家族が寝静まってから、わしはこっそり抜け出した。途端に、体にまとわりついていた熱気が冷やされた。家の中でよどんでいた頭が解放されて、夏特有の匂いに包まれた。山際から微風が巻き起こり、浴衣の裾を微かにくすぐる。カランコロン。紅い鼻緒のついた下駄の音。敷地内のコンクリートに響くので、誰かに気づかれやしないかと思わず辺りを見渡したが、誰もいやしない。「ふ。ふふふ、いるはずないか」ふいっと、入れていた力が徐々に抜けていく。何にも無い田舎町。他の町とは隔離されていて、他所からくる者なんて滅多にいない。たまに来ても、通り過ぎていくだけで、立ち寄ろうなんて思う者は、余程の物好きか変わり者だけだ。夜の闇、広がる満点の星の中でひと際明かりを受けた月が、稲の隙間からこぼれて揺れている。 わしがコンクリートと土の境目で亡霊のように佇んでいると、田んぼのあぜ道から近寄ってくる黒い影があった。その気配はどこか異様でわしは息をのむ。(誰だろうこんな時間に出歩く者は)黒い影の下、ぽうっと点いた弱い灯りが無数に動いている。目を凝らすとそれはどうやら無数に集められた蛍の様だ。「誰や!」わしが必死の思いで声を振り絞ると、黒い影はわしの直ぐ傍まで音も無くやってきた。不気味な気配で無言のままこちらを見る。暗がりに目が慣れてきて、黒い影の正体は大人の男だと分かった。小汚い布を無理やり身体にまとっている風で、腰を縛る帯はわらで編まれた縄だった。格好も異様だが、その顔は山の獣のように毛で覆われていた。目だけ白いから浮きだっている。「誰や!」もう一度必死の思いで問うと、男は静かに言葉を発した。「プス〜よ、よよよ・・・・・・り、りりき・・・・・・プス〜」男の声はまるでどこかから漏れているみたいだ。「よりきというのか?」「プス〜あ、ああ・・・・・・」男の首には包帯が巻かれていた。「それ、どうしたんや?」わしが思わず聞くと、男は蛍袋を持たぬ方の指で首を突く仕草をした。「え、突き刺したんか?」「あ、あああ。かあちゃん、が・・・・・・プス〜」『かあちゃん』はドモっていない。男に対する謎がわしの頭を駆け巡る。だが、あまり長居すると男の不気味さに飲まれそうで怖かった。「そろそろ、戻るよ」そう言い残し男を背にして歩き出した。「プス〜ま、ままままた・・・・・・また、ね」背後から男の声は聞こえていたが、わしは聞こえない振りをした。
「一歩前進」と、タイルに貼ってあるのを見るたびにウィットを覚える。掃除する人への良い心遣いだなと納得しながら目を落としたその時、善雄はいつもと違うものを見た。真っ白いタイルに、赤いものが落ちたのを確かに見た。夕刻、退社前にもう一度一歩前進。間違いない。その最初だけ血液が落下する。不安をよぎらせながら帰宅した善雄がすぐに開いた「家庭の医学」もネットの医学サイトも、その兆候は癌であることを告げていた。癌!来るものが来たか。だが、まだとても妻には言えない。もう少し様子を見てからでいい。しかし、翌朝の一歩前進は、昨日よりもその兆候をはっきりと示していた。その日帰宅してみれば、善雄の世界は変わっていた。否、善雄の世界だけが変わっていた。テレビを楽しむ妻や娘がよそよそしく見える。「もう俺は別の世界にいるのだ。あのふたりとは別の世界だ。」翌朝の駅。ホームに向かうエスカレーターを降りながら、善雄は左手を見ていとおしく思った。「この手ともお別れということか。」にがい感覚が頭をよぎる。「そうか。俺って、死ぬんだなぁ。」善雄は数日前の穏やかな秋の休日に大学2年の娘の菜穂子とパズル絵で遊んだ。最後のひとかけらを、菜穂子は、組み合わせに熱中していた父に渡して花をもたせ、それに気づいた善雄は、娘も大人になったと、思わぬところで得心した。しかし今の善雄にはそのひと時がはるか以前のことに思えてならない。それこそ別世界に思えてならなかった。平穏な時は過ぎ去ったのだ。検査を受けることにした。善雄が打ち明けた時、妻の一枝は少なくとも表面上は落ち着いて受け止めた。