『神様』という存在がいるのなば問いたい。何故彼女を奪ったのですか?僕はあの日のことを忘れない。あの日は暑くもなく寒くもなく、ちょうどよい過しやすい日だった。僕と彼女は行きつけの喫茶店へ、手をつなぎ歩く。他のどんな時間よりも好きで、幸せな時間。この時間がずっと続けばいい、というより、続くと思っていたのは間違いだったのかもしれない。彼女の色素が薄く長い髪の毛が風に乗り、踊る。僕はずっとそれに見とれていた。静かだった通りが悲鳴に変わり、現実に戻った瞬間言葉を失う。歩道に乗り上げた車体の下に彼女の髪が散らばっていた。最悪の事態が頭を横切り、血の気が引く。そんな筈はないと打ち消し、周りを見渡した。何処にも彼女の姿は・・・ない。目の前にある現実を認めたくはなかった、けど僕はそれを受け止め、救急車を呼び、ただ祈ることしかできない存在だと知った。車の下から解放された彼女の姿は、どこも傷などは見当たらず静かに目を閉じている。駆け寄り、手首を触ると微かな温もりと小さな脈が感じられた。それに望みをかけ救急車へ乗り込んだ。病院へつくなりロビーで待たされる。僕はさっきまでの彼女を思い出した。彼女は熱心なクリスチャンでこう僕に教えてくれる『私はいつも祈っているから困ったときは神様が助けてくれるのよ』と。大体、僕は神様なんて存在など信じてはいない。だけど彼女がそんなに言うのならいるのかもしれない、そう思う。だから僕は祈った。眠っている彼女の代わりに。こんなに祈ったのは数年前の受験のとき以来かもしれない。小一時間たったころ病室へ呼ばれた。ベットに横になっている彼女は数本のチューブとつながっていていわゆる植物人間ということだろうか。医者の話を聞くと、難しいことは分からないが打ち所が悪かったらしい。一ヶ月もの間彼女は眠り続けた。それでも僕は、毎日彼女に話しかけ身の周りを整理する。だけど彼女は目を覚ますことなくチューブを抜かれた。僕は神を憎んだ。あんなに熱心に彼女は信じていたのに。それなのに神は見捨てた。白い布を顔似かけた彼女に背を向け最後の整理をした。「・・・ありがとう・・・」そう確かに声が聞こえた。透きとおった彼女の声。すぐに振り返ったが、さっきと変わらない状態で眠っていた。「どういたしまして。」憎しみも悲しみも消え、静かに彼女を見送った。
別にここに二人居て特に何するわけでもないしだからって「なんで麦茶を出した?」なんて聞かれたらどうしようと本気で考えたまぁ、きっとテレビがついてないこと自体気が付いてるのに何も言わないからきっとそんな事聞いても来ないんだろうそうして頭に浮かんだ一つの単語なんかで見た美味しそうな名前だった「そういや」目の前に律儀に正座しているから話し掛けてみた「ん?なんだ?」「ピスカト−レ」「………」「…ピスカト−レ」ポカンと言う音がよく似合いそうだそう思って間抜け面にもう一度呟く「ピスカト−レ」「なんだ、それ」「なんだとは、失礼な」「失礼か?」「失礼だ」どんなものかも知らずになんだ扱いかもし何処かの宗教のもっとも偉い神様だったらどうする気なんだかまぁ、信仰するべき相手が見つからないそんな事よりかはマシだけれど「喰い物だ」ピスカト−レはそう言って目の前の麦茶を飲み干したあぁ、美味いなこの香ばしさが日本人にはよく似合うカタカナは、日本人の大和魂にキュゥっと乱反射させた太陽みたいだ不釣り合いだいつか和解が出来ればいいけれどいつになるか分からない討議によい結果がでるようにと心の中で静かに祈ってみたりした「ペスカト−レ」いきなりついて出すさっきまで自分が言っていた言葉と一文字違いのカタカナ「ぅん」と、小さく呟くと真面目な顔してやっぱり律儀に正座したままでこちらを向いて目を見られたあぁ、なんか眩しいな麦茶を飲み干したときのような日本の心だ武士とはこういうものなのだなんて、正座をし直して訳の分からないことを考えた「なに?」「ペスカト−レだ、それは」「は?」「ピスカト−レではなく」「ピスカト−レ?」「うん、ペスカト−レだ」「……」「魚介類の入ったトマト味のパスタの名前だ」ペスカト−レ口の中で遊ばせてなんとなく、これなら麦茶に似合うぞと思ったピとペの違いなのにな「ピスカト−レってさ」「いや、だから…」「フランス辺りでは使いそうだな」「……はぁ?」意味は…そうそうだな、アレがいい「麦茶」「……意味が分からん」 おしまい
その日は、激しいあめが降っていた。ピカッと光り外の世界を明るくしては消える雷光とピシャッというたたくような音の雷鳴もあった。私は小さい頃から雷は怖くなかった。むしろ雷を楽しんでいた。それでも部屋の電気を切っているのは、母がうるさいからである。でも本を読むためにスタンドライトはつけている。母は私や父とちがって雷嫌いである。婿入りに行った兄はどうか知らないがたぶんあの人も雷嫌いだろう。 私は今、父の画集を読んでいる。父は画家だ、そこそこ売れているらしい。婿入りに行った兄に絵心があったのがよくわかる。私は絵がへたなのだが、絵を見る確か確かな目はある、そこは母似だ。もう少し言わせてもらうと婿入りの兄は炊事洗濯家事全般が得意だ。主夫になった理由がよくわかる。私はその逆で炊事洗濯家事全般がぜんぜんだめだ。その代わり自分の好きな仕事をバリバリやっている。兄は少し父似で自由奔放な所が出るときがあり、私は少し母似でやるときになったら真面目になる。私と父は物をかたずけないくせがあり、兄と母は潔癖。 よくこんな真反対の性格の者達がいままでやってこれたといつも思うが、真反対だからこそ、ここまでやってこれたと最近思うようになってきた。 父と母はいつも私に言う。結婚相手は母と兄を足して二で割ったような人にしなさいと、兄は父と妹を足して二で割った人にしなさいと言われたらしく、その通りの人をみつけた。 ふと雨がやんでいたことに気がついた。そのとき婿入りの兄の声がした。今日は久しぶりに四人で夕食だなと思いながら私は部屋を出ていった。スタンドライトをつけっぱなしのままに
高2の1学期の終業式前日の球技大会中、自分たちのクラスが負けてつまらなかったので、体育館の部活で使う更衣室で涼みながら、ナツキと二人で戯れに遺言を残すことにした。「私は家の墓には入りたくない」ナツキがだるそうにうちわで扇ぎながら言う。「だから誰もいないとき私ん家の墓から私の灰盗んでどっか知らないところにまいて」「どこがいいの?」「それはキョーコのセンスじゃない?」ナツキの死をキレイに飾ってあげたいのでしばらく悩む。「…デ?キョーコはどうしてほしい?」ナツキはやたらとイキイキして聞いてくる。「私は死んでからは別にどうでもいいの」「そう?」「……でもナツキが死んだら詩を書くわ」「キモッ。詩とかウケル」「タイトルは『Dear my Kitty』」「キモイってかキショイんだけど…」「私はナツキの死が悲しすぎて詩人になれると思う」ナツキは秋のはじめに事故とかですごく若いうちに死ぬ気がする。たとえば沢田夏輝、享年17歳、死因:感電死(コンセントの事故)、2005年9月4日午後7時02分担ぎ込まれた病院で家族に看取られて死亡。通夜、葬式、火葬場。「じゃあ私もキョーコに負けないようにキモくいく。キョーコが死んだら身体のどっか一部もらってとっとくね」墓場。さめざめと泣く人、呆然と立っている人、感傷に浸る人、狂う人、いるかな。「どこが欲しい?」9月終わりあたりに、真夜中に沢田家の墓前に参る。墓を暴いて灰のナツキをどこかにまく。「指とか?目?」灰はどこにまこう。どこか外国の、ヨーロッパの花畑、赤いひなげしが咲いているところがいい。ひなげしに溺れて往生。ロマンチックすぎるのは若気の至り。「ヤッパ耳もらおうかな」「気持ち悪いところ選ぶのね」「キョーコがゆーな」…あ、私の耳の中はどうかしら。いつでもそばにいてよ。ナツキが好きよ。「ナツキ、一生そばにいてね」「アハハ…そのために身体の一部もらうんでしょ」更衣室の外は球技大会でバレーをしていて騒がしい。男子を応援する女子の声がドアを突き抜けて聞こえてくる。急に気分が冷めた。「でも先に私から離れたのはキョーコじゃん」ナツキは横目で私を一瞥して立ち上がり、鼻で笑って更衣室から出ていった。重たくて閉まるのが遅いドアの向こうでナツキはクラスの友達と騒いでいる。ナツキ、そんなこと言わないでよ。(ナツキは私の1番の親友よ)(ナツキのことは恋人よりもずっと大事にしてるわ)(ナツキだって何も言わないで突然彼氏作ったりするじゃない)ナツキはメルヘンで現実逃避が得意で少し人とは違う子。でもバカじゃなくてすごく頭が良いから、置いていかれそうで焦ってるのはいつも私の方よ。蒸した空気が入ってくる。けだるく美しい夏だ。
