第16回体感1000字小説バトル

エントリ作品作者文字数
1血染めの砂時計未来 愛759
2文字盤の上でダイキ1054
3ケンポポの一日ケンポポ124★文字数過少
4シアワセニワトリ針風993
5梅雨の庭夜のハト1399
6新話(しんわ) -もうひとつの神-朱里1000
7程々に1131
8ライナーノーツkaz2746★文字数過大
9森羅万象あいる鎌倉951
10明日の天気は気にしないザ・北風マン685
11ライオンガール飯島辰裕1074
1234丁目の明かりとじゅん1163
13薔薇になった絵描きユウキ632
14雨の夜にかな992
15考え事黒マテリア886
16誰彼刻石垣 供期1012
17虹と韮補1100
18PLAYemu1000
19辿り着く場所如月ワダイ968
20(それは)(とても)(寛大な)閑流1000
21螺旋熊田 聡2264★文字数過大
 
 
バトル結果発表

バトル開始後の訂正・修正は、掲載時に起きた問題を除いては基本的には受け付けません。

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エントリ1  血染めの砂時計     未来 愛


 夢を見ました。とても不思議な夢だったように思います。
 雨の降る中、私は歩いていました。私はその雨が紅いことに気が付きました。顔と服が紅く染まるのがわかります。私は顔や手が紅く染まる度に自分が自分じゃなくなるような、そんな気がしました。前方に何かあるのが見えました。それは、私の背丈の3倍もありそうな大きな砂時計でした。砂時計は紅い雨のために紅い線をたくさん作っていました。砂時計の中には数人の人がいました。下の段には<小さな人>。上から落ちて来る砂に苦しみ泣いています。上の段には<大きな人>。泣いている<小さな人>を見て笑いながら砂を落としています。やがて砂は積もり、<小さな人>は砂に飲み込まれました。私は砂時計の周りに<小さな人>よりもっと小さな<小さい小さい人>がいることに気が付きました。<小さい小さい人>は私の頭くらいの体で必死に砂時計を倒そうとしていました。しかし大きな砂時計はびくともしません。いつの間に現れたのかもう一人<小さい小さい人>が砂時計を倒そうとしていました。
もう一人…、もう一人…、またもう一人…、さらにもう一人…。
次々に現れた<小さい小さい人>は力を合わせて砂時計を倒しました。音をたてて倒れた砂時計の中。半分になった砂から<小さな人>が顔を出しました。<大きな人>がもう半分の砂に足を埋められ身動きがとれず喚いています。<小さい小さい人>は砂時計の片側を持ち上げました。<小さい人>が上になり<大きな人>になりました。<大きな人>は下になり<小さな人>になりました。いつの間にか紅い雨はやんでいました。
 そこで私は目が覚めました。窓のない部屋で、いつまでつづくかも分からない窮屈な生活が今日も始まります。
 時代は人が人を殺す戦争時代。今日も外ではどれくらいの血が流れるのでしょうか。






エントリ2  文字盤の上で     ダイキ


 もうどれくらい走っただろうか。さきほどから同じところをグルグルまわされている。何の意味があるのか、考える暇もない。ただ言えることは、不安も孤独も感じない。それは自信を持って言えることだ。
 同じフィールドで走っている人は、オレのほかにあと二人いる。長身でやせた男と、背の低い太った男だ。足の速さは、オレが一番。長身が二番。そして太っちょが三番。それも二人とも極端な遅さで、さっきから一体、何回こいつらを抜かしたことか。特に遅いのが太っちょで、ヤツが一周する間に、オレは数百周もしている。ただ、文句を言う気はない。それがあいつの能力であって使命であるということを、オレは理解しているから。
 そう、オレたちは何か底知れない使命を持って走らされているのだ。だから不安ではない。自分の存在価値があり、誰かに必要とされていると自覚しているから。たぶんオレたちが走るのを止めたら、困る人が大勢出てくるんだろうな。そうならないためにも、オレたちは走り続けるのだ。
 ある日オレの体が動かなくなった。悔しかった。使命を成し遂げられなかったことも悔しかったが、何より悔しかったことは、誰も困らなかったことだ。オレは重大な使命を持って走っていたはず。そう考えていたのは自分をごまかすためだったのか。そう考えると、今までに自分が行ってきたことが、すべて無駄に思えてきた。他の二人も動かなくなってしまったみたいだ。たぶん、あいつらも同じようなことを考えているんだろう。ずっと同じ時間走り続けたあいつらと会えないと思うと、涙が出てきた。そして、今まで持っていた存在価値と使命が一辺になくなってしまい、初めて不安を感じた。オレはこの先何をしたらいいんだろう。わからないので、とりあえず眠った。そのときは永遠に眠ろうさえと思った。
 突然オレの眠りを覚ます力を与えられた。気がつくと、オレはまた走り出していた。二人も再び動き出したようだ。そして3人同時に顔を合わすときがやってきた。
「よう、久しぶりだな。さっきまでどうしてたんだい。」
「いやぁなに。いつものようにトロトロ走ってたらいつの間にか止まっちまったよ。」
「二人とも相変わらずのんきだな。オレは先に行っちゃうよ。」
三人が顔をあわせるときはいつも数秒しかなく、機会も一日に二度ほどしかない。でも、その数秒間の間でもオレたちは仲間意識を持つことができる。またこいつらと、人の役に立てる。そう考えると心の底の方からうれしさが沸き起こった。
3人が顔をあわせた。今日もまた、今までどおり始まった。






エントリ3  ケンポポの一日     ケンポポ


僕の名前はケンポポです。僕はいつもRY君とTS君にいじめられています。今日はRY君にいじめられた。今回ばっかりはキレてRY君の腕を折ってしまった。これはさすがにやりすぎたと思った。(ちょっと反省)。

以上ケンポポの一日です。これからもケンポポをよろしくね♪






エントリ4  シアワセニワトリ     針風


 不況ガナンダ…。

 こんなに長いこと仕事をしていないと、劣等感と孤独で押しつぶされそうになる。探しても探しても見つからない。
 あたしのため息は空っ風と共に落ちて消えた。

―実家帰ろうかなぁ。

 弱気。
 なんでここまで、半年も一人でやってこれたのか不思議だ。
 秋の公園までもが、そうだ帰れ!…と迫ってくる。たくさんの落ち葉はあたしの流した涙みたい。
 と、見上げた木に風船。真っ赤色。
 それを悲しそうに見てる女の子。
 言葉なんていらなかった。いつの間にか木によじ上って風船を取ろうとしてる自分。―滑稽。自嘲しながらも…心の何処かで人のために役にたちたいと思っているあたしに気付いた。無職の哀愁。
「ほいよっ。もう離すんじゃないよ」
 降りてからミニスカートだったことに気付く。…まぁ、過ぎたことだ。
「ありがとう」
 おや。よく見るととても愛らしいお顔。風船、取ってあげて良かったなぁと思った。
「お礼にこれあげる」
 女の子の小さな手の平に、石。…石?
 それはキラキラ光る豆粒程の石だった。
 純白の宝石。
「えぇっ!?これって高いんじゃない?」
 思わず頓狂な声が上がる。
「ううん。拾った」
 女の子は公園を指差した。
「それね、シアワセニワトリっていう鳥が産んだ卵なの。幸せを産むからシアワセニワトリって言うんだって」
 思わずこんな豆粒の卵を産む鶏を想像してしまった。ちっさ!笑ってしまう。
 けれど女の子は至って真剣な表情だった。
「あ。ありがとね…。けど…いいの?大事なモノじゃない?」
「大丈夫。わたし、後二つは持ってるから」
 そんなに落ちてるものなのか、シアワセニワトリの卵ってのは…。
 ほら。
 見せてくれた手には全く同じ卵形の石が並んでいた。
「お姉ちゃん、これで幸せになれるね」
 満面の笑みを零して女の子はてくてく歩き出した。
 あ。振返った。
―風船ありがとう!!
 大きく手を振る姿に、こちらも自然と手を振り返していた。