知合いの医師が有能な専門医を紹介してくれたので、順番はすぐに来た。結果は一週間後。その夜、読みなれている聖書の文字がやたら大きくみえる。善雄は、総決算の時が来たと観念した。「死は終わりではありませんよ。」今まで人に話した事のすべてが思い出された。思いがけなく、あるクリスチャンの葬儀に参列したのは結果の出る前日であった。肝臓癌で逝ったその社長が凛とした信仰に立っている姿に善雄は病院で接していた。平安に満たされた感動的な葬儀は善雄から検査結果への恐れを取り去っていた。「どちらでも良い。」「癌ではないですね。遊走腎でしょう。」専門医のことばに不覚にも善雄はほっと肩をなでおろしたが、病院を後にしながら善雄は、果たしてどちらが良かったのかと考え続けていた。
益田は高校の時の同級生だ。俺は大学に進学して益田はフリーターになったが、それでも交流は続いていた。持ち前の気前の良さからか、俺の大学の友人ともすぐに仲良くなって、気がつけば大学生でも無いのにいつものグループの中に入っていた。飲み会に参加した後、バイクに乗ってまんまと事故ったらしい。対向車線のトラックに突っ込んだから、きっと痛みすら感じる事無く死んだのだろう。音楽がとても好きなヤツだった。フリーターになったのも、バンド活動を本格的にやるためで、一月に一度ライブハウスを借りてライブを行っていた。 乱雑にいろいろなモノが溢れている部屋の隅、使い古したギターが丁寧にスタンドに立てかけられていた。主の居なくなった部屋を片付ける為に友人達とやってきたのだが、それを目にして作業していた皆の手が止まった。 益田の母親は亡くなっていて、父親とは勘当状態にあったそうだ。その父親は、部屋の荷物は全て捨ててしまって構わないと言ったらしい。実の息子の形見を一つも欲しがらないなんて、なんて父親だろう。そんな父親だから息子はこう育ったのかもしれないけど。「おい、どうするんだよ。このギター」「棺桶に入れてくれって父親に渡せば良いだろ」「馬鹿言えよ。これが原因で勘当状態になったってのに渡せるかよ」「葛城、お前が持って帰れよ」「何で俺なんだよ」「お前が一番、益田と仲良かったじゃん」「関係ないだろ、そんなの」 結局、多数決のような場の雰囲気から逃げ切れず、ギターを持って帰る羽目になった。 自室に戻り、一緒に貰った小さいアンプにギターを繋いで一指かき鳴らすと、安い機械音が部屋に響いた。 益田、これで良いのか? こんな安い機械音が、お前にとっての全てだったのか? もう一度、指を弦に流す。夜の漆黒にノイズが混じる。「おい、答えろよ……」 思いが、そのまま言葉に漏れた。「益田……」 これで、良いのか……? こんなにもしょうもない俺たちの毎日の中で、お前はその日常を切り裂く為にこうしてノイズをバラまいていたのか? こんな事が、お前の全てだったのか? 俺たちは、このままで良いのか……。 益田の事を思えば思う程に滑稽に感じ、指を動かせば動かす程に響き渡るノイズが心地良い音色のように聴こえた。 変わらないグダグダな毎日を変える為のノイズを、俺達は必要としていた。
「弘樹っ!弘樹っ!弘樹ィ・・・!」何度のその名を叫び続けただろう。僕の声は響く事もなく、真っ白な病室の壁にむなしく吸い込まれていった。それでも僕は叫び続けた。やめなかった。やめれなかった。お母さん、なんでそんなところで見てるの?弘樹のお母さんもなんでそんなに泣いてるの?早く否定してよ。 ―声が枯れきったころ、僕は不意に腹立たしさを覚えた。「何で返事しないんだよ!?起きろよ!なぁ!弘樹!」弘樹の細くなったように見える肩を揺さぶる。でも、弘樹の首はとれてしまいそうに、垂れ下がるだけだった。 すると、それまで何も言わずにじっと僕の様子を見ていた母が僕を弘樹から引き剥がした。「健太!やめなさい!」僕は母の手をふりほどこうともがいた。「なんでだよ!なんでだよォ!」僕は枯れた声で必死に叫んだ。