| # | 題名 | 作者 | 文字数 |
|---|---|---|---|
| 1 | 神様。 | 藍蓮 | 2494 |
| 2 | コンビニおでん | 吉田 和夫 | 2501 |
| 3 | DEEPSKY | クロ | 1915 |
| 4 | ドラマチック・レジスター | 竹野井 雪 | 2764 |
| 5 | リフレイン | 萬 イト | 1541 |
| 6 | 雨の日の出会い | 蒼河香織 | 1869 |
| 7 | それはあるひとつぜんに | カナシマ ソウジ | 2296 |
| 8 | 終わり | 佐賀 優子 | 2568 |
| 9 | 向日葵 | 蔦手 | 2916 |
| 10 | 桜とカノンとおにぎりと | 後明 麻葉 | 2824 |
| 11 | MoonLight Drive | 四方 乃佐 | 2420 |
| 12 | 冷たいゲーム | 織葉 | 1693 |
| 13 | 少女の日の思い出 Ver.1 | G-gem | 3000 |
| 14 | ぱらのいあ | 櫻水嗣郎 | 1918 |
カミサマ………。
カミサマなんていない。
絶対に。
だって……、
だって一度も私の願い、聞いてくれなかったじゃない。
あの人を……
私の大切なあの人を……救ってくれなかったでしょう?
彼はもういない。
愛華は教会の真ん中で、ペタンと座り込む。
誰も居ない、古びた教会。
光はステンドグラスから差し込める光のみ。
薄暗い教会の中で、天井の十字架が光る。
誰も居ない。
毎日通い続けているが、人に会った事は一度も無い。
『神なんか居ない』
そう唱えるのだけど、ここに来ると何故か落ち着く。
『神なんか居ない』
何回それを唱えただろう。
奇跡なんてないのだと、あの時思い知らされてから……。
床に落ちている小さな十字架を拾い上げる。
そして、それをきつく握り締める。
血がにじみ出るほど強く……。
手のひらを開いてみてみると、血がだらだらと流れていた。
痛みさえ感じない。
あの時、誰も守れなかった。
あの時、独りになってしまった。
あの時、キミを救えなかった。
そんな心の痛みに比べれば……。
痛いとも思えない。
神ハ私ヲ助ケテクレナカッタ。
神ハ誰モ助ケテクレナカッタ。
神は私を苦しめるだけ……。
神は私を苦しめただけ……。
……そんな神居ない方がマシだ。
だから神は居ない。
「カミサマ、もしいらっしゃるのなら……もしいらっしゃるのであれば……私の願いをかなえてください。」
そう何度願った事だろう。
真っ赤に染まった十字架を床に思い切り投げつける。
十字架と共に、赤い血が床に飛び散った。
透明の雫が、頬を伝い床へ落ちる。
その雫は、止まることなく流れ続けた。
もう泣かないって決めたのに。
過ぎてしまったこと、とやかく言ってもなにも変わらない。
死んでしまった人、生き返ってほしいといっても生き返らない。
そんな当たり前のこと、わかっているのに。
認めたくなくて、神のせいにする。
居ないっていってるくせに。
自分は汚い……と思う。
薄汚れた教会の扉が開く。
愛華以外の者の手でその扉が開くのは何ヶ月ぶりのことだろう。
まばゆい光が、愛華の背中に覆い被さる。
光の向うには、眩いほどの金色の髪が靡く。
真っ赤な瞳。
あの日見たのと同じ色。
愛華はそっと金髪の少女の方を振り向く。
少女は無言で愛華に近づく。
表情一つ変えずに。
すごく、悲しそうな目だった。
すごく、寂しそうな眼だった。
私よりずっと……。
少女は愛華の横を通り過ぎると更に教会の奥へと進んでいった。
さっき愛華が投げた十字架に一瞬目をやるがまた前を見つめ、奥へと進む。
彼女は何を祈りにきたのだろう?
彼女は何を求めてきたのだろう?
彼女は何を願いにきたのだろう?
そんな少女の様子を愛華はずっと見つめる。
「ねぇ、カミサマって居ると思う?」
少女はそっと口を開く。
同じ場所をを見つめたまま。
振り返らずに。
突然の事で驚いた愛華は少し戸惑うが、さっきの十字架をもう一度拾い上げ、答えた。
「いない。」
「そう。」
会話が途切れる。
気まずいムードが教会中を包む。
いや、もとから気まずかったが。
「私はいると思う。」
少女はもう一度口を開く。
まだ、一点を見つめたままで。
振り返らずに。
動かずに。
「何故?」
「貴女は何故居ないと思うの?」
少女は愛華の質問には答えずにもう一度問う。
「居ると思った事が無いから。」
答えになっていない答えを述べた。
「・・・・・・・・そう。」
少女はまだ振り返らない。
何を見ているのだろう??
汚れた壁をじっと見つめていた……。
一度も私に奇跡を与えてくれなかったから。
一度も私の願いを聞いてくれなかったから。
一度も私を救ってくれなかったから。
――――神なんて居ないと思う。
「奇跡は自分で作るものだよ。」
少女がまた口を開く。
その言葉は、まるで愛華の心を読んだかのようで。
「わかってる。」
「願いは自分で叶えるものだよ。」
振り向かずに、言葉を続ける。
「知ってる。」
「自分を救ええるのは自分だけだよ。」
「うん。」
わかってる。
わかってるけど……。
止まりかけていた涙が、また流れ出す。
それでも少女は、振り向こうとしない。
十字架を、もう一度強く握り締める。
また赤い物が手から流れ落ちる。
やっぱり痛みを感じない。
少女の言葉のほうがよっぽど痛い。
一番言ってほしかった言葉。
一番言ってほしくなかった言葉。
「じゃあ神は居ないじゃない。」
愛華は、未だに同じ場所を見つめ続けている少女に向かって呟く。
「神は、無力。
神は、何も出来ない。
神は、奇跡を起こさない。
神は、願いをかなえない。
神は、人を救わない。
神は、自己満足を得るための物。
神は、ただそれだけの存在。」
少女はクルッと振り返る。
金色の髪の毛がふわっと靡く。
「神は、自分自身。」
少女は微笑む。
その笑顔はすごく優しくて、
すごく切ない。
そして、すごく悲しい。
彼女の背中に大きな羽が生え、彼女の周りに光が集まりだす。
羽は、彼女の身体を光と共に包み込む。
天使のようで、天使じゃないような……そんな羽。
眩い光と共に少女は消えた。
そしてその瞬間、愛華の意識も消えた。
・
・
・
・
・
気がつけばそこは廃墟。
自分の街。
廃墟となってしまった、自分の街。
失った希望を掘り起こすように、
瓦礫を掘り起こす。
生き残ったのは私だけ。
そんな言葉を振り切って。
奇跡は自分で作る物。
奇跡を起こすのは自分自身。
奇跡を信じて、
キミが生きてると信じて、
荒れた廃墟を掘り起こす。
神は私。
自分自身。
願いをかなえるのも、
奇跡を作るのも、
私を救うのも、
全部私。
そこにある幸せを信じて、
また会えると信じて、
壊れた家を掘り起こす。
瓦礫で切った傷は、すごく痛い。
血が流れる度、痛みを感じる。
心の痛みが少し消えたから。
瓦礫の下から出てきた、見慣れた手。
そっと触ってみると、暖かい。
更に掘り起こしてみると、いつものキミの笑顔。
やっと見つけた。
私の奇跡。
あの少女が、神だったのかもしれない。
今は、神を信じてもいいと思う。
だって…
だって私の願い、聞いてくれたもの。
私に奇跡を与えてくれたから。
私の願いを聞いてくれたから。
私を救ってくれたから。
だから、
今は、神を信じてもいいと思う。
そう。
奇跡を作るのも、
願いをかなえるのも、
自分を救うのも、
私自身。
神は、自分自身。
俺はコンビニでバイトしている23歳の男。名前は木立陽祐。大学を一浪しているので、大学4年生だ。この春からは晴れて社会人になるわけだが、不景気で職が決まっていない。今はコンビニでバイトしているけど、フリーターとかじゃなくてちゃんと職を持って仕事をしたい。特に意味があってやりがいのある職業に就職したい。あと3ヶ月。
「木立君、木立君、ちゃんと補充してくれないと困るじゃないか。お客さんに迷惑がかかるでしょう。」
店長のうるさい説教が始まった。
「木立君、君ちゃんと給料払ってるんだから働いてもらわないと困るんだよ…君、半年経つんだからできないと困るよ。」
俺は最初牛丼屋のアルバイトをしていたが、そこの店長に
「BESのおかげで商売あがったりだよな。ってことでリストラしま〜す!木立、君だよ」
ってなことで首にされちゃってつらいよな。だから、こんなコンビニいるんだ。
「木立君、レジ。お客さん待っているでしょ。てきぱき働いてもらわないと。」
でも、このコンビニにも愛想尽きた。
「この弁当温めますか?」
「サラダ取り除いて温めてくれる。サラダは生暖かいがダメなんだよな。」
サラリーマンの親父が言った。
「そんなサービスしていないんですが…」
と断ったが、
「何、お宅の店ではそんなこともしていないんだ。あきれた。コンビニってコンビニエンス便利って意味だろ。そのコンビニがサービスを売らないって聞いたことがないよ。」
「…」
「もういいよ。あたためなくていい。もう二度とこんな店来るもんか。」
こんな客を相手にすると腹が立つ。あと、客もいた。
「ああ、うまいなこのおにぎり。やっぱりハンターストアのおにぎりはうまいよ。」
ってライバル店のおにぎりの自慢をする客もいる。ここはGet Peaceなのに。まあ俺には関係ないけど。
「おでんもらえますか。あのだしがしみている大根。」
「これですか。」
「いや、それじゃなくて、その隣と隣やつ。」
「これですか。」
「そう、それ。」
「あとは、何かいりますか。」
「いいや、結構。」
「105円になります。からしつけましょうか。」
男は財布から1000円札を取り出し、5円を探しながら言った。
「からしも頼む。」
「はい、900円のおつりです。」
変わった客だな。大根だけのために来るか普通。
今、私が大根だけ買いにきたわかった客だと思ったでしょ。」
男は鋭いとことを突いてきた。
「いいえ、思ってません。」
男は俺を疑いながら話し始めた。
「昔一軒の屋台のおでん屋だったんだよ。私はそのおでん屋の常連でね。いつも会社帰りに大根を食べに寄ってね。その大根の味が格別でね。」
俺は話に興味がなかったので真剣に聞かなかった。
「そこの店主がホントに頑固親父で、天候が変わったりしたらおでんの味が変わるとか言って、店を出さないんだよ。それだけおでんに対する愛情がこもっているんだろうけどね。」
と男は買った大根だ冷めるのを気にしないぐらいに語った。
「そのおでん屋は今はもうなくなったけど…」
男は辛そうに言いかけた。
「それでどうしたんですか。」
俺は何気に問いかけてみた。
「この大根の味がそれと同じなんだよ。」
男は言いながら大根を口にした。
「うまい。この味は忘れられない。」
俺はそのおでん屋が売っていたものは、コンビニおでんと同じほどのレベルなんだと思いあきれた。
「ここに…」
男は言いかけた。
「はー。」
俺は不思議に思った。
「ここにそのおでん屋が16年前にあったんだよ。」
そのとき店長が裏から出てきた。