突然の雨で花火は中止になってしまった。絶望とかのなかで、あたしは死にそうに眠くて、こんなんで幸せなもんか。テレビでは「貧しい国に募金を!」ママは、見習いなさい。言いながら酒をがぶがぶ。ヤリマンの親友、リナは何処の誰だかわかんない男たちと笑いあってる。近頃じゃ中学生も高校生も芸人顔負けのネタ披露みたいな会話しかできないらしい。死にてぇ〜なんて本当に普通に言ってるあたしたちには追いつく事が出来ない現実、あたしたちの暮らしはまるで幻みたい。知らないあいだにあたしたちはダサい車に乗ってた。なにこれ、ミニカー?違う一郎さんのマイカー。ぎゃはは、なんだよそれ。男が三人。ていうかどこだよここ。リナはまだ寝てる。まさか一郎さんとかいう男の家まで行くんじゃ。マユチャン冴えてるねぇ〜。しかし可愛いね。しかもまだ16?え、15だっけ?思った通りに物事が展開していくから、あたしは嫌気がさして窓から遠くを見つめた。ミニカーは古めかしい感じの一軒家に到着した。お母ちゃんいるから、静かにね。あたしはリナを起こして、そっとフローリングを踏みしめた。一郎さんの部屋は狭くて、安い香水の匂いがした。壁は靴や服で敷き詰められていた。なんかお店とかやってるの?はは、とびだよ、やってんのはとび屋。でもね、俺ら夢なんだよ、自分で店やんの。今は体力売ってるだけだけど。だってさ、俺たちみたいな大人が世の中を駄目にしてんだと思うんだよ。ふーん。言うねえ。でもあたしは胸のジーンていう暖かさを感じた。夢の話をされるのは予想外だった。二人はある、そういうの。あたしはわかんない。でも、ヤリマンを卒業して、人を好きになりたいな。三人の中で一番不真面目そうな和田さんが口を開いた。そっか。いい夢じゃん。じゃあ手伝うよ、一、俺らはリナチャンに手をだしません、二、助言をあげます。助言?そう、嫌なことは嫌って言っていいんだよ。リナは泣いてた。あたしもつられて泣いた。その後、リナは一郎さんとキスをして、番号を交換したけど、もう連絡を取ることは無かった。それからちょっと経って、リナとあたしは大好きな人を見つけて、幸せとは、わかんなくても真剣ていうものがわかるようになったんだ。
人間、どんな状況でも腹は減るもので、情けないことにひとたび鳩尾の辺りがクウと鳴いた日には、食い物のことが頭にこびりついて離れなくなる。かくいうこの俺も、昨日の晩飯はみゆき食堂の大盛カレー四百五十円也だったし、その前は高橋の下宿で肉ナシ魚ナシ鍋をつついただけで、そろそろまともな飯が食いたいが、ポケットを漁っても所持金はわずか二十七円、しかもオレンジ色の橋だか歩道だかが延々と続く辺鄙な場所で、店はおろか人っ子ひとりみあたらないときたものだ。「ここは地獄の一丁目か」なんて言ってみたって答える者もありゃしない。 だだっぴろい空の上、見えるのは雲と歩いているこの道、それに右から左へ、北から南へ、前から後ろへ蛇行したりたわんだりしながら伸びるこれと良く似たオレンジ色の帯が目に入るだけでざっと五、六本。歩いているこの道と交わるのか、終わりがあるのかもわからない。さっき道の端から恐る恐る首を伸ばして下を覗いてみたが、目が回って慌ててその場に這いつくばった。下に雲が流れていた。この道だか橋だかも見えた。衛星写真のアマゾン河のようにどれも蛇行している。雲や道に阻まれて地表の様子は窺えない。地上からの高度なんて六十階建てのビルからの景色ぐらいしか定規のない俺にわかるわけもない。とにかく高い。 買えてもうまい棒二本かと考えていたら、空腹ばかりを気にする自分がだんだん腹立たしくなってきた。尋常ならざる情況よりすきっ腹が意識の上位を占めているのが情けない。本能だけで生きてどうすると頬を軽く叩いたら、前方にテーブルと人影が見えた。足早に近づくと、恋人の敦美が食事をしている。「遅いわね」「悪かった」ひとまずそういった。約束でもしていたんだっけ? 言い訳は後でじっくり用意すればいい。「だから俺にも」と向かいの椅子に駆け寄った。「まだダメ」敦美は目を細めてぴしゃりといった。「たまには思い出しなさいってことよ」 急に、食卓の数メートル先で道が盛りあがり、ふたつに折った紐のようになって俺の方へ突進してきた。敦美もテーブルもステーキも一緒に、Tシャツの下から俺の腹のなかに入り込む。空を縦横に走っていた道がしなり、どくどくどくどくと腹へ吸い込まれる。ついに立っていた場所が吸い込まれると、レストランの白いテーブルクロスの向こうで敦美がいった。「奢るんだし、あたしの恋人なら、食べるには考える葦として召し上がれ」
職場にババァがいる。S代 45才 独身。趣味は性欲発散のためのジム通い。好みのタイプはイチローと木村拓哉。特技は病的な節約である。面白いので観察日記をつけてみることにした。7/23 髪をばっさり切ってイメチェンを謀ったババア。新人ヨシダに指摘されると身をねじり喜ぶ。 8/3 自分が応募した懸賞が当選しているかを秘書に電話で問い合わせろと騒ぐババァ。秘書が自分でするように促すとキレる。 8/15 社に届いた御中元の品を実家用に持ち帰るババァ。その際羊羹は重くてよくないと文句を垂れる。 8/28 ヨシダをダイエー戦のチケットで釣ろうとするが失敗。その憂さをバイトの女のコへの暴言で晴らすババァ。ババァの脳のなかは一体どうなっているんだろう。 20年前の若かりし頃からこういう生活態度が形成されていたんだろうか?もしかしたら40才以上にはたやすく感染してしまうババァ菌なるものがこの世には存在していて、運よく感染を免れた中年女性だけがセレブな更年期を送れるのではなかろうか? ならばババァ菌への抗生物質なんて作ったら大きな市場になるかもね、、、とぼんやり考えている隣で今日も節約のため、ババァはクーラーを15分おきに切っている。
「よぉっし! いっちょ始めますか!」屋上で空に叫び、「しぃ」は飛び立った。黒い翼がばさっと音をたてて、しぃの体は広い大空へ出た。しぃは、かわいらしい字で「今日の被害者」と書かれたメモ帳を取り出して、ぱらぱらとページをめくった。「今日は〜、あそこの家かぁ」しぃは、その金のツインテールの髪をなびかせ、家へと一直線に向かった。ふとんに横たわるお爺さんの体から魂を抜き取り、手際よく大きな鎌で根本を斬って、分離させた。横にいた孫であろう少女が、わっと泣きわめいた。しぃは、目頭が熱くなった。実は、しぃは自分の仕事がニガテなのだ。(……はっ! だ、だめだめ……)涙があふれる前に、しぃはさっさと次の標的を探しに行った。次は、若い女性だった。何故こんなにも若い人間が死ぬのだろうか、と疑問を抱きつつも、そこへ向かった。しぃは、自分の持っているメモ帳をもう一度見た。信じられなかったのだ。その女性は、今死ぬことが許されないほどのいい人間だった。しかし、メモ帳にはしっかりと、その人間の名前と写真があった。間違いないのだ。その人間に。木に引っかかった、子どもの風船を取ってあげた。ちらかっているゴミをわざわざ片付けた。道で困っていたお婆さんを助けた。……などなど……。とにかくいい人間だった。だいたいこんなに若い人間が、どうして死ななければならないのか。しぃは、不思議でならなかった。何も起こらなくても、鎌を振って魂を採ることは出来た。人間界では、ただの正体不明の突然死……。しかし、しぃたち死神に狙われるということは、死ぬ理由があるから。なるべく、その理由をつけてから採った方が、給料も高くていいのだ。それに、しぃは、この人間が死ぬ理由というものに興味があった。納得いかなかった。どうしても。結局、その人間が死ぬ理由など、分からなかった。当然しぃは、そのような人間を狩ることは出来なかった。その女性の魂はあきらめ、別の魂を探しに出かけた。黒い翼で、空へと踊り出た。「……やっと行ったわね……」しぃが離れた後、女性は真の顔へ戻った。「あの死神……私の魂を狙ってきたのね。 助かったわ……良い行いをしてると、見逃してくれるのかしら?」女性は、しぃが飛び立った方向の空を見上げ、周りの誰にも気が付かれないように、小さな声を口からこぼした。「もっとも……良い行いをしているふり……だけど」その真の顔は、正に悪魔の顔だった。