しかし、母は僕の両肩をつかみ抑えつけた。「健太!健太!聞きなさい!弘樹君はね――」言うな。言うな。言う・・・「死んだのよ。」やめてくれー・・・。病室に弘樹のお母さんの大きな泣き声が響き渡った。お母さん、弘樹死んでないよ。そう言おうといたが無理だった。声が出ない。僕はがっくり膝を折った。 それから1週間、僕は放心状態で過ごした。テレビゲームさえもしなかった。マンガだって読まなかった。 そんな僕を見てみんなは言った。「そんな健太を見たら弘樹君は悲しむよ。」そんな言葉で元気になれるわけがなかった。弘樹は、弘樹は、僕が殺した・・・。弘樹は学校で飛び降り自殺をした。いじめによる自殺だった。弘樹がいじめられているのを見て、まるで今まで親友でもなんでもなかったように弘樹を無視したのは僕だった。せめて、いじめを一緒に立ちむかう僕がいれば、今弘樹はどうしてただろう。考えても無駄だった。もう終わったことだった。 そんな時、前よりずっと痩せてしまった弘樹のお母さんがやってきて僕に渡した、薄い封筒を。「健太へ僕、もっとずっと健太といたかった。健太は自分のこと責めてるのじゃないかな?僕が気にしてないって言っても、きっとダメだよね。僕は、健太を許す。これからも永遠に僕たちは親友だから。約束して。弘樹より」別れにしては短かったが、僕には充分だった。僕は、泣いた。ごめん。ごめん。謝り続けた。ありがとう。ありがとう。 僕は外に出て人目も気にせず空に叫んだ。「当たり前だ!」涼しい風が僕の横を通り抜ける。心の重さと一緒に。
※作者付記: 後半のまとめ方が無理やりでごめんなさい。
板一枚上は地獄。 クーラーをどれだけ効かせても、天井からじりじりと熱が伝わってくる。 燃えているんじゃなかろうか。 バッテリーはどれだけ保つのだろう。 そもそも、今の今まで保っているのが奇跡だ。 渋滞の列が全く動かなくなって、もう一時間。 ラジオを付ければ交通情報は流れるのだろうが、この列の長さが百キロではなく百五十キロだと分かったところで、どうなるものでもない。 助手席の女房が何か言っている。 女は喋るとストレスが解消されるんだそうだ。 その節が本当だとすれば、メタルなんたらで言っていた口からクソを垂れるって言葉は、今のこいつにこそふさわしい。 後ろで子供がぐずっている。 泣けば何かが解決すると思ってやがる。 一体、泣いたからって何かが解決した事があったか。 いじめられて、殴られて、そんな時に泣いたら相手は余計に喜んで殴り続ける。 泣いて頼んでねだって、そんな風にして手に入れたモノは、見るだけで反吐が出そうな記憶と抱き合わせにならないか。 泣くことに何の意味があるものか。 女房がまたクソを垂れている。 抜け道はないのか? いつになったら動くのか? どうして動かないのか? 知った事か。 やっぱりもっと早く出るべきだった? ご高説ごもっとも。 だったらお前が運転しろ。 車から足が生えて、全長十八メートルの巨大ロボットになって、他の車を踏み潰してくれるって秘密のボタンを知っているのなら、オレは死ぬまでお前の奴隷になってやってもいい。 足に血が溜まると血栓になるとか言ったな。 だからって、コーラを飲む理由にはならん。 今のコーラにはコカインなんて入っちゃいないのに、どうしてそうガブガブ飲むのか。それとも、もっと他の何かが混入でもされているのか。 そうでなけりゃ、だぶついた腹を揺すりながら、体重が気になるだの、健康がどうだの、神妙な顔で言うような、脳の腐り方はしないか。 前の車は、男が一人で運転している。 椅子を思い切り倒して、靴を脱いだ足をハンドルに載せて。 畜生、うらやましい。 一体、どこで間違ったのか。 間違っていないのか。 少なくとも、答えを出せる程、出した答えに従える程。この運転席は広くない。 ハンドルぶっ壊して、椅子倒して、カーセックスでも始めればロックになるのか、詩にでもなるのか。 板一枚に囲まれた地獄が、百五十キロ連なる。 ああ。 まだ、四分しか経ってない。
