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第8回中高生3000字小説バトル Entry13
「坊ちゃん、坊ちゃん、チョットお待ちなさいな、、」
幾分か慌てた様子の声に呼び止められ、少年は歩調を弛めて振り向いた。
見ると其処には窮屈そうな燕尾服に身を固めた白兎が一匹、ちょこんと佇んでいる。
兎の眼はまるで紅色硝子を嵌め込んだようで、純白の毛皮に燕尾服よりも強い印象を与えた。
「何か、」
「あなた此の時計を親方さんに届けて呉れますね?」
逢って間もないというのに、随分と不躾がましい事を云う。
生憎のところ少年は此の類いの馴れ馴れしさを苦手としており、
また紳士的な応対の仕方も心得ていなかった。
「何事だよ、いきなり。“親方”なんて僕は知らない。ついでに君の事もね、」
「莫迦な事を云っちゃあいけません。
弟子が親方を忘れて一体どうするって云うんです。
あなたがわたくし私の事を知らなくたって、私はあなたをちゃあんと知っていますよ。
嘯風堂と時計店の新しいお弟子さんで在りましょう、
それはそれは腕の好い家兎だと、此処らじゃ評判ですからねェ。」
「へェ。」
少年はもう好い加減呆れ返って兎を座視した。
「それでキミは僕が兎に見えるのかい、」
兎は一瞬間の抜けたような表情をしてその紅玉の瞳孔を目一杯見開き、
やがて素頓狂な声を挙げた。
「おやまあ!どうも耳の容が可笑しいと思ったらあなた、女王様と同じ種の方でしたか。
とんだ勘違いですな。大変失礼致しました。
ところで、それならやはりあなたもこれからお茶会へいらっしゃるのですねェ。」
「ああ・・・まァ、そんなところだね。」
何が“そんなところ”なのか自分でも判然としない。
「それなら私も御一緒させて頂いて好う御座いましょか、
見て下さい。ホラ、此の時計。」
そう云って兎は大袈裟に溜息をつ吐くと、先刻から手にぶら提げていた時計を
少年の掌に落した。
予想外にずしりと重い其れは、上等の白金でできた懐中時計だった。
円盤の一角に設けられた小さな鉤には、零れる雫を幾つも連ねたような細い鎖まで引掛けてある。
文字盤の数字は兎の睛の色相と同じ紅玉であしらわれた独特の飾り文字で、
射し込む光の加減によっては暗色の朱になり、また淡紅にもなる。
手の内で色々に傾けると、光彩陸離に色彩は変化した。
片硝子の向うの世界は少年に軽い衝撃を与え、やがて恍惚とさせるに値するものだ。
高価な品なのだろう、
兎の掌にぴったりと収まる規格外サイズの其れは、
職人達の業を駆使して創られた、此の世にひとつの特注品に違いなかった。
「立派なものだねェ、、」
少年が溜息混じりに嘆美すると、兎は誇らしげに目を細め、長い鬣をしきりに撫でた。
「そうでしょうそうでしょう、」
「あァ。まるでキミには釣り合わないよ。」
蝶ネクタイを結んだ胸を得意げに反らせて、兎は少年の皮肉にさえ気付かない。
「だけどこれが一体如何したって云うんだい。」
「もう一度よく目を凝らして御覧になって下さいまし。」
少年は時計を見つめた。
相変らず瀟洒な美しさで少年の心を独占する。
「本当に綺麗だ。」
「ええ、そうなのです、そうなのですけれど、、」
兎はなにやら焦れったそうに襟首のタイを弄んでいる。
少年には、何がそんなに歯切れ悪くさせるのか見当もつかない。
「何が不満だって云うんだい、こんなに素敵な時計なのに。
僕のいえ家庭ぢゃあ、例え誕生日に強請ったとしても買ってもらえそうに無い。」
母さんったら、誕生日にはいつ何時も兄さんのお古しか呉れないんだ、、
と少年はぼやいた。
「しかし其れは時計なのです。装飾よりも先ず、其れとしての役目と云うものがありましょう」
兎の云い方は何故か核心を意図的に逸れて、気短な少年には頗る焦れったい。
「もう良いだろう、
それで結局何が云いたいんだい。」
兎の瞳の中で一瞬、虹彩が閃いた様に見えた。
「止ってしまったんです、針が。
お蔭でこちらは時刻も判らず、お茶会には遅刻してばかりで御座います、、」
兎は嘆いたが、少年は少し退屈だった。
話の先が全く読めない上に、手に届かない物の自慢話まで聞かされて、
あげく挙句には不幸自慢など始めるつもりだろうか。
少年は如何して此処にいるのか、もう良く憶い出せなかった。
立ち去ろうと思い立っても、何処に行けばいいのか判らない。
そもそも自分は何処から来て、何故兎と出逢い、そして何処へ行くのだろう。
幾ら考えても、答えは掴めない。
胸にぽっかりと口を拡げた洞ろな穴が、其れを呑み込んでしまったかのようだった。
「おい兎、、」
呼びかけた声さえも、穴の中でコダマして呑み込まれていく。
波一つ立たない湖面に石を投げ込んだ時のように、深く、深く、波紋を残して沈んでゆく感覚。
応えは返って来ない。
紅玉の瞳の白兎など何処にも居ない。
少年は今、自分が独りである事を知った。
それとももしかしたら、もう随分と前から独りなのかも知れなかった。
≫≫少年は重い目蓋を持ち上げた。
紅く煌くのは夢の残像ではなく、既に大分低い位置を移ろう夕陽である。
森の入り口は柔らかな芝に覆われており、ついうとうとと居眠りしてしまったらしかった。
未だ醒めきらない身体で、ゆっくりと立ち上がる。
と。
シャラリ、と、玲瓏な響きを耳にして、少年は足元に眼差しを落とした。
其処に在ったのは見事な懐中時計。
西陽を吸い込んで紅玉は透徹り、水晶の被せ蓋はその光を拡散する。
少年は先程の奇妙な夢を思い出して微笑った。
夢の兎の瞳が今の光景にぴたりと重なる。
間違いない、此れは彼の白兎の懐中時計、、
背後で何かが動いたような気がして少年は振り返ったが、
其処には何の気配も無かった。
時計が直らない限り、兎は現れない。
その一方で、自分は何時までも彼と繋がっていられるのだ。
そんな気がした。
或る春の日の午后の事だった。
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