しとしと雨が降る。木々は涙の重さに耐えかね、ついつい長く伸びきった手をだらんと垂らす。それは私の喜びを増長させる。卑しき笑みを浮かべた己の顔を見ようとし、怪しく揺らめく水面を覗く。そこに移った我が顔は例えようのないほど美しい。美しい。さぁ今から愛しきものに逢いに行こう。其の者に逢える喜びか胸が漫ろとはやりだす。軽快な足取りはさえずる小鳥の警戒を招き、あたり一面に孤独という名の都を与える。うっそうと木々の生い茂るところまでやってきた。あぁ見えてきたではないか。数メートル先の木の本にて眠る君、愛しき君。寄りて抱き寄せると愛しさが、増す。この光景は異様であろうか?小鳥に処々ついばまれた皮膚や、腐敗し始めた君の全身、ところどころ輝かんばかりにちらと覗く君の白き骨などはダイヤよりも美しい。あぁ、今でも君の体に残る我が爪の跡は誰が描いた絵に劣るというのか?今死の香りを漂わす君に口付けする。そして君の肉を一口かじり、我が体の一部とす。君も真っ白になってしまったら、また新しい君を探さねばならない。私は君の隣の隣で眠る白き君に、そっと微笑み尋ねてみるのであった。「さぁ、君はどこにいるだろうか」と・・・。
舗装もろくにされていない山道を一台の輸送車が進む。がたがたと車体を震わせて、確実に歩を進めるようにゆっくりと。乗員は少なかった。服装から軍人であろうとうかがえる男が数人。会話はない。おのおの、離れた場所に座りむっつりと押し黙っていた。その中の一人、中山はぼんやりと外を眺めていた。風景を楽しんでいるわけではないらしく、彼の眉間には幾本、筋が刻まれていた。彼はしばらくそうしていたが、ふぅ、と一つため息を落とすとまぶたを閉じた。視界が闇に包まれる。と同時に黒い肉の幕に浮かび上がる一つの映像。明るすぎて白く光る夏の日差し。その光を受けてい草の香りを漂わせる緑の畳。目の前に座る両親。父はあぐらをかいて腕を組み、眉間にしわを寄せながら言った。「この作戦に貴官が加わることを命ずる」一瞬、俺の思考が白く塗りつぶされた。頭の片隅に残った理性が拒否しろと叫ぶ。だが―――。「身に余る光栄です」軍人である自分が俺の理性を裏切った。自分は、目の前の男を、父である前に上官だということを認めたのだ。父の隣に座る母が、ぎゅっと唇をかみ締めて俯いた。父は目をつぶり、大きく頷くと、おもむろに立ち上がり、廊下へと向かう。部屋を出る前に立ち止まり、背を向けたまま言った。「すまない」―――ドウシテアヤマルノ。その言葉を聞いて母が、わっと泣き出す。肩を震わせ、息を詰まらせて。―――ドウシテナクノ。ぴしゃり。と音をたてて障子が閉められた。父の影が障子に映っていた。小刻みに震えている。―――タダボクハ、父の足音が遠くなるほどに母の慟哭が近くなって。―――ホメテモラエルトオモッタンダ。自分の頬を暖かいものが一筋、流れ落ちたのを感じた。 中山はゆっくりと目を開けた。後方に流れていく木々が視界に映った。―――まただ。中山は、はあっ、と大きなため息をついた。額に手をやると、じっとりとした冷たさを感じた。服が肌に張り付いて気持ちが悪い。中山は、車窓を開いた。ぬれた皮膚に風が心地よい。大きく深呼吸をする。「あ」中山は思わず声を発した。風の中に含まれた異質な香り。かといって不快ではなく、懐かしさを感じる。これは―――。突然林道が開けた。そこに広がる二つの青。限りなく広がる空と。「海だ」中山はその情景の美しさに息を呑んだ。特別攻撃隊。略称、特攻隊。その部隊に所属する中山が、おそらく最後に訪れる場所。中山はそのことを忘れて、しばらく死の玄関に見とれていた。「なんて美しいんだろう」中山はそう呟くと再び目を閉じた。 深い眠りに落ちるまでそう時間はかからなかった。