 果たして…。
 これは子供のお遊びととるべきか…本気ととるべきか…。
 こんな石で幸せになれるのならとっくになってらい。
 それでも…

―お姉ちゃん、これで幸せになれるね

 信じてしまう、間抜けな自分がいる。
 シアワセニワトリが…すごい形相で卵を産む姿を想像してみると、幸せになれるというのも真実味を帯びてくる。

 
 まあ、生きてるうちに…幸せになれるといいな。
 いつのまにか鼻歌をハミングしていた。






エントリ5  梅雨の庭     夜のハト


 一週間、雨。時々曇りで、稀に晴れ。けれどやはり日記に書くとしたら「一週間雨が続いています。」て書いてしまう。そしてその後には
「さすがは梅雨です。日本の六月はこうでなくてはいけません。でも、テルテルボウズを作って早く晴れてくれるようお祈りをしました。あまりうまくできなかったので窓辺には吊るさず押入れの中に吊りました。押入れの中はひんやりと涼しかった。」と書くのだろう。
 妹が外に出ようと誘う。濡れるのが嫌で断るのだが、まさに今頃の湿気みたいに、しつこい。妹は私より3年と3ヵ月と11日だけ遅く生まれてきたくせに私と背が同じだ。私がチビなのではなく妹がのっぽなのだ。そののっぽさんが
「外に出よう、庭に出よう」
とうるさいので、私は渋々と傘を片手に雨の庭へと足を踏み入れる。

 妹は水溜りを見つけると勢いよくジャンプして、落ちた。飛沫が上がり、レインコートまで泥が飛んでいる。私は遠巻きにして見物し、我が妹ながら馬鹿だなあと思った。
「あはは」と雨にも負けない声で笑っている。私は帽子を深く被るように傘で自分の目線を隠した。妹が見ているかもしれない、きっと見ているのだろう。
「おねえちゃんみてえ」
見たくない、私は。
 傘を上げると、妹はしゃがんで石塀を観察している。何と素早いことだろう、驚いた。
「どうしたの」
とは言わず、無言で歩み寄る。水溜りにまた雨が満ちている。それを避けて妹まで辿り着く。雨が妹の赤いレインコートに落ち、流れていく。
「なにみてるの」
妹がぱっと振り返る。
「なめくじ、おねえちゃん、なめくじい」
妹は腕を伸ばした。手のひらの上で白いものがゆっくりとうごめいてる。確かに、なめくじだ。しかし、なぜこの妹は手のひらなんぞになめくじを乗せているのか。
「わあ、ほんと、なめくじ」
言って、私は一歩だけ退いた。すると見事に水溜りに入った。スニーカーの中に雨水が浸水してくる。靴下が濡れて、足の裏がぬるぬるになっていくのが分かる。雨水が靴下の中でさらに濁っていく。
 人生に困惑した気分で妹を見下ろした。
「ねえ、私、行くから。風邪ひかないうちに帰ってらっしゃいよ」
まだ水に浸かっている足を軸に回れ右をし、妹の返事も聞かず歩き出した。早く家に入って靴下を脱いでタオルで体を拭こう。テルテルボウズをもうひとつ作ろう。日記には妹のことは書かないでおこう。明日は、友達の家に遊びに行こう。
 そう思いながらドアノブに手をかける。背後で水をはねる音がした。ぱしゃぱしゃ、が近づいてくる。振り返ると、走る妹の姿が目に映った。
「おねえちゃん、まってえ」
熱心に走ってきたので、泥が妹にも私にも飛び散った。妹は何も知らない様子で隣に立ち止まった。
「おねえちゃんといっしょにかえる」
本当に何も知らない様子である。私は、そうね、と言い、妹の手をとった。妹は嬉しそうに握ったほうの腕を大きく上下させる。がくんと揺れる。やり返す。妹が揺れる。どんどん腕を振る。揺らすたびに妹は揺れ、笑う。私は傘を放り出して両腕を使って妹を抱きしめた。
「おねえちゃん」
私はなぜ手のひらなんぞに妹を乗せているのか、そう思った。
 腕を離すと、妹のレインコートで洋服がじっとりと濡れていた。傘を拾い、閉じて、妹と家に入った。

 日記を書き終わり、テルテルボウズを作りながら妹を抱きしめたことを思い出していた。
 私のほうが背が高かったろうか。少しだけ、伸びたらしい。






エントリ6  新話(しんわ) -もうひとつの神-     朱里


「PANG!」

乾いた音を立てて今日の練習最後の弾が人型に当たる。
そしてその少女は疲れてベッドに倒れこんだ。

ここで練習して二週間。
ひたすら撃っていた。腕が上達したかどうかも分からない。
ただ、ここに来た時よりも的に当てる自身はあった。

ここは砂漠の真ん中にぽつりとある建物。
外見はコンクリで塗り固められ、一見すると現代風の建物なのだが、何故か何者もを寄せ付けぬ荘厳な風格がある。
窓は天井に開閉式の物が一つと、キッチンに一つ。
建物内で見つけた物は生活用品一式と、豊富な食料・水。そして一丁の拳銃と大量の弾丸だった。

着いた初日。生まれて初めて拳銃を握った。
怖かった。だけど、目的を果たす以上それは必要なモノだった。

ここには、彼女一人しかいない。誰かが来る事も、出て行くことも無い。
テレビも、ラジオも、電話さえも無い。
外界と接触を持つたった一つの手段は、一羽の鷲。

彼女はその鷲に近づき、頭を撫でた。
「シール、今回も手紙、頼むね」
名前はシールというらしい。
来たばかりの時は暴れてばかりだったが、今はすっかり彼女に懐いている。
喉を鳴らし、早く足に手紙を括りつけてくれと頼むシール。
彼女が馴れた手つきで手紙を結ぶと、シールは天窓から手紙を運びに飛び立った。


時は過ぎる。

銃を撃つ。


一週間が過ぎた。
黙々と練習を続ける彼女。銃声と弾の当たる音だけが鳴り響く。

それから数日後、シールが帰ってきた。足には、返信がしっかりと括りつけてある。
それを足から取り、読んだ彼女はある準備を始める。
彼女が送った内容。それはある人を呼ぶ物だった。


時は過ぎる。

また銃を撃つ。


更に一週間が過ぎたある日、そこに一人の女性が訪れた。
「修行は終わった?」
建物内に入り、銃を持って練習していた彼女に向かって話す。
「まぁまぁってところかな。フェンリル、そっちはどう?」
と受け答える彼女。その顔は、一ヶ月前ここに来た時に比べると随分凛々しくなっていた。

「こっちは完璧。いつでも大丈夫だよ」
フェンリルと呼ばれた女性はそう答えた。

「それじゃ、そろそろ行こうか」
促すフェンリル。
「うん。そろそろ日にちも少なくなってる事だし」
そう言うと彼女は銃をホルダーに収め、一ヶ月共に過ごした鷲を見てこう言った。
「行って来るね、シール」