「暑い…」やはり地球温暖化が原因だろうか。バイト中汗をだらだら流しながら俺は繰り返し言う。「暑い…」「おーいバイト、大丈夫かー?」と、バイト先のおじさん。「大丈夫っすけど暑いっす…」いやほんと。「お前ら、クーラーにあたりすぎなんじゃねえのか?少しは窓あけるだけとかにしねぇと体こわすぞ。がはは!」がははって…だが確かに一理ある。今度そうしてみるか。「窓開けるならやっぱりあれだな!風鈴!聞いたことあるか?あの音。あれ聞くだけで涼しくなるんだよなー!がはは」ピクッと頬が引きつった。風鈴か…そういえば、あれ…あの夏。楽しかった日々。あいつ。炎。燃える。消える…「バイトー、大丈夫かー?」はっ、と我に返る。「だ、大丈夫っす」そして仕事に集中…できなかった。あの風鈴…バイトが終わっても、風鈴のことばかり考えていた。「風鈴…」ぼーっとしながら引き出しを開け、手のひらに乗るくらいの木箱を取り出し、それを開く。あの夏、この風鈴が鳴ることをやめた夏。中学三年生だった俺にとってその夏は最悪のものだった。俺とあいつは幼なじみだった。よく互いの家で遊んだものだ。その日も、なんの変哲もない楽しい一日になるはずだった。「スイカ切ったよー」と呼ばれ、外で実験をしていた俺は声のするあいつの家の庭に駆け込んだ。なにをしていたか聞かれ、俺は「実験。内容は秘密」と答えた。チリン、とあいつのお気に入りの風鈴が鳴った。その後は宿題を協力してやったり遊んだりした。「…しまった」家に帰る途中で『水ペットは猫よけになるのか実験』の用具を忘れたことに気づき、引き返そうとしたとき、鐘の音が聞こえた。嫌な予感がした。まさか…走った。まさか…走る。まさか…止まる。うそ…だろ…赤く、大きな炎が古い木造の…あいつの家を覆っていた。火は消えた。白服の男が、「これが原因だな。こんなもので猫よけなんてするから…」と言ったところまで聞こえた。頭の中が真っ白になった。一つだけ目に入ったものは、溶けてひしゃげた風鈴。持ち上げると、カラッと音が鳴り、音を奏でる丸かったであろう塊が落ちた。大粒の涙とともに…箱から取り出して眺めてみる。当たり前だがあのときと変わりない。それを机の上においた。泣いた。久しぶりに。ごめんと何度も謝る。ふと、風鈴の音が聞こえた。あいつの声とともに。風鈴を見る。変わりない。あいつもいない。でも…「帰ってきてるのかな…」今はお盆だ。また鳴った気がした。そうして鳴らない風鈴はいつまでも鳴り続けた。
蝶よ花よ──と。 三崎かなみは高校まで何不自由なく生きてきた。 父は各国に支店を持つ貿易会社の社長。母は絵に描いたように優しく、美しい女性だった。 そして三崎かなみもその遺伝をしっかり受け継ぎ、聡明で優しく可憐な婦女子に育った。 きめ細かな黒い髪を背中まで伸ばし、唇はまるでサクランボのように艶と赤みを帯びている。時々肩に掛かった髪の毛を払う手は白く、指は名のある彫刻家でも表現不可なほど細く、優美だ。彼女は生きた芸術だった。 そんな彼女が歩く姿は、周りの空気すら魅了されているように感じる。しずしずと──とは彼女ために作られた言葉。凡人が一生かかっても真似できないほどの洗練された呼吸と間合いは、もはや彼女だけのものだった。 両親はそんな彼女を束縛するようなことはなかった。ただ自由に――ひたすら自由に育てていった。だが、彼女は自分の家柄を知り、自分の判断で花を生け、語学を学び、チェロを習った。 彼女は己を知っていた。しかし、その立場を鼻にかけるような安い女ではなかった。 目上に媚びず、周囲には優しく、そして自分に何より厳しい。たとえ教師であろうとも、納得できないことには激しく反論し、友人が悲しければ一緒に泣いてあげる。そんな強く優しい女性。誰もが容易く思い描き、実行困難な完璧な人間像を持っていた。 そんな彼女でも時々、仮面がはがれる。 箪笥の角に小指をぶつけたり、着物の裾を踏んでこけたりもする。頼まれた生徒会の書類を廊下にぶちまけたこともあった。 そんな時、彼女は「キャッ!」と可愛らしい声をあげると、よく舌を出した。 あの気品に満ち溢れた彼女の顔が、無邪気な悪戯坊主に変貌を遂げる。 しかし、そんな悪戯坊主を誰も責めたりはしない。 むしろ心をぬるま湯で洗ったような妙な安堵感を覚え、皆が彼女に手を差し出す。 彼女は「ありがとう」と素直に礼を言って、手を取る。その時に見せる笑顔が格別だ。 しかし、今やもう──彼女の笑顔を見ることは二度とない。 彼女は同じクラスの男子六人を殺害した。 リポーターが僕にマイクを向ける。僕は素直に答えた。「とてもそんな子には見えなかった」 と──。 蝶よ花よと楽しみて──。 三崎かなみは変な癖を持っていた。 電話に出ると、必ず「はい、みざぎでず」と訛るのだ。
俺は旅をしている。そして旅をしているからには『ずた袋』を愛用している。多少の偏見は入っているとしても旅人ならこれだろう。 そして今重大な問題に直面していた。「・・・紐が切れた」 重大な問題だとも。巾着を長くして大きくした構造のずた袋にとって、紐が切れると言うことはデイパックでいうとジッパーと肩ベルトが同時に壊れたということを意味する。 だが幸いここは商店街、紐ぐらいは売っているだろう。ざっと見渡す。「あ?」 見つけた店の看板にはこう書いてあった。『紐屋』「・・・」 何だこれは? ちょっと都合が良すぎないか? だが好奇心に負けて店に入る。「お邪魔します」「ん、らっしゃい」 店の中は本当に紐だらけだった。壁は紐で覆われ、所狭しと並べられる棚にも紐がずらりと並んでいる。そして奥には喪服のような服を着たまだ若い女店主がレジの無いカウンターの前に座っていた。「さって、仕事かね。ちょっとこっち来てくれるかい」「え? はあ・・・」 女店主があごに手を当て、考えるようにしながら俺を凝視する。「あんた、体重は?」「72ですけど?」「ふん・・・まあこんなもんかね」 彼女は手近な棚に置いてある紐の一本を手にとった。黒い艶のある丈夫そうな紐だ。「こんなもんでどうだい?」「うーん、この袋に足りますかねえ、長さ」 彼女はしばしぽかんとした顔で俺を見た。その後、「あっははは! なんだい、普通の客かい? 辛気臭い顔してるからそっちの客かと思っちまったよ!」 と、しばらく笑っていた。「あ、あの、何です? そっちの客って?」「ああそれはね・・・」 店の戸がガラガラと音を立てて開いた。何と言うか死にそうな顔をした男が入ってくる。「失礼します・・・」「らっしゃい」 女店主は今度はその客に俺にやっていたようなことをし始めた。「これでどうだい?」「ああ、これならきっとぴったりだと思います・・・」 男はポケットからくしゃくしゃになった万札を二枚ほど取り出すと彼女に渡し、店を出て行った。「・・・もしかしてそっちの客って」「分かったかい? これから死のうってやつらさ。 ま、そっちの客っていうけどその収入の方が多いんだよね。普通の商売は副業さ」 それから俺は中の座敷に上げて貰い、彼女と少し話をした後に店を出た。 別れ際、「で、どうだい? これも買ってくかい?」 と、彼女はあの黒い紐を差し出してきた。「冗談きついっすよ」「そうか、良かった」「はは・・・じゃあお元気で」「おう、あんたもつまらない死に方はするんじゃないよ」 今俺は駅で故郷に帰る電車を待ちながらあの女店主のことを思い出していた。「まさかあの人もうちの商品で死ぬなんてね・・・だってさ」 座敷の仏壇にあった写真や彼女の左手にあった指輪を思い出し、「やっぱりあの人ってのは旦那さんのことだったんだろうなあ・・・」 そして、ずた袋の底から遺書を取り出してゴミ箱に捨てた。「残された人のこと・・・か」 こうして俺の死ぬ為の旅は終わったのだった。