白い、ホスピスの壁は冷たい感じもしたし、暖かい感じもした。21で看護学校を卒業し、このホスピスで私は、100人以上もの人の死を目撃した。私が一番悲しいと思ったのは、家族と患者がうまくいかずに、孤立したまま亡くなる方の死の瞬間だった。私はよく泣いた。そして、死というものを深く考えるようになった。ある日、ホスピスに外国人の女性がやったきた。名前をエルと言った。浅黒く、美しい女性だった。エルは末期のガン患者で、余命いくばくもない。25の私よりうんと若いのに、エルの死は近かった。私はエルを妹のように愛した。そして毎日、「あなたは、尊い生命を生きていますよ」と幾度も言い続けた。エルは苦しくてよく暴れた。私は傷だらけになって、エルを一晩中抱いていたこともあった。死の恐怖は、奪われる恐怖だ。何もかもを無にしてしまう恐怖だと、エルはたどたどしい日本語で言った。死の間際、エルは「ジャカルタ」と故郷の都市を繰り返した。私は、ひとりぼっちのエルを抱いた。死のうとしているのに暖かい。そして、白いホスピスの壁の中で、エルは、私とほっぺたをくっつけたまま死んだ。小さな十字架を私の手に握らせて、エルは旅立って行った。孤立する家族もいない。エルは不幸だった。エルの十字架を胸に私は今日もまた病室に立っている。ひとは、死ぬことを生きることを真剣に考えないとうまく生きてはいけない。十字架はエルの涙そのものだった。
「あたしとの約束はどうなるのよっ!!」予想通りのセリフだ。 俺と琴夏は今年、沖縄の石垣島に行く予定だった。ところがその予定は俺の働いているテレビ局の上司の「あぁ、この日会議ね。」という一言で全て消えた。俺はそのことを琴夏に伝えた。そして今に至る。 「もぉっ!!晴信があたしの誕生日に旅行するって言い出したくせに。」「ホント、悪い。すっごい大切な仕事入っちゃって。」琴夏の右ストレート!!!見事に決まった。「何?言い訳しちゃって!!男らしくないっ。」「うぅ・・・・でもこれは痛すぎ。」「晴信のバカバカバァァカ!!!!」これ以上ここにいたら死ぬだろうと感じ、俺は琴夏の家を出た。 「そこまで言わなくても・・・・。」俺は何気なくケータイを開いた。ふと、琴夏から来たメールを見た。「あたしね、石垣島から海が見たいの。」(海・・・・。)俺はテレビ局へ向かった。 琴夏の誕生日が来た。俺は琴夏の家へ向かった。「琴夏。いる?」「・・・晴信?何の用なの?」琴夏は完全にいじけていた。「誕生日おめでとう。はい。これ。」俺は琴夏に封筒を渡した。琴夏はそれを受け取らなかった。俺はテレビのチャンネルを変えた。「ちょっと・・・見てたのに。」「いいから。いいから。・・・じゃ。」俺は家を出た。「では、岸田晴信リポーターが石垣島を取材してきました。 ・・・・・ こんにちは。岸田です。今回は、石垣島の・・・・・」「晴信!?晴信なの?」琴夏はビックリしてテレビにしがみついた。番組では、石垣島の周りの海の様子がうつされていた。琴夏は手紙を開いた。「誕生日おめでとう。プレゼントがこんな形になっちゃったけど、気に入ってもらえた? PS・石垣島の取材頼むの、大変だったんだから・・・上司がなかなかOKしてくれなくて。」「っのやろ・・・・また言い訳?」 テレビで晴信が話していた。「この景色、気に入ってもらえましたか?」「気に入ったよ。」琴夏は独り言を言った。
ごちそうさま、あたしはごくっとどろどろした精子を飲み込んだ。にこっと笑って、清の唇に軽くキスした。好きだよ。 うん、うがいしてきな。優しく言う清に、あたしはキスを軽くしたわけを話してやりたかった。どうでもいい。それが今のあたしの清に対する率直な気持ちで、でもよく考えると違うんだ。清といる限りバッドガールにはなれない。あたしたちはお互いの自我を消滅させあって生きている。清の住む団地の洗面所にある歯磨き粉で汚れた鏡を見ると、そこには清楚なあたしがいた。中身が汚物並みってことを知っているから、あたしは目頭がジンジンいうのを感じた。清があたしを呼んでいる。どうした〜?早くこいよ〜。いつもと変わらなく優しい感じ。清らかさ漂う感じ。清。あたしだけだった。あなたは自分がみえる?あたしだけ、自分がみえないの。歯磨き粉の点々で消えかかってるあたしを笑わせて、清の腕の中に滑り込んだ。ここから生まれ変わる事を夢見て。 ※作者付記: あたしという第一人称が好きなんですよ。
