冬は嫌いだ。やること全てが重く感じる。夏のじとっとしたいやらしさも嫌いだが、冬はそれとはまた違った意味でいやらしくて嫌いだ。「私は冬好きっ」ぽつぽつと降る雪にはしゃぎながら、彼女はほとんど叫ぶように言った。「肉まんでしょ、おでんでしょ、焼いももいいし、あとはねぇ…」「食べ物じゃないか」彼女の快活な明るさも、この時期になるとやたら気に障る。「なんだっていいのよ!好きになる理由なんて」好きになる理由なんて。なんとなく照れくさくなる。別に僕のことを言ったわけでもないのに、あのよく通る声で『好き』ときくと、もぞもぞした気持ちになって落ち着かない。「僕は冬が嫌いなんだっ」赤くなる顔を伏せながら、念を押すように強く言い切った。彼女にこれ以上、『好きなもの』の話をさせたくなかった。「だってかっちゃん、夏の時もそんなこと言ってなかった?」「夏も嫌いなんだっ」へんなの、と、彼女は不服そうに口をとがらせて、空を見上げた。そういえば、彼女はあの時も、夏が好きだといっていた。理由は同じく食べ物だったな。すいか、カキ氷、焼きとうもろこし―――――…「じゃあかっちゃんはいつが好きなの?」振り返って彼女がきく。ふわふわした長いマフラーが、踊りながらついていく。「いつって…」春、夏、秋、冬。梅雨もついでに考えてみる。「春は…虫がいっぱいわいてきて嫌なんだ。うち、庭があるだろ。毛虫とかそういうのとるの、僕の役割だし。それに花粉症が毎年ひどい。」「うん」彼女は鼻歌を歌いながら、飛ぶようにリズムをとって歩いている。「梅雨は…やっぱり嫌だな。無駄に雨が多いし、じめじめしてる。」「うん」耳を澄ましてみると、多分これは、『雪やこんこん』。「夏は暑くて嫌いなんだよねっ」自信たっぷりに彼女がいう。あてられるとなんとなく素直にそうだといいにくい。「秋は…夏が終るから嫌い。」「なにそれ。夏、嫌いなんでしょ?」「夏が終って冬に向かうから嫌いなんだ。」ふーん、と軽く相槌をうち、彼女はどんよりした空から降る雪の跡を目でたどる。「私はね、秋好きだよ!ぶどうでしょ、梨でしょ、あと柿!」どこまでいっても食べ物か。でもそうだな。そういうものかもしれない。好きになるって。ふとしたことで意味が生まれて、ここに在ることが嬉しくなる。例えば、つきぬけたような笑顔とか。茶色のマフラーに顔をうずめながら歩く僕の数歩前を、彼女は楽しそうに歌って歩く。今度は『ジングルベル』。「結局、かっちゃんは全部嫌いなの?」…そういうことになるな。でもそれもなんだか、自分がやたら小さく思えて嫌だ。「好きなものは一つで充分なんだよ」言い訳がましく言った後、僕の顔は真っ赤になっていた。そんなつもりで言ったんじゃないのに、自分の好きなものを思い浮かべた時、反射的にまずいと思ってしまったんだ。「好きなものって?」あどけない笑顔で、予想通り、彼女がきく。―――――そんなの言えるわけないじゃないか―――――知らない、と、僕はふてくされたように空を見上げた。暗いと思っていた冬の空は、なんだか眩しくて、冷たいと思っていた雪は、熱を帯びた頬に心地よかった。
明日も明後日もクソみたいだ。湿った毎日の中にため息だけが積もっていく。 知らないうちに感傷的になってて、友人たちとの緩やかな日々が急に愛しくなった。そこで我が家で飲み会を開くことにした。大学の友人たちは、基本的にバイト以外することがなくてぷらぷらしているので、メンツはすぐに集まった。 酒を飲んでいる時くらいしか気にならないけど、皆わりと俺のほう見ながらしゃべってんのね。 友人が連れてきた後輩の女の子にちょっかいを出す。 彼氏いないんなら付き合おうや、とか。 そのうち酔いによって勢いが増して。脳みその奥のぷちぷちした言葉をそのまま声に乗せた。