第8回中高生3000字小説バトル Entry12
彼は不自由で少し臆病な少年だった。
明るくて、朗らかで。
とても素直な、優しい少年だった。
「きみ、名前は?」
「あたし?…あたしは … … … …」
「え?」
急な突風は彼女の声を掻き消した。
聞き返そうと少年が少女を覗き込むと、彼女はにっこりと笑った。
「あなたは?」
可愛らしく澄んだ声に身を固める。
彼はざわりと驚いた心臓を押さえ込み、正太郎、と短く答えた。
「そう」
少女はもう一度にっこりと笑って―――去った。
残された少年は窓の外の彼女の面影を見つめたまま、ぼんやりと佇んでいた。
真っ白い世界の中、やっと『色』を見つけた気がした。
「こんにちは」
もう聞きなれた声に顔を上げる。彼女だった。
「こんにちは」
正太郎も挨拶を返す。
彼女は正太郎が白い壁にもたれて座っている隣に
同じように座った。
彼女は彼にことわることもなく、彼も彼女を咎めることはなかった。
そのまま、なんとはなしに時間が流れる。
ふたりで、同じ方向をぼんやりと見つめる。
それはいつのまにか習慣になっていて、何度目とも考えずにいた。
いや、考えたくなかったのかもしれない。
彼にとって時間は意味のないものだった。
一日の大半を白い壁の内側で過ごし、そのほとんどはベッドに沈んでいる。
時間を感じることはなかったし、果たして感じたところで何があったか。
それは彼女も同じことのようだった。
「…ねえ、君の名前は?」
幾度となく繰り返した質問を口にする。
彼女はいつも曖昧に微笑むだけで、答えようとはしない。
…その笑顔に、いつもなんとなく『まあいいか』という気分にさせられてしまう。
それが何度も繰り返され、彼は未だに彼女の名前を知らないままだった。
まあ、いいか。そんな気分が彼の中にふわりと降りる。
それは不思議な、でも悪くない気分だった。
「暑いね」
「暑いわ」
ほぼオウム返しな返答にも慣れ、むしろそれを彼女らしいとさえ感じる。
まったく慣れとは恐ろしいものだ、と少年らしからぬことを思ったりする。
少し遠くには緑が生い茂っていて、霞みがかってさえ見える。
不思議と虫の気配はなく、さわさわという穏やかな風と木陰、
その上に遠慮のない日差しだけが確かに存在していた。
「…ねえ」
珍しく自分から口を開いた彼女に視線だけ向ける。
彼女の髪がふわりと揺れた。
「猫が死んだわ」
率直な言葉。
その『猫』を彼は知らなかったためか、悲しみも同情も湧いては来なかった。
彼女の淡々とした口調に耳を傾け、次の言葉を待つ。
「黒猫だったの」
「うん」
「飼ってた子は泣いていたわ」
「うん」
「ねえ、死ぬってどういうことなのかしら」
その言葉に、ぼんやりと相槌を打っていた正太郎も驚いた。
彼女を見ると、彼女も正太郎を見た。
先程から全く変わらない表情。
「痛いのかしら。苦しいのかしら」
「…え…」
死とはどういうものなのか。
説明しようとしたが、自分には無理なことに気付いた。
「悲しいものなのかしら…」
どこかぼんやりと言葉を紡ぐ少女。
正太郎はなんとか答えようとした。
「…死ぬっていうことは」
死ぬということは。
生きていないということは。
「…会えなくなることだよ」
身体がそこにあっても、何も応えてはくれない。
彼が考えついた『死』は、それだった。
少女がゆっくりと彼に向き直る。
「それは…悲しいこと?」
「うん」
「あたしが『死ぬ』と、悲しい?」
「うん」
「…なら、死なないわ」
「うん」
「だから、あなたも死なないでね」
「…うん」
少女はゆっくりと漆黒の瞳を閉じた。