一体どうしてこんなことになったのか。 私がため息を付くと、先輩が心配そうに顔を覗き込んできた。 「疲れてるのか、木崎。それなら俺一人でも……」 私は慌てて手をぶんぶん振り、箒を持ち直す。 「いいえ大丈夫です、早坂先輩。」 そして先輩から少し離れ、掃除を再開する。 全くもう、ユリったら。 「誕生日プレゼント!」 なんて、科学部でもない私に理科室の掃除当番押し付けて。それでもこうして大人しく掃除してんのは恋が故。ユリって本当にずるがしこい。全部お見通しなんだから……。悔しいけど、プレゼント有難く頂くわよ。 でも、私が本当にプレゼントを貰いたいのは……。 私は切ない眼で先輩をちら、と見た。 首を振り、今まで以上に箒を激しく動かす。 無いものねだりしたってしょうがない。今は取りあえず、先輩と掃除、頑張ろ。 そして私はふと、ユリが前に話していたことを思い出した。 「うちの学校の理科室って設備はいいんだけど、部屋のつくりが古いんだよねー。何箇所か床板が外れかけてんの。部員は場所を把握してるからいいけど、見た感じじゃ全然わかんないのよ。もう危ないったら!」 そうか。私も気をつけなきゃ……そう思い、一歩足を踏み出したその時。私が踏んだ床板がガクンと大きく揺れた。 「……!」 箒を取り落とし、身体が前へつんのめる。私の眼の前には、所狭しと薬品のビンが並べられたガラス棚が。 「きゃ……!」 思わず悲鳴をあげかけると、ガラス棚と私の間に先輩が素早く滑り込んだ。抱きとめられたその瞬間、ふわりと暖かさが私を包む。 先輩は私を立たせると、さっきと同じように心配そうに私の顔を覗き込んだ。 「危なかった……大丈夫か、木崎?」 「大丈夫です、先輩……」 答え、私はしばらく先輩の顔を見つめていたが、思わずフフッと笑ってしまった。 「どうした?」 「いえ、何でも」 ……プレゼント、貰っちゃった。
「****年、ついに人クローン法成立!」ある日の午後「あっ危ない!」ぐしゃっ病院「痛い!先生、早くどうにかして下さい!!」「ふむ、大分やられましたね。交通事故ですか?」「そんなことより早く・・・腕が・・・」「あー、これはひどいですね。この腕は切断したほうがよろしいですね。」「なんですって?!冗談じゃない!せっかく会社が変わってこれからって時に・・・」「ご心配なさらずに。今の時代、腕の一本や二本すぐに再生できるんですよ。この前なんて体が半分にちょん切られた人が運ばれてきましたけどね、、今はもう元気でピンピンしてますよ。」「それは、知らなかった・・・とりあえず何でもいい、痛くてたまらないから早くしてください」「では、ここにサインを。なに、心配する事はありませんよ」二ヵ月後「先生、ありがとうございます。おかげでほら、このとうりですわ!」「今日で退院ですね、おめでとうございます」「しかし、すごいですね。指紋からほくろの位置まで、全て完璧に再生できるものなんですね!」「医療技術の賜物ですな。はっはっは」ある、郊外にひっそりたたずむ施設「先輩、bX98265Mの右腕は切除して送りましたが、残りの本体はどうしましょう?」「ああ、そこのボタンを押したら自動的に焼却されるようになってるよ。別に興味があるなら解剖して捨ててもいいし。ご自由に」「しかし、いいんですかね。複製が何体もあるなんて本人も知らないんですよね?複製を覚醒させないでいるからいいようなものの」「ああ、君はまだここに来たばっかりだったな。なあに、すぐに慣れるさ。今まで何も問題にあがってないんだし大丈夫だよ。実際、これで何人もの命を救っているんだからね・・・」