だって自分のこと可愛いって思ってるから泣くんでしょ? とか。自己愛を批判するぷちぷち。相手に当たって爆発した。彼女の涙は流れ続ける。川のように。澱んだ川べりに、ぷちぷちが引っかかって、溜まっていく。飽和して溢れた。 なんで初対面なのにそこまで言われなきゃいけないの? くすん、くすん。 両手に顔を埋めながら、ちいさな肩を震わせる。でも可愛くない。泣き声が、発泡スチロールをこすり合わせた音に似てて、気持ち悪い。 まあでも、俺が言うほどひどい人間でもないから、お前。はは。ブサイクだけど。 梱包用のぷちぷちを一気にひねって、濁音を生み出す。ぶちぶち、と派手に鳴る。 彼女は、ぐす、と勢いよく鼻をすすり上げて、走って逃げた。追いかけようかと尻を浮かせたが、急にめんどくさくなって、また座った。 自宅アパートの前、駐車場のアスファルトが冷たい。見上げる夜空で見覚えのあるのはオリオン座のみ。並んだ三ツ星が、腰のベルトを表していると、高校の頃に教わった。「俺には星が三つ並んでいるようにしか見えない」 ぷちぷちぷち、と響く俺の悪態。 よくしゃべったので喉が渇いている。部屋の窓に向かって大声で酒を求めるが、飲み会の騒音にかき消された。仕方なく立ち上がって、ふらふらしながら近くのコンビニに歩くことにする。解けているスニーカーの紐を振り回しながら、機械的に足を動かす。 アパート脇の自販機の横で、逃げた彼女が体育座りをしてまだ泣いていた。ちょうどいいや、と思って彼女の横に腰を下ろして、タバコとなんかビール買ってきてよ、と千円札を差し出した。無視されたので、もう一度大声で頼むと、彼女は返事の代わりに平手打ち。 もろに食らってはじけ飛び、アスファルトに転がった。
真っ暗闇の中、車のクラクションとバイクの走り去る爆音で目覚めた。 思いっきり開いた目は閉じてはくれなかった。 カーテンの隙間からほんの少しだけ見える外からの光は一瞬にして夜の黒 に変わる。たまに通る車だけが光を放っているのだ。隣のマンションから闇の静寂をぶち破る電話のベルが鳴り響いた。 オレは目を閉じた。しかし意識までは閉じてくれない。 ようやく鳴り止んだベルの変わりに聞こえてくる女の声。何を話しているのかは分からなかったが電話の相手と言い争っているようだった。オレは無意識に身体の神経を耳に集中させていた。随分長いことそうしていたような気がする。結局何も聞き取れはしなかったが、女はかなりご立腹のようだ。上の階から水が流れ落ちる音が聞こえた。上の住人がトイレに居るのだ。すると、足音がオレの真上に居た。顔も知らない住人を想い、なぜか安心しているオレが居た。気がつくと電話の女の声が消えていた。オレは少しがっかりしたが、次の瞬間にはまた耳に全神経を集めていた。窓の向こうで酔っ払いのおっさんが叫んでいたのだ。はっきりとは聞き取れないものの、何とか理解できた。上司に罵声を浴びせていたのだ。しかし本人にではなくまた顔を合わせるであろう明日の上司にだ。いつか上司を前に言ってやるのだと意気込んでいた。きっとそんな日は来ないだろう。定年までの何十年かをこのおっさんは上司に文句を言うどころか顔色を伺いながら機嫌を取り、愛想笑いを引きつらせていることだろう。そしてまたこんな闇の中でああして叫ぶのだ。オレは少し笑っていた。馬鹿にしているんじゃない。なぜか今、とても幸せだった。怒っている人たちの叫び声を聞いている事が。携帯電話のディスプレイを開くとまぶたの裏側まで赤い光が届いてきた。ゆっくりと目を開いていく。まぶしくてなかなか開かなかったがようやく慣れてディスプレイに表示された数字を目で追った。最後に見た日にちから一日が経過している。たった一日だったのか。しかし、たった一日だったがオレは死んでいた。寝ていたのとは少し違う。オレは死ぬつもりで目を閉じたのだからこうして目を開く予定はなかったのだ。寝るっていうのは目を開ける予定がきちんとあるときのことだろ?オレ分かったよ、闇って恐いんだな。だってさ、オレ闇の中でみんなの気配を感じてる事にすんげぇ安心してたんだもんな。ふと見たカーテンの隙間から漏れてくる白い光はいつもより輝いて見えた。