そう言って、彼女は其の地を後にした。


そう、その銃の名はグングニル。魔を滅ぼす槍
そして、彼女の名はodein -オーディン- 槍を操り悪を斃(たお)す女神






エントリ7  程々に     永


私には、過去がない。

正確には、思い出というものがない、という言い方のほうがよいだろうか。
忘れてしまったのか、意識的に忘れようとした結果なのか、最近ではそんなこともどうでも良くなってしまった。どちらにしろ、今、私が此処に存在している事に変わりはないのだから。
そして、不思議なことに、記憶を取り戻そうという気が起こらないどころか、私にしてみれば記憶…過去がないという事がごく自然なのだ。


「はぁ………」

まだ半分も吸っていないタバコを押しつぶした。
指に染みついた臭いにうんざりした。いつから吸い出したのかも覚えている筈がない。もし、いつか観たアニメのようにタイムマシンに乗って過去に戻れるなら、初めてタバコを吸おうとしているまさにその瞬間に戻ってこう言ってやるのに。

「程々にな」


大して吸いたいわけでもないのだが、今更止められないタバコにまた火をつけた。これで今日何本目だったか、数える気にもならない。
箱から最後の1本を取り出し、口にくわえる。何かを待つ自分。

「何を待ってるの?」

すぐ後ろで声がした。女だ。
振り返るのをためらった。聞き覚えのない声だ。もっとも、記憶を失くしてしまっている私だから、誰の声にも聞き覚えなどないのだが。

「聞こえてるんでしょ」

勿論、聞こえていた。だが、振り返れない。体が動かないのだ。
振り返るのが怖いという気持ちが、私の体を制御しているのだろうか。そうすると、やはり過去を忘れたのは、私自身の意思だったのかも知れない。

「相変わらずみたいね…タバコ」

この女は私を知っている。私の過去を。
そんな人間と関わるのは、とても危険に感じられた。私の知らない“私”。もう一人の私を、私は恐れている。いつしか、まるで得体の知れない自分自身の存在を「私の敵だ」と思うようになり、知ってはいけないものなのだと言い聞かせてきた。記憶を取り戻す気が起こらないのではなく、拒絶しているのだ。

今さら禁煙しろだなんて言わないわよ、と言って、クスッと笑うと、
その女は、私が振り向こうとしないのを特に気にもしない様子で続けた。

「習慣って怖いわね。自分では意識してないのに、体が覚えてるのよね。私もあの癖直んないもの。あ、癖は習慣って言わないかしら。まあどっちでもいいんだけど。あの人は私の癖を嫌がるんだけど、仕方ないじゃない?職業病だもの。…でも、あなたも変わってないみたいだから、無理に直さなくて良かった。ってことにしておくわ。そう思わない?」

同意を求められても、一体何の事を言っているのか私にはさっぱり分からなかった。習慣?癖?“あなたも変わってない”?
必死で考えている私の隣に女は座った。そしてポケットからライターを取り出し、左手を添えると火をつけ、こう言った。

「程々にね」






エントリ8  ライナーノーツ     kaz


「バンドやっているんですよ」

ガタン、と電車が揺れた。

びっくりしたのは、その揺れのせいかもしれない。
いや・・違うな。
オレは「バンドをやっている」という言葉に鋭く反応していた。
それは、まさに寝耳に水をかけられたような不意うちで、深く身を沈めていたオレを眠りの淵から引きずり出したんだ。

「なに!? お前・・・バンドやってるのかよ?」

会話の弾まない男が 急に身を乗りだすものだから、ザキは少し警戒し、身を引きながら答える。

「・・・ええ。ビートルズのコピーバンドですけどね。高校の時の同級生たちと組んでるんですよ」

「やっぱり そのパターンか。いいなぁ、お前らは。オレなんかメンバー探しに苦労して、今だに・・・」

自分でこんなにお喋りだったかな?と思うほど話をした。

帰国してから既に2年が経とうとしている。

日本に着いたらすぐにバンド活動をはじめようと思っていたにもかかわらず、だ。
オレのようにコネも無く、中学や高校から音楽をはじめたわけでもない者にとって、メンバーを探すというのは想像していた以上に楽ではない。

「ザキ、聞いてくれ! オレさ、パンドやりたいんだ」

「・・・・・」

壊れた自転車のブレーキのような音を立てながら、列車は山あいの曲がりくねったレールの上を急ぐ。木立のすき間からは海が見え隠れしていた。

「構想があるんだ。凄いバンドの構想がさ」

「・・・・・」

ザキは黙っていた。黙ってオレの次の言葉を待っていた・・・

窓辺に置かれたビールはガラス越しの朝陽に照らされ、すっかり生ぬるくなっていたが、構うものか。話の合間にグイッとやって喉を湿らせては、また話に熱中した。







「学校」というものには いい思い出がない。
とくに高校はひどかった。

バイオレンスが日常茶飯事の暴力教室。
教師は生徒手帳の中の馬鹿げた法律でオレ達を縛っていたし、窓には野球のボールよけの金網が張ってあったから、外は金網ごしの風景。

うす暗くって じめじめしてて、刑務所みたいだった。

みたいじゃない。

あそこは刑務所そのものだ。オレは刑務所に入れられていたんだ。

コンプレックスは 深刻なほど オレを蝕み、いつも びくびくしている。
「価値のない人間」「カッコ悪いやつ」否定しても、しても誰かに 笑われている気がして後ろを振り向く。

「早く、1日も早く ここを抜け出すんだ」

卒業の日を逆算して、3年間指折りかぞえた。
 くそっ。こんなにもオレを卑屈にしたものに腹が立つ。

やっと、やっと。卒業した時には うれしさよりも怒りで体が震えた。進学するつもりは、もうない。

「このままじゃ駄目だ。このままでは・・駄目になる。どこかでこの流れを断ち切らなきゃ。」



干からびたプライドは水を求め、オレを工場で働かせた。
働いて貯めた金を持って、アメリカへ――

目的を持って渡米したとはいいずらい。
そりゃあ 最近では音楽仲間なんかに「本場のブルースを生で聞きたくてさ」なんて気取ったウソをついたりもするけど、実際は もう、行き場が無くて、悲しくて、どこでもいい。

「どこでもいいから 今のオレを知る奴が誰もいない所へ行きたい。言葉も通じない場所で、やり直そう。自分だけで生きていこう」

そんな想いで 逃げるように日本を脱出した。

ところが アメリカは音楽の国だった。
国じゅうが音楽だった。どこへ行っても 作り物じゃない、生活に根ざした音があふれていたんだ。
言葉だって、音楽に聞こえる。 怒りながら歌い、泣きながら リズムをきざむ。 だから笑いが絶えない。

知らず知らず。オレは癒されていたのだろうか?
オレの中にも音楽が鳴り響くまで、さほどの時間はかからなかった。と、いうよりも。日ごとふくらんでくる情熱が抑えきれない。

いつの間にか「オレは バンドマンになるんだ」と思っていた。

掲示板に張り紙を出し、知り合いのツテを頼ったりしてメンバーを探した。何度かGIGというものに参加しようとした。しかし。

英語もままならない、楽器も出来ない、経験もない日本人の「男」など相手にする奴はいなかった。あ、少しはいる。

ある日、「コーラスのグループに入れてやる」と、いうのでそいつに付いていった。 大学の教室の とある部屋に入ると大男の黒人やら、白人やらが大勢集まって手をつないでいる。男も女も泣きながら歌っていた。
大声で、泣きながら。手をつないで。輪になって・・・

「ジーザス・・わたしのお父様・・」

まあ大体オレとバンドを組んでもいい、って奴らはそいう “別の理由”をもっていた。 仕方がない。



「バンドを作るんだ」という強い決意を持って 再び日本に舞い戻ったのは、脱出してから2年後のこと。オレは21になっていた。

日本に帰ってきたからといって、バンドのアテが ある訳ではない。オレは東京に家を借り、バイトをはじめた。

それと並行して、バンドを結成しようと動き回ったんだ。
まずは高校時代の友人に連絡をとってみた。他に音楽に興味を持つ奴も思い当たらなかったし、とりあえず。

菊地という、その男は 法政大学の学生になっていた。

「バンドやらないか?」と誘うと、あっさりOKしたので 居酒屋で待ち合わせた。

行ってみると、菊地は大学の友人を連れてきており、「コイツもやるから」と言ってオレを喜ばせた。

菊地と、その友達と、3人でバンドを組もうぜって。乾杯をした。話は盛り上がったんだけど・・・いざ具体的にスタジオに入る段になって、全員 お互いの顔を見つめあった。誰1人 バンドなんてやったことない連中ばかりだ。

それどころか 楽器がない。菊地はオンボロのアコギを持っていたけれど、オレと菊地の知り合いの男には、何もない。
誰が何の楽器を揃えればいいのだろう?

