「はーっ・・・。」溜息が屋上の金網の外から、その温度差のせいで白く曇る。誰もいないこの空間だけで落ち着ける自分に腹が立つ。現実では上司も友達も会社も全てが嫌だった。誰も自分の事を考えてくれない。エゴにはもううんざりだった。せめてほっといて欲しかった。そんな社会も人も全部関係ない世界へ行きたい。 そんな与太ごとを考えながらも、その世界へ向かう準備は淡々と進んでいた。靴も揃えたし、律儀にマンションも解約しておいたし、会社は・・・まあ、やることはやった。後はいつあっちへ行くかだけだった。そう思うとこの世界に少し懐かしさがにじみ出る。この世界で生まれて、この世界で育ち、この世界で苦しんで、そしてこの世界から逃げ出す。「思えば苦労ばっかだったなー俺の人生。」しみじみと噛み締めてみると自然と頬を伝うものを感じ、それはやがて冷たく冷え、そっと自分の心を締め付ける役割を担う。そしてしばらくその感傷に浸る事に心地よささえ感じた。「そろそろか」未練は沢山あったが、この選択に間違いはないと自信さえ感じている。いや、この選択肢しか残されていなかったからか? そう思いながらも、気が付けば自然に風を体に感じる事が出来ていた。時間で言えばほんの2、3秒くらいだろうか。その間にもありきたりだが記憶が走馬灯になって表れ始める。実に想像していた通りの記憶ばかりだ。「みんな同じ道を通ってあっちに行くんだな。」しみじみと呟くや否や、今まで体験したことの無いような衝撃が体を走る。「グシャッ」それと同時にテレビの電源を切った時のように、「プツン」となにかが切れるのを感じた。周りに「きゃーっ!」という雄たけびが響くと共に、周りには野次馬たちがどんどんと群がってくる。しばらくするとお決まりの様に救急車が駆けつけてきてくれた。そして大事そうに僕の体を救急車にそっと積み込み、急いで病院に運んでくれた。しかし健闘空しく、僕は死んでしまったらしい。 その後は段取りもよく僕という存在を消し去るための作業が淡々と続く。葬式では普段自分のために涙を流さないやつらが、その場の雰囲気に流されて泣く。こいつらは涙の本当の意味を知らない。そう思いながらもやっと重大な事に気が付く。なんで俺まだここにいるんだ? どうやら俺の行くはずだった世界は無かったらしい。この世界にはどこにも逃げ場が無かった。ただ、少しだけ楽になった気がした。
※作者付記: この作品は今テレビでも多く流れている自殺する子供の気持ちを考えて書いてみました。作品自体はサラリーマンの社会に耐えられない自殺という形ですが、本来自殺というものは心の弱い人なら誰でも考えうる「逃避」の一部であり、珍しくは無い考え方のはずであります。それを小説に表現してみたかった事と、私自身「死後」の様な空想の世界が好きで、そこも表現してみたいと思いこの作品を書いてみました。
「君が相部屋をしてもらうのは彼女だ」そう言って院長は彼女を紹介した、ベッドの上で本を読んでいた少女はドアを開け入ってきた僕と園長を一瞥するとまた手元の本に目を落としていた「それでは二人とも仲良くするんだよ」院長は僕を残し部屋を出て行った僕は出来るだけ愛想良く会話を試みた「こんにちは」すると彼女はこちらを見もせず枕元においてあったメモ帳を取り出しボールペンがその上を踊った『こんにちは』ボールペンの足跡は僕に対する返事をかたどっていた彼女の喉はすでにその機能を失っている聞いてはいたがこうして筆談されるとなんとも言えない気分になってくる「僕は榊」続けて君の名前は? と聞こうとか思ったが彼女がまたペンを走らせた彼女の発言には時間がかかるので待つことも大事だと教えられていた『榊←あってる?』「そう、その榊。君の名前は?」彼女は眉をひそめ僕をじっと見る何か不味い事を言っただろうか『聞いてるでしょ』あぁそういうことか確かに彼女はここでは有名人であり外来の客ですら名前を知っているほどだった相部屋の相手である僕が知らないはず無いというわけだ「そうじゃなくって、こういう挨拶は本人から聞かなきゃ」彼女は僕から目を逸らした何か考えているようにも、何も考えていないようにも見えるしばらくして彼女の言葉を司るペンがまた動き出した『俗世界との隔絶を図るため名前は捨てた』…どういう意味だろう?少なくとも僕の知っている彼女の名前はこんな長ったらしいものではなかった「よく意味がわからないんだけど」『俗世との離脱は常識や概念、習慣を捨てる事から始まると私は思う、自己紹介などもってのほか』よくこんな小難しい言葉が出てくるなと思いあることに気付く「でもさっき僕に挨拶し返してくれたよね、それはいいの?」…彼女は目を瞑るとそのままにペンを走らせた彼女の指が紙の上を舞う『まだまだ修行が足りない』困ったような笑顔を僕に向ける彼女気恥ずかしさからか微妙に頬が赤い僕は正直に言ってこのとき彼女に見とれていたそれはとてもいつ死ぬかわからない人間とは思えず僕は明日もこの笑顔が見れればと思っていたそんな矢先彼女は血を吐き倒れあっけなく死んだ沢山の人が雪崩込むように部屋に入り彼女を連れ去っていったその時、僕は彼女が咳き込むのを呆然と見ていることしか出来なかった彼女と過ごせたのはほんの数分間で僕の手元に残ったのは彼女の言葉だけだった