大学を卒業して以来、毎日のように職探しを続けていた僕は、ある日、不況の影響でごったがえした人混みの中に、懐かしいある人物を見つけた。 掲示板に貼られたごくわずかな求人情報を、食い入るように見つめている細く背の高い一人の男。 歳は50前後といったところだろうか。その、日によく焼けた皺の多い横顔から、けして楽には生きてきていないであろう日頃の苦労がうかがえた。 僕はその顔に見覚えがあった。というかその面影は、なぜか幼い頃からずっと自分の心の中にあった。 だから確信があったのだ。 間違いない。あの人は「知らない人」だと。 時代は僕が小学校の頃にさかのぼる。赤ん坊の頃に父を病気で亡くしていた僕は、小さなボロアパートで、スーパーで働く母親と二人暮らしをしていた。 質素ではあるがそれなりに楽しい毎日で、生活が苦しい中にも、母はいつも笑顔を絶やさずにいた。 そんな生活の中、僕が小学校に上がったある日のことだった。いつものように六時間の授業を終え帰宅した僕は、見慣れた狭い間取りの中に、見慣れない顔を見つけた。 小さなテーブルに肘を付き深刻な顔をして母親と向かい合っている一人の男。「ただいま」 思わず小声で呟いた僕に、母はいつもの母らしからぬ笑顔の無い顔で、「おかえり」と言った。 向かいに座る男は、僕の顔を見て少し引きつったような、無理な笑顔を作っていた。 僕は小さく会釈をしてから、小声で母に問いかけた。「お母さん、この人誰?」 すると母は困ったように笑って言ったのだ。「知らない人よ」と。 僕は驚いた。だって、どうして母は知らない人を家へあげたりしたのだろうかと。そして、どうして知らない人と向かい合わせに座っていたりするのだろうかと。いろいろと聞こうとした僕の背中を、母は「あっちに行ってなさい」と強く押した。 母と二人で暮らしてきて、そんなことは初めてだったし、なによりも笑顔の無い母の顔を見たのも、きっとこれが生まれて初めてのことだった。 その時からだ。僕の心の中には何故かずっとあの男の面影があった。 僕は、求人情報を見るふりをして男の隣に立った。 そして自分よりも随分と背の高い位置にある顔をそっと見上げてみる。 やはり子どもの頃に一度だけ見た、あの「知らない人」の顔に間違いなかった。 しかし男はそんな僕に気が付くはずもなく、あいかわらず必死になって求人情報を見つめていた。 僕は、今にもあふれ出しそうな思いをぐっと押しとどめて、他人のふりをして隣を通り過ぎ、心の中で呟いた。『がんばってね。お父さん』 ほんの一瞬だけ、背中越しに父の視線を感じた気がした。
「ぎゃーーーーー」」朝、ママの悲鳴で起きた。だだだと階段を降りると、愛犬のみちこ(3歳。ダックスフンド。メス。)が突然子犬を産んでいた。「みちこお、みちこちゅあーーん」母はただおろおろしていた。「あんなろーー」父は子犬を見て、ボルテージを上げていた。子犬を見たら、父親は明らかにお隣の馬鹿犬、チイタロー(2歳、柴犬、オス)であった。「なんかあーこの頃太ったと思ったんだよねー」と、私。「お前がちゃんと見てないからだぞ」とパパはめちゃくちゃ怒っている。「わーい」何も考えてない私は6匹もいるみちこのあかちゃんの前を眺めていた。・・・そして、2ヶ月。子犬たちはかわいい順番にもらわれていった。しかし一匹、顔が柴犬で、体がダックスメス一匹が残ってしまった。私はその一匹に「変子」と名前を付けた。ああ、売れ残りという点で私と非常に共通している・・・。私は変子をとっても大事にした。そんなある日、変子を獣医に連れて行った。そのとき、めちゃくちゃきれいなダックスを見つけた。変子はいっぺんに発情して、「してして」ポーズをしたが相手にされない。「すみません」と私は真っ赤になって美しいダックスの主に謝った。ふと見ると、その主はとってもいい男手あった。私は獣医通いをはじめることにした。ダックスの主は宮本さんといって、26歳の若手の銀行員であった。もちろん独身である。ある日、獣医に行くと、宮本さんが「ちょっとトイレにいきたいからこいつ抱いてやってください」と美形ダックスマックスを私に預けた。私は、ものすごく悪いことを考えた。そして、マックスを変子と一緒にソファーの下に入れた。おけつの下でマックスはきゃんきゃん鳴いていた。そして、2ヶ月後、変子はママになった。どういう訳か、子供はみんなマックスそっくりであった。私は宮本さんと結婚することになった。めでたしめでたしな物語であった。