山小屋に老人が椅子に座って、居眠りをしておりました。周囲には人影もなく、裕太が近づいても目を覚ませません。老人は一休みしてる内に眠くなってきてコックリコックリし始めたのか、気持ち良さそうでした。裕太は老人が目を覚ますまで、待つことにしました。30分位すると、老人は「ウウッ、、、」と微かな鼻音を発し目を覚ましました。「夢をみとったのじゃよ。」心地よい夢であったのか、上機嫌でそう言いました。「おじいさん、どんな夢でしたか?」と裕太が尋ねると、、、「この椅子に座ると、見たい夢がみられるのじゃ。お前も座ってみるか?」と老人は優しそうに言いました。「是非、座らせて下さい。」そう言いながら、どんな夢をみたいのか?、、、迷いながらも椅子に座った。「早く見たい夢を決めなさい。」、、、おじいさんの声がした。彼は子供の頃から「左利き」というコンプレックスがあった。咄嗟に「右利き」になった夢をみたいと思った。すると、次第に眠くなり「野球」をやってる夢をみた。右バッターでホームランを打った。次は、右で食事をし、右で手紙も書いた。無我夢中で、テニスもゴルフもやってみた。嬉しくて嬉しくて、妻に電話をしょうと思った時目が覚めた。老人にお礼を言って、自宅に帰っきたら夕方になっていた。夕食の時、左でハシを持つと変な感じなので右に持ち替えると、不思議と上手くいくのです。慌てて、メモ帳に字を書いてみました。完全に「右利き」になっているのです。彼は次の週末に、老人が住んでた山小屋を尋ねました。しかし、確かにあった山小屋はどこにもなく、小さな道が森深くどこまでもどこまでも続いておりました。
10年前と同じ草のにおい。「全然変わってないじゃ〜ん!!」上京して10年がたつ。この町は全く変わっていなかった。10年前と同じ汚い無人駅。10年前と同じ駅の隣の床屋さん。10年前と同じ田んぼ、畑、空き地。 雲行きが怪しくなってきた。「うそ・・・・こんな田んぼの真ん中じゃ、雨宿りするところもないわよ。」そんなことを考えているともうポツポツと振りだしてきた。「いやぁ。せっかくのお土産がぬれちゃう・・・・」雨はだんだん強くなってきた。「そうだ!ここを真っ直ぐ行けば桜の木があるんだ!!」私は真っ直ぐ前に向かって走った。雨はどんどん強くなる。10年前と同じところに桜の木はあった。「助かったぁ。」しばらく桜の木下で雨宿りをすることにした。・・・・が、所詮ただの木。やっぱりぬれる。「ま、我慢するしかないわね。」 「はい。」急に雨があたらなくなった。「え?」「ぬれると風邪ひくよ。ひさしぶりだね。」私と同じくらいの年の男の人が傘を持って立っていた。「・・・ありがとう。」「覚えてる?ここで俺が『好き』っていって、君が『上京するからダメ』って言ったの。」雨はだんだん強くなる。「まだ俺、君のこと好きでさ・・・。東京にやっぱり彼氏いるんだよね。」「・・・覚えてないわ。」遠くでゴロゴロと雷が鳴った。「そっか。」男の人は残念そうに言った。「あ、傘もってっていいから。どうせボロ傘だし。」そういって男の人は走っていってしまった。 ・・・忘れるわけないじゃない。『好き』って言ったら、ここを離れられなくなるから断った。本当はまだ好きで・・・昔も今もやっぱり好きで・・・ 雨がやんだ。「傘、返しにいかなきゃ。」私は彼の家に行こうとした。でもやめた。「そんなことしたら、東京に帰れなくなるわ。」私は真っ直ぐ自分の親の家に行った。彼の家とは反対方向だった。 彼の優しい性格も、10年前と変わっていないようだ。
きっかけなんてほんの些細で、簡単な事だったんだ。例えば君が、僕の右隣に座っていた時、僕はふと、左利きになりたいと思った。片方ずつ、手があいていれば、できることがあるはずなんだ。君に触れたい。君と手を繋ぎたい。だけど臆病な僕は、まだ今日も右利きのまま。「ねぇ、何見てんの?」退屈な授業中に、隣から君の声が聞こえる。違う方向を向いてても、誰が喋っているのか分かるんだ。もちろん、それは君に限ってのことだけれど。「空…見てた。」君の方を向き直りながら、僕はぼそぼそと答える。窓際に座る者だけが楽しめる、退屈な授業中の唯一の娯楽。だけど、僕が見ているのはもっと別のもの。青い、青い空よりも、もっときれいで大切なもの。突然、ノートを取るのを止めてぶらりと垂らしていた右手に、温かいものが触れた。「あげる。暇なんでしょ?」君の左手から渡されたのは、甘い甘いいちご味の飴。可愛い君に似合う飴。「食べてたら暇つぶしになるよ」にこっと微笑む君が愛しくて。少しだけ触れた手のぬくもりが嬉しくて。「ありがとう…」赤くなった顔を隠す為に、俯きながらそう答えた。君が不思議そうに僕を見ているのが分かる。少しだけ耳に入ってくる先生の声。いい国作ろう鎌倉幕府?後鳥羽上皇承久の乱?何の話だ。もっと君と話したい。もっと君と触れ合いたい。僕の頭のなかにあるのは、それだけで。明日からは、窓に映る君を眺めてるだけじゃなく、少しだけ、直接君を見てみようと思う。出来れば、何か楽しい話をして、君を笑わせたいと思う。そしていつか、君と手を繋ぐ時のためにほんのちょっとだけ、左利きになる練習も、してみようと思う。だけど今日の僕はまだ、臆病な右利きのまま。僕が変わるきっかけは、ほんの些細な事だったんだ。
バコっと音をたててあいたくつ箱の中に白い封筒が一つ。「わわわっ!」初めてのことに動揺。俺の心臓バクバク。これはきっとラブレターだと思う。家に帰って読めばいいのに。と思いつつも早く見たくてたまらない。周りに人がいないのを確認してゆっくり封筒をあけた。「緊張すんなぁ…。」一回深呼吸をして手紙に目をうつす。『突然こんな手紙ごめんなさい。ずっと前の2組と3組の合同体育をしたのを覚えてますか?その体育でバスケをしている姿を見ていらいずっと気になっていました。廊下で見かけるたびにドキドキします。いきなりこんな事言われても困ると思ったけど、どうしても言いたくて手紙にしました。 好きです。』「うわぁっ!マジで!?」3組の女子かぁ。3組ってかわいい子のあつまりじゃん。これは明日あたりまずは田中に自慢してやろ。そんでこの子にあって、まずは友達からってことにして、よかったら付き合うかなぁ。うぅん…。あれ?そーいえば俺付き合ったことってないなぁ。仲いい女子は多いけど、彼女いたことはない。困った…。デートとかってどこいきゃいいんだろ。やっぱ映画かな。でも俺映画は一人見るの好きだしなぁ。隣に知ってる奴いると気がちるっていうか。しかも俺すぐ感動するタイプだからなぁ。泣いてるの見られたりしたらかなり気まずいことになりそうだし。どこ行こう…。無難なとこでカラオケとかボーリングとか?でもカラオケで2人って微妙にもりあがんないんだよなぁ。どーすっかな。…あっ!そうだ!まさやんに明日聞いてみよ!あいつもてるからなぁ。いっつも彼女違うし。まぁそれはどうかと思うけど。でもまさやんエロいからなぁ。「ラブホ行けよ」とか言われそう。やっぱまさやんダメだ。ん〜。あ、まっつんに聞こ!あいつ爽やかだからなぁ。彼女も爽やかだし。いいとこ知ってそうだ。よし!頼むぜまっつん!あ、手紙まだ途中だ。『彼女はいますか?いたらこんな手紙ごめんなさい…。』いませんいません!!『もし彼女がいないのなら、付き合ってください! この返事がOKなら、明日の放課後に屋上にきてくれませんか?』いきなり付き合うのはできないかもだけど、行きます行きます!『どうか来てください。お願いします木村くん! 川本みさと』 おぉ!!お…、俺…!俺は佐藤だ!!!!!