外に出ると一面の白が目に眩しく、そして突き刺さるように痛かった。 地面もそこから生えている木々も白に覆われて、自分が吐く息さえも白い事に気が付く。 更には空からも白の大群がゆらゆらと舞い降りていて、息が詰まる感覚に襲われる。 風に煽られて顔にかかる雪が、埃っぽい匂いと共に横切った。 「雪は空気中の水分が、埃を纏いながら凍ったものなんだよ」 未だに覚醒しきっていない頭が、ふとそんな言葉をリフレインした。 確か教えてくれたのは、隣に住むコウちゃんだ。 コウちゃんは隣に住む3歳上の幼馴染で、本名はハセガワコウジ。暇さえあれば毎日一日中一緒に遊んだ仲である。 コウちゃんは理科が得意で、遊んでいる最中によく理化学的なことを教えてくれた。 それらが本当なのか嘘なのか、今も昔も科学が苦手なあたしには解らない。 だからあたしはそんなコウちゃんが格好良く思えて(未だにインテリ男が好きなのはその影響かもしれない)憬れていた。 そして同じ歳になれば同じ目線で物事が考えられるものだとずっと思っていたのだ。 だけど当然の事ながら、あたしがコウちゃんの考えている事を隅から隅まで解ることはなかった。 そしてコウちゃんが中学に上がる頃になると、あたしたちは一気に疎遠になった。 よくある話だ。 それを寂しいとは思わなかったし、あくまで自然な事だと理解していた。 ――……筈だった、のに。 コウちゃんの優しい声だとか、やわらかい笑顔だとか、どんどんあたしと離れていく身長だとか、数えだしたらきりが無いほど多くの愛しい欠片たちを思い出すと、不意に泣きそうになった。 解っていた筈だったのに。 『憬れ』なんて、そういう類の感情ではなくはっきりと、コウちゃんが好きだったのだと。 寂しくなかったのは本当だ。遊びに行こうと思えばいつだって遊べる距離に居たし、何よりあたしにはきらきらと輝く想い出があった。 だけどそれを、たくさんの気持ちと一緒に埋めてしまったのは、あたし自身だ。 どうしても埋められない距離を誤魔化すように、蓋をしたのだ。 「戻りたい」と、願ってしまうから。 いつの間にか立ち止まっていた事に気付いて、徐に歩き出した。 そうしてきっとこれからも、歩いていくのだ。 昨日コウちゃんとその彼女が繋いでいた手に、昔の自分とコウちゃんを重ねながら。 もう戻れない真昼を、思い描きながら。
※作者付記: はじめまして。「蓋をした恋の蓋が開く瞬間」を目指して書きました。一年前の作品なのでかなり未熟ですが、敢えてそのままにさせて頂きます。
同僚の遠藤君は自衛隊を55歳で定年退官した男で、磊落で面白い奴だ。小柄だが甚だ活動的で、やや前のめりに歩く姿には精悍さが漂う。酒について言えば、明らかに強そうに見えた。しかし彼は酒の誘いには一度も絶対に応じたことがない。これについては一年前に初めて会ってから程なくして気がついた。あれほど周囲に人気のある男の対応にしてはやや不自然にさえ思えていた。彼についてはもう一つ気がついたことがある。彼は時折親しみのある笑顔を見せるのだが、その中になぜかペーソスを感じさせるのだ。目の表情にそれを覚えた。あの新潟の大地震の当時には、旧山古志村への救援隊の一部隊を指揮した事もあると聞いたし、棒を持たせれば巧みに操って銃剣道やゲリラ攻撃のまねをしてみせる。声も大きくて、下ネタを含めた面白い話題を提供しては皆を笑わせる。しかし私はその笑顔にいつもペーソスを感じていたのである。昨年暮れの事であった。年末調整の数字を申告するためにパソコンに向かっていると、デスクの向こう側で彼が操作に戸惑っているのを見てあれこれ教えたことがあった。その際の会話から、彼には身体障害児の居ることが分かった。彼にペーソスを感じた理由はこれに違いないと思った。2007年が明けて仕事が始まった。その二日目、私は車両の出発に備えて待機室でまどろんでいたが、同じく待機中の二三の同僚達の話し声に混じって彼の話し声が断片的に聞こえてきた。もともと彼は声が大きいのだが、敢えて大きくしているようにも思えた。「うちの娘は障害児だ。娘は階段の昇り降りに手間が掛かるのだよ。特に下りは全く出来ない。足にも障害があるから。だから退職金で家庭用のエレベーターを入れたのだ。これで随分助かっている。「娘は24歳になるけど、生まれて数ヶ月で痙攣を起こして、脳みそはその時のままだ。「俺のお袋は元気だけど介護無しには暮らせないから、障害者が2人いるようなものだ。「女房はこの2人にかかりきりの毎日だ。「だから俺は仕事が終わったら出来るだけ早く帰るようにしている。女房がそうしているときに、こっちが酒を飲んでたり出来ないよ。だから俺は酒を飲まないのだ。全部断っている。彼がいつか、頑として酒の誘いを拒んでいた理由と、制服から私服への着替えが一番早い理由がこれで分かりすぎるほどよく分かった。話し相手の同僚は言葉も無く、一言二言問い返した後は、ほぼ沈黙していた。