私は隙をうかがっていた。庭に雀が降りてきている。飛べるようになってから間もないようで体も小さい。私が殺気を放ちながら見つめていることにてんで気づいていないし、食料を探すのに夢中なようだ。フゥゥゥ。獲物の無防備な姿に思わず声が漏れる。集中しすぎると気合が抑えきれずに声になって漏れてしまう。これが原因で私は今までに何回も狩りを失敗している。そのつど改めなければいけないと反省するのだがいざ獲物を前にすると途端に頭が真っ白になってしまうのだ。口の中に広がる柔らかな血と肉の味。思い描くと私の心はもう制御できなくなってしまう。しかし本日の獲物は楽勝そうだ。まだ危険に気づいていない。獲れる。思い切り力をため獲物に向かって飛び掛る。瞬間、ガツンと強い衝撃。私の体は見えない硬い壁に強く激突した。どさりと落下する私の体。なぜだ。事態が把握できず混乱する私。その間に獲物はわが身に迫った危険をようやく察知したらしい。チチチと派手に鳴きながら慌てて天高く羽ばたき私の手に負えない場所へ逃亡した。私は強打した額からじんわりと伝わってくる激痛を涙目でこらえながら叫んだ。なぜだ!? 「アホやなぁあんたは」 私は窓越しに雀を威嚇し、飛び掛り、そしてガラスに激突し、八つ当たり気味に雀が消えた空へうなり声を上げるかわいい飼い猫ミルクを抱えたが彼女は不機嫌そうに手の中から逃げていった。 ※作者付記: 結構よくある光景なんじゃないかと思います^^タイトルは「動物のお医者さん」から引用しました^^
困った事がある。 真夏の夕方、時たま、彼女は嬉しそうに叫ぶのだ。「雷龍がうねり飛んでる!」 ドライブの帰り、今日も彼女は助手席で歓声を上げる。「お前ネェ」俺は横目で睨む。「そういうコト言うか」 しかし小言を気にする彼女ではない。「ほら、雲の中を横に走り回ってるよ」 昔の人が雨乞いを龍神に祈った気持ちがわかるなぁ、とか感心しているが、古代ロマンより現実は大切だ。「夕立の土砂降りで、雷が鳴ってるだけだろ!」 ワイパー全開でも弾けた雨粒は視界を塞ぐし、ラジオを消し去る雨音に四方から圧迫され、追い討ちに(彼女曰く)「鬼が大岩を転がして遊ぶ」ような雷の音が絶えない。 真夏の夕立なんか最悪だ。ついでに、俺は雷なんぞ大ッ嫌いだ! しかも、今日は久々デート。楽しい1日と心地よい疲労に包まれ、口数が少なかろうが落ち着いた雰囲気を満喫できる至福の余韻。 それをブチ壊す土砂降りは、最悪以外の何だというのだ! しかし、彼女は歓声を上げる。「ねぇ3匹もいる!」 この辺は雷が名物で、要するに珍しくもないが、他県から越してきた彼女は、雲の中を横に走る雷を不思議がる――が、雷を「龍だよ」と、しかも「綺麗だね」なんぞ形容する心理は理解できん。「雷が横に走るのは、落ちる所を探してる。危ねぇぞ」「大丈夫だよ。車に乗ってるから」 親切で忠告しているのに、聞きゃしねぇ。「雷は車の外側を走る。窓に顔くっつけてっと焦げる」 今度の反応は早かった。ピャッとドアから離れて固まる。その子供のような反応は可愛いと思うのだが…… ドガラッシャー!「あ、向こうに落ちた♪」 落雷に顔色も変えず、しかも嬉しそう!?「運転している身になれ!」 俺は怖い。雨で運転しづらいのに雷なんぞ、気が散って仕方がない。 が、俺のプライドなんぞお構いなしに、彼女はケロリと言う。「代わろうか?」 ……非常に悔しいが、この申し出を「ありがたい」と思ってしまう。 が、俺は頷くかわりに、左手を伸ばす。掌をポンと彼女の頭にのせて、撫でてやる。「いいよ。楽しんでろ」 彼女はちょっと驚いて、次にとても嬉しそうに笑う。「うん」 元気よく頷いて、最悪の空を楽し気に見上げる。が、今度は静かだ。歓声小さく「うわぁ」キョロキョロしているが、時々前を向き運転に気をつけていてくれる。 ……様子は可愛いんだけどネェ…… とりあえず、安全運転に夕立は最悪だ、とは思う。終わり