急速に不安に襲われ、みんな黙ったままだ。

結局 オレはベースを、菊地はギター。
もう1人もギターを担当するということで、持ってない奴は早急に揃えることにしたのだが・・

「えーっ、そこまでしなきゃいけないのかよ」

と、菊地の知り合いが ゴネはじめた。

「第一、ライブやるにも金がかかるらしいぜ」

菊地も腰が引けている。みんな素人だから。どうすればいいか解らないんだ。

「とにかくさ、楽器揃えんのもライブも金、金だよ。金を作るのが先決」

菊地の友達の意見に 皆うなずくしかなかった。

「1人 10万作ってこようぜ」

と、別れて。それぞれバイト生活に入っていった訳だ。

2ヶ月、休みなしでバイトして 10万貯金が貯まった。
早速 皆に連絡すると、もう皆は 別々のことを始めていた。

もともと音楽への情熱がそれほどあった奴らじゃないし、楽しいことは街にあふれている。 それぞれ違った道を歩こうとする年齢でもあるし。 もう あいつらの歩みを止めることは不可能に思えた。

オレは又、1人。 メンバー探しをはじめたのさ。






エントリ9  森羅万象     あいる鎌倉


 「今のこの瞬間てさ、二度と来ないんだよね」
突然彼女がこんなことを言い出した。時々唐突に詩人や哲学者になったりする彼女のことをよく知ってはいたが、やはり唐突に言われると戸惑うものだ。
「いきなりどうしたの、詩人になっちゃって」
「別に、ただそう思ったの。だからさ、智之と一緒にいる今は大事にしなきゃいけないの」
大学のゼミで一緒だった一つ年下の彼女、苑美と付き合い始めてもうすぐ一年になる。理系のゼミなのに計算が苦手だが、すごく優秀な苑美は教授にも気に入られている。教授はドンキホーテとあだ名される人で、すごく有能なのだが、それにまして変わり者だ。教授のあだ名は同じ名前の店内がいいかげんなの店と奥さんより猫を可愛がる教授の人柄から由来している。それにしても的を得ているものだ。
その理系の典型のような教授の秘蔵っ子と呼ばれ、教授以上につかみどころのない
苑美と教授の下についてはいるが、何年経っても変わらない僕がどうしてうまくやっていけるのか、自分でも時々不思議に思う。もっとも苑美に言わせれば僕は彼女にとって波長の合う人間らしく、僕の波長だとすごく楽で落ち着くんだとか。
波長という言葉を一応使ってはいるが言ってることは文系で詩人みたいだ。
試験管を振って記録を付けるしか能のない僕には、たぶん一生いえないだろう。
しかし、彼女のいった言葉に、僕はたしかに愛というものの存在を感じていた。
彼女のいった言葉が一緒にいると安心できる、そんな風に聞こえたからだ。
正直言って僕には男としての自信はない。炎のように燃えるような激しい恋はできないかもしれない。しかし、彼女はそれでいいと言ってくれた。
いつか彼女は僕に言った。自分自身を知るために科学を始めたって。
彼女はやはり詩人だ。自分自身の中にある哲学的な疑問を解決するための手段が、彼女の場合、科学だったのだ。自分が何者かを知るために彼女は科学を始めて、
彼女にはその才能があったのだ。実験少年だった僕とは違って。
僕は彼女を愛している。「人間にとって幸せなことは良き理解者を得ることだ」
僕が彼女の「理解者」になれるかどうかは分からない。しかし僕は今の彼女を守るためなら科学の力ではなく奇跡というものを信じるかもしれない。
なぜなら、彼女はぼくにとって、もう理解者だから・・・・






エントリ10  明日の天気は気にしない     ザ・北風マン


彼はよくここに寝泊りしていた。朝起きるのが苦手で前の日からそこに行って寝てしまおう、そんな考えを得意としている彼だった。彼は昨日から一睡もしていない。

今日の朝はほんとうに気持ちがいい。少し寒いけどこれくらいのほうが朝らしい。


やっと思い出せたよ。

「今できること、今したいことをする」
「今の気持ちを大切にする」

ここ1年くらい忘れていたことだ。
それは彼の心情でありひとつのバイブルみたいなもので、たまに思い返してはその時その時の自分と照らし合わせていた。明日のことは考えず今日やりたいことを楽しみ、気持ちはいつも高いところにあった。必ずしも彼の行動のすべてがそれに従っていたわけじゃなかった。むしろ、明日への怖さやまわりを気にする臆病な心、その他いろんな理性や感情がたいていは勝っていた。でも心のどこか、お腹の奥底にはいつもその言葉はちゃんとあった。

なぜ彼は忘れてしまっていたのだろう。
毎日なんとなく過ぎていく、そんな日々はもうこりごり。以前と何も変わらない自分だったはずだった。時には仲間と我を忘れて騒いだりもできているはずだった。

もうやめよう。
だってそんなことは彼の心情に合わないから。どうでもいいと今思えるから。
それより、なぜこの言葉、心情、ポリシーを思い出せたかを考えよう。
朝の清々しい空気を感じたからなのか、小鳥が囀っているのを聞いたからなのか、それともまわりの木々が安らぎを与えてくれたからなのか。