「毎度どうも〜」お兄さんはハンコを押すとダンボール箱を置いて帰っていったこんな夜更けにご苦労なことだ「何か届きましたよ〜」「んぁ〜」先輩は相も変わらずやる気が無い「え〜と送り主は…ありゃ無記名だ」早くも胡散臭い…「爆弾だったりして」怖い台詞をボソッと言わないでほしい…ガムテープにカッターで切り込みをある程度いれ残りは力任せにこじ開ける?中から出てきたのは白い箱「なんだこれ…」よく見ると単なる正方形ではなく天辺にアクセントがついていた具体的に言うとデジタル時計ピッピッピッと数字が減っている…あれーこれは、箱型時計?このままいくと12時ごろには時間切れ……脳がようやく正常に動き出した110番に電話しながら僕は叫んだ「せんぱーい!」「んー?」眉毛をハの字にしながらたずね返して来るけれど僕はそれどころじゃない「ばっばくば爆弾です!」我ながらわざとらしいぐらいのたどたどしさだった「それじゃぁ解体しないと」WHAT?心の異人さんが出てきた今もHAHAHAとか高笑いをしている「いっちょやって見ますか」工具を持ち出してやる気満々の先輩を電話を放り出して取り押さえた「何考えてんですか!」「解体…」「専門家でもないのに出来るわけないでしょう!」「んな事言ってる時間無いよー?」えがばっと振り返ると箱の上の数字は残り約30秒を指していた窓から放り投げたかったがビッチリ雨戸が閉めてある「うぉぉお!」叫ぶと僕は無我夢中で動いていた箱を持つとたたんだままの布団に突っ込み更にその上に覆いかぶさった願わくば五体満足で再起できますように!覚悟を決めて目を瞑るそして最後の電子音が聞こえた瞬間はっぴばぁすでぇつぅゆぅ〜♪先輩の演歌調が布団の中から聞こえてきた「誕生日おめでとー」コレでもかというぐらいの笑顔で先輩が見下ろしているは?「誕生日にサプライズ…あぁなんていい先輩なのあたし!」をい、まさか…「けど身を挺して守ろうとしてくれるとはねー」おかしくてたまらないという先輩無性に腹が立つ拳骨の一つぐらいはお見舞しても問題ないというかむしろ相手の為だよね『ウーウーウー』ほらパトカーも先輩を逮捕しに…パトカー?『ドンドンドンドンッ』「爆弾はここですか!? 開けてください!」呆然としている先輩謝罪と一緒に先輩にはどの程度の爆弾を送るべきか真剣に考える僕誕生日はこれから24時間あるがとてもいい日になるとは思えなかった
ピシャリ――群がる薮蚊を退治しながら、僕は一人、夜の墓場に蹲っていた。 夏休み最後の思い出に肝試しをやろうぜ――言い出しっぺの僕は、待ち合わせ場所の墓地へ一番乗りしたのだが、約束の午後九時を過ぎても、一向に誰もやって来ない。やって来るのは薮蚊ばかりだ。叩いても叩いても、わんわんと群がって来る。もう何匹、殺したか判らない。百匹は下らないだろう。 最初は皆、ノリノリだった。ところが、場所がこの墓地だと聞いた途端、渋り出した。 理由は判っている。遊び半分でこの墓地に立ち入った者は必ず霊に取り憑かれ、家まで連れて帰る事になる――誰が名付けたのか、『お持ち帰り霊』と云う噂の所為だ。 バカバカしい――僕は薮蚊と格闘しながら、皆のケータイに電話を掛け続けた。 新学期が始まっても皆、僕に余所余所しかった。約束をすっぽかした事が気不味いのだろうが、僕の方から進んで話し掛けようとも思わなかった。あの夜、痒みに耐えながら二時間以上も待ち続けた意地もあったが、それ以上に、例の噂を端から嘲笑っていた僕は、皆とは別の意味で気不味かったのだ。 ピシャリ――もう木枯らしが吹き始めていると言うのに、僕は相変わらず、お持ち返りした百匹以上の小さな霊と格闘している。