「あっ、山中さん。」
男は叫んだ。
「山中さんだよね。16年前ここでおでん屋をやっていた。」
男は泣きながら喋った。
「はい、山中ですか。どなたですか。」
店長は不思議そうに言った。
「神代ですよ。山中さん。なぜおでん屋をお辞めに。」
「あっ、父がやってたおでん屋ですか…」
店長は言った。
「お父さん?」
「はい、父が16年前までやってました。その16年前に他界しましたが。」
店長は下を向きながら言った。
「そうかもう亡くなられているのか。よく見れば君はあのときの山中さんより若い。」
男は悲しい声で言った。
「今やおでん屋はありませんが、おでんは売ってます。コンビニおでんだからって味には一切手抜きしてませんよ。たとえチェーン店だからってこのおでんだけは本社従えませんでした。」
俺はいつもの店長とは違う感じがした。そういえば1回も俺は店長におでんを下ごしらえさせてもらってない。しかも季節に関係なく1年中販売している。
「そうか…ありがとう。おやっさんに私にこんなおでんを食べさせてもらってありがとうって伝えてくれるかね。」
「はい、父に伝えときます。」
店長ははっきりと答えた。
「あと、これからもおでんの味を守り続けてくれ。」
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちいたしております。」
店長の挨拶がコンビ二中に響いた。
店長はあとで俺に言った。
「私は親父に反対されたんだよ。コンビニをやることを。親父は私に『おでん屋の息子なんだからお前も一生おでん屋だ。』って。」
店長の頬には涙が流れていた。
「そして私は本社でコンビニ経営の勉強をして働いた。そんなときに当然姉から電話があって親父が危篤と言われ。」
店長の涙は床に落ちた。
「私はすぐに病院に駆けつけた。しかし、そこには親父はいなかった。もう亡くなってたんだよ。親父は手に紙を持って死んでいった。その紙にはおでんの作り方が書かれていてね。あの親父が私のためにレシピを書いてくれていたんだよ。それには驚いたね。」
俺は思った。おやっさんが本当におでんを愛していたことを。
「だから私は、いつも父が屋台を出すこの場所におでん屋を作るって。そして、コンビニおでんでもいいから味を引き継ぐと。そして私は本社にこのおでんの味を認めさせたんだ。10年もかけてね。」
「その努力は無駄じゃなかったんですね。」
「親父は喜んでいるかな。今でも怒っているのかな。俺がコンビニを作って」
店長はそう言って俺に大根を食べさせた。大根にはだしがしみていた。父親のおでんに対する愛情と息子の受け継いだ意思がだしとなって。
そして俺は心に決めた。このおでんを売るコンビニに就職すると…
完
私(わたくし)には、空を見上げる癖がある。
私は、姫子。名字は気に入らないが、この名はとても気に入っている。時々、源氏名などと思う輩もいるがそんなアホウはアウト・オブ・眼中である。私は、わがままで高慢。白い肌も、ぱっちり目も、プロポーションも完璧。でも、そんな事はどうでも良い。ともかく私には、空を見上げる癖がある。前々から癖があったかどうかは知らないが、私はある1人の人間によってこの癖がついたように思う。空の青の深さは、私に思い出させる。
1.夏の空
11月の何日か。空は、異様に強い光を放っていた。私の愛すべきアヒルちゃん達(クラスメート)はヒステリックに日焼け止めを塗りたくり、ペンキのようなニオイを振りまいていた。普通レベルの女子校に入り込んで早2年。こんな光景は見飽きていた。この名のせいか、頭蓋骨にまとわりつく皮のせいか、どうでもいいオトモダチが増えた。決して、「姫子」と呼ばせなかった。私のこの名を、軽々しく口に出すな。
この強い光は、私の全身に「姫子は独りぼっち」と歌っていた。そんな事はもう、知っていた。「トモダチでしょ。」「トモダチだもんね。」を連発しているこの子達の言葉は、安っぽく偽物の香りがした。自由なんて死ね、愛なんてクソ食らえ。それが、私のキャッチフレーズ。私は、空を見上げた。私をあざ笑うかのように雲が平然と浮いている。空は、驚くほど近くて、それは正に、夏の空だった。
2.宵
学校からバス停までの間にとても古くさびていて、大きなトラックが下を通るものなら、ギシギシと揺れてしまう歩道橋がある。見るからに危ない歩道橋は人々に利用されなくなり、忘れかけられている。しかし、私はそのすりきれた青色も、危なっかしさもスキだった。私は、いつも帰り道その歩道橋を渡って帰った。
その日も渡っていた。夏の空の終わりは、とっても呆気なかった。三日月の反対の月がでていた。私は、何を思ったのか歩道橋の真ん中に立ち止まり、ゆっくりと下を見た。冷静だった。何も思わなかった。ビュンビュン通り過ぎる車や、クラクションの音、全てが止まった。私は、「下を見つめる姫子」を見ていた。「姫子」は泣いていた。きれいな塩水が、キラキラ光った。ああ、私は「姫子」の声に気づいてあげれなかった。わかってあげれてはいなかった。ごめんね。
バイバイ、姫子。
「君が死んだら、僕も死のう。」
人は死ぬ時、精神が混乱するという話を聞いたことがある。ああ、幻聴かな。それにしても、ありがちなくだらないセリフだわ、笑える。私は、カバンを足下に置き
、手すりに手をかけた。もう、相当ヤバイらしく、幻覚まで見えてしまった。私の美しい左手の隣に、もう1つ手がある。その手は、吸いかけのタバコを持っていて、灰が風に乗って空に上がっていった。私は、ぼんやりと灰を見守った。空が見えた。暗いけど、やさしい色だった。
「良い色だねえ。」
私は、思わず隣を見てしまった。何ともヒョロッとした背の高い男がいた。天使にも、悪魔にも見えない、生身の人間だった。その人間は、不作法にも私に笑いかけ、手すりに両足をかけた。私は、不本意にも焦ってしまった。万が一、風が吹き落ちてしまえばひとたまりもない。
私は、人間のセーター裾をつかみ、怒鳴った。
「止めてよ!死んでどうすんのよ!とにかく、降りて!」
他にも何か言ったが、もう覚えてない。半分鳴き声で、手が赤くなるほど強くセーターをつかんでいた。その間、人間は空を見上げたり、タバコをポイ捨てしたりしていた。すごく長かったようだけれど、1秒もたっていないようにも感じた。私のおかげか、本人にその意思が無かったおかげか、人間は無事手すりから降り、何事もなかったかのようにニタッと笑って、私が上がってきた階段で行ってしまった。人間は名乗りもしなかった。
再び、車はスピードをあげて走り出し、あちこちでクラクションの音も聞こえた。あまりに、不確かな時間だった。夢の中のような。フワフワして、少し寂しい感じ。私は、もう1度空を見上げた。今日、11月の空が夏の空に見えた。私がこの世界から、今この瞬間消えようとする時と、同じ空の色だった。私は、カバンを持ち、本格的な冬が来ようとしている風を受けて歩き出した。
あれからあの人間には、会っていない。歩道橋も、とうとう通行禁止となった。あの空の色も、永久にない。そして、空を見上げる度、私は思う。私なんか死んだって何も変わらないこの世界は冷たく残酷だけれど、あの瞬間、私はあの人間にたまたま会った。
この世界は、愛情に満ちていて、愛しいと。 おわり
私のアルバイト先のスーパーでは、休日になるとタイムサービスをするのが恒例となっています。タイムサービスというと売れ残り商品のたたき売りを連想しがちですが、うちの店はそうではありません。前日まで定価で売っていた商品を、気前よく半額にしてしまうのです。これにはみんなびっくり、まだ開店して3ヶ月しか経っていないけれど、あっという間に地元の名物行事になりました。今日は土曜日、中央エスカレーターの前からまたいつものように威勢のいい声が聞こえてきます。
「いらっしゃいませー!これからタイムサービスを実施いたします。ワゴン内の商品全て半額、お時間限りがございますので、どうぞお早めに!」
正社員の川本さんの一声でわぁっと人が集まってきました。私もぼうっとしてはいられません、早速レジスターのロックを解除し、「ただ今停止中」の札をよけました。これからが勝負のはじまりです。エスカレーター前に目をやると、ひたすら売込みをする店員の中で一人だけレジの案内をしている人がいます。
「お買い上げありがとうございます、お会計はあちら中央レジでお願いいたします」
同じ靴売り場アルバイトの沢口さんです。土曜日しか一緒にならないのであまり話をしたことはありませんが、聞くところによればある有名な大学に現役で合格した頭のいい人なのだそうです。
「物静かな人でね、自分からは絶対そんなこと言わないのよ。仕事ぶりも真面目だし、あんな息子がいたらいいわねえ」
パートの竹村さんがあまりにもほめるので、その時私は吹き出してしまった覚えがあります。
10分ほどしてタイムサービス用特殊レジ操作に慣れはじめたころ、その沢口さんが一人のお客様を連れて駆けてきました。
「あのさ、このお客様の商品元値のタグがなくなってるから、新しく登録しなおしてから打ってね」
私はその言葉をしっかり頭に焼き付けました。レジ係はお金を扱う仕事、間違えば店の信用にも関わるのです。「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」「いらっしゃいませ」―――今日は調子が良いのか、一度の「失礼しました」もなくその前のお客様まで会計を終えられました。そしてそのまま言われたとおりに登録をしなおそうとしたときです。
ピーッ・・・・
エラー音が鳴りました。何か操作を間違ったかなあ?もう一度同じようにやってみました。やっぱり鳴ります。
ピーッ・・・・ピーッ・・・
どう考えてもおかしい、と思いました。リセットボタンを押したのに画面が何も変わらないのです。パソコンで言うフリーズの状態です。そうこうしているうちにレジには長蛇の列ができていました。
「ちょっと、どうしちゃったのよ」
「こっちは急いでるんだからね!」
何分も待たされ、お客様が段々いらつき始めました。しかし機械が反応しないのではどうしようもありません。誰かを呼びにいかなくては、でもその間レジはどうすればいいんだろう?待っているお客様のことは?列はどんどん長くなります。飛んでくる罵声もそれに合わせて増えます。何から先にやればいいの?頭の中は大パニックで、涙をこらえるのがやっとでした。そうして呆然とレジカウンターで立ち尽くしていたときです。
「宮原さん、大丈夫?」
背後で力強い声が聞こえました。低めのよく通る声、沢口さんです。
「今他の売り場にレジ頼んできたから。ここのお客様は俺が向こうに案内しとく。君のせいじゃないから。落ち着いてな。とにかく向こうから川本さんよんできて」
その言葉にふっと力が抜けると同時に、冷静な気持ちがよみがえってきました。川本さん・・・5メートルほど先にいます。私は無我夢中で彼のもとまで走りました。
「川本さん、レジが動かなくなっちゃったんです、すぐ来てもらえますか?」