本当の自由とは何なのだろう?そんなことを考えながら空を見ていた。あの青い空はいつもこんなことを考えさせる。力があれば得られるのだろうか?金があれば得られるのだろうか?あるいは全てのものを得ている状態なのだろうか?いつも答えは空の向こうだ。俺に一度も姿を見せたことは無い。時間が経てば…大人になればわかるのだろうか?手を伸ばせばとどきそうなのに、触れそうになると辺りは暗闇になる。暗闇?暗闇とは何だろう?夜のことだろうか?もっと暗い。まるでこの世の終わりのような…全ての終わりのような。俺は空を見るといつも考える。答えなんてあるかどうかもわからないのに…「これっ!」さすがに授業中に窓の外を見て考え事はまずかったか、教師に叩かれた。教科書で。「授業に集中しろ」できるわけねーっつーの。優等生ならともかく。やっぱり俺は自由じゃない。誰か俺に自由をくれ!無駄か…誰も自由なんかくれはしない。俺は、いや、みんなはこのまま、いろんなものに束縛されながら生きて、やがて死ぬのだろう。 は〜…本日6度目のため息。自宅に帰っても気分は変わらない「なんか嫌になってきたな…」 自由 じゆう ジユウ…グルグルとその言葉が頭の中を廻っている。「もう死にてぇ」そんな気分だ。もう全てが面倒だ。ナイフを手にした。左の手首に当てる。冷たい…このまま手前に引けば暖かい血が吹き出るのだろう。………何かが見えた。「そうか…」やっとわかった。俺を、みんなを束縛していたもの。暗闇。そして、自由とは何か。「自分だけ自由になるのはずるいな。」1階に下りる。母さんが夕飯の支度をしている。父さんは新聞を読んでいる。二人とも自由にした。次の日「よっ、おはよう。」友人が横を通り過ぎた。「なに持ってんだ? っ!おい!やめろっ!!」友人を自由にした。学校に着いた。みんな驚いている。「なに驚いてるんだ?みんな自由にしてやるよ…」次々に自由になっていく。みんな自由になっていく…そろそろ俺も自由になろう。俺はわかった。俺を、みんなを束縛していたもの。暗闇。そして、自由とは何か。答えに触れそうになると、辺りは暗闇になった。違ったんだ。暗闇が答えだったんだ。自由の答えは最も暗い暗闇だったんだ… ………死に勝る暗闇は無い……… ………死に勝る自由は無い………死亡者数71名。世間を騒がす大事件は、犯人の自殺により幕を閉じた…
あたしは、どうして旅をしているんだろう。あたしは一人で旅をしている。何の目的も持たず、ただぶらぶらと歩き、世界を見てきた。……ただ、あたしはなぜ、旅をしているんだろう。狼のモンスターが飛び出してきた。あたしは、自分の背丈よりも長い杖を振りかざし、呪文を唱え始めた。といっても、もともと背が小さいのだが。モンスターが攻撃を仕掛けてきたが、それよりも早くこっちの魔法が完成した。杖の先端をモンスターに向け、魔法を放った。「ファイヤーボール!」炎の塊が飛び出し、モンスターに当たって倒れた。あたしのような冒険者は平気なのだが、普通の人間が戦うことは難しいだろう。しかも、あたしはエルフ。人間のような姿だが、耳がとがっている。それに、魔法力が優れている。一人旅だったおかげか、まあまあ強いと思う。街に着いた。にぎやかな街だ。あたしより小さい子どもたちが元気に走り回り、何度かぶつかりそうになった。クレープを食べながら歩いていると、ある少年とぶつかった。そのときだった。……クレープを落としたのは。「本当にゴメン!」「いいよ、もう」少年はクレープを弁償し、ずっと謝ってくる。何だかこっちまで申し訳なくなってくる。「そうそう、オレ、クランっつーの。 キミ、冒険者?」「あたしはイヴ。クランも冒険者だよね?」「ああ、剣士だよ」そんなに大きい剣をぶらさげてるとだれでも分かると思うが。「あたしは見たまんま魔法使い」「ま、そうか。普通の人間がそんな長い杖持ち歩いてるわけないよな」あたしは勝手に納得しているクランを横目に、小さくなったクレープを口の中に放り込んだ。クランは、ぽんっと手をうった。「決めた!」「何を?」「オレ、パートナー探してるんだけど、どう?」「パートナー?」「そ、オレが剣士。イヴが魔法使い。 ナイスな組み合わせだと思うんだけど」実際、仲間がほしいと思ったことがあるし、うれしい誘いだった。しかし、今は旅をすること自体、疑問に感じ始めている。クランに、あたしが思うことを話してみた。すると、クランはキョトンとしてあたしを見つめた。「じゃあ、オレも一緒に旅の目的を探せばいいんだよ。 イヴも楽しみながら、ゆっくりとさ」あたしはしばらく考えたが、小さく「ありがとう」とつぶやいた。出発の朝がきた。クランは、あたしに言った。「さあ、『自分』を探す旅に行こう!」とりあえず最初の目的は、自分探しから始まった。