それもあるかもしれない。
でももう分かっている。
彼はまだここにいる。きっとこれからもずっとここにいる。

今日の朝はほんとうに気持ちがいい。この気持ちをはやくあの人に伝えたい。






エントリ11  ライオンガール     飯島辰裕


 彼女はいった。
「ライオンになりたいの」
 わけがわからなかった。そうだろう。ライオンになりたいだと? そりゃ、無理だ。なにしろおれたちは人間だ。死ぬまで人間だ。気が触れたとしても人間だし、新しい宗教法人を興したとしても、やはり人間でしかないだろう。なにしろおれたちはライオンになることができない。決して。なりたいとも思わない。
 まともな頭の持ち主なら。
 なりたいんなら、なれば? とおれはいった。心のなかで「なれるもんならな」とつけくわえた。だが彼女は自分がライオンになれると確信しているようだった。少なくとも、おれの目にはそう映った。
「だからね。整形しようと思うの。からだじゅうに金髪を植えつけてもらってね。目つきをうんと怖くしてもらったら、よつんばいになって走るの! ほら。こんなふうに」 彼女は床に手をついて、よつんばいになった。
 おれは頭を抱えた。おれは、こういう話を聞かされるとたまらなくなる。実現しそうにもないこと、どうやったって現実には起こらないこと、夢のなかでしか達成できないこと。夢のなかでサバンナを駆けまわっていればいい。動いているものすべてに噛みついてやればいい。まず最初に喉ぶえに食らいつくんだ。そうすればすべてうまくいく。血まみれになりな。たまに双眼鏡をもったやつらにも噛みついてやればいい。そしたらおまえは間抜けなハンターどもになぶり殺しにされる。夢心地のまま死んで、気づいたときにはベッドのなかでいつもどおりの朝を迎えている。
 どう考えたってライオンなんかになる必要はない。
 ライオンになって、どうするの? とおれは彼女にきいた。彼女は、よつんばいの姿勢のままで答えた。「なにも考えてないよ。ただライオンになれればいいの。あとはたまに吠えたりするだけで、もう満足。ガオー! ライオンって、こんな感じかな」 彼女は笑った。おれは頭を抱えた。
「ライオンになったら、もう会えなくなるね」
「どうだろうね?」
「頭がおかしくなったと思ってるんでしょ?」
「そうでもないよ」
「とにかく本気なの」
「ところで、きみがなりたいのはオスかな? メスかな?」
「もちろんメスライオンよ。子供たちを守るの」
「おれに噛みついたりしない?」
「もちろん」
「愛してるよ」
「ありがと、じゃあ行くわ」
 そして彼女は走り去っていった。よつんばいのままで。サバンナへまっしぐらだ。しかし、おれはオスライオンではない。彼女にはふさわしくない。おれは人間だ。そして彼女は、ライオンになる。それだけだ。おれは人間のままだ。それだけだ。ほかになにがあるんだ? なにもない。






エントリ12  34丁目の明かりと     じゅん


 「知らず知らずのうちに、忘れていたり失っているものってないか?」

 「そんなの気づかない方が幸せさ。」

 「でも、気づいてしまったらどうするのさ?」

 「どうにかうまく気づいていないふりをすればいいのさ。」

 そんな会話が僕ともう一人の僕との間で交わされた頃、失われつつある夕陽の明るみは同時に闇の出現を東の空から許していた。 近代都市はいつもと変わらず失われつつある太陽光の代替として、電灯と呼ばれる人工的な光を灯しはじめる。 滑稽なのは、今居る34丁目の交差点はさきほどより明るくなったと感じることである。 目覚めたばかりの赤子にこの明るさこそが昼なんだと教えたならば、その子はこの光をそれほど不快には思わないだろうが、僕は違った。 怖かった。

 「何がどうしたら、何をどうすれば……。」

 「二酸化炭素を減らしてみたら」

 「そうか、そうすれば地球は少しでも」

 「地球なんてどうでもいいんだよ、俺さえ生きていればね。」

 「生きるために地球は必要だろ?」
 
 「話がグローバルすぎるんだよ。 生きるっていうのは、これから数時間後に迫ってくる空腹をいかにしのぎ、太陽エネルギーを吸収し続け、呼吸を持続させるかってことさ。」

 その時、ひとつわかったことがあった。 人々はこの人工的な光の集結を希望の星だと勘違いして集まってきてしまったのだろう、きっと。 虫除け蛍光灯にだまされて集う蛾の実直さを、人間も共通して持ち合わせているのだと思うと、この明かりは少し滑稽に思えてきた。

 都会の光は、星星の光が街の内部へ侵入するのをかたくなに拒む。 失われた星の輝きは、失うことを故意に意図した人間のおろかさをあざ笑うかのように素直に侵入を試みない。 

 そして、しばらくの間、僕は雑踏の沈黙に身を委ねた。
 
 「本当のことを言おうか……。」

 沈黙を破ったもう一人の僕は、そうつぶやき地下鉄の階段を駆け下り雑踏の下へ消えてしまった。 雑踏を支配するのは人である。 人を支配するのは空間である。 しかしながら、空間自体が人間の作り出した概念である。 となると、やはり人間の脳が全てを支配するという結論に達する。 本当のこととは一体……。

 街のほぼ全体を電子の光が覆い尽くした頃、僕の右手の指先に生温かい軟らかい物質が触れるのが感じられた。 体温を回復した僕が目を落とすと、それは飼い犬の舌であった。 こいつは腹が減っているのだな。 そう察した僕は先ほどのもう一人の僕の発言を思い出した。

 「生きるっていうのは、これから数時間後に迫ってくる空腹をいかにしのぎ、太陽エネルギーを吸収しつづけ呼吸を持続させるかってことさ。」

 「飯なら俺が作ってやるよ。」

 そう僕はつぶやくと、飼い犬を連れて見慣れた34丁目の交差点を離れ、目指すべき光の集結する場所へと足を運んだ。






エントリ13  薔薇になった絵描き     ユウキ


あるところに貧しい絵描きがいました。
毎日道ばたに落ちているダンボールや板を拾ってきては, 絵描きは自分でキャンバスを作って絵を描いていました。
 
絵描きは独りぼっちでした。

そのころ起こっていた, 国と国との大きな争い事で恋人を亡くしたのです。
絵描きは悲しみに明け暮れました。
そしてその悲しい出来事をもとに絵描きはへいわを訴える 絵を描きました。 狂ったように何枚も何枚も・・・。 

けれども絵は売れず,周りには血なまぐさい争い事が続いていました。
絵描きの描く絵には誰も目を向けませんでした。

それでも絵描きは絵を描き続けました。
 
着る物や食べ物が無くなり,絵の具も手に入らなくなりました。
それでも絵描きは自分の腕をナイフで傷つけ、そこから流れる 赤い血で真っ赤な絵を描き続けました。
 

長かった争いがやっと終わりました。

小さな小屋の中で独りぼっちの絵描きは真っ赤な絵を描きながら, たくさんの血を流して死んでいました。

へいわを訴え続けた絵描きは真っ赤な薔薇の花になりました。 
それはたった一輪の小さな小さな薔薇だったけれど,何日かたつうちに何百,何千本になり,町中を綺麗な真っ赤な薔薇で埋めつくし,争い事で荒れ果てていた街を美しい街に変えました。  