「動かなくなったって・・・じゃあ会計はどうなってるの?」
「沢口さんが他のレジにご案内してます」
川本さんは「タイムサービス実施中」の札を私に預けると、壊れたレジのほうまで駆けていきました。これで一安心、でも売り込みの文句ってどんなだったでしょう?いつもレジばかり打っているので分かりません。そうだ、沢口さんの代わりにレジの案内をすればいい。私は元演劇部、裏方だったけれど一応発声練習はしています。
「お会計のお客様はあちら紳士服売り場レジでお願いいたします!!」
私は力の限り叫びました。恥ずかしかったけれど、そんなことを言っていられる場合ではありません。
ひととおり売込みが終わりさっきのレジカウンターに戻ると、川本さんと2,3人のパートさんが首をかしげていました。
「ねえ、これ本当に壊れてたの?俺がやっても全然異常ないんだけどなあ」
あの時あんなにエラー音ばかり鳴らしていたくせに、川本さんの指には反応しています。何と憎たらしいこと。
「宮原さんレジ操作ミス回数店内No.1だからなあ」
それは確かにそうだけれど・・・どう説明しようか迷っていると、片づけを終えたらしい沢口さんがやってきました。
「レジ直りました?」
「いや、それが俺がやってみても全く異常なしなんだよね」
「変だなあ、僕がやってもびくともしなかったのに」
いつも頷くだけの沢口さんが、珍しく異議を唱えたのでみんなが顔を見合わせました。
「大体あんなにいっぱい人が来るのに、宮原さん一人じゃ大変だと思うんだけど・・・」
全員しーんとしてしまいました。みんなよほどびっくりしたのでしょう。でも私はひそかに嬉しい気持ちになっていくのを感じました。
「そういえば、このレジ今まで一度も掃除してないんじゃない?」
パートの篠塚さんが口を開きました。
「そうね、だからきっと埃がたまって接触が悪くなってるのよ」
竹村さんにも言われ、川本さんはもごもごと口ごもってしまいました。川本さんは年上の女の人には弱いのです。
数時間後休憩をとろうと更衣室の廊下を歩いていると、誰かがガラガラとワゴンを押していくのが見えました。ワゴンには大きな「St.Valentine’s Day」ののぼりがたっています。バレンタインデーかぁ・・・沢口さんの言葉を思い出しました。「君のせいじゃないから。落ち着いてな」あの人は、とてもいい人だわ。
食堂であんかけラーメンをおいしそうにすすりながら、竹村さんが言いました。
「言うじゃない、沢口君。かっこよかったわよ」
「だってなんか宮原さんがかわいそうだったし」
「ダメダメ点数稼ごうとしても。あおいちゃんにはもっとステキな男性でなくちゃ」
りんごジュースを飲んでいた沢口さんはむせてしまいました。
「ゲホッ、ご、誤解しないでね。別に全くそんなつもりないし」
顔を真っ赤にしている彼がおかしくて、二人で大笑いしました。
靴売り場からはバレンタイン特設会場が良く見えます。あそこにおいてあるケーキミックス、気になるなあ・・・沢口さんは、チョコレートケーキが大好物なのだそうです。
落ちてゆく影の奥から、未だ遠い笛の音が聞こえる。
子どもたちは道化の後をついて行く。彼が吹く笛の音は止まることはなく、また彼の足も止まることはない。
トンネルに荷籠馬車を通す者、穏やかな笑みを見せる老夫婦、パン屋で主人と談笑する夫人。不自然なほど自然な日常を過ごし、そして今日は通り過ぎていき、明日を迎える。繰り返し、繰り返し、同じ明日を迎える。だから行き交う人々は笛吹きのその姿が見えていないように、無反応。彼は自分たちの日常の対象外であるとでも言うように。
そして私は、数十年前のあの光景を強く思い出すのだ。
―――1284.6.24。独逸、ハーメルン。聖ヨハンネス祭であるその日、空一面に青い空と、いささか湿気を交えた暖かい空気が街の活気を彩っている。
子供たちが広場に集まり、花売り娘がアプリコットオレンジ色の花を売っている。屈託のなさそうに笑う彼らと、瞳の奥に僅かな影を持つ娘。そのコントラストがなんだか不思議で、まだ十に満たなかった私は不躾にならない程度に観察していた。
そんな時、彼はやって来た。
糸を垂らすより細く、軽快な笛の音色が広場に響き渡る。
そして、影を供に連れた道化が現れる。
曇りだしてゆく空と、一斉に飛び立つ鳥たち。まるで、何かの予兆のように。
だのに子供たちも、花売り娘も、そして私も。何も言わず、何も分からずに耳を澄ます。
感覚全てを笛の音に任せるが如く奇妙な心地に、幼いながらに陶酔していたのかも知れない。
ハーメルンの町に乱れた風が吹き荒れた。
地が揺れるような感覚に襲われ、私は自我を取り戻した。意識の奥に沈んだ笛の音に導かれ、どこかに向かって歩き出していたようだ。
そこは、東の門に向かう道だった。
このハーメルンという街には東と西の門があり、西の門にはすでに開発事業が持ち掛けられ、トンネルも開通している。だが東の門には大きく暗い鍾乳洞があり、少しでも大きな音を立てれば崩れてしまいそうな石の塔が建っている。どんな親でも十を満たない子供を連れては行かぬ危険な場所である。
不安を感じ、どうにか帰ることは出来ぬかと目を動かす。
ふと、笛吹き男の顔を見た。
がたがたと震えた。肌は毛羽立ち、背中はぞろりと寒気がした。
怖かった。
そして私は。
何も言えず逃げた。
翌日、百三十人にいたる児童集団行方不明として全ては処理された。
彼を見た大人はいなかった。
―――あれから彼は何処へ行ったのか。
死んだ?
違う。あれは生や死に管轄されるモノではない。彼は―――笛吹き男と呼ばれているモノは―――最初から生きているわけでも死んでいるわけでもなく、笛を吹くことのみを許されたモノ。繰り返し繰り返し同じ曲を吹くこと。それが彼の日常。
瞼に焼きついた残像がそこには。
いや、これは現実なのだろうか?
目の前には笛の音について行く子供たち。
道化は笑う。笛を吹きながら笑う。
彼の面には笑い顔しか無いのだから。
途中で自我を取り戻し、逃げる子供。
あれは、私?
これが私の繰り返される日常?
私は眩暈を感じ、強く瞼を閉じた。
目を開くと目の前には道化の影が。
見つけた、とでも言うように、
口の端をきゅっと吊り上げる。
私は逃げ切ったとばかり。
彼はけして逃がしはしないのに。
必ず何処までも追いかけて。
丁度日常が繰り返されるのと同じように。
―――これも、ただ日常を繰り返しただけ?
そうか。私は気付いた。
度重なる自然開発で変わってしまった町並みと、変わらない空気。暗く打ち沈んだ鍾乳洞。沢山の石のつみかさなる塔。
偶然とは思えなかった。
私はかつてハーメルンと呼ばれた町に帰って来ていたのだ。
ならばここは、
東の門の
今度は逃げることなどできない。
「いれて、ほしい、の」
変なアクセントのついた声が、僕の耳にはいった。
僕は、声の主のほうをふりかえった。
雨のなか、コンビニのわずかな屋根のところに、その少女はいた。
この季節にしては、少し肌寒そうな、薄手のセーターに、青いヒラヒラしたスカートをはいていた。歳は、十歳ぐらいだろうか。
髪や目の色素が薄く、灰色がかって、生粋の日本人にはあまり見えなかった。
「聞こえ、なかった?あの、ね。傘、いれて、ほしい、の」
やはり、少しばかり変なアクセントの日本語だ。
僕は、不思議に思いながらも、言葉をかえした。
「あのさ。僕、きみとどこかで会った?」
「会った、こと、ない」
「じゃあ、なんで?知らない人に、普通言わないだろ」
少女は、一歩前にでて、また不思議なアクセントで話した。
「だって、ワタシ、はやく、帰り、たい」
灰色の目が僕を見据える。
「・・・・いいけどさあ。僕、きみのこと、ホントに知らないよ?家はどこなの」
「もう、ちょっと、向こう。行こう」
少女は、早々と僕の傘のなかにはいると、大通りの方を指さした。
雨がいっそう激しくなってきた。
五分ほど歩いたが、少女は何も言わない。
僕は、思い切って話しかけてみることにした。
「きみの家、もう近い?」
「ううん。もう、ちょっと、遠い」
「そっか。きみ、名前はなんていうの?」
「ツ、バ、サ」
ツバサ・・・・。男の子みたいな名前だ。
「僕は、晴樹っていうんだ。きみ、日本人なの?」
ツバサは、しばし考えこんでいるようだった。
「違う、と、思う。おかあ、さん、髪の毛、薄い、色」
ハーフなのか。
僕は、僕なりに解釈をしてみた。
「それ、に。ちょっと、前は、ニホンじゃ、ないとこ、住んでた」
「そうなんだ。どこ?」
ツバサは、また考えこんでいた。
少し、難しい質問だったかな。
「確か、ね。アメリカ、の方」
だから、変なアクセントなのか。日本語にはなれていないのか。
「ニホンゴ、少し、むずかしい、の。だから、今、練習、してる」
「そうか。いつか、うまく話せるようになるさ」
「うん・・・・。あ、もうすこし、で、うち」
ツバサは、少し早足で駆けていった。
「ツバサ、何歳?」
「んとね、十歳、かな」
予想どおりだ。僕より六つも下だ。
「ワタシ、こんなに、知らない、人と、おしゃべり、したの、はじめて」
「はは。僕も、知らない小さな子とおしゃべりしたのははじめてかな」
「ワタシ、ね。雨、大好き、なの」
「そうなの?」
ツバサは、少し笑って言った。
「雨、冷たいし、気持ち、いいの。でも、びしょぬれ、は、嫌い」
「そうなんだ」
「あと、あと、アメも好き、なの。おいしい、やつ。それっから、桜のお花、も、好き」
ツバサは、今度はウキウキしたような笑顔で言った。
「今度、ね。誕生日、なんだ、よ。日曜日、なの。プレゼント、たくさん、もらう、の」
「そうか。じゃあ、僕もあげるの?」
「ほしい!ほしい、ほしい!くれ、る?」
「う〜ん・・・・・できたらね」
会って一日の女の子に誕生日プレゼント、など非常識きわまりないが、こんな喜んでる子に「あげない」とは言い難い。
「ハルキ、うれしい、よ!おかあ、さんにも、ハルキの、こと、言っておく、ね!」
「ええ!?い、いいよ、別に・・・・・」
「お友達、たくさん、つくれって、おかあ、さん、おとう、さん、言った」
「う〜ん・・・・それもそうだけど」
「ね、ね!約束、約束、だよ」
ツバサは、声のトーンを思いっきりあげて、駆け足で走った。
僕もあわてて後を追う。これじゃ、傘にいれた意味がない。
「あ。ここ、ここ、だよ」
「へ?」
ツバサがふいに立ち止まって、指さした。
おったまげたというのは、こういう時につかうのだろうか。
豪邸だ。ものすごい豪邸だ。庭は、うちの家の面積より絶対に広い。広すぎる。庭だけで僕の家がはいってしまう。
「じゃあ、ね!約束、ゆび、きり」
ツバサが小指をだした。
僕は、少しだけ笑うと、小指をだした。
「ゆーびきーり、げーんまーん!ばい、ばあい」
ツバサはそう言って、インターホンをならした。
インターホンから女の人の声。どうやら、母親らしい。
僕は、ゆっくりと家路を急いだ。
「アメと桜・・・・・」
ひとりごとのようにつぶやいた。
たくさんのアメと、桜の絵はがきでいいかな?