舞台裏の隅っこで一人頭を抱えている人が一人どうしてこんな事になったんだろう昨日の事だ「…でいい?」半ば寝ぼけた頭に突然の質問で「…いいんじゃないの」と答えてしまったのがいけなかったそれが何の話だったか知るのは放課後学級会が終わった事にも気付かずぐーすか眠っていた所、後頭部に衝撃が走った頭をさすりながら黒板に花丸の付いた自分の名前見付け頭に疑問符を浮かべていると不満げな知っている顔が視界に入った「いつまで寝てんの?」「…眠気が取れるまで」再びふさぎこむ「…よーく眠れるように首絞めてあげよっか」二度寝は回りくどい台詞で却下された「今起きます…でこれ何?」黒板を指差す他にも幾人か名前の挙がっている中で花丸が付いているのは喜ばしいのだが、はて一体なんだろう「何って演劇の配役でしょうが」血の気の引く音が聞こえた気がする会議を一人だけ不貞寝していた報いである我がクラスには演劇部の半分がいて文化祭の出し物を演劇にするというのは覚えているいざ、配役となって役者班に演劇部が不足して今の会議があったというのは今知ったその後は呆然としたまま台本を受け取ってしまったそして現在全くと言っていい位台詞を覚えていない近年まれに見る危機感を覚えながら舞台裏にて震える子羊と化している頭には少しでも覚えようという意思どころかどうにかごまかす方法すら浮かばずヤバイヤバイの連呼が巻き起こっていた「ヤバイ…」口にまで出す始末今、重度の腹痛が起きていたなら神を信じていたかもしれない残念ながらマイ・ストマックは緊張や焦りに耐性を持っているらしい「だーいじょーぶぅ?」顔を見せたくない奴が現れたこれがドラクエなら攻撃コマンドを選んでいるところだ鬱モード全開でいると「有名な話だし、触りぐらい知ってっしょ、つまったらテキトーにつなげりゃいいから、演劇は役になりきることが大事、変な台詞でも相手の目を見てりゃ演技っぽく見えるって」……こいつ腐っても演劇部だな相手は台本なんか知らないんだし台詞を覚える必要なんて無し!つまったら相手の目を見つめる周りはほとんど演劇部の連中なんだから目で訴えりゃ察して何とかしてくれるはずだ!よーしなんとかなりそうだぁー!ビー幕開けの音であるゴクリ他人に聞こえそうなほどの唾のみ何人もの観衆の前に踏み出して行った「あんたの出番後半からでしょうが!」後ろから微かに聞こえた声により目の前が真っ暗になった
世界中の人間は速い変化には敏感であるが、ゆっくりとした動きには、たいした反応を見せないものらしい、早い話が地球温暖化である。 もうずいぶん以前から二酸化炭素による温室効果で温暖化が進み両極の氷が溶けて地上の何パーセントが水没すると言われ続けている、当然それは気象変動を起こして食料問題は避けて通れないが、どうすべきか 「おい、知ってるか」 「いきなり言われても、何をさぁ」「だから温暖化よ」「あゝ知ってるよ、化石燃料の使用による温室効果だろう」「知ってて良く落ち着いていられるね、大変な事なんだぜ、新聞見たか」「お前こそ何を大騒ぎしてるんだ、そんなの今に始まった事じゃないんだぜ」 二人は居酒屋に入って飲みながら、まもなくこんな話を始めた。そして、きっかけを話し出した男がビールを一口飲んで、「北極の氷が二十年前から見たら、20%も減ったらしいぞ、このまま行ったら世紀末の夏場は氷が全部溶けて無くなるんだぜ」「そうらしいな、テレビのニュースでもやっていたから知ってるよ」 そう言って落ち着いて話を聞いてる男はジョッキの底をおしぼりに乗せ拭いてから飲んだ。