婆ちゃんに手紙を書いたのは、これが初めてだ。元々返事は期待していない、きっと婆ちゃんは返事を書けない。もしかしたらもう、これを読むことさえ出来ないかも知れない。けれども僕は、迷うことなく手紙をポストに放り込んだ。 一ヶ月前、久しぶりに田舎に帰った。その時には、婆ちゃんは何事もなく畑を耕していた。僕は縁側でごろごろしながら、この家は婆ちゃん一人には広過ぎると、ただ何となくそう思ったのだ。 まだ皆がここに暮らしていた頃は良かった。爺ちゃんがいて、両親と兄ちゃんもいて、家中に笑いが絶えなかった。けれどそのうち、母ちゃんが出て行って、父ちゃんが逝って、僕達はすっぽりと取り残されたように静かになった。兄ちゃんが上京して間もなく、爺ちゃんも亡くなった。僕と婆ちゃんの二人だけが、この家に置き去りにされてしまった。 高校三年の夏休み、突然母ちゃんが訪ねて来た。僕は怒鳴って追い返そうとしたが、婆ちゃんは快く家に迎え入れた。よく来たよく来たと、婆ちゃんは上機嫌で晩飯に刺身を買ったりした。母ちゃんはほとんど何も食べず、ただ同じことを繰り返して言った。婆ちゃんは頷いて、好子さんと行きなと、笑って僕に言うのだった。僕はそのまま、婆ちゃんと喧嘩別れをした。 しばらく母ちゃんと暮らして、わだかまりも消えかけた頃、急に母ちゃんは息を引き取った。もう長くないことを知っていたから、僕を訪ねて来たのだ。葬式が終わって、婆ちゃんは僕に帰って来いと言ってくれた。「なあ婆ちゃん、兄ちゃんがさ、東京のマンションで一緒に暮らそうって。そうすれば、婆ちゃんも少しは楽が出来るだろ?」一瞬鍬を持つ手が止まったが、婆ちゃんはまた黙々と畑を耕し続けた。 そして結局、大学進学と同時に僕だけが兄ちゃんと暮らすことになった。 この間、婆ちゃんは兄ちゃんの決めた施設に入った。痴呆が進んでいて、もう僕達の手には負えなかった。 例えば僕が東京に来ず、あのまま婆ちゃんと暮らしていたら……。けれどもう、決して取り戻すことは出来ないのだ。 僕は婆ちゃんに手紙を書く、ずっと書く。会いに行くのではなく、手紙を送る。つまらないことでも、ありきたりなことでも、内容は何でもいい。ただ、婆ちゃんに読んで欲しいのだ。
これで全ての準備が整った。何のミスもないはずだ。俺は再度確認のためにノートパソコンにまとめた『完全犯罪計画』を読み返すことにした。まずは指紋が第一の関門と言っていいだろう。殺害時以外は手袋をする必要はない。里香は交友関係も広く、何十人もこの部屋を出入りしているからだ。しかし殺す時は違う。もしも里香の肌などに指紋が残るとしたら、証拠になってしまう。そして指紋で恐いのは、食器類だ。里香がコーヒーなどを用意してきたら、その時に付着する指紋を処理しなくてはならない。そうなると、拭き忘れるということもありうる。殺される前に俺と一緒にいたということがバレたらアウトだ。早めに殺害することが得策だ。凶器はロープにする。ロープなら返り血のことも解消出来る。新たに購入するのではなく、以前から家にあったものを使う。大丈夫だとは思うが、レシートなどを調べられると痛い。凶器は現場に残すのではなく、持ち帰る方が安全だ。他に警察は最新技術を駆使して毛髪も調べてくるはず。髪の毛は勿論、腕毛や眉毛なんていうものまで判別出来るらしい。しかしそれは警察にとって無意味な行動だ。数十人の毛髪が出てくるため容疑者を絞り込むことは出来ない。更に殺害時に慎重にならなくちゃいけないことが三つある。一つは、里香が抵抗をして俺の腕や首に引っ掻き傷を作ることだ。爪の中から削れた皮膚が検出されれば、それは有力は証拠になる。しかしこれは簡単に解決出来る。タートルネックで長袖の上着を着ていけばいいことだ。そうすればもし引っ掻かれても皮膚を持っていかれることはない。二つ目は、よく推理小説などで見かけるダイイングメッセージだ。里香は死に際にこんな凝ったことが出来る奴じゃない。それに、しっかり脈を見て死んだかどうか確かめればいいことだ。三つ目は目撃者だ。だが、真夜中を殺害時刻に選べばなんてことはない。念のために裏口から出ることは忘れないが。そしてアリバイが必要かどうか。答えはノーだ。真夜中にアリバイがある方がおかしい。ここまで来れば後は動機だけだが。周りから見れば仲の良い友達だ。俺が一方的に里香を恨んでるだけで、警察の捜査が俺に向くことはありえない。これで完璧だ。「何書いてるんだ。『完全犯罪計画』か、面白そうだな。読ませてくれよ」「あっ……どうぞ」俺は背後から忍び寄る親父に気付かなかった。思わぬ刺客によって俺の計画は失敗に終わった。 ※作者付記: 初めての投稿です。宜しくお願いします。
雨が土砂降っている。町は空気が悪いので、降る雨が汚れていて本当に土砂が降っているのだ。俺は激しい土砂の襲撃を受けながら必死に自転車を漕いでいた。今日の土砂はいつになく本気だ。俺の視界をほぼ奪った。カーサー少将に助けを請わなければ。しかし肝心のカーサー少将の居所が掴めていない。先ほどからコンビニを虱潰しに捜しているのだが、その何処にもカーサー少将は居なかった。「何処に居るんだ。あんたが居ないと俺は駄目だ。ぬれねずみだ」その声すらも土砂の咆哮に掻き消されて、上手く聞こえない。土砂は垂直に俺の痩躯へ突き刺さる。暗雲が太陽を撫でて、世界に存在する光は自転車のライトだけだ。 絶やしてはいけない。絶やしたら俺は助からない。俺は風に逆らって強くペダルを踏み込んだ。最後のコンビニは岬の手前にある。俺は近道の為に重心を思い切り右に傾けて急旋回し、狭い畦道を駆け抜けた。空に轟音が鳴り響く。「最早猶予はならぬ。一刻も早くカーサー少将を見つけなければ」「さっきから何を言っているの?」俺の背中に掴まっている女が口を開いた。とても可愛くて俺のタイプだ。その細い声は暗雲の轟音に負けずに俺の脳に響いてくる。「おい女、敵は本気だ。すぐにカーサー少将に擁護を要請するから待っていろ」「え? 何を言っているの?」邪な風が吹き抜けて自転車が大きく揺れた。 倒れてはいけない。倒れたら俺は助からない。急カーブを抜け、コンビニまで一直線に伸びる坂道に飛び出した。眼が眩む。世界が真っ青になった。暗雲は俺の頭上でぷっつり途切れ、その先に広がる空と海は水平線の見分けが付かない。それは、青い壁だ。新しい世界への扉だ。 カーサー少将の出番は無い。役立たずのビニール少将め。背後の女が黄色い声をあげた。「見て! 虹!」「馬鹿者! あれは敵軍の新兵器だ。雨の弓だ。俺は男としてあれを粉砕せねばならぬ。掴まっていろ!」 そういう具合で俺は独り脳内の恋人に怒鳴り散らすと、泥で汚れた髪に手櫛を入れてライオンに見立て、がおう、と咆哮しながら急な坂道を漕いで下る。遂に腐れきった暗雲の世界を飛び出した。調子付いた俺は青の世界へ、断崖絶壁のその先へと舞い上がる。だが次の瞬間、雨の弓の一撃で俺は脳を射抜かれた。またも俺は酷い現実のどん底へ、落ちる所まで落ちて行くのだ。爽快な青空は俺以外の獣たちへ、どこまでも平等に浸透していく。あなたたちの空へ。