女の子の趣味はよく分かんないけど、まあそんなものでいいだろう。何でもよろこんでくれそうな気がした。
「あ・・・・・」
僕は、途中である重大なことに気が付いた。
「あんなでかい家の子にあげるものだぞ・・・・・。いいのか・・・・・?やっぱ・・・・・」
『これは あなたが さがしていた かぎです。』
B5のルーズリーフの線を全く無視した描き方で、その手紙は僕の元へ届いた。
学校帰り、大して特別なことも無かったけれど何故か僕はポストに手を伸ばした。そして母が買い物好きの為数々のダイレクトメールが夕刊の間からはらりはらりと落ちてきた。
珍しいことに、その手には僕宛の手紙があった。ごく普通のクラフト紙で出来た茶色い封筒には几帳面に貼り付けられた80円と10円切手と、同じぐらい几帳面な字で「木村 義人様」と書かれていた。手紙をもらう経験なんて無いし、内心おかしいなとは思っていたけれど、人間だれでも嬉しいときは素直に喜ぶべきだと思うね。
「ヨシ!帰ってきたんなら声かけなさい!」
最近はずっとこうだ。何でいちいち居間に顔出して、学校の話をしなきゃならないんだ?僕はんーともおーともつかない声で、返事をしたものの自分の部屋に引っ込むことにした。
スポーツバックを端っこに投げて、靴下をその辺りに放り投げる。片手でその手紙の封を切ると、中には例の文面と少々錆びているもののまだ使えそうな鍵が、素足の甲にあたった。
「あ?」
封筒の裏を見ても、差出人は書いてないし、文面もそのままだ。
「イタズラかよ。」
期待していた自分が、なんかダサクて僕は鼻の頭をかいた。どうすることも出来ない。いきなりこんな鍵送られてきても困るし。急にやる気というやる気が全部どっかに帰って行って、制服のままベッドにつっぷした。
「ヨシー。パーカーかして。」
アホみたいな声を出してやってきた、アホみたいな顔をした姉が肩まで伸ばした髪の毛をいじりながらやってきた。今現在の悩みはこのアホ姉について。
「やだ。」
「あー?なんで。いいじゃん、借りるよ。」
そういって勝手にタンスをいじり始めた。どうせ勝手に着るんだったら聞く必要は無いと思うのに、と呟くと
「あんたさー、汗くさいの!風呂入ってきてよ!」
などと残酷なことを言う。酷い。
ちなみに僕が姉に服を貸すのをためらうのは、服に姉の香水の匂いだとかがつくからだ。別にいい香りだとは思うけれど、姉がいつもそこにいるだなんて考えると、もう寒気がとまらなくなってしまう。
「じゃあね、アリガト。文通始めたの?」
いまだ握り締めていた封筒を見ると、うさんくさそうに言った。
「それとも懸賞?はずれたのね、その様子と臭さからすると。」
「臭い臭い臭いってうるせーよ!」
枕を投げつけると、昔はかわいかったのになどと呟いて出て行った。
そして人間の記憶というものは都合のいいもので二週間たち僕は、あのおかしなイタズラの手紙のことを忘れかけていた。
そんなある日。
目覚めが悪い朝だ。仕方ないのだけれど、夜遅くまでテレビを見ていた。その後適当に今日の追試の勉強もやってそのままイスで寝たのだから。母が元気な声で「なっちゃん起きなさい!」と言っている。そんな母にあわせるハイテンションな姉の姿に涙した。いや、マジでね。
足音が近づいてきたかと思うと、途端
「ヨシ!起きなさい!・・・あら、勉強してたの?テスト本番もそれぐらい すればいいのにね。まぁ、勉強することは悪くは無いわ。」
一方的にしゃべった後、
「おはよう。」
とニッコリ微笑みかけてきたので、脱力しながらもおはようと微笑みを返した。学校の友達に知られたら一生馬鹿にされる母親だろう。悲しい。
パタパタと軽快に階段を下りて言った後、僕の目の前にはおかしな物体がこちらを睨み返したいた。
「オハヨウ」
喋った。
「なんだ・・・この鳥。」
「ナンダ!ナンダ!」
黒い体をした鳥は、まさしくテレビでよく見かける九官鳥だった。多分。
窓を開けっぱなしにしていたからだろう、誰かの飼っていた鳥が逃げてきたのかもしれない。しばらくうさんくさく、鳥を眺めた後害は無さそうなので無視をしてそのまま居間に下りていった。
「母さん」
「何よ。なっちゃん、遅れるわよ!」
「あのさ、部屋にさ九官鳥いたんだけど。」
「九官鳥?どうしたの、飼ってきたの?鳥かごは?あんた一言相談しなさいよ。」
姉が、醤油を取れと目で促す。
「違う、窓開けてたから入ってきたんじゃないかと思って。」
「あら。じゃあヤクトクじゃない。そのまま飼っちゃいなさいよ。」
無茶苦茶を言う母親だと、僕は再認識をせざるは得なかった。
「いいなー。ヨシ、九官鳥いるのー?」
「いらないよ。だから返してやったほうがよくない?」
「勿体無い!私貰うわ。いいでしょ?母さん。」
「面倒見切れずにそのまま鳥を餓死させなければね。」
かくて、無茶苦茶な親子により九官鳥は捕獲されたのだった。
新聞を取りに言ったときに再び僕宛に手紙が届いていた。相変わらず几帳面に書かれた住所に名前。そして今回の切手は80円だった。
「またきてら・・・。」
そのまま玄関先で手紙の封を切ると、そこには写真と手紙が入っていた。
『突然の手紙申し訳ありません。私の名前は氏浦美佐です。木村君のことは一ヶ月ほど前に知りました。よかったら、私の相手をしてくれませんか?』
新手のイタズラだろうか。しかも趣旨が纏まっていないし。
けれど、写真を見て驚いた。
少女の顔は僕の姉、木村 夏絵そのものだったからだ。多少幼くそしてえくぼとほくろもあり全体の印象は違うけれどそことなく似ていた、ただ姉の字ではなかった。姉はすべてアホだったから漢字もロクに使えないし、字もふざけている。
そのとき、ぼくの鍵は音を立てた。
こんな世界のどこかに、寂しい者同士に鍵を配る会社がありました。
その会社は世界中の子供たちを幸せにしたいという、一人の大学生の女性によって創立されたとか。通称はNP。
鍵によってめぐり合わされた二人は必ず幸せになれました。
そして彼女は彼女の弟がひそかにシスコンだったことも、知っていたそうです。
鈍い光が差し込む、静かな私の部屋。
朝…。時計の音が無常に耳元を触る。異常なまでに意識がはっきりとしている。
枕もとの携帯に手を伸ばし、いつものように画面に目をやると、
『メッセージを受信しました』と映し出されている。裕美からだ。
『大丈夫?なにかあったらいつでも話聞くからね。』
1通だけ。あたりまえだけれどシンジからメールはない。あの雨の日から、一度も。
何度も気が狂うほど、頭痛に頭を抱えるほど泣いたから、もう心は悲しみを越えて虚無感に満ちている。ゆっくりと起き上がり、ハンガーから制服を脱がせ、着る。
今日、シンジに逢える…。
あの日も少し喧嘩気味で、いつものことだと言い聞かせた。雨が靴の中を湿らせて、芯までカラダが冷えた。別れのキスを二回ほどして、電車にかけのった。
あの時二度目のキスをせがまなければ、全ては変わっていたのかもしれない。
ゆっくり進みだす電車、ホームのシンジを見失わないように、顔を窓ガラスに近づけた。私が手を小さく振ると、シンジは手を少しだけさりげなくあげた。なんだか惨めな気持ちだった。息が詰まりそうなもどかしさがこみ上げてきた。
今度こそ、そう、明日からはもっと素直にいよう。
『大好きよ』
メールに今のいとしさをおし込めて送った。
喧嘩をつづけながら、甘いコトバを交わしながら、身体重ね合わせながら、心震わせながら…そんな日々を今まで、そしてこれからも続けてゆく。ずっと…。
でも、その日、メールは帰ってこなく、電話も電源が切られたままだった。
バスに乗り込む。後ろ側の席に腰をおろす。カバンから鏡をとりだし、前髪をいじる。どうにかして落ち着きのない気持ちをしずめようとするが、指先が思い通り動かないまま。そのくせしっかりすわった目とクチビル。身体中の水が涙となって流れたせいか、頬はひどくやつれている。
シンジと逢うのに…。
シンジがいない所で私が泣くと、いつも彼は俺がいる所で泣けといった。電話ごしに声をいくら殺してもきづかれる。いっしょにいる時は涙を指先でひとしずくすくったあと、ハンカチでやさしく目元をおさえてくれた。そんな紳士的な優しさと凛としたりりしさが狂おしいほど愛しかった。
バスから降りると会場は目の前にあった。全身がすくむのがわかった。顔にさわる髪を耳にかけて、自動ドアの前に立った。
入るとすぐにシンジのお母様がフロアーで誰かとお話をされていた。こちらの気配に気づくと、静かに一礼された。私も小さいながら会釈で返した。
「おはようございます」
ありきたりのコトバが妙に浮いてきこえる。自然とコトバが続いた。
「このたびはどうも…」
そのまま途切れてしまった。顔をみあわせるとお母様は小さくうなずかれた。いつもおしゃべりなお母様が…なんだか一気に歳をとれれたみたいにみえた。
「今、部屋には誰もおりませんから、どうかしっかりシンちゃんと…」
