとしっかりしてよと背中を叩かれて、僕は思わず苦笑してしまった。
「まだ他にもあるのよ。あたしの名前のひみつ」
ディエは地面に木の枝で丸を描いた。乾いた地面は容易に跡を残して、丸は十六のかけらに分けられた。
「一、二…このうち十二がこの国で、あとは…二つと、二つ」
指折りしてたどたどしく数えながら、彼女は得意そうに言った。
「三つの血でディエはできているのかい?」
「そう。あたしの名前はね、この二つ目の国の言葉で蝶々っていう意味なんだって教えてもらったの」
蝶々。
砂漠を浮遊し、オアシスに羽を休める虹色の蝶。ディエならばそれにぴったりだ。
「僕の名前にも、他の国の意味があった…争い事で役立つような名前だけどね」
「あたしには争いを望むひとたちの気持ちがわからない」
僕たちの表情は自然と曇っていた。
ここにも『その日』が近づきつつある。戦線は次第にこの国の内側へと近づきつつあるのだ。
不意にディエは沈んだ雰囲気を打ち消そうとするように、僕に笑いかけた。彼女は何より、悲しいことが嫌いなのだ。
「…ねえねえ、あたしの名前に他の意味はある?」
「ディエかい? …D、I」
アルファベットを綴りかけて、僕は口をつぐんだ。D.I.E。それは決していい意味を持つ言葉ではない。
死。僕たちが生まれた時から向かうことが義務付けられている、すべての母だ。
「ごめん、わからないな」
僕はとっさに嘘を吐いた。
「つまんない! じゃあ、他に知ってることある?」
「少しなら」
不思議と、嘘に罪悪感を覚えることはなかった。
「あたしも知ってる。三つ目の国の歌よ」
聞いててね、とディエはその歌を歌い出した。――雨をよごしたのは誰、を。
『ささやかに ふる雨
きらきらと 音をたてて
かすかに 草をぬらす
誰がよごしたの?』
ディエはひどくたどたどしい声で、僕が初めて聞く歌を歌ってみせた。初めて聞く発音の言語だった。
「きれいな歌だ」
「でも淋しいでしょう?」
僕にもディエにも詩が示すところはわからない。おそらくこの歌は何十年も昔に、遠い国で歌われたのだ。
「この国には砂漠なんてないんだって。水にも食べ物にも困らないんだって。
ハル、そんな夢みたいな場所なんてあるの?」
僕は悲しくなった。ディエは何も知らない。文字の読み方も知らないディエは本を読むこともできないし、この国がどんな場所なのかも知らない。そうして知らないまま、他の女たちと同じように死んでいくのだろう。
「もしあるのならとてもすてきな所なんでしょうね」
「…きっといつか行けるよ。ディエのふるさとにも」
「雨もきれいになっているといいわね」
「え?」
「『雨をよごしたのは誰』って言うの」
ディエは風にさらされて色褪せたざくろ色のスカーフを巻き直して微笑んだ。
「この歌の曲名」
雨をよごしたのは誰なのかは、僕たちは知る由もない。
彼女がここの暦で十九歳になった日、この村には雨が降った。熱くて冷たい鉄の雨が、一晩中降り続いた。
翌朝様子を見に行ったが、僕には感情の表し様がなかった。ディエの家があった所には白茶けた土くれが広がっているだけだったからだ。
ギリシアのレリーフのように固まった妙な像が僕の従兄だと気付くまでには、随分時間がかかった。いや、それは僕の従兄だったものだった。既に、土に戻りかけていたからだ。
「またあたしだけになった」
二日ぶりに会ったディエは、さらに色褪せたスカーフを巻き微笑もうとした。
「ディエ」
「…神様は誰の味方をしているの? あたしたちの味方でないなら、…誰の味方なの?」
何度も、彼女は独白のように繰り返した。答えられる人間は今でも誰もいまい。
「ディエ。もう一度あの歌を歌って」
僕は彼女の肩をさすってやりながら言い聞かせた。ディエはうわごとのように色々な言葉を呟いていたが、涙と一緒に呟きも流してしまうと、震える声で歌いだした。
『びしょぬれの 男の子
ふりやまない 雨
草も枯れ 彼も消えた
残るはだれの涙
雨をよごしたの?』
遠くで反響のような銃声が聞こえる。僕が顔をあげると、白く明るい空を灰色の飛行機が我が物顔で飛び廻っていた。
『なぜ爆弾を落とすの?』
砂にまみれた赤い靴の持ち主だった少女は言う。
『ここには、あなたを傷つけようとするひとはいないのに』
じっと見据える目は、僕ではなくどこか遠くの一点を見ているのだと理由もない推測をする。あるいは楽観。
『だって、無関係なひとを殺すなんて許せないでしょ?』
綺麗な長い亜麻色の髪の少女は言う。
『だから仕返しに、無関係なひとを殺していいよね?』
土色のテントが崩れていく。これから訪れる長い冬を越せるのだろうか、本当に?
「…神様…!」
僕は震えるディエの肩を掴んだ。ディエは固く目を瞑っている。
どうして神は、僕たちを争いなしでは暮らせないように作ったのだろうか。彼らは僕たちの存在を忘れてしまったのだろうか。皆同じ生き物ではないのだろうか。
何をした? 赤いボタンを一つ、あるいはいくつか押した? それで一体いくつもの流れ星が降り注いだ?
何を考えている? ここを汚れた国だと思っている? 緑もある、人もいる、そのことを知らないというのか?
僕は信じることを望まない。割り切ることも望まない。正義と悪、それは裏返せば同じことだ。
ぱたり、と地面に水滴が落ちた音に気付いて振り向くと、ディエが感情のこもっていない顔でただ涙だけを流していた。
雨は止まない。
「…どうして雨なんて降るの?」
僕は黙っていた。沈黙が答えを出してくれるかもしれないと思った。しかし残念ながら沈黙は静寂ではなかった。子どもの叫び声が聞こえる。ディエ。もうマッジは僕等よりも早く土に却ってしまった。雨は止まない。火薬。ディエ。緑色の、爆弾と同じ色の食糧パック。地面の軋み。もしくは、神の呻き声。ディエ。目を閉じる。頭の中が雨に満たされてゆく。何も考えられない。
「いつか、降り止むさ」
僕はそれだけ言った。ディエは黙って肯いた。
雨はまだ止まない。