何年もたった後,偶然一人の画商が絵描きの住んでいた街に訪れました。
絵描きの描いたへいわを訴える真っ赤な絵はたちまち 評判になりました。

絵描きの薔薇は街中を埋めつくしいつまでもいつまでも美しく 咲き誇っていました。 






エントリ14  雨の夜に     かな


 隣の部屋から妙な音がしだした。断続的に続くその何かがきしむ音は、あきらかにヤッている音だ。私は壁に耳をくっつけてみた。案の定、女の喘ぎ声がした。
 時計の針は、夜中の二時を指している。外は絹のような雨が降っている。パジャマを脱いでジーパンに着替えると、ダッフルをはおった。コンビニにでも行って、少し時間をつぶそう。今日も電話はないだろうし。財布だけを持ち、私は部屋を出た。
 あいつの子供をおろしたのは昨日のことだ。下腹部に妙な違和感がまだ残っている。彼は今頃何をしているのだろう。彼女のいる人なんて好きにならなければよかった、初めて中出しされた時に、あいつの本性をちゃんと見抜いておけばよかった。悔やんだってもう遅い。私は人を殺してしまったのだし。
 夜中の町はひっそりしている。車だって通らない。街灯に映し出された小糠雨だけが、息をしている。傘をたたんで空を見上げてみた。空はただ、暗闇でしかなかった。
 コンビニの明かりが見えた。年下だろうと思われる青年が、配送されてきたパンを並べている。私のことなど気付いていないかのように、黙々と作業に没頭していた。店には、私と彼しかいなかった。雑誌をパラパラめくってみたが、どれも興味を引かれるものがなかった。お菓子を眺め、ストッキングを手に取りまた戻す。ぐるっと巡って、ヨーグルトやプリンに目をやった。私は何も欲しくなかった。欲しいものはいつだって手に入らない。
 紙パックの烏龍茶を持ってレジの前に立つ。青年がすぐにやって来た。
「いらっしゃいませ」
 独り言のような小さな声。
「百二円です」
 目を見ることもなく済まされる勘定。
「どうも」
 私も独り言のようにつぶやいて、袋を受け取った。
 店を出たすぐのところに、黒猫が行儀よく座っていた。しゃがみこんで猫を呼んでみた。警戒しているのか、こちらを見ながら少し後ろへ移動した。
「おいで、ねこちゃん。おいで」
 私の必死の呼びかけに、猫はなかなか応じない。その時、店から青年が不意に出てきた。
「こいつ、俺の後ついてくるんすよ」
 そう言って彼が無意味に二三歩行くと、猫は彼を追って歩いた。
「…いいな」
 自分の声に私はどきっとした。今日はじめて言葉らしい言葉を発したことに気付いた。
 すぐ目の前に立っている青年を見上げる。彼は黒猫を見下ろしていた。名前も何も知らない人だけど、私は彼と出会えてよかったと思えた。






エントリ15  考え事     黒マテリア


『人は何かの犠牲なくして何かを得ることは出来ない』という言葉をよく耳にする。
言い換えれば、何かしらの犠牲を払えば何かを得ることが出来るってこと?
物を得るには、お金という犠牲が必要……。
それじゃあ、好きな人が犠牲になった時も何かを得られるってこと?

「────い。おい。高橋、聞いてるのか?」
「えっ? あっ、はい」

こんなことを考えているのは、

「郁恵、45ページ(小声で)」

授業中だったりする。

「ん」

私は隣の席の親友、前原望に教えられて立ち上がった。

「An anti-female critic could speak of women and cats as not having team spirit; an anti-male critic, of men and dogs as gangsters」

当てられた文を読み、和訳をする。

「女性をけなす人は女性や猫のことを団体精神を持っていないと言うかもしれないし、男性をけなす人は男性や犬をギャングと言うかもしれない」

「よし! それでここのとこだが────」

私は座ると再び考えた。

今の時間は何を犠牲にして何を得たのかな?
時間を犠牲にして英語力を得た?
……違う。
人は常に時間という犠牲を払っている。
……じゃあ、何を?

授業の終わりを告げる鐘が、私の思考を中断させた。

「次の授業は47ページからだから、各自予習をしておくように。以上!」

私は英語教師の言っていることを流して、窓の外を見続ける。

「郁恵〜。どうしたの? ボーッとしちゃって。らしくない」
「ん……何でもないよ。ちょっと考え事」
「……もしかして好きな人のこと?」
「ちょっ! 何言ってるの、望! 全然違うことだよ」
「そうかなぁ? その慌てっぷりがまた怪しい」
「もう! 望なんて知らない!」

私は席から立ち上がって廊下に向かって歩き始めた。

「冗談! 冗談だってば〜、郁恵〜!」

振り返って微笑む私がいる。

──今のやりとりは一体何を犠牲にして何を得たんだろう?

心の中では相も変わらずこんなことを考えてる私がいる。

──私が得たのは心の安らぎ?

望みに近づき、望の頭を撫でながら笑う私がいる。そしてまた他愛ないやりとりが始まる。

──私は何を犠牲にして何を得たんだろう?

こんなことを考えながら、私の一日が過ぎていく。






エントリ16  誰彼刻     石垣 供期


「あ――れ?」
キュン、とワックスを掛けた様に視界がぶれた。

「・・・どうかした?」
「―――さあ、なんとも」
利用者が少ない。
放課後の図書室は静かだ。
「そう、でも暇ね」
赤い図書室。
まるで伽藍だ。
「うん、なんで皆本読まないんだろ」
「さあ?面白くないんじゃない」
確かに、余り面白くは無い。
「・・・えーと、峯岸さん?」
「はい?」
「暇じゃないのかな、って」
「うん、割と」
「そうか、なのにサボんないで来るのは偉いね」
「別に、家に帰っても暇だしね」

帰り、目医者に寄った。
異常無し。ただにして貰った。

次の放課後。
「や、早いね」
最も、彼女とはクラスが一緒なのだから顔だけは朝から見てる。
「こんにちは」
赤い夕日。
遠く、運動部の喧騒が聞こえる。

不意に、
「―――同じクラスなのに今まで話した事、無かったね」
「うん?」
「私と、塚下君」
「・・・そうだね。図書委員、楽しい?」
「本はね、好きよ。並んでるのが」
綺麗に並んだ背表紙は確かに見事。
燃えるような紅色が、今にも焼きつきそうで不安になる。

夕日が、穿つ。

ステンドグラスみたいなでかい窓。

本が、傷む。

ジリジリと焼付く錯覚。
焦げ付く、本棚。

この光景は、綺麗過ぎて――――目に、痛い。

「・・・塚下君?」
「うん」
「目、痛いの?」
「さあ―――よく、わかんない」
「痛そう。目、押さえてるもの」

今日は先に帰らして貰う事にした。

また放課後。
「人いるの、見たことある?」
「ないけど」
「だよね」
全く、書痴なしだね。
笑ってくれた。
正直、この冗談に気付くか心配だった。

で、また違う日。
「――――痛う…」
まただ、ここに来ると痛くなる。
目の下が、寒い。
眼窩に冷えが溜まっていく。
「…また、目痛い?」
「…ちょっと」
俯く。
「…寒い」
目が、眼球に冷気が染みる。
ああ、こんなに朱いのに寒い。

「・・・寒い?」
「目が、ね。寒い」
眼球が寒さに揺れて、ぶるぶると震える。
やば。眼、零れそう。

――――と、

「あ、気持ちいい」
そっと、顔の上に片手が添えられた。
「暖かい、峯岸さんの手」
「塚下君は、凄い冷たい。どうしたらこんなになっちゃうの」
さあ、どうなってるんだろ。

「ありゃ、真っ暗だね」

で、治った頃にはすっかり日が落ちていた。
ずっと、手も添えてもらっていた。
「もう大丈夫?」
「平気、なんかありがとう。手、冷たくない?」
「ちょっと、ね」
「…ご免」

何気なく手を取る。
「冷た!うわ、マジごめん」
「ん、いいよ」

周囲は真闇、冷たい手。

――あ、いい雰囲気だな、コレ。






エントリ17  虹と     韮補


 霞峪、と街は呼ばれた。
 常に霧で煙り、決して晴れない。
 彼女が越してきて五年、その名前は確かだった。

 だった。

 そう、晴れてしまったのだ。



 晴れが一週間続いて、日は陰る気配もない。
 昼でも薄暗かった景色はすっかり明るさを得て、窓からの陽光は加湿器をかけた部屋の中を意地悪くも延々と暖め続ける。

 そしてノックがあったのは、恨みの視線を太陽に投げた、そのときだった。

「だれ?」

「その声ならもう風邪は治ったかい?
 舞台を再開してくれないかい?」

 咄嗟に出た誰何は彼女に後悔をもってきただけだった。
 風邪を引いたというとってつけた理由は、ここまで長引くとは思っていなかったからだ。
 もうこれ以上この理由で店を休むことはできない。

 開けるよ、
 と彼の口調は許可を求めるのではなく、宣言で。
 回りかけたノブをおさえて、彼女が叫ぶのは必死だった。

「待って、開けないで!」
 アタシまだ干からびたくない!