白い肌の上、瞳を縁取っていた長い睫毛が伏せられる。
彼はしばし少女に見惚れた。
「ねぇ。きみの名前は?」
「あたし… …あたしは」
不意に、彼の周りに木の葉が集まり始めた。
ざわざわと鳴り合いながら彼を取り囲むように緑が埋め尽くす。
「あたしは、ロリータ」
葉がかすれあう中、不思議に彼女の声がはっきり聞き取れた。
彼女はいつもの笑顔で笑い―――消えた。
正確に言うと、見えなくなった。
視界が緑に覆われ、何故か気が遠くなっていく。
彼は何かを掴もうと微かに手を動かすが、何も捕らえられなかった。
そこには何かがあったのか、何もなかったのか。
「正太郎」
幾度となく聞いた少女の声を最後に、彼は意識を手放した。
「………………………………」
気が付くと、目障りな光が自分を照らしていた。
見覚えのある白い世界。見たことのある人々。
一様に自分を覗き込んでいる大人たちが、彼の目にはどこか滑稽だった。
「…母さん」
考えるよりも先に口が動いた。
彼の傍らにいた女性は泣き崩れ、反対側にいた白衣の人々は歓声を上げた。
素晴らしい、これこそ奇跡だ、感動だと似たような言葉を繰り返す。
少年は彼らの笑顔を見ながら、自分の内部が冷えていることを感じていた。
「………………………」
一人きりになった部屋で窓の外を眺める。
あの少女と見た青い空が広がっていた。
「…ロリータ」
彼女にはもう会えない気がした。
同時に、また会えるような気もした。
『正太郎』
彼女の最後の言葉。
…ああ、そういえば。彼はふと気付いた。
彼女が自分を呼んだのは、あれ一回だったということ。
「…………………………」
彼女の笑顔が、鮮明に描き出される。
「…ロリータ」
あれは。
夢だったのだろうか?
―――――死なないわ
―――――あなたも死なないで
彼女にはもう会えない?
今、自分は本当に生きているのだろうか。
彼女に会えなくて。『生きて』いるのだろうか。
「…………………………」
死ぬということは。
会えなくなるということ。
「……ロリータ…」
あれは夢だったのか?
これは現実なのか?
―――――それは、あなたが決めることよ
不意に少女の影のようなものを見た気がした。
「…ロリータ?そこにいるの?」
窓の外で、少女が柔らかく微笑んだ。
幾度となく見た笑顔。糸が緩むような安心感が彼の中に広がった。
「良かった…もう会えないかと思った」
窓を開け放すと、少し遠い少女の髪が風に揺れる。
ふわりと、語りかけるように。
「…ねえロリータ…なんでこっちに来ないの?」
少女は少し彼を見上げ。
かすかに首を横に振ったように見えた。
「…来られないの?」
その問いかけに、正太郎をまっすぐ見つめる。
肯定の意がわかった。
「僕が、そっちに行ってもいい?」
彼女は何も答えなかった。
ただ彼を見つめる目は、優しくて。
すい、と、少女の白い手が差し出された。
それを半ばぼんやりと見つめる。
この手をとったら、もう二度とこの部屋には来られない。
何故か直感した。
多分、母親とも白衣の大人たちにも………
「………………」
これは夢?これは現実?
現実は、どっち?
とろけるような長い長い時間の中、ずっと一緒にいた彼女か。
直感で母親だと悟った女性や、白衣の人々か。
彼はあまり迷わなかった。
「君と一緒に帰るよ。あっちが僕の場所だから」
正太郎は彼女の手をとった。
確かに感触がある。
少し冷たくて、暖かくて、柔らかい少女の白い手。
何故か、ひどく安堵した。
「一緒に帰ろう ロリータ」
ロリータは小さく笑い、二人は手を繋いで窓の外へ出た。
さわりと、開いた窓から緩やかな風だけがその白い部屋に満ちていた。