そのままくちごももったのは、私のためだろうか。
重い扉を開けると、シンとした部屋に少し高級なパイプ椅子が並べられていた。張り詰めた空気が私の呼吸をとめてしまいそう。肩掛けカバンを後ろの椅子に置く。ひもの金具がカチンと冷たく椅子の背もたれにあたった。
そしてゆっくりとそれを直視した。
少し低めの壇上に、白木の……棺が蝋燭のなかゆれていた。
自分の位置からは小さく見えていたのだが、一歩一歩近づくたびリアルにソレはせまってきた。白黒写真は中学の卒業アルバムに載せられたきまじめなあの顔が、拡大してつかわれていた。
しっかり泣いたから、もう涙はでない。
三四段の階段をのぼれば、棺の中を覗けるようになっている。蓋はあいている。
段に足をのせるたび少しきしんだ。棺の中を覗いた瞬間、身体中を鳥肌で覆うような衝撃に襲われた。
シンジがいる。
眠っているような落ち着いた表情。どこか安らかで…美しい。
激しく抱き合ったあと、よく添い寝をした。あどけない寝顔がたまらなく好きで、起こさないように髪をやさしくなでた。耳元をくすぐるあたたかい吐息に、私も安らかにねむった。
いつもの癖か、戸惑いなく棺の中のシンジに手を伸ばした。頬を覆うように触ろうとしたが、触れた瞬間あまりのつめたさに手をびくつかせてしまった。やわらかい肌の奥に、硬直した血液がシンジの身体を硬めつくしているのがわかった。
冬でもその頬はあたたかくて、いつも背伸びをしてキスした。あの頬が、私の手より冷たく、かたまっていた。
交通事故のせいだろう、私のしらない傷がもみ上げの下に痛々しく残っている。
あの日、二度目のキスをしなければ…。
頬から指先を滑らせ、シンジの口唇にふれた。今日此処へきたらシンジに別れのキスをしてもらうつもりだった。でも…此処にはあのやわらかくうるわしいクチビルがない。もうない。もうない。もう…いない。
顔中熱くなって、目頭が潤んでゆく。もう身体に残っていないはずの涙が、心の隙間から溢れそうだった。シンジの目の前で泣いても、もう相手にしてくれないんだね。
とまれ、お願い、流れないで、涙。シンジの姿がかすんでしまう。
もう私が泣ける場所は、ないの。
午後、沢山の人に見守られて棺が霊柩車に乗せれた。おごそかに。
ダメ。
探した。
誰かに伝えなきゃ。
でも、見つからない、私の声きいてくれる人。
火葬場行きの霊柩車。身内でない私は、此処でお別れ…。
「燃やさないで!」
その一言を誰かに伝えなければいけないのに、誰にもいえない。ここで暴れまくってじらしたいのに、身体が動かない。
霊柩車が予告なく走りだす。ゆっくり。そして消えてゆく
葬儀場の裏で独りほてりを癒してみた。
燃えてゆくシンジが頭の中に、現れる。熱い、炎にこげて無残な姿に…。
燃やしちゃダメ。
燃えてしまう、あの胸も、脚も、指も、性器も、手も、瞳も、頬も、クチビルも、全て。
消えないで。
「お願い…」
いつもシンジに駄々をこねるときいうコトバ。聞いてくれない。今日は…これからは。
わがままを聞いてくれるのはいつもシンジだった。悲しい時にそばにいてくれるのは、シンジだった。
いま、一番…必用な時に、シンジがいない。何処にもいない。
次の瞬間、狂気のような私の泣き声があたり一面に響きわたった。
それでも、シンジには私の声は届かなかった。
真夏の陽射しが熱くて、私は思わず天を仰いでオレンジ色の口紅を引いた唇を歪めた。つばの小さな帽子とUVカット剤が入ったファンデーションだけでは防ぎきれそうにない。青い葉を思い切り伸ばしている銀杏の木陰を小走りに通って、冷房の効いたお寺の本堂に逃げ込んだ。昔は10キロくらい軽く走れたのに、ロングスカートとハイヒールの脚はほんの10メートルの小走りで痛くなった。
ひんやりした人工の風の中でほっと一息ついて真っ白なハンカチで汗をぬぐい、薄く付いたベージュ色に顔をしかめながら、どうしてシゲちゃんはわざわざこんな季節を選んだのだろう、と思う。夏の法事は喪服が暑苦しいのに。シゲちゃんは頭が良かったけれど、そういう気配りだとか常識だとかには本当に疎い人だった。良く言えば俗世間にまみれていなくて、悪く言えば世間知らずだ。
あれはまだ私が、ファンデーションの塗り方なんて知らなかった頃。真夏の太陽はぎらぎらと照りつけて、その陽射しの中を爽快さすら感じて歩いていた。日焼け止めなんてぬっていなくて、帽子なんてかぶっていなくて、真っ白なセーラー服にぐっしょり汗をかいて、胸元のリボンをなびかせて。脚にくっついてくるスカートをばさばさいわせながら、歩いていた。中学からの帰り道、陽炎の立つ上り坂。
夏休みの部活はどこか開放的だ。暑さと太陽のせいで頭はくらくらだけれど、それすらもなぜか楽しい。もうすぐ夏の大会で、それが終わってしまえば引退だということもそれに拍車を掛けているのかもしれない。監督の先生は冷房の効いた職員室の窓の中でのんびり麦茶を飲みながら、「倒れないようにほどほどにな」とだけ声を掛けてきた。
土けむりの立つ、サッカー部や野球部と兼用の小さなグラウンド。5キロを全力で走り抜き、最後のコーナーを曲がったときに見えた青空。10メートル、いや15メートルはあるユーカリの青々と繁った葉が揺れて、何一つない真っ青な空に風が吹き抜けていった。夏の鮮やかなコントラストに、きりきり痛む肺も張りつめたふくらはぎも忘れて飛び込んだ。ゆっくりと脚を止めて天を仰いだ私の上を、風がすりぬける。私は、ぞくり、と鳥肌を立てた。
坂を上る私の目の前に見えるのは、いつもと同じ近所の畑。腰の曲がったおばあちゃんが自分の楽しみのために作っているような小さなものだけど、今は背の高いひまわりが金色に光ってすごくきれいだ。ちょうど坂を上りきったところに立っていて、みんなを見下ろしている。さっきまで私が走っていたグラウンドも、ここからだったら見えそうだ。
ぼんやりひまわりを見上げていたら、麦わら帽子をかぶったシゲちゃんがたばこをくわえながらでてきた。シゲちゃんはここのおばあちゃんの孫で結構有名な大学に通っているのだけれど、無精ヒゲにTシャツとハーフパンツ、ビーチサンダルをつっかけた姿はどう見てもその辺のプータローだ。近所には同年代の子がいなかったので、昔はよく遊んでもらった。そのせいか、私はシゲちゃんのことが大好きだ。
「シゲちゃん、水まき?」
シゲちゃんに会うのは久しぶりで、私はうきうきしながら話しかける。シゲちゃんはよく焼けた顔を思いっきり崩して、手伝って、とだけ言った。シゲちゃんが笑ってくれたのがうれしくて、私はスポーツバックをとろけそうなアスファルトの上に投げ出してひまわり畑に飛び込んだ。
すぐとなりにあるシゲちゃんの家からホースを引っ張ってきて、私の二倍くらいありそうなひまわりたちに浴びせる。花びらと葉っぱに付いた水滴がきらきら光って、さっきよりずっと大人っぽい顔をしたひまわり。みんなすました顔をして、同じ方向を眺めている。私はホースの先を思いっきりつぶして、太陽とシゲちゃんをを背にして、うっすらと出来た虹をシゲちゃんに自慢した。
「あのね、シゲちゃんにだから言うけど、ぜったい秘密ね。今日は午後から、てっちゃんと映画に行くんだ。」
私は小学校からいっしょのサッカー部のてっちゃんに夢中だった。短くした髪、焼けた肌、良く響く声。その表情全部に惹かれていて、クラスの女の子達にはすっかりあきれられていた。それでもシゲちゃんだけはてっちゃんの話をちゃんと聞いてくれるので、今日のデートも特別に教えてあげたのだ。
私はすっかりご機嫌でそろそろ水を止めてもらおうと振り向くと、シゲちゃんは良かったねえ、と言いながら泣き出しそうな笑顔をしていた。
私は一瞬どきりとして、でもそれをシゲちゃんには気付かれないように笑顔を作った。ホースの水は出しっぱなしだった。
ひなたちゃん、ひまわりっていうのはね、もともとは女の人だったんだ。確か妖精の女の人だったと思う。その人は、太陽の神様に恋をした。だけど神様に声を掛けられるはずはなかった。おまけにその神様は、かっこよくて女神様達の間でも憧れの的だったんだ。で、彼女はどうしたかというと、彼を朝から晩まで見つめ続けた。陽が昇って、沈むまで。何日も、何年も、ずうっと。そうしているうちに彼女の脚は大地に根付き、やがて彼女は花になった。花になっても、彼女は彼をを見つめ続けた。だからひまわりは、今でも太陽を追いかけるんだ。
ほんとはひまわりが太陽を追うのはつぼみの間だけなんだけどね、と笑って付け足して、シゲちゃんは水を止めにいってしまった。私はその背中を見つめて、シゲちゃんがなんでこんな話をしたのか考えていた。でも訊いてはいけない気がして、何も言えなかった。私がもっと大人になったら分かるのかもしれない、と思ったし、そのころにはシゲちゃんも話してくれるかもしれない、とも思った。午後になっててっちゃんとの待ち合わせ場所に行った私は、てっちゃんの真っ白なTシャツ姿を見ただけでそんな話のことなんてすっかり頭の中から消えてしまった。てっちゃんとのデートは楽しくて、映画を見ている間ずっと二人で手を繋いでいた。終わったあと、まだ暗い映画館の中で初めてのキスをした。今度シゲちゃんにあったら自慢してやろう、と思っていた。