 喉から出そうになった秘密の三言目はそれでも発せずに。




 普通の人間を好きになったのは多分彼女が物語の姫君ではないからで。
 与えられて育った訳ではない彼女は欲張りで、
 足は欲しいけど、
 声を棄てることもできなかった。

 歌う以外にどうやったら暮らしていけるのか、
 声なしに生きていけるのか、
 彼女はそれが不可能だと思ったから。

 だから泡になって消えることを棄てた。
 お伽噺みたいに綺麗には居なくなれない。
 そして脚の代償はそれだけでは足りないと言った魔女は、海と同じで水があるところにしか暮らせないようにと、それを自分から打ち明けられないようにと。

 晴れた今、扉を開けられてしまったら!

「大丈夫だよ」
 無責任な声はそう続けるけれども。

 駄目よ、出られないの、今表に出たら!

 何とかして帰って貰わなければ。
 彼女の頭は必死に考えて、だから手から力が抜けたのは当然だった。
 気付けばノブは回りきっていて、叫び声は押し留めた。

 綺麗には消えられない。
 だからせめて、最後に耳障りな声は残したくないと。
 目をぎゅうと閉じて。


 たっぷり数瞬をおいて、
 再び目を、開けられるとは思わなかった。


 ――虹が……。

 晴れたままの空と、ドアの向こうの虹、満面の笑みを浮かべる彼と。
 声が出なかった。

「大丈夫だろ、人魚姫?」

「……知ってたのね」

 やっと出た声と笑みと。
 涙は、店まで続く家の壁に貼られた不格好なパイプを歪ませた。
 霧のような細かな水滴は舞い上がる。

「スポットライトを避ける歌手なんて今までいなかったからね」



 半年が過ぎて、この街の名物は霧ではなくなって。
 虹と歩く歌姫は、王子様とではないけれど、幸せに暮らしているとか。






エントリ18  PLAY     emu


 好きで、好きで、好きで。一日に一度は必ず顔を思い描いてしまう。

 ふとした瞬間、てヤツですか?
 御飯食べてる時とか、テレビ見てる時。ゲームしてる時とかね…。
 またそのゲームが、キミに借りているアレ。ロールプレイングなんだけど、チューのシーンがあるヤツ。
切なくなるんだ。最近チューしてないな、なんて。しかも主人公がキミに似ている気がして、余計にキューンとなっちゃうの。
まあ、似ているなんて勝手な思い込みだから友達には言えないよね。
もちろんキミにも。
 これ、返しそびれちゃったね…。
 ああ、この前素敵なクリスマスカード見つけたんだ。一年前、クリスマス何欲しい?って聞いたら
「綺麗なクリスマスカード」
って。あの時に負けない位、素敵なの見つけたよ。だからそのカードと一緒にゲームも送るよ。次に貸す約束があるって言ってたもんね。
早くクリアしなきゃクリスマスに間に合わない。頑張るよ。
 一年前に借りていたゲームなのに始めたの一週間前だからさ。かなり気合いいれないと間に合わないな。いつでもすぐにキミに返せると思っていたから急ぐ必要もないかなんて考えてた。

 ごめんね、いつも自分勝手で。あの時も、自分の方が忙しいなんて思っていたから、休日はずっとキミと一緒に居たくて、キミの都合なんて考えてなかった。恋人なんだからキミも一緒にいたいよね?って勝手に思ってたんだ。
 もちろんキミはキミのやり方で好きでいてくれたのに…。
 どうしてそれに気付けなかったんだろう。

 好きで、好きで、好きで。何も見えなくなってしまっていた。
 一番大切なキミすらも。

 思い出に縛られていては次に進めないのはわかっている。でもそうじゃない。縛っているのは弱い自分自信。

 キミはもう次に進んでいる。そんな所にカードを送るなんて未練がましいなんて思われるかもしれないけど、ゲームをクリアしてキミとの物語もクリアしてしまいたいんだ。ハッピーエンドじゃなかったけど、クリアしなければ次に進めない。
 
 忘れる事なんてできない。忘れる必要はない。
 キミとの物語りは宝箱がいっぱいだった。経験値もたくさん上がった。
 その思い出で強くなれる。次の物語りに挑める。

 好きで、好きで、好きで。だから強くなれるんだ。
 
 楽しい物語をありがとう。
 あ、でもクリアまでもう少しかかりそうなんだ。もう少しだけ待っててくれる?
 
 クリスマスまでには間に合わせるから。






エントリ19  辿り着く場所     如月ワダイ


 扉。
 開いていたんだ。
 だから僕は何のためらいもなく入った。朝になれば太陽が東から昇ってくるように、自然な足どりで。
 中は真っ暗だったが、かろうじて足元だけは見えていて僕が来る前に何人もこの扉をくぐった様子で、いくつもの足跡が残っていた。小さなものから大きなものまで。はてには人じゃない形のものまである。僕は少し安心を覚え、前に進む。
「こ、来ないでくれ〜!」
 突然の叫び声。
 そして、
 音にならない断末魔。
 僕の足は止まる。
 周りが暗いため距離感はわからないが、そう遠くはない。引き返そうと後ろを向くが扉は見当たらず、ただ暗闇が広がっているだけだった。
 僕はとてつもない不安に襲われる。そして思考。
 なぜ、ここまで来たのか。
 なぜ、僕はここにいるのか。
 なぜ、一人でいるのか。
 なぜ、
 なぜ、
 なぜ……?
 暗闇で自分の足でさえ見えなくなってきている。もう誰の足跡も見えない。身体は動くことさえ不可能になってきていた。思考だけが、かろうじて動いている。
「かつや」
 思考と思考の隙間から声が零れる。
 一瞬の声。
 一瞬の横顔。
 あれは誰だ?
 丸く暖かい風を運んでくれる。僕が何処にいても幸せを感じられる場所だったような気が……。あの場所から僕はいつ離れてしまっていたんだろうか? 遠い昔だったような、最近だったような。それさえも覚えていない。僕は何をしていたのだろうか?
 こつこつこつ……。
 何かが近づいて来る。きっとさっきの叫び声を上げさせたモノだろう。決して、温もりをくれていたモノではない。
 暗闇を見つめる。もう僕が何処から来たのかさえわからない。だが一つわかることは、この先に道などないということ。ここに来るまでの道にはたくさんの足跡があったが、きっと出口には誰も辿り着けていないはずだ。いや、ここに出口などもとからないのかもしれない。必要のないものなのだから……。
 足音が近づいて来る。僕は先程の人のように無様な声は上げない。僕の後から来る人に、ここに何がいるのかを教えたくないだけかもしれないが、そうではなくこれは親切心だと思いたい。そう、これは最後の善のココロなのだ。
 そしてそのモノが僕の目の前に現われた。暗闇なのにその姿はよく見える。それでも僕は声を上げない。これは善意だと信じて。そして最後に思った。
 出口はこれか……。






エントリ20  (それは)(とても)(寛大な)     閑流


「だからちょっと、行ってくる」

いつかなくなってしまうんだろうなあという不安がある。いつか消えていってしまうんだろうなあと不安になる。大切なものなんてほんとうはもうどこにもないんじゃないかという強迫観念に囚われている。大切にしたいものだってないんじゃないかとだれかがカーテンの隙間から囁いていた。気がする。鍵を閉めろ。なくなってしまったら、ああもういいやという気分にいつの間にかなっているのだろう。そうして怠惰で退屈な自問自答の繰り返しを続けてはまた不安になっていくのだろう。それさえも不安要素だと、そう言う?