「よく落ち着いていられるね」「じたばたしても仕方ないもん、それにそんな大変な事が起きるのに新聞でもテレビでも、一日だけしかそのニュース流さなかったろう」「そりゃそうだけど」「くだらない兄弟げんかを全局が何週間も追いかけたり、愚か者議員を面白がって追い回したりしてるって事は、氷なんか溶けても何とも無いって事さ」 「何とも無い、て事は無いだろう」 落ち着いた男は再びジョッキを傾けてから、「要するにだ、あまりにも温暖化対策てぇのは対象がでっか過ぎるのよ、今さら化石燃料を使わない生活なんか出来っこ無いし」 話を言い出した男が相手の話を横から取り、「いっぺんには無理だけど徐々に減らしていけばいいんじゃないの」「徐々に減らせば何て言うけど、化石燃料が経済に与える影響はとてつもなく大きくてその流れは誰にも止められないのさ、それに温暖化対策は個人やある国だけがやっても駄目なんだ、世界同時でなきゃ」「じゃぁ、両極の氷が溶けていくのは仕方が無い事なんだ」「そうだな、温暖化と経済は両刃の剣てぇ事、命と金どっちを取るんだてぇ話さ」 深刻な話を続ける二人は、何杯もお代わりをして世界各地から輸送された肴を食べて、かなり酔いが回った頭で地球の行く末を考えた。
※作者付記: 化石燃料よりもっと温暖化に影響を与える物質も多くありますが、1000文字では書ききれないので、省略しました。
「私…わかったんだ…」少し緊張した面持ちでツインテールの少女が言う。「…何が?」だいぶキョトンとしたショートヘアの少女が聞き返す。「…あのさ…なんで人って…いや、この世に存在するものって時がたつと朽ち果てちゃうんだと思う?」ショートヘアが「わからない」というように首を横に振ったのを確認してツインテールがゆっくり話し出した。「…あのね、きっと人間が生きているのは悩むからだと思うの。だから…逆に言うと悩むために生きてるんじゃないかって思うの。」「…悩む…ため?」「そう。悩むため。人間は悩んで悩んで答えを得た時に死ぬんだと思う。その答えは得られた時に死んじゃうから生きてる人でその答えを知ってる人は誰も居ないの。死んだ人はね、きっと神様の所に答えあわせに行くの。すごく…すごく遠い所へ…そこに行くまでの運賃は自分の命で、神様の居る所はあまりにも遠いから往復できないんだと思う。…違う…かなぁ?」自分の考えを述べたツインテールはショートヘアの声に耳を澄ませた。「…うん…よくわかんないけど…いいんじゃない?…そんな気もしないでも無いし…」悩みながらショートヘアは言った。「まぁ、あくまで私の想像だし。あんまり深く考えないで」ほんの少しの悲しみの入った笑みを浮かべてそう言うとツインテールはその場を去った。次の日、ツインテールは来なかった…いや、来れなかった。なぜって、彼女は神様の元へ答え合わせに行ったのだから…彼女は悩み続けた末に何を得たのだろうか?ショートヘアはツインテールの最後の表情を忘れられなかった。ショートヘアにのみヒントを残した後に見せた悲しみの混じった笑みを。一生悩み続ける事になる原因を。。。