裸でまどろむ雅人の胸の上を、泥はねのような蛾が歩いている。体長一センチにも満たない蛾を前に、晶子は内心穏やかでなかった。蛾には子どもの頃の嫌な思い出がある。林間学校で早朝の散策に出た際、手のひらほどもある蛾が晶子の胸にベッタリと張りついたのだ。振り払ってもなかなか離れようとしない蛾がどんなに恐ろしかったことか。(嫌だ、こっちに来ないで)狭いセミダブルベッドの上では鼻先を歩いているも同然だ。すぐにでも逃げたいところだったが、今身動きすれば雅人は目を覚ましてしまう。起きたら彼は真っ先に時間を気にするだろう。時計を見やる仕草は、繰り返される別れの合図であった。今の晶子にとっては、蛾よりも独りぼっちの時間のほうが怖い。彼女は終わりの気配が少しずつ近づいているのを感じていた。以前に比べ、雅人は帰宅を早めるようになっている。眠る彼の横顔をじっと見つめていると、何食わぬ顔で妻と談笑するイメージが幾度も浮かんでは消え、晶子の呼吸を乱した。それでもまだ彼を手放したくはないのだった。 もしもこの蛾が彼の魂だったら。晶子は祖母に聞いた昔話を思い出していた。眠っている者の魂が虫の姿で抜け出し、遊ぶ話を。考えるよりも先に手が伸びた。蛾はわずかに羽ばたき、その指先に移る。彼女は恐怖も忘れ、愛おしむように両手で包み込んだ。(朝までここに居て)二年間、何度この言葉を飲み込んだことだろう。昔話を真に受けるなんてバカみたいだと思いながらも、晶子は手を開くことができなかった。(意地悪してゴメンなさい。一度でいいから朝まで一緒にいたいの)頬を伝って熱い一滴が流れてゆく。 故意ではなかった、と晶子は思う。手の甲で涙を拭おうとした瞬間、両中指の関節付近で何かが潰れた感触があった。あの昔話には続きがある。周囲の者が虫を殺すと、魂の主も二度と目覚めないのだ。それを思い出したところで罪悪感が湧くどころか、かつてないほどの深い安らぎに包まれてゆく。彼女はその心地良さに身を委ねた。 どれくらい経ったのだろう。雅人は起き上がった。傍らに横たわる晶子は、目を閉じたまま祈るように手を合わせている。うっすらと笑みさえ浮かべながら。蒼ざめた肌は取り残された月の色を思わせる。まるで磁器でできたマリア像のようだ、と彼は思った。晶子の手から潰れた蛾の亡骸が滑り落ちる。雅人はそれに気づかぬまま、目覚めようとしない彼女の頬に手を触れた。
私は自転車に乗っている時間が好きだった。とりわけ、自転車自体が好きというわけではない。まして、自転車を漕ぐのが好きだというわけでもない。厳密に言うと、自転車に乗って考え事をしている時間が好きだった。自転車に乗っている間、いろいろな空想にふけっている。ただ、不思議なことに意味もなく自転車を乗り回している時は、これといって何も思い浮かばない。何か目的があって、目的地があって、そこに向かっている時だけいろいろな空想が頭の中をよぎる。その空想には統一性が無く、全くのランダムだからこそ面白いと思った。誰にも侵されない、私だけの世界がそこに広がっているのだ。その世界を、見て歩くのが好きだった。だから、目的の場所に到着するとがっかりしている私がいる。だから、家に帰宅する時、サドルに跨りながらわくわくしている私がいる。何で、意味もなく自転車に乗っている時には何も思い浮かばないのか。空想にふけるという行為は、私にとって無意識下で行われているんだと思う。目的又は目的地がある場合は、意識は目的に向けられていているから空想が描ける。意味も無く自転車に乗っている場合は、意識の向ける矛先が無いため、意識的に何かを考えようとしている。だから、目的も無く自転車で徘徊している時は何も思い浮かばないんだと思う。先日、友人達の前で真剣に話したら大笑いされた。そんなこと考えてる暇があったら試験勉強した方がいいよ、と。確かに、言うとおり試験勉強をした方が効率もいいし、私自身のためにもなる。でも、それでも私はその空想の世界が好き。もちろん勉強もしなくちゃダメだけど。けど、勉強をするばっかりが学生じゃないよね?言い訳をしつつも、自転車の鍵を手に取り駐輪場へと向かう私がいる。──今日はどんな世界を私に見せてくれるのかな。期待と緊張を胸に、サドルに跨る私がいる。さぁて、今日はどこに行こうかなぁ。
「へぇ…、あいつがそんなことをねぇ」 残暑のきびしい、ある9月の夜。 私はリビングで、缶ビールを飲みながらつぶやいた。「ね。どうしたらいいと思う?」 妻はテーブルの向かいに座っていたが、私のほうに身を乗り出して言ってきた。 あいつとは、私たちの息子のことである。 16歳の高校一年生。 ちょっと不器用だが、大きく道を踏み外したりはせずに、元気で健康的に育ってくれたと思う。 その息子が…と私は少しびっくりした。「そんなことを考えるんだな、今の高校生も」 ふんっと私は笑った。「ねぇ、どうしたらいいのよ!」 そんな私に、妻は怒った口調で言ってきた。「あなた、同じ男でしょ。私はあのコに対してどうしたらいいのよ!」「そんなに大声出すなよ」 私は妻をなだめるように手で制すと、再びビールを飲んだ。「ま、あいつも高校生になったんだ。やりたいようにさせておけよ」「そうは言ってもねぇ…」 妻は頬に手をあてて、首をかしげた。 やはり主婦として、思春期の息子と息子の行動が気になるのだろう。 そして私の顔をまじまじと見つめた。「…ふぅん…」 妻は納得したように、一人で小さくうなずいている。「なんだ?」 そんなに長い間見つめられると、結婚18年目でも、胸が高鳴りそうである。 妻は、私の顔を見てにやにやと笑いながら、「あなたにも、そういう時期あったんだ?」 と、指をさした。「…まぁ、効果はなかったけどな」 私は恥かしさを隠すために、ビールを一気に飲んだ。 テレビをつけようと、リモコンも探した。 しかし妻はまだ、にやにやして私の目の前に座っていた。 次の日から、息子の挑戦が始まった。「母さん、買っておいてくれた?」 夕方、学校から帰ると、息子はまずキッチンへ向かう。「買ったわよ。うがいしてからにしなさい」 夕飯の支度をしながら、妻は息子に返した。「わかってるよ!」 素直にうがいをすませた息子に対しても、心なしかにやにやしている。 息子は勢いよく冷蔵庫を開け、中から牛乳パックを取り出した。「お腹こわしても知らないわよ」「それで背が伸びるならかまわないさ」「二百円×30日…月六千円の出費かぁ…」 妻は少しだけため息をついた。 身長を伸ばしたい一心で、息子は毎日1リットルパックの牛乳を飲みつづけた。 それの効果が出るかは定かではない。 だがそういう気持ちはあってもいいんじゃないか、と私は思った。