入道雲のそのモクモクを、君は好きだと言った。だから僕は、それを見つける度に真っ先に君に教えた。 それを見ているとなぜか胸が熱くなるのだと、そう言った君の横顔を僕はまだ覚えている。 台風が去った後の暑い朝、僕は陽炎のゆらめく坂道のてっぺんを目指して歩いていた。今朝の君のご機嫌はどうだろうか、今度は僕をなんて呼ぶのだろうか。怖れにも似た感情が、僕の足を鉛に変えた。 辿り着いた施設の最上階、その一番奥の個室に君は居る。戸を静かに開けると、君はまだぐっすりと寝入っているようだった。起こさないようにベッドの側のイスに座ると、僕の体重でイスが耳障りな音を立てた。「……あら、刑事さんがあたしに何の御用かしら。もしかして、また弟が騒ぎでも起こしたの? ごめんなさい、これから仕事だから」そう言うと、君は体を起こして身なりを整えた。「あゆみ、君に弟なんていないだろ? ……それに僕は刑事じゃない、君の夫だ」「失礼ね、あたしが亭主持ちの女に見えて!? これでもまだ19よ!」怒った君は、近くの花瓶をつかんで僕に投げつけた。僕の額から、毒々しい赤い血が滴り落ちた。「……怪我してるの? 大丈夫よ、あたしこれでもナースだから」君は、自分のパジャマの袖で僕の血を拭った。 こんな時の君の穏やかな表情は昔のままで、僕は必死に爆発しそうな感情を抑えた。 君が精神障害の診断を受けてから5年が経ち、2人で始めたわずかな新婚生活よりも、ぼくの施設通いの方が長くなってしまった。もう、君が僕を僕だと認識することはほとんどない。それでも僕は君のもとへとやって来る、君が生きていてくれる限り。 ある日の夕方、僕はお持ち帰りした仕事の山を少しずつ崩しながら、ふと窓の外を眺めた。すると、その窓いっぱいに入道雲のモクモクが広がっていた。僕は家を飛び出し、いつもの坂道を全速力で駆け昇った。施設の廊下を騒々しく走り抜け、君の部屋に飛び込んだ。「あゆみ、外! 雲、でっかい入道雲!」驚いて、君は窓の外を見つめた。「……すごい、何だか胸が熱くなるわ。教えてくれてありがとう」「あゆみ……」僕は、思わず君の肩に触れようとした。「ところで新聞屋さん、今日は集金日だったかしら?」伸ばしかけた手を引っ込めて、僕は何も応えずに部屋を出た。 家路を辿りながら、僕は緩やかに流れる雲を、ただただ睨みつけることしか出来なかった。
俺は手に持った遺書を握り締め、屋上のドアを開けた。「・・・あ」「あ、こんにちは」先客がいた。同じクラスの女だ、特徴が目立たないということぐらいしか無い奴。「こんばんはだろ。夜だぞ」「あー、そうだね」そうだ。人のいない時間を選んで忍び込んだのに何故こいつはここにいるんだ。「あなたも・・・死にに来たの?」「あ?」よく見ると、女は靴をはいていなかった。少し離れた所に白い封筒とともに揃えてある。「お前も・・・か?」「うん」しばらく二人してフェンスに寄りかかり、大して良くも無い夜景を眺めた。「ねえ」「んん?」「いいこと思いついたんだけど・・・あたしの話、乗る気ある?」「言ってみろよ」話を聞いて、乗ることにした。もう、俺達の間には奇妙な連帯感のようなものが芽生えかけていた。その日から毎日、俺達は、朝授業が始まる前、昼休み、放課後、と屋上で自分達が死ぬ計画を立てた。 いい気なもので、生まれて初めての気の会う友人との交流に、自分が死ぬ計画だというのに心が和んだ。「問題はそれをどうやって運び出すかだけど・・・」「そもそも本当にあるのか、それ?」「大丈夫、親がそれ関係の仕事してるから詳しいの」「へえ。 でも若いのはあるのか?」「それも大丈夫、一回お父さんが酔ってる時に聞いたの。戦前のからあるから老若男女揃ってるって」「よっし」またある日は現場にも行って計画を練った。「ここからこう、ほら、こうすれば綺麗に頭が潰れるよ」「えーっと・・・一メートル二十一センチってとこか」「ん、メモメモっと」「なあ」「何ー?」