大きなパーカーを風に翻して、彼の扱ぐ自転車の後ろに跨った。街はぽつぽつと街灯の明かりでアスファルトに大きな水玉模様を描いている。どこまで行けるのか私にはわからなかった。おそらく、彼にだってわからなかったはずだ。街は徐々に暗くなっていった。彼は止まらなかった。お腹すかない? と聞いても、すかない、とだけ返された。やがて街灯さえもまばらな、片田舎へと入った。彼はまだ止まらない。眠くならない? と聞いても、ならない、とだけ返された。これより先に行ったら山に入るという所まで来た。彼の息が上がっている。もう止まろうよというと、彼は小さく頷いた。彼はパーカーとズボンのポケットを弄り、小銭を数枚と半分くらいになったラッキーストライク、それにライターを手のひらに広げた。私も同じ事をしたが、ポケットティッシュひとつと鼻をかんだティッシュ、そしてくしゃくしゃのハンカチしか出てこなかった。彼は苦笑いをして、タバコに火を点けた。暗がりでわからなかったが、よく見れば稲はすべて刈り取られていた。直に秋も終わる。「あんれぇ」私と彼は手を繋ぎながら空を眺めていた。山間で見る星の数は無限のようにさえ感じる。背中の方で声がして、振り向くと干し柿のようなお婆さんが立っていた。「おめーらこんなとこでなあにしてんのお? えさけんねんだが?」私は彼を見上げた。彼は微笑んで、家には帰りません、と応えた。心なしか、強く私の手を握って。「風邪ひくど? おらのえさ来い、雪降るかもしんねぇど」お婆さんの家は藁葺屋根で、ぼろぼろの壁はひび割れている。家全体が、いずれは土に返っていくのだろう。お婆さんは囲炉裏に枯れ枝のようなものをくべ、火を熾した。具の少ない豚汁にご飯を混ぜたような物を木の器に盛り「け」と言って私と彼に差し出した。私も彼も、大人しくそれを食べた。贅沢ではなかったが、優しくて、眠たくなりそうな味をしていた。「これ、でざあとだ」お婆さんは慣れない外来語をくすぐったそうに口にし、器と同じような皿に干し柿を二つ載せて寄越した。次の朝、目を覚まし外に出てみると、田圃も目の前の山も銀色に輝いていた。私は彼を呼んだ。しかし、彼もお婆さんも家中を探したのに見つからなかった。泊めていた筈の彼の自転車も無くなっていた。縁側の下にはタバコの吸殻と、干し柿のヘタが落ちていた。かけおちだ。次の瞬間、私は街へと全速力で駆け出していた。
背が低くて内気な私は大柄な女性に密かに憧れている。できれば青い目で日本人男性くらい肩幅があるとなおいい。ヨーロッパ系よりアメリカ系の明るい感じが理想だ。歩きながらキスして、笑いながらキスして、ビールを飲みながらキスをして、夜になれば、唇どうしの微かな触れあい、ディーップキスそして…… うーん、私はその場にそぐわない。でもあこがれの思いはいつも果てることはない。 話すことが苦手で女性にもてた事がない小生は、つい女性を見つめてしまう。いい男ならば見つめられた方もきっと嬉しいのだろうが、私に見つめられた女性の大半は実に不快な顔をして目をそらす。下手をすると睨み返されるか「何見てんだこの爺々!」なんて最近は暴言まで吐かれてしまう。見つめないようにしようとするのだが思えば思うほど凝視してしまうのだ。自分でも思う。変態だ。ところでかれこれ十年近く会っていない友人から連絡があった。会いたいという。声色が何か切羽詰った感じがしてご遠慮願いたかったが、久方の連絡の割には相変わらず強引で仕方なく会うことにした。原宿表参道のGAPの前で待ち合わせしたが、なかなか奴は来ない。それにしてもこの街は私には刺激的すぎた。なにせ凝視してしまいたい大柄な素敵な女性達が集まっている。そして途切れることなくそんな女性達が次々とやってくる。小さい私は埋もれてしまいそうな劣等感と、自虐的興奮からか、横目で次々と女性達を覗き見してしまった。「変態!」後ろから突然声がして私は背を丸めて怖じ気づき、他人事のようにその場を立ち去ろうとした。が、「逃げるのか、変態!」と二度まで言われ、小心者ゆえ、終に観念した。叱責した相手は大柄な女性で私好みだった。しかも日本語を喋っているのに目が青い。しかしその目は私を睨んでいる。警察沙汰を覚悟し落ち込んでいると、やがてその目は優しくなり、白い歯がこぼれ、「相変わらず変態だな」と聞き覚えのある声になった。なんと奴であった。私はなんとも恥ずかしい心持だったが、警察沙汰から開放された安堵感とともにこの日が来ることを内心欲していた自分に気がついた。思えは小学校のときから高校まで勇作は私のあとをつけまわし、事あるごとに私に触れようとした。気味悪がったこともあるが、中学、高校にもなると感覚が麻痺してきた。勇作を忘れるように、私の女性の趣味は大柄に限るようになった。私はきっと怖かったのだろう。