新入りが真っ青になって飛び込んできた。がたがた震えながら、エレベーターの奥に扉がもうひとつ現れたなどとわめき散らす。俺は顔をしかめながら仕事の手を止めた。やれやれ。なんだって見つけちまうんだ。 エレベーターの出入り口が一つだと思っている人は多い。無理からぬことだ。たいていの人にとってエレベーターは一時的に通過するだけの機構であり、長く留まる場所ではないのだから。でも、どんなエレベーターにも二つ目の扉はある。誰でも見られる。一人で箱の中に入り、奥を向いて三十分間じっと待つだけでいい。それは現れる。 由々しき事態だった。つまり近隣のデザイン事務所へ使いに行っていた筈の新人が、箱の中で三十分もぼんやりしていたことになるからだ。通常ならば他の階の人が箱を呼ぶから彼も我に返っただろうが、生憎日曜の午前三時まで超過勤務するような会社はビル内でうちだけだ。 俺は彼を咎める代わりにコーヒーを淹れた。どうも五月病が再発している節がある。この土壇場でまた辞めるなどと言い出されてはかなわない。それから滾々と説得する。いいか、エレベーターの扉なんて大した問題じゃないんだ。今大事なのは葉山デザインのMOだ。わかるよな。新人は承知しなかった。怖くて行けないと小刻みに顔を振った。じゃあもう俺が行くと立ち上がると泣きそうな顔で袖をつかまれた。一人にされたくないそうだ。俺は頭を抱えた。 やむを得ず、仕事を一時中断する。コーヒーを飲みながら新人に昔話をしてやる。ともかく立ち直ってもらわねば業務に障る。 俺も若い頃、二つ目の扉を見たよ。お前みたいにぼーっとしててさ。新人は顔を上げる。それで、どうしたんですか。最初は驚いたけどな、そのうち慣れてきて、入ってみたよ。彼の目がまん丸になる。でも別に面白いもんじゃないぜ。こっちとまるで同じだからな。同じ廊下があって同じ会社があるだけだ。本当ですか。本当さ。まあ、正確に言えば、俺はもともと向こう側にいたんだけどな。 新人が深刻にひきつった顔で俺を見るので、肩をすくめて冗談だよと言った。とにかく、エレベーターの奥に別の扉があったからって現実からは出られないってことさ。そうですか、そうですよね。新人はため息をついた。ようやく落ち着いてきたようだ。 実を言えば現実逃避用には地下九十九階へ降りるボタンがあることも俺は知っていたけれど、それを教えるほど迂闊ではなかった。
私の彼はタバコ吸いだそれが元でよくケンカになる私がしょっちゅうタバコを止めるように言うから。理由はその時によって色々。例えば「タバコ吸うと肺ガンになる」とか「そのニオイ嫌いなんだけど」とか「そんなのお金のムダなんじゃない?」とか「部屋の壁にヤニが付くからやめてよ」とか「私の体にも悪いんだから」とか更には「一生中毒のままでいるの?」とか。彼はいつも理屈をつけて反論する。それもその時によって色々。曰く「タバコ吸うと落ち着くんだよ」とか「人の趣味にまでケチつけるなよ」とか「迷惑かけないように気をつけてるだろ」とか「吸わないと頭が働かないんだ」とか「別に法律違反してる訳じゃないだろ?」とか果ては「止めてまで長生きしたくはないね」とか。今日の言い訳はナカナカだった。「オレはタバコが吸いたい訳じゃない、ホントに大事なのはこのライターの方なんだもし何か大事件に巻き込まれて、無人島に取り残されたらどうするんだ?そういう時に火が無かったら、人間生きていけないだろう?」思わず笑ってしまう、彼は得意顔に続ける。「ライターだけもって歩いてるのはホストか放火魔ぐらいなもんだぞだからいつもタバコとライター、セットで持ってるんだつまりこれは言うなれば、危機管理ってヤツだな」完全に調子に乗っている。「もしもそんな状況になったら、オマエどうするんだよ?」私は「そんなことも分からないの?」という顔をして、ゆっくり言ってやった。「そういう時のために私は、あんたとタバコとライターと、セットで持ってるんじゃないの」彼は目を丸くして少し黙って、両手を挙げた。マイリマシタ。してやったり。でも彼にタバコを止めるようには言いにくくなったかな。まあいいか、彼はタバコを止めないかも知れないけど、タバコが元のケンカは止みそうだし。
ちょっと、用で部屋をでる。深夜、二時前。 部屋の扉に鍵をかけると、廊下のコンクリートに何かが落ちている。 またゴキブリかと思ったら、蝉だった。どうやら死んでいるようだ。鍵の先っぽでつんつんと突いてみたが動かない。仰向けになって、足もぴくりともしない。灰色の腹が、なんだか気持ちが悪い。 帰ってきてまたこれが転がっているのかと思うと憂鬱なので、鍵束の中の長めの鍵を箸代わりにして蝉の骨を拾う。なかなか上手く摘めない。 いじいじと弄くっていると、突然、「ジジジジジジジジジ!」と鳴って、動いた。思わず「わあ」と声がでる。このはしたないあつかいに、蝉が怒って生き帰った。 蝉は見境なく、あちらこちらにぶつかりながら必死で壁に張り付いた。そして、こっちを見ている。――どきどきする。 やはり死ぬ、生きるのメリハリは、たかが虫でも迫力があるものだ。 隣の部屋の人にこの、深夜の間抜け声を聴かれたかもしれない。電気が点いてないから、たぶん寝てるだろう。・・・ひやひやする。 ――ふと今、其処の家の娘の顔が思い浮かんだような気がした。
『もし、アタシが死んだら、あんたも死んでくれる?』最愛を、履き違えて言ったとは思わない。アタシはただ本心を言ったのだ。「・・・お前が望むならな・・・凛(りん)。」本心を言ったその相手、今目の前で煙草を吸いながらアタシを見据える零斗(れいと)は迷ったそぶりも見せずに言った。『約束、ね・・・?』アタシの本心を聞き入れたんだと解釈したアタシは、歓喜の感情を以って、熱く脈打ち、濡れたカラダを零斗に預け、また、今日四度目の情事にふける。過剰な愛だとは思わない。ただ気に食わないのだ。愛する人のいない世界はいらない・・・愛する人と同じ運命を選びたい・・・愛する人には私の世界以外与えたくない・・・愛する人には私と同じ運命でイカせたい・・・負けず嫌いな性格で、情緒不安定、おまけに色情痴女、さらに束縛願望が強いアタシは、零斗にそんなことを強要させたがっている。周りは口をそろえて(異常だ)とぬかしやがるがアタシに言わせりゃそっちが異常なだけ。愛する人を所有物にして何が悪い?愛する人を、自分が死ねば殺して何が悪い?そのかわりに私も同じ「先」を選ぶのだからいいじゃんか。ただ、愛する人は誰にも渡さない。アタシだけの永遠のオモチャ・・・愛する人・・・声を聴くだけで鼓動が高鳴り・・・指と唇で首筋を愛撫されるだけで反応し・・・舌でカラダ中すべてを舐められるだけで卑しく濡れ・・・入れられたら気絶する程何度も絶頂を迎えられる・・・そんな相手と、死んでその先までを共にしたいと思うことが、愛じゃないの?口先だけ愛してるじゃなく・・・カラダと、心と、命で貰う「愛してる」が・・・一番気持ちいい愛よ。『零斗・・・アタシが死んだらきっとあたしを追いかけてね?見失わないよう、あたしの死体を眺めながら・・・イキながら逝ってね?』「あぁ・・すぐにイクよ・・・凛。」そしてアタシ達は闇も光も見失い、閉塞された二人きりのその空間で、枯れるまで命を削りあう・・・白く、白く、白く・・・−「愛・・か・・・。」数日後、凛は自宅で同年齢の恋人、零斗と共に息をひきとっていた。その場にいた検事の葛西が、煙草の煙を吐き出し、眉間にしわをよせてつぶやいた。「クスリにおぼれた先に見る愛は、本物に見えたんだろうな・・・いや、本当の愛なんて・・・。」自宅、寝室で、裸のまま首を吊って息をひきとった凛の下で、彼女を見上げるように、裸のまま、心臓に包丁をつきさし、ベッドを赤く染めて事切れた零斗が笑ってた。赤い血は、まるで蜘蛛の巣のようにベッドを覆い、零斗に絡み付いていた。