でもシゲちゃんはその3日後に自殺してしまった。お風呂で手首を切ったらしく、私がお葬式で見た死に顔は割ときれいだった。遺書も一応あったのだけど、お父さんやお母さん、友達への感謝のメッセージくらいしか書いていなかったらしい。おばさんは、特にいつもと違ったところはなかったように見えたのに、私は母親失格だ、と言ってわんわん泣いていたけど、それはシゲちゃんが悪いのだ。きっとシゲちゃんは、自殺する人間はすごく悩んでふさぎ込んだり、身の回りのものを整理したりするのだということも、遺書にはちゃんと自殺の理由を書くことも知らなかったのだ。
シゲちゃんのお通夜の日、七五三以来のお化粧をした。もちろんうすくだ。今ではお化粧も毎日のプログラムに組み込まれてしまうような歳になったけれど、シゲちゃんの気持ちは未だに分からない。私はもうシゲちゃんの年を越えてしまったから、もうこのままずっと分からないのかもしれない。今年も鮮やかに咲き誇ったひまわりを思い出して、お供えのお花はひまわりにすれば良かった、と思った。
ここはいつでも絶え間なくカノンが流れている。フローリングの床、コンクリートの壁。天井はガラスで、高さは普通の家の二階ほどまであって吹き抜けになっている。市の真ん中にある、大きな白い病院とは似ても似つかない。そんなここ、熊野医院には建物の造りと同様、変わった患者が多く来る。
「僕、ここへ来るといつも高校生の時を思い出すんです。ほら、ここいつでも“カノン”が流れてるじゃないですか。僕ね、高校2年の時、合唱祭で“遠い日の歌”の伴奏やったんですよ。信じられます? この僕がですよ? でも本当なんです。最初はクラスの人に無理矢理押し付けられたようなかたちだったんですけど、あ、僕ちょっとだけピアノ習ってた時があったんですよ、小さい時にほんの少しの間だったんですけどね、それで『お前やれよ』って言われて断れなくてね。でも、楽しかったんです。皆の前で恥をかいたらまたいじめられるとか、クラスの奴らを見返してやろうとか、そういうこと考えてたんですけどね、途中でそんなのどうでもよくなっちゃったんですよ。ただ、頑張ったんです。頑張って頑張って本当に一生懸命だったんですよ」
宮沢は3ヶ月ほど前に“初対面の人と話す時に心臓が苦しくなる”と言う理由でここへ来た。背はあまり高くないが小さいわけでもない、とりわけ太っているわけでもないし、顔がすごく悪いわけでもない。本人が言うように、いじめられていたというのは外見からはあまり納得がいかないが、問題は性格だったらしい。人見知りが激しく、無口。喋らなくて弱いやつは、自然とクラスからあぶれる。
「それで、合唱祭はどうだったんだい?」
熊野はカルテの上で動かしていた手を止めると、静かに尋ねた。
「……駄目だったんです。僕、本番で失敗しちゃったんです。ステージの上に立ったら頭真っ白になっちゃって。おかげでうちのクラスはみんなから笑われました。その後、僕もいじめられっこに逆戻り」
二人の間にカノンが流れた。
「どうしてなんでしょうね。どこで歯車が狂っちゃったのかなぁ。僕、ただ頑張っただけなのに」
数年前の自分を熊野の斜め後ろに見ている宮沢に、
「宮沢君、君は今日で通院を終わりにしていいよ」
と、熊野は告げた。そして、ゆっくり何回かカルテと宮沢の顔を交互に見た。
「どうしてですか?」
宮澤は少し悲しそうな顔をしながら訊いた。
「だって、君は人見知りと無口を治したくてここへ来たんじゃないか。これだけ喋れたら十分だろ?」
そう言われると、宮沢は座りながら椅子をくるっと一回転させ、
「僕が、先生のようにかっこよかったらよかったのかなぁ」
と、ため息交じりに言った。
「私はかっこいいかい?」
「背は高いし、太ってないし、顔だっていいと思いますよ」
「それはありがとう。しかし、なぜ“かっこよかったらよかったのかなぁ”なんて思うんだい?」
「だって、もし僕がかっこよかったら、昔の同級生とかに会ってもビクビクしないですむでしょう? 相手が女子だったら特にね」
「最近、誰かに会ったのかい?」
「……家の近くのコンビニで、昔、僕を率先していじめてた女の子に会ったんです。そこでバイトをしてるみたいなんです」
「それで、その子を見ると気分が悪くなるのかい?」
「気分が悪くなるとは、またちょっと違うんです。気管が苦しくなって、心臓が痛く……というか、早く動くんです。僕、今度は内臓的にもおかしくなっちゃったんでしょうか」
宮沢の話を聞いて、熊野は少し笑い出しそうになった。しかし、冷静を装ってペンを動かした。
「わかった。じゃぁ、今回はいつもとは違う薬を出そう。胸が苦しくなったらこれを飲むんだぞ。たぶん、今の君にピッタリだ」
「はい。ありがとうございました」
宮沢は椅子から立ち上がり、軽くお辞儀をした。
「あぁ、それと、僕が君を診るのは今日で本当に最後だからね。その薬が効かなかったら、他のどの病院でも君は治せないよ。あとは君次第だからね」
宮沢はなんだかよくわからない、というような顔をしたが、
「さぁ、次の患者が待ってるんだ」
そう熊野に言われて、しぶしぶ診察室を出て行った。
「先生、本当にあの処方箋でいいんですか?」
宮沢が病院から出て行ったのを確認すると、1人の看護婦が熊野に訊いた。
「あぁ、いいんだ。間違えずに渡してくれたかい?」
「はい……」
宮沢は突っ立っていた。コンビニの前で10分間も。ここのおにぎりが一番美味しいんだよなぁ、でも、苦しいのは嫌だなぁ、薬効くかわかんないんだよねぇ、そんなことをずっと考えていたのだ。でも、勝ったのは空腹だった。店に入る前に、病院でもらった白い紙袋から薬を一粒取り出して口の中へと入れた。ピンク色のそれは、ほのかに桃の味がしたような気がした。
ごくんっと唾を飲み込むとコンビニの中へと入って行った。宮沢は店内を見渡してあの子がいないことを確認すると、一安心しておにぎりの並ぶ棚へ行った。その時、
「宮沢君……?」
宮沢は自分の身体が固まったのがわかった。声のほうを振り向けない。手から処方箋袋がすり抜けて床に落ちる様子がスローモーションのように見えた。ぱらぱらとピンク色の錠剤が床に散った。白い床に、まるで桜の花びらでも散ったかのようだ、と宮沢は不思議と冷静に思った。
「ごめんなさいっ」
そう言ってしゃがみ込み、床に落ちた桜を一生懸命慌てて拾う人。彼女だ。心臓が主張し始めた。身体が、熱い。
「全部拾ったけど、食べられないよね……」
彼女は立ち上がると、気まずそうにそう言いながら苦笑いをした。そして一言。
「ごめんね……」
身体がすーっと溶けていくのを宮沢は全身で感じとった。なんだか、今まで重く塊になっていた物全てが、どうでもいいと思えた。あの時の感覚に似ている。そう、あの時、がむしゃらにピアノを練習していた時の感覚に。
「ありがとう」
そう言った宮沢の顔は笑顔だった。タラコとしゃけのおにぎりを手にとるとレジに向かった。その後、彼女が小走りで、宮沢より少し遅れてレジについた。ピッピッと言う電子音が狭い店内に響く。
「これ、さっき私のせいで落としちゃったでしょ?」
そう言って、彼女はおにぎりの入っているビニール袋の中へ何かをさっと入れた。そして、また言った。
「ごめんね」
店を出るとすぐに宮沢は袋の中を確認した。“ピンクでかわいい!!桃の味で美味しい!!”と言う文句が書かれたラベルが張ってあるサプリメントの小さいびんが入っていた。ふたを開けると一粒口の中へ入れた。ピンク色のそれは、ほのかに桃の味がした。
「宮沢君どうしてますかねぇ」
カルテを持ってきた看護婦達の中の1人が呟いた。
「元気にやってるんじゃないの?」
熊野は微笑みながらカルテに目をやった。
「彼、結構好みだったのになぁ」
ため息混じりに違う看護婦が言った。
「じゃぁ、コンビニでバイトでも始めたらどうだい?」
熊野の返答に続いて、院内に笑い声が響いた。
今日も熊野医院ではカノンが流れる。
大学の合格と同時に車学に通い始めた。自動車の免許が欲しかった。それは自分の街、それにつながる今までの自分との別離をはっきりと目に見える形で確認させてくれると信じていたからだ。まず何よりも必要だった。
毎晩、月の形が変化してゆくのを眺めながら、友達に運転を教えてもらった。卒業の日を間に挟んで、月は満月になった。月も人も変わりゆく。変わらないのは街だけだった。
さらに幾度か月が昇った、月が奇麗な夜。女の子を誘って初めてドライブに出かけた。兄貴からもらった車、免許は仮免だけどまぁOKだ。隣には幼なじみの女の子。まるで昔のロックみたいだ。グッドオールドデイズ。僕が過ごしている今も、何十年先には古き良き日々になるのだろうか?