若い頃は酒を飲んだ次の朝、見知らぬ場所で目を覚ますことがよくあった。歳をとってからは、そこまで酒を飲めなくなった。ところが昨夜は体調が良かったためか、久しぶりにその失態をやってしまった。気がつくとベッドの上に素っ裸で転がっていた。覚えのない部屋で、覚えのない女が、下着を身につけているところだった。「おはよう」と声をかけると、女はこちらを振り向きもせず、「昨夜はたいへんだったんだから」と愚痴をこぼした。「店の人に頼んで、一緒にタクシーまであなたを運んでもらったんだから。もうあの店に行けなくなっちゃったわよ」「それはすまなかったね」 と、おれは無感情に詫びた。タクシー代はいくらだったのかと聞くと、女は、「来月のお小遣いからちゃんとひかせてもらうわよ」と不思議なことを言った。女が訳のわからないことを口にするのは、本能のようなものだろう。さして気にもとめず、「じゃ、そろそろ失礼するよ」とベッドから立ち上がった。 女はおれの方に向き直って、「失礼って、日曜日の朝にどこに行こうっていうのよ?」 と、うんざりしたように尋ねた。おれは、はじめて正気で見る女の顔を値踏みしながら、「そりゃ、自分の家にさ」と答えた。 女がまた何か言いかけた時、十歳前後の女の子が部屋に入ってきた。目を擦りながら、「パパ、ママ、おはよう」と言った。どうやらまだ寝ぼけているらしかった。おれを父親と間違えるところを見ると、女はごく最近、亭主と別れたのだろう。 すると女の子はおれの手をひっぱり、「パパ、ビデオが動かないの」と言った。おれは、嫌な予感がした。 居間で朝食をとる間、おれは二人を驚かせないように注意しながら、じっくりと話を聞いていた。どうやらこの女の亭主はおれで、女の子はおれの娘らしい。おれは罠にはめられているのだろうか。それともおれは酔っぱらっている間に家庭を作り、今朝、ようやく正気に戻ったというのだろうか。いずれにしろ、面倒なことには違いなかった。 おれは冷蔵庫からビールを取り出し、胃の中に流し込んだ。妻が、「昼間から、また・・・」と小言を言った。おれは嫌がる娘を膝の上に乗せ、一緒にアニメのビデオを見始めた。 やっかいごとは、解決を試みるよりも、はやくそれに慣れてしまうのに限る。それはおれが歳をとってから悟ったことだった。
いつから始まったのか分からない。だけれども、確実に私の心を侵している。誰がどうやって、ここまで黒ずませたのか。益子がやってきた。 たぶん今、私の笑顔はひどく引きつっているだろう。「おはよう!」…「おはよう!」なんて苦しいんだろう。これまで半年以上同じクラスで毎日のように顔を合わせ、挨拶を交わし、笑顔を交わし、手紙を何枚も交換した。だからこそ、この気持ちが痛い。 益子直美はこの高校で出会った友達だ。背が低く小柄、少し出っ歯。今はその全てを嫌う私がいる。何かされたとか、そういうわけじゃない。それが余計に腹が立つ。「ねえ。今日どうしよう、数学と古典のどっちの補習でたらいいかな?」自分で解決できるようなことを聞く。かと思ったら、「あ、ごめんやっぱり、なんでもない。自分で考えろ、だよねー。」と言い始めるから、また私は腹が立ち、教室からトイレに向かう彼女を睨んだ。小さな後姿が気に入らない。