朝目覚めたら、ボールペンで精密に落書きをしたみたいな線の男が、小さなテープレコーダーを持ってベッドの上でふわんふわんと躍っていた。「なに、しているんですか」陽気な雰囲気とは反対に、男は顔色ひとつ変えずにふわんふわん躍る。僕が問うと男は口からビー玉をいくつか吐き出して、それ等は聞き慣れない音をたててベッドの上に散らばった。見たことのない色味のビー玉は、ひとつひとつがそれはそれは奇麗で、赤みがかった紫や、青にオレンジが溶けたのなんかは、この世の物とは思えないくらいに、吸い込まれるように美しかった。「奇麗ですね」ラジカセからはコーランのようなメロディが流れ、男はくねくねと躍り続けている。たまに女性のような体つきになって胸が膨らみ、それが膝の辺りにスルスルと移動したりと、奇妙奇天烈な色香を振り撒いていた。ボールペンの線で造られた身体のライン。線と線の向こうにカーテンと観葉植物が見えた。男はビー玉を口から滝のように零し始めると、眼をぐるぐるぐるぐると回転させながらコーランに合わせて、さっきよりも速くスピードを上げ、くねくねくねくねと躍り始めた。「あの、そろそろ僕、出掛けますね」止まる気配の無い躍りとビー玉を横目に冷めたコーヒーをすすりながら、先日丁寧にアイロンがけをしたパステルピンクのシャツを着て、またコーヒーをすすりながら、少し光沢のある濃いムラサキ色のネクタイをしめて、とりあえず戸締まりをしてのんびりと靴をはき、脱いだスリッパを几帳面に揃えて部屋を出た。静かな空気は朝の匂いで、僕に愛しさと空虚さをなすりつけた。見上げた空は青にオレンジが溶けてあまりにも奇麗で「こんな日もいい」無声音で呟き、僕は目を綴じてその中に沈んでしまいたくなった。ふと、ソーダ水の香が脳に溢れて、夏の気配を鼻先で撫で上げた。
ぼくの世界は生まれつき変で、いままで百何人もの幽霊を見たし、視界がいつもオレンジ色の夕暮れ時だから、ぼくはオレンジ以外の色を知らないんだ。 今朝もベッドでぱっちり目を覚ますと、天狗が空中に浮かんでいて、ぼくの鼻に自分の長い鼻をあわせてぐるぐる回ってる。ぼくが天狗の鼻をむんずと掴むと、天狗はそのまま回り続けるからどんどん鼻が捩れてくる。 べきんっ。 と、もの凄い音がすると天狗の鼻が折れ、天狗は「あ〜れ〜」と回転しながら部屋の天井にぶつかり、跳ね返ってベッドの横のフローリングに落ちる。ぼくの顔に鼻から飛び散った液体がかかって、それは血の味じゃなくてオレンジジュースの味がする。「何すると!」 天狗が眉を吊り上げて鬼みたいな形相でぼくを睨むから、ぼくは恐くて何も喋れない。 天狗の鼻はいつの間にかフランスパンになって床に転がってる。「何するとっとっと!」「すみません」「何やて!」「すみません」「あんさん、謝って済む問題ちゃいまっせ。見てみい、ワシの自慢の鼻がフランスパンになってしもて。どうしまひょ?」「すみません」「ゴルァァァ!謝らんと鼻出さんかい!あんさんの腎臓でも肝臓でも売って鼻持って来いやァァァ!」「あ」 そうだ。ぼくはイマジネーションで天狗の鼻を出すように念じてみる。すると天井の蛍光灯2本が天狗の鼻になって、バチバチ電気を帯びながら青白く光り始める。「グッジョブ!それでええねん!げへへへ!鼻が2本になったわ〜。ラッキやわ〜」 天狗は目を真っ赤に血走らせて、両手に2本の鼻を鷲掴みにする。と、その瞬間 べちべちべちべち。 天狗が感電して痙攣し、もくもく煙を上げながらみるみるうちに真っ黒焦げになっていく。再びベッドの横のフローリングに落ちた天狗はぷすぷすと奇怪な音を立て、やがてハンバーグになって消えてしまった。「時間よ!早く起きなさい!」「もう起きてるよ」 母さんの声がして、ぼくはリビングの扉を開ける。テーブルの上にはフランスパンとハンバーグとオレンジジュースが並んでいる。 天狗は毎朝ぼくの朝食のメニューを知らせるためだけにやって来て、いっつも死んでしまう。天狗はつまらないことに生きてて可哀想な奴だと思う。 ぼくはオレンジジュースを手に取ってごくごく飲むが、途中で吹き出してしまう。 ……牛乳だ。 ぼくは天狗のためにこっそり合掌する。 ぼくもオレンジ以外の色を知らないんだ。