「題名」王様と賢者 吉備国王 強力な軍隊に支えられた王国がありました。この国のお妃が亡くなられて一年の年月が経ちました。王様は寂しがられて、家来に新しいお妃を探すように申しつけました。 王様の国は豊かな領地と強い兵隊を抱えた強国でした。そのため、周辺の国々は、王様の動向に神経を尖らせていました。 王様が家来に下した、お妃を探せよとの命令も、その日の内に周りの国々に伝わりました。 隣国の中に若くて美しい姫君のいる小国がありました。その家来は、隣の軍隊が姫君を奪いに来るのではないかと心配しました。 しかし、姫君は、隣国の王様といえども武力で人の心を奪うほど愚かではなく、賢い知恵者を使者として遣わすに違いないので、その使者を温かく迎え入れて上手に説得すれば、こちらの要望を受け入れてくれるだろうだと、家来を諭しました。 一方、強国の王様も、軍の武力行使の提言を退けられ、平和的に交渉するように提言した大臣の助言を受け入れられて二人の賢者を城に呼び寄せました。 王様は申しました。隣国の姫君をお妃として貰い受けたいのだが、隣とは生憎と仲が悪くて評判も悪い。そこで、姫君を上手に貰い受ける秘策はないかと尋ねました。 隣国の姫君をお妃として迎えることができれば、その報償として一生裕福に暮らせる金貨と領地を与えると申されました。 その話を聞いていた賢者の一人が王様の前に出て跪き、如何にも自信ありげに申しました。 王様、お任せ下さい。私は、姫君を必ず連れてまいります。其処にいる男に相談されることはありません。そう言って、もう一人の賢者を指差しました。 王様は、自信ありげに話した賢者の顔をまじまじと眺めて申しました。 まだ、そなた達の考えを聞いていないではないか、二人の話を聞いてから決めるとする。 すると、その賢者が笑って答えました。 王様、この男が、この問題を解決することは、空にある月を手に入れるより難しいことです。私は、あらゆる知識と手段を行使してご要望を叶えさせて見せますと、自身ありげに話ました。 王様も、この賢者の余りの熱心さに押されて、その考えを聞いてみることにしました。 それでは、お前の考えを申しなさいと、王様が話を切り出すと、その賢者は一礼してからゆっくり口を開きました。 王様、何事も事を成す時は常に秘密裏に成さねば成功しません。たとえ依頼主でも、お教えすれば成就するどころか、失敗を招くことにもなります。ここは、私の考えをお聞きになるより、私を信頼してお任せ下さることが成功の秘訣だと訴えました。 王様は、顎に手を当てて頷かれ、この賢者の言うことにも一理あると思われました。 そなたに任せるとしよう。これで隣国の姫君を間違いなくお妃として迎えられるのだなと、王様は念を入れて申されました。 その賢者は、隣国の姫君を必ず連れて来ることを王様に約束しました。それから一カ月が経ち、二カ月が経っても、あの賢者は姫君を連れてくることはありませんでした。 王様は痺れを切らして激怒され、家来を呼びつけて、あの賢者を連れてくるように命じました。 家来は、王様の指示に従って国中を探し廻りましたが、国内の何処にもいませんでした。 そこで、隣国にいるのではないかと密偵を使わして調べました。すると、あの賢者は、隣国で優雅な生活をして暮らしていることが分かりました。 家来は、王様に詳しく申し上げたところ、金貨をいくら払ってもよいから、あの賢者を連れてくるようにと厳しく申されました。そして、命の保証をするので安心して帰国するようにと告げました。 その賢者も、姫君との約束を果たすために、その条件を受け入れて城に出向いてきました。 賢者は、王様の前で跪いて恭しく顔を上げて申しました。 王様、私は、お約束したことは何一つとして破っておりません。私は、姫君を連れて来ることを誓いましたが、何時までにお連れするとは一言も申していません。何時、お連れするかは、私の胸次第ですと、その理由を話しました。 姫君は武力に屈服するよりは戦って死を選ぶ方が好いと申されましたが、生き抜くことこそ国民のためであると説得しました。そして、美しい姫君のお役に立てるのであるなら何時死んでもよいと申しますと、姫の補佐役として、この国に留まるように頼まれました。幸いに、姫君を連れ帰る期日を約束しませんでしたので、何れの日にか連れ帰ればよいだろうと思っていましたと申し開きをしました。 王様は、賢者の話を黙って聞かれました。 お前は本当に何でも出来そうじゃ。さて、どんな手段を困じて射止めるのかと、身を乗り出して尋ねました。 すると、賢者は申しました。 姫君から頂いた金貨はあります。しかし、城を持っておりません。お教えする代わりに、城を一つ下さいませんかと申しました。 王様は、財宝と領地は沢山あることだし、姫君を射止める知恵を聞きだすためには、城の一つ位は遣わしてもよいだろうと申されました。 賢者は頷きながら筆と巻紙を出して申しました。 わが国にお妃を迎え入れた節には、城を一つ遣わすとお書き下さい。 王様は了承され、巻き紙に書き付けて署名しました。すると、賢者は懐から一枚の紙を取り出して、此処に書かれていることをお守り下されば、姫君は間違いなくお輿入れ下さいます。後は、王様の決断しだいですと、姫君から依頼された書き物を手渡しました。 その書き物には、隣国の姫君が書いた条件がぎっしり書き込まれていました。 王様は驚きました。厳しい条件を求められていたのです。 一、姫君に領地の半分を与える。 二、国の政治に姫君の意志を反映させる。 三、姫君を警護する兵隊を認める。 四、姫君の国との国境線を廃止する。 姫君からの書き付けを読み終えても王様は眼を放さず、しばらくじっと立ちすくんでいました。 そして、厳しい眼差しに戻られ、これでは隣国に我が国が吸収されるに等しいではないかと不満を申されました。 賢者は、それを聞いて淡々と述べました。 王様、隣国の姫君をお妃として迎える手段をお教えしました。これをお受けさえすれば隣国の姫君は嫁いでこられれます。しかし、この条件を呑まなければ姫を娶ることは出来ません。 私は、王様に約束したことをすべて教えしました。後は、王様が決断するだけです。 王様は困り果てて、もう一人の賢者に尋ねました。 王様、ご安心下さい。我が国で一番賢い男が申すことですから、王様さえ決断なさればよいのです。 私に、これ以上の名案は浮かび上がりません。と、相手の賢者に会釈しました。 この賢者は、お妃の話を聞かされた時から、王様の悩みを巧みに利用して富を得ようと考えていました。そして、隣国の姫君を取り込む秘策を企てていました。 隣国の姫君も、強い軍隊を持つ国の王様に脅えていましたので、よい解決策に違いないと、その賢者の提案に飛びつきました。 一方、王様は財宝や領地を半分姫君に譲たとしても、己の物ではないかと思われ、その条件を受け入れて美しい姫君を娶ることを決断しました。 やがて、王様は美しく聡明な隣国のお妃をお迎えになり、周辺諸国とも和解して平和な日々を末永く保ちました。