今度話しかけてきたら思いきって無視してやろうか、と考えていたら、始まりのチャイムが鳴った。生徒達は席に着き、私たちは退屈な一時間を増やす。ここでは大多数の人が暇を感じないように、忍耐をつけてしまわないために、この一時間をどうにか埋めてしまおうとする。 高橋君が飛行機を折り始める。水野君は携帯をいじる。橋本さんは手紙を書いて…先生は何かを大声で訴えている。こんな時、益子が気になってしまう。彼女は長く赤い髪の毛をかき上げつつノートを懸命にとる。私は終わりのチャイムが鳴るまで彼女を睨んでいた。 あっというまに昼休みがきて、パンを買いに一階に下りていく人の群れを見つめることになるだろう。そういう四時間目の始まりだった。 私の所へ小さな箱が回って来た。綺麗な水色で、深い青色の細いリボンが何十にも巻かれている。開けるといいにおいがした。目に数字が飛び込んできた。10、28…今日、私の誕生日の日付型のクッキーだ。箱には手紙が入っていた。…益子直美より、と書いてある。私は三列挟んで向こうの一番前の席に座る益子を見た。彼女はこっちを向いて、照れたように笑った。目に涙が浮かんで、前を向いた。それからもう、彼女の目が見れなくなった。 私の心はもちろん自分自身に侵された。ひとりでここまで黒ずんできたのだ。蓋を閉めても溢れるクッキーのにおいが私を包んだけれど、たとえこれを食べたって、もうどうやったって戻れない気がした。
彼女の生まれた時に母となるべき人は彼女の命と引き換えにこの世の人ではなくなり、それを苦に彼女の父となるべき人は自殺した。親類のない身寄りのない彼女はカトリック教会の孤児院へ引き取られた。彼女が少女になるとその美しさは花開き、司教や僧達は彼女に魅せられ誰もが彼女の虜だった。尼達はその男共を虜にする美しさに嫉妬し、彼女に辛く当たり人一倍の神への奉仕をさせるのだった。食事でさえ余り物を与えられるだけだった。ついには僧達、司教でさえも彼女への肉欲に耐えられず、こそこそと彼女を自室へ招き入れ犯すのだった。初めの内それは男共の秘密の内緒のことであったが、しだいにそれは公のこととなり、ついには数人の男共に輪姦されるようになった。そのことで尼達の彼女の扱いはさらに酷くなり、肉欲の象徴として蔑まれるようになった。彼女の味方は誰一人いなかった。それでも彼女は境遇を恨むことなく、日々与えられる労働や残飯に感謝し、神を父とし聖書を心の安慰とした。彼女は毎日のように続く姦通により誰のとも知れない子を身篭った。その子を彼女は忌むどころか神からの授かり物とし、歓喜するのだった。しかし尼達は彼女の実を案じるどころか、腹が大きくなるにつれ、ついに残飯さえも与えようとしなかった。彼女は夜中にこっそりと井戸の水を飲むばかりであった。そんな生活にも負けず、むしろ神々しいばかりに彼女の美しさは日に日に増していくようだった。男共にとってもはや彼女は人間ではなくなり、性欲の捌け口でしかなくなっていたので、腹の大きさなど気にも留めずに、むしろ神々しいばかりの美しさに余計に肉欲をそそり、毎日のように彼女を犯すのだった。毎日のように犯され、食事も与えられず、神への奉仕としての労働の為に、彼女は流産してしまった。それを気に病むばかり彼女は床に臥せってしまった。それにより、労働からは免れたが、食事は与えられず、彼女の元へ押しかける男共は相変わらずだった。もはやこの教会に神は彼女の内にしか存在していなかった。彼女はしだいに痩せ細り、ついに聖書を胸に抱いたまま静かに息を引き取った。彼女は息を引き取るまで、恨み言も、愚痴の一つも言わなかった。彼女の遺体は墓場の隅に無造作に埋められ墓石も立てられなかった。まるで初めから彼女など居ないかのようだった。彼女は聖女だったのか、それともただの愚か者だったのだろうか。