「自分の街の夜景ってすごくきれいにみえない?」
橋の上を走っている時に彼女が聞いてきた。
「そうだね。なんでだろう?何度も見てるのに。よく見るの?」
僕も彼女も、橋の上から一望できる小さな街の出身なのだ。
「ううん、親が厳しかったから。」
「時間は大丈夫?」
「もういいのよ、卒業もしたんだし。大人になりたいんだもの、足かせがあったら成長できないわ。」
そう言ってから彼女はバックからメンソールの煙草を出した。
「変わっていくって、恐ろしい事なのかしら。」
白い煙と、やりきれなさを、彼女は窓から深く蒼い夜へ吐きだした。
そんな彼女を見ていたら、ずっと以前に好きだった年上の女の人を思い出した。その人の顔、発した言葉、何も理解できなかった自分。幼なすぎた自分。今でもその時の事を忘れられない。話しながら歩いた雪道、秋の陽射しの公園。後悔は過去の自分の姿となり、過去の僕はいつも僕を苦しめる。
車の速度を上げる。アクセルを強く踏みこむ。どんどん景色が流れてゆく。家、家、小さな書店、交差点、銀行、二年前に潰れたままの床屋、薄汚れているカラオケ屋、バス停、そしてひっそりとした高校が見えてきた。
「高一の時、何してた?」
「ピアスあけて、学校の中で煙草吸っていきがってたよ。」
「確か、高一の夏、久しぶりに会ったじゃない?あまりにも変わってて驚いたから、あの時の事すごくよく覚えてる。」
「僕も覚えてるよ。夏祭りの時だよね。」
「よくできました。裏の神社でかき氷食べたのも覚えてる?あの時さ、よし子が見てたらしいんだけど、あの娘、まったくあなただってわからなかったみたい。後で、あの人誰?って聞かれたもの。」
「あの時は、あれが必要だったんだ。」
「え?」
僕は煙草に火をつけた。自分の過去を話す時は何かでごまかしながらじゃないと、とても話せない。
「今じゃ変にいきがったりしないし、そんなのしてもしょうがないって思ってる。けど、あの時の僕は不安だったんだ。たくさんの人がいて、その大勢の中で自分がどの場所にいるのかわからなくて不安で不安でしょうがなかった。自分を大きく見せなきゃ怖くて学校になんか行けなかった。たくさんの中の一人になる事が怖かった。」
「今は?」
僕はきっと誰かに話して自己確認したかったのだろう。彼女が真剣に話を聞いてくれたのが嬉しかった。
「今は外面だけ変えてもしょうがないって思うよ。それかひょっとした自分のなにかが変化したのかもしれない。」これは成長といっていいのだろうか。
「ふうん、うまく伝えられないけどさ、今の方があなたらしくていいと思うよ。」
僕は照れた。
「どこ行く?」色々走ってから彼女に聞いた。
「思い出深い神社で。」
「夜だと気味悪くない?」
「そんな事ないわよ。神様はきちんと見てるもの。」
「バチは怖くない?」
「そんな事できないわよ。神様はただ上から見てるだけなんだもの。」
街の夜の道路はいつもがらがらだ。たまに深夜タクシーがすれちがうだけだ。誰もいない道路を、月を追いかけるように走る。走っても走っても追いつけない。様々なものを通り抜ける。錆び付いた商店街、まだ明かりのついている家、落書きされたトンネル、変わらない大通り、泣きそうになる街並み、誰かと歩いた通学路。本当に様々なものを通り抜けてきた。女の子と話した公園、果たせなかった想い、秋や冬、午後の陽射しの林の中、口ずさんだ歌、歌いながら帰った道、泣きながら帰った道、眺めた夕日。窓をあけたら雨上がりの濡れた草の匂いがしてきた。
深夜の神社。空は晴れ、夜の蒼い光の中、神社の敷地内を僕と彼女は歩く。
「いつあっちに行くの?」
「今月の末だよ。」
「寂しくなっちゃうね。」
「うん。子供の頃から一緒だったもんね。」
「私、言いたい事があるんだけどさ。」
「うん。」
「言わないわよ。」
「どうして?」
「あなたがいなくなるから。」
「よくわかんないよ。」
「だからね、あなたは去って、私は残って離れるでしょ。下手すると一生会わないかもしれないわけよね。」
「すぐ帰ってくるよ。」
「けど今までのようにはいかない。言う方はさっぱりするかもしれないけど、言われる方はどうゆう事を言われたにしろ、気持ちの整理なんかできないし、後味悪いじゃない。」
「そうゆうとこ、子供の頃から変わってないね。」
自分で全部考える所。彼女はいつも自分の中で全部終わらせた。
「成長してないのよ。」
「僕もだよ。何もわかってなかった。」
彼女を送った後、何を考えればいいかわからなかった。
ただアクセルを踏んだ。景色はまた流れていく。月の光はもう消え、朝日が出てきた。明るくなっていく空。遠くに朝日が出てきた山が見える。
口笛を吹いてみる。アンパンマンのテーマ。歌詞は確かこんなのだった。
何が君の幸せ
何をして喜ぶ
わからないまま終わる
そんなのは嫌だ
車は走る。景色は流れる。思い出、時間、痛み、どんどん流れ去っていく。これからも通り抜けてゆくのだろうか。流れる景色は、にじんで見えなくなっていった。
濁り切った、雨の降り出しそうな曇空。激しく荒れ狂う海。
ひび割れた岩が広がる崖、空中と地との丁度境目。靴の半分を前へ、靴の半分を後ろへ。
前進すれば間違いなく落下、後退すればいつもの下らない生活に戻るだけ。
これはゲームだ。
風が後方から吹けば俺は死ぬ。
風が前方から吹けば俺は生きる。
未練はない。生きようが、死のうが。
遊び暮らして家に戻らない親、陰険な目付きで陰口を叩く女子生徒、笑いながら俺の体操袋をごみ箱に捨てる元親友。出世しか頭に無くて、学力の低い生徒は目の敵にする教師。異端児を見下す優等生、蔑みの瞳。
下らない、下らない、下らない、下らない、下らない。
全ての優先順位は優等生。我が家という居場所を持つ女は美味しく新しい豆を食べる権利を持ち、残りの腐った豆を灰の中に落としてシンデレラに食べさせることが出来るのだ。シンデレラはそれでも逆転勝利したが、現実にそれは有り得ない。劣等生、異端児には、魔法をかけてくれる魔法使いは現れないのだから。
だから俺は、命を掛けるのだ。
俺の存在価値、そのものに。
『アンタってさ、煙草とか吸うワケ?』
首を振ると、琴乃は馬鹿にしたようにケラケラと笑って見せた。
『なーんだ。全然不良じゃないじゃん?私の方がよっぽどって感じ』
茶髪にピアス、ルーズソックスにショッキングピンクの口紅。
堅物の教師に反抗しているのかと尋ねたら、全然、と琴乃は言った。
『何もかも下らないっていうかぁ。面白くないのよね、毎日が。刺激が欲しいから、こんなカッコしてんの。もうちょっと楽しいセーカツ送れてたら、こんなことする必要もないのよね、きっと』
琴乃は俺みたいに、決して頭の悪い生徒ではなかった。
それなのに、そんな姿で毎日を過ごしていたのは何故なのか……。
それとも。
頭が悪くない、それ故に?
『アンタって、いつも死にそうな顔してるわよね。憑かれた中年のサラリーマンみたい。はは、我ながら適切な例えだわ』
琴乃は屈託がなかった。いつも笑顔だった。
寂しそうな顔など、して見せたことは一度も無かった。
『世の中ってタイクツよね。明るいニュースなんて辺り捜しても全然見当たんないし。外に出たらさ、外側ばっかり気にしてる人ばっかりで、人が皆虫みたいに思えてくんの。変な話だけど』
放課後、窓際。夕日に照らされた琴乃の横顔。
『アンタはさ、それでも生きていたいって思う?この世界で』
クラスで一人浮いていた自分、いや、疎まれていた自分に、周りの目も気にせず話し掛けてきた琴乃。
琴乃が何を考え、何を思い、何に動かされて行動してきたのか……結局、俺は知る事が出来なかった。
『――――――死んだ?』
知らせを聞いた時。
唇から零れた自分の言葉が、酷く間抜けに聞こえた事を覚えている。
車に跳ねられたと。
事故死だと、ニュースでは報道された。
真実が違うことを……俺は、予感した。
『―――ねえ、私さ、今日ゲームしようと思ってんの』
『ゲーム?』
『……そ。私の存在価値を掛けるの。カッコいーでしょ?』
『それって、どんなゲームなんだよ?』
『ヒ・ミ・ツに決まってるじゃない。……あ、そうそう。ゲームやる前に、アンタに言っときたいコトあったんだ』
『何?』
『………やっぱ言うの止めとくわ』
突風が吹き荒れた。
景色が回転した、ように見えた。
頭に浮かび上がったのは、琴乃と初めて出遭った時のこと、琴乃とクラスが同じになった時のこと、琴乃が話し掛けてきた事、琴乃が嬉しそうに満面の笑顔を浮かべた事、……琴乃の声。
『アンタはさ、それでも生きていたいって思う?この世界で』
バランスを崩して、俺は倒れた―――――――――――――――――――――――後方へと。
「…………」
無言のまま、起き上がる。
岩に腰を打ち付けた時すりむいたらしい、肘から血が滲んでいた。
―――血が、流れている。
それは、生きているということ。
俺は死ななかったよ。
………琴乃。
お前が俺に言いたかったことって、一体何だったんだ?