「うん」
「強くなってくるよ」
「周りをよく見なさい」
「…」

悔しいよ悔しいんだよ。侮辱されるよりかなしいんだ。穴に潜って息を殺してそのままどっか消えちゃいたいんだよう。わかるかこの気持ち。わかってたまるかこの思い。わかる?技量不足?才能不足?なんとか言って答え出てるんだろう?期待なんか最初からしてないように見せるからさ、ねえ。期待してしまうんだよ、何を考えてるのかわからないから余計に。

「強くなることが、正しいこととは限らないし、」

「君より強い人なんていくらでもいるの」
「それは、」
「だから君は、その人たちより強くなって」

「絶対に強くなって帰って来るの。絶対よ」

「…うん」
「お土産買ってきてね」

どうしてそんな素直なのかなあ。泣いちゃうよわたし。わたしが必要としてるだけなのにわたしを必要としてるなんて言わないで?一方通行だから救われてるの。お互い想い合ってたら苦しくなってしまうよ。大好きよ。ほんとうに
大好き。でもあなたはお願いだから、わたしを好きになんてならないで。こんなわたしを 好きになんてならないで。

「土産になるようなもん無いかもしれないけど…」
「いい子だね。君は、ほんとうに」


傍にいてください。側にいてください。
あなたにできることはそれしかないけれど
あなたにしてほしいことは、たったそれだけのことです。

抱えてるものが大きすぎて手を放したときに転がっていったたくさんのものが唸りを上げて襲いかかってくる。命尽きることに恐怖を感じていない。果てるまでこっちに一筋の血を流させようと牙を剥いて爪を立てて威嚇する。血なんか流れることがないのは知らない。血なんて流れたって痛みを伴わないことを知らない。なおも士気を失わず立ち向かって来る。両手を広げた。もう一度彼らを自分のこの腕で守れるように。






エントリ21  螺旋     熊田 聡


 なぜ、俺の隣に俺がいるのだろうか?

 朝、居間のソファで座ったまま寝ていた俺が目を覚ますと、俺の横に俺がいた。俺が起きたと同時にもう一人の俺も目覚めたらしい。しかし彼は俺に気づいていない。彼は起き上がり洗面所へと向かっていった。俺は彼についていった。鏡に映った彼は俺と瓜二つである。彼は顔を三回洗った後、台所へ行き、トースターにパンを入れた。そしてトースターの目盛りを三と三分の二のところに回した。彼の一つ一つの仕草が俺とそっくりである。俺は起きてから、彼に何度も話しかけているが、彼は聞こえていないふりをしている。何も答えない。いったいどうなっている?これは夢なのか?考えれば考えるほど頭の後ろの方が痛みだした。

彼は朝食を済ませた後、俺のスーツを着て、俺の鞄を持ち、俺の靴を履き、いつもの俺のように出勤しようとしていた。俺は彼と同じようにスーツを着て、彼の後をつけた。マンションを出た直後、大家に出会った。大家はもう一人の俺に気づき挨拶をした。彼は大家に、いつも俺がするように挨拶を交わしていった。大家はニコリと笑い、通り過ぎていく。俺に気づかずに。道行く人たちはもう一人の俺に気づくが、俺には気づかない。俺は透明人間にでもなったのか?しかし、洗面所にあった鏡に俺はもう一人の俺と一緒に確かに写っていたはずだ。色々考えているとまた頭の後ろに痛みが走った。

もう一人の俺と俺は会社に着いた。俺が働いているのは一流と言われている広告代理店である。社員のほとんどは有名大学出身者であった。そういう俺もW大学出身でこの会社ではエリート街道を進んでいる。二十七歳で本部長となり、年収は同世代の二倍以上は得ていた。部下には自分より年上が多くいる。そういう態度をとられてはいないが、俺は嫌われていることはわかる。俺は昇進のためにいろいろと汚いことをしてきのだ。

会社の連中も俺には気づかなかった。もう一人の俺は俺の代わりに仕事をしていた。俺はただそれを眺めているだけだった。そういえばまだ朝食も食べていなかったなと思ったが、全く空腹感を感じなかった。胃が無いように感じられた。それにしても違う視点から見る俺は、新鮮であり、なぜか懐かしく見えた。そういえば、こうなった原因は何なのだろうか?俺の身に何があったのだろうか?昨日から今日にかけて何か起きたのか?また後頭部に痛みが走った。今までに無い痛みで俺は失神してしまった。

気がつくと、夜の十時を回っていた。会社の中には俺と俺しか残っていなかった。もう一人の俺は何か考え込んでいる様子だった。そこに一本の電話が鳴った。彼は即座に電話を取り、企画書のようなものの裏に何かをメモし、電話を切った。彼はすぐにそのメモの部分だけをちぎり、会社を後にした。

彼がたどり着いた場所は、ひと気のないガードレールの下であった。もう一人の俺はいつになく真剣な、というより何か切羽詰ったような表情をしていた。この顔を俺は何となく覚えているような気がした。その時一人の男がやってきた。その男は笑みを浮かべながら俺に近づいてきた。いかにもうさん臭かった。男はもう一人の俺に対し何かを言ってきた。ガードレールの上で電車が通っていたため、何を言っているのか聞き取れなかった。その瞬間、もう一人の俺が男にかぶさった。彼の右手にはナイフが握られていた。男は不意をつかれた顔をしていたが、それもほんの一瞬で、すぐに恐怖に怯えた表情と化していった。もう一人の俺も怯えた表情をしていた。そして男にナイフを刺したままその場を去っていった。男はもうすでに息絶えようとしていた。俺は唖然とした。俺が人を殺す?しかも、なぜこの場面を俺は知っているかのように感じる?そう思った瞬間、また激痛が走り、俺はその場に倒れた。

 気づくと、時刻は深夜二時を回っていた。俺は、何かに引っ張られるように自分の家にたどり着いていた。部屋は暗かった。ベッドの上にもう一人の俺が座っている。彼の目は焦点が合っていなかった。そのまま一時間が過ぎた。なぜか俺の心臓の鼓動は速くなっていく。もう一人の俺が急に立った。そして引き出しから普通よりワンサイズ大きいカッターナイフを取り出した。俺はすぐに気づいた。自殺する気だと。そして勢いよく右手で左手の手首を切った。その場で俺は嗚咽した。口からは、何も出てこなかった。


俺は全て思い出した。このもう一人の俺は昨日の俺だ。いや違う。死んだ日の俺だ。俺は何度もこの日を過ごしてきたような気がする。俺はこの日の朝になると、記憶がリセットされているのだろう。自分の保身のために人を殺したが、そのことに耐えられず自殺したことを。この日から何日、いや何ヶ月、もしかすると何年も経過しているのかも知れない。毎日この日が繰り返されていく。誰にも気づかれず、なぜもう一人俺がいるのかと疑問を抱きながら。

地獄だ。神からの罰なのだろうか。人を殺したことに対してか、自殺したことに対してか、それとも他に原因があるのか。きっと俺はこの連鎖からは逃れられないのだろう。この気づいたことはリセットされ、何も知らず不思議がりながら、自分が自殺する時まで過ごすのだろう。そしてこの、これ以上ない衝撃と自分の行為の後悔を俺は毎日受ける。毎回こんな苦しい思いをしなくてはならないのか。この日のことを知っていたらなんと楽なことだろう!そして、この更新されない螺旋の中に閉じこまれたまま、俺は深い眠りへと落ちていった。


 朝、目が覚めた。
 なぜ、俺の隣に俺がいるのだろうか?