日常に帰り、そして又辛い目にあって。
苦しくなる度、琴乃の顔を思い出す度に、
俺はゲームを始めるだろう。
自分の存在価値を確かめる為に。
命を掛けてまで、琴乃がそうしたように。
デパートでショッピングをしていたら、偶然昔の友人と出くわした。私はガラス細工の置物コーナーにいて、ネコやフクロウを眺めている所だった。
「最近これの収集に夢中になってるのよ。子供の頃からキラキラする物が好きでねぇ。でもあの頃はこんな高価な物を買う余裕なんてなかったから、今こうして埋め合わせをしてるの」と私は言った。
友人は七色の光を放つハクチョウをしばし見つめていたが、ふいにそれに背を向けると
「これから何か予定はあって? 一緒にお茶でもどうかしら」と言い、半ば逃げる様にしてその場を去った。まるでガラス細工が忌まわしい物ででもあるかの様に。
最上階のカフェで落ち着くと、友人は困った様な苦笑いを浮かべた。
「ごめんなさいね、でも気を悪くしないで」と彼女は言った。
「貴方の話に、興味がなかったとかそういうんじゃないのよ。実は、私も十一歳くらいの頃ガラス細工が大好きで、でも貴方と同じでお金がなくて、収集したりは出来なかったの。だけど大きなお店でクマのとかを見る度に、心躍らせたものだわ。でもね、私は自分の手でその思い出に傷をつけてしまったの。愉快な話じゃないけど、聞いてくれるかしら」
そこで彼女は言葉を切って、注文したコーヒーの、湯気のたつ表面を見つめた。ミルクの入っていないコーヒーは漆黒で、それはさながら友人が闇を覗き込んでいるような印象を与えた。カフェ内ではショパンのピアノコンチェルトが流れていて、Eマイナーのそれは、さらに空気に哀愁を足した。そして彼女はスプーンを持ち、コーヒーをゆっくりと掻きまわしながらこう語った。
「私の家は、本当に余裕がなくてね。洋服は同じ物を週に何度も着なくちゃいけなくて、しょっちゅうその事でいじめにあったわ。そんな時いつも助けてくれたヴァレリーという女の子がいたの。ヴァルは貿易商の一人娘で、賢い上に美人で、クラスの人気者だったわ。だからいじめっ子達も彼女には逆らえなくて、退散するしかなかったのよ。
私とヴァルは何故か気があって、よく学校の後も一緒に遊んだわ。もっぱら外かヴァルの家で、私の家で遊ぶ事は皆無だった。母がね、嫌がったのよ、家をお見せするのは恥かしいって。ヴァルもその辺をなんとなく感じとってくれて、何も言わないでくれたわ。
ある時、私達の間でガラスの置き物が流行りだしたの。キラキラ光るイヌとかネコとかを見るためにデパートを訪ねたりしたのを覚えてる。ショーケースの周りをグルグルして、あのクマが可愛い、とかネズミの方が断然良い、とか好きなのを言い合ったりしたの。
そんな折、十一歳の誕生日に父が小さな箱をくれたの。誕生日はいつもケーキだけでお終いだったから、最初は喜びよりも驚きの方が大きかったわ。箱を開けた刹那も、自分の目が信じられなかった。中には、光輝く小さなガラスの林檎が入っていたのよ! 私は何度も箱を開けたり閉めたりして、林檎が消えてしまったりしないかと確認してしまったわ。そうしてようやく満足すると、父に飛びついて心から、ありがとうのキスをしたの。
私は次の日早速、学校の後ヴァルの家に行って林檎を見せたわ。彼女もその美しさにうっとりとして、良かったわね、素晴らしいわねと言ってくれたのよ。でもしばらくして、林檎の側面に傷があるのを発見したの。『貴方のお父様は、アンラッキーだったわね。でも、箱の中の林檎全部が腐るのを防いだんだから、良しとしておきましょうよ』と彼女は笑いながら言ったわ。でも、私は笑えなかった。林檎と父を侮辱された様な気分になってすごく不愉快だったから。その瞬間から、私の林檎に対する喜びと熱情は激減して、ヴァルも心の底では私や家族の事を見下してるんじゃないかという疑惑が、頭を過るようになったわ。彼女の事を、相変わらずの憧憬の念に加え、消し去れない嫉妬の眼差しで見るようになってしまったの。
そんなある日、ヴァルが興奮して学校にやってきたの。何事かと思って訊いたら、彼女はベルベットの小箱を鞄から取り出して、私達の目の前で開けて見せたの。その中には、眩い光を放つ、ガラスの蝶のブローチが入っていたわ。ただの透明だけじゃなく、青や赤や緑に着色されたガラスで出来ていたのよ。あんなに綺麗なガラス細工は見た事がなかったから、思わず言葉を失ったの。『パパがオーストリアから買ってきてくれたの! これはね、ガラスじゃないんですって。クリスタルなのよ!』ヴァルは自慢げにブローチを摘み上げて、光にかざして見せた。煌く光線が、心に突き刺さった気がしたわ。
放課後、教室に戻ると、ヴァルの鞄がまだそこにある事に気がついた。直後、もう一度あの蝶を見てみたいと言う欲望が頭をもたげたの。もう一度だけだから、と誰とも無しに言うと、私はヴァルの鞄を開け箱を探し出し、ブローチを取り上げた。夕陽に輝く蝶は先程とはまた違う雰囲気をかもし出して、私はしばらくそれに見入ってしまった。
とその時、遠くから誰かの足音が聞こえたの。私は本能的に蝶をスカートのポケットに隠し、箱をヴァルの鞄の中に放り入れ元通りにしたわ。教室に入ってきたのは、いじめっ子達だった。いつもの様にいちゃもんをつけられ、逃げようとしたら壁に突き飛ばされたの。壁に激突する瞬間、ポケット越しに嫌な感触が伝わってきたわ。私は戦慄して、いじめっ子の手からなんとか逃れると、家に走り帰ったの。
部屋について恐る恐るポケットに手を入れると、指先に鋭い痛みが走って思わず手を引き出したわ。指の先には血の粒があり、それはみるみる大きくなって指を伝っていった。そしてポケットを裏返して出したブローチは、もはや蝶の形なんてしてなくて、砕けた両羽が無残だった。私はどうしたら良いのか分からなくて、母に全てを話したの。『貴方はヴァレリーに謝りに行かなくちゃいけないわ、ラヴ。そして許しを請わなくちゃならない。貴方の林檎を持っていって埋め合わせにしてもらうよう申し出るのよ。』と母は言い、私は泣きながらヴァルの家に向かったわ。でも、走っていく気にはならなかった。申し訳ないと思う反面、彼女の宝物を壊す事に成功したという、微かな満足感が私の中にあったのでしょうね。自分をこんなにも曲げたヴァルが、なんとも恨めしかったわ。
けれどヴァルの家に着くと、私は彼女に一切を打ち明けひたすら謝った。林檎をヴァルの手に押し付け、どうかこれで許してほしいと頼んだの。するとヴァルは苦笑して、『…あんなに綺麗だったんだもの、自分の物にしたくなっちゃう気持ちは分かるわ。それに形ある物はいつかは壊れてしまうんだし、しょうがないって思うわ』と言ったの! 自分はなんて醜いんだろう、そしてヴァルはなんて清く気高いのだろうと思うと堪らなかった。私は許しを得た感激で嗚咽が止まらなかった。そして家に帰り、母に抱きつくとベッドに入ったの。もう二度とヴァルを憎んだりしないと思いながら。
だけど、次の日私が学校に行くと、私の机の上に粉々になったガラスの林檎が置いてあったの。驚いて教室を見回すと、ヴァルを中心に人が集まって、全員が私に侮蔑の眼差しを向けていたわ。肩をいじめっ子に掴まれた瞬間、私は初めて悟ったの。壊れてしまった物は、もう二度と元の形には戻らない上、その破片は今までの全てをも傷つけてしまう事があるのだという事に」
病室参百四号室。
患者名:糸口多恵子 性別:女 年齢:二十三歳
病名:偏執病→
パラノイア{paranoia}
体系立った妄想を抱く精神病。
妄想の主体は血統・発明・宗教・訴え・恋愛・嫉妬・心気迫害など。
妄想症。
特記事項:十二月十六日。
ハルシオンを瓶一本飲み下し、緊急で運ばれる。
十二月十七日。
緊急室より、精神科へと移動。
入院。
担当医:滝口和磨
…十二月二十一日…
二度目の回診。
「先生…自殺を図ったのは謝ります。御免なさい。
だから、此処から、早く出して。」
『…そうはいかない。君は病気なんだ。
治るまで、此処にいなくてはいけない。分かるね。』
「先生。あたしは病気なんかじゃない。
狂ってなんていないわ。あたしは大丈夫よ。
だから、お願いだから出して。」
『君は、自覚していないだけなのだよ。
君は、れっきとした病気だ。
病名だって、ちゃんとあるんだ。』
「…あたしは、病気なんかじゃない…。
狂ってなんて無いわ。
…出して…此処から出してよ!!」
『それでは、僕は行きます。
お薬、きちんと飲むように。
…それでは、お大事に…。』
特記事項:暴れる傾向が有る。
参百四号室の患者、
彼女はしきりに狂っていない事を証明しようとする。
「狂っている」という事に異常な執着を持っている。
…彼女は、確かに狂っている。
確かに精神病を患っている…はずだ。
…十二月二十九日…
八度目の回診。
『また、暴れたそうだね…。
君の症状は軽いし、君は正気を保つ事が出来るのに、
それなのに、何故。』
「…あたしを狂っている、病気だ、って扱うからよ。
あたしは、狂ってなんていない。
正常よ。
何処が狂ってるって云うのよ。
如何して此処に閉じ込めるのよ!!」
『暴れたら、もっと退院が遅くなってしまうよ。
今は、我慢してくれないか。』
「嫌よ。
もうこれっぽっちも待つのなんて嫌。
病気扱いしないで…。
お願いだから…。」
『…また、明日、回診に来ます。お大事に…。』
特記事項:近頃、よく泣きながら暴れるらしい。
沈静剤を投与する機会が増えた。
病気扱いされる事を、嫌がる。
…一月三日…
十一度目の回診。
「先生も、あたしが狂っていると思っているんでしょう。」
『…君は、病気なんだよ。』
「…病気扱いするのね、やっぱり。
此処の看護婦は嫌い。
あたしを狂ってると思ってる。
精神病患者の扱い方をする。
先生もそう。嫌いよ。」
『仕方ないだろう。君は、確かに病気なんだ。』
「精神病患者は、人間じゃない。
そう云う扱いをするわ、あんた達は。
狂ってもいない者を捕まえて、
精神病患者に仕立て上げて…。
それであんた達は、私たちを世間から排除するんだ。」
『…』
特記事項:「精神病者は人間ではない。そう云う扱いをするわ。」
彼女の言葉が、引っかかった。
僕達は、自然と患者の事をそんな風に扱っていたのかと、考える。
狂っていると思って、患者の言うことを聞かない事も多い。
僕達は、ちゃんと彼らを本当に一人の人間として、
一つの人格として彼らを捉えていただろうか。
…一月五日…
十二度目の回診。
『やあ。昨日は大人しくしていたそうですね。
具合は如何ですか?』
「ねえ、先生。聞きたい事があるの。
…狂ってるって、如何云うことなの…?
何が狂っているの?
人と少し違うだけなのに、如何して狂っているっていうの?
どうして、人として見てくれないの?
人と違う事をするのが、そんなにいけないことなの…。
ねえ、先生。教えてよ。何が悪いの?
如何して?如何してなの…?」
特記事項:…真面目に、考えた。
狂っている、とは如何云うことなのだろう。
何が如何狂っているのだろう。
人と違う事をする事の、何がおかしいのだろう。
…僕には、解からない。
解からないのだ。
…一月六日…
十三回目の回診…ならず。
午前三時二十四分、見回りに来た看護婦に因って死を確認する。
死因は、十八階からの飛び降りによる即死。
遺書らしき物が見つかるが、死の原因はわからず。
残された手紙には只、
「あたしは、狂ってなんていない」
とだけ在ったという。
特記事項:彼女が死んだ日の朝、僕は看護婦から彼女の死を聞かされた。
看護婦達は、
「あの人は狂っていたから」
とひそひそと噂話をしていた。
僕は、それを聞いて、何ともいえない気分になった。
彼女が狂っていた?
そんな事は、決して無い。
だって、狂っていたのは、私達なのだから。