「・・・上手くいくかな」「大丈夫だよ」「・・・かなあ」「そう、大丈夫」こいつの大丈夫は妙に信頼できた。計画決行日。家のを無免で運転してきた原付を踏み切りの前に停める。「それ盗んだのばれてないよな?」「大丈夫、見てたけど何もついてきてなかったよ」相棒が原付から降りて、荷物を縛り付けてあるロープをほどく。「準備出来た。そっちは?」「いいよ」列車の近付く音が聞こえた。人に見られないようにするため、近付いて来るのは貨物列車だ。「ねえ、あの、こんな時に言うのも何だけどさ・・・」「何だ?」「好きだよ」「俺もだ」この日、俺達は死んだ。「ご飯出来たよー」「はいよ、今行く」あれから一ヶ月。俺達は街を離れて安アパートで同棲していた。あの日、確かに俺達は死んだ。世間的には。 実際は盗んできた若い男女の死体を顔が潰れるように線路に投げただけだ。血液型も同じのを使ったから高校生が心中というニュースは何度もテレビで放送したものの、今のところ偽装自殺はばれてはいない。それでも、いつかはばれるだろう。そして死体損壊とか窃盗とかそんな罪に問われるだろう。だから・・・「何笑ってんの? そんなにおいしい?」「ああ、俺は幸せ者だなあって」「ふふっ、恥ずかしいよ」だからこそ今はこのつかの間の幸せを感じていたかった。
「1万人限定宇宙船移民ツアーに家族揃ってもれなくご招待!」 最近巷で噂のキャッチフレーズ。 コーラについてるシールを10枚集めて葉書を送ると抽選で当たるというありふれた企画にこんな大きなもんを持ち込んで来ていいもんだろうか? 案の定、ここのところ暑いせいもあいまって店、コンビニなどに行ってもほとんどコーラが売っていない。 話は変わるが家は貧乏だ。 最近まではごく普通のありふれた家庭だったのだが父がリストラされてからというものろくに働き口も探さず毎日家でごろごろしている。母と私が働いてなんとか生計をたてていたが正直疲れていた。 そんな父が最近何を思ったかこの景品にはまっておりコーラを大量に買ってきては熱心に応募していた。 (そんな暇があるなら仕事探せよ・・・)と思ったが最近父とはあまり口を聞きたくないので黙っていた。 必然大量のコーラが冷蔵庫を占領してしまい私はげんなりした。母がパート先の人にくばっているので減ってきてはいるが。 そんな家族の苦労が報われ移民ツアーに見事当選した。 父は前々から人生をやり直したかったらしくこれを機に社会復帰をしようと張り切っていた。久しぶりにそんな生き生きとした父を見て母も嬉しそうだった。 母はパートをやめた。でも私には少し抵抗があった。宇宙にいくこともあるがなによりいままで自分がやってきたことを捨てることにだ。父は仕事がないから関係ないが私には将来だってあるし今まで積み上げてきたものを簡単に捨てるなんてできなかった。 だが父は言う 「近い将来地球は滅びてしまうだろう。年々温暖化も激しくなっているし各地では戦争も起こっている。早いうちにこの星をでていかなくては後々後悔するのはお前だぞ。」 そうかもしれない・・・でもかといってそんな見つかるともわからない星を探すために私は今までの人生を捨てることなんてできなかった。 結局私は父や母と一緒には行かなかった。 今は親戚の叔母の家に住まわせてもらいつつ学校に通う毎日。将来は介護関係の仕事につけたらと考えている。 父のいうとおり近年地球はどんどん破滅へ向かっている。温暖化、オゾン層破壊、石油漏れ等で海は汚れ資源も底尽きかけている。 時が過ぎた今でも父や母のことを思い出さずにはいられない。 無事たどり着くことができただろうか。目を瞑り私は眼下に広がる星を見下ろし呟いた。 「さよなら第三惑星・・・」
「Sample.No0001? なにこれ?」 川口恭吾の恋人佐々木ゆかりは、恋人の首の後ろを見ながらそう言った。 二人は、異性同士が交尾を行う──ラブホテルという所に泊まっている。 その行為が終わった後、彼女は唐突に質問したのだ。「え? 何? 落書き?」 話を聞き、ベッドの前にあった大きな鏡で、川口恭吾は首の裏にくっきりと浮かんだ文字を確認している。 浴室で洗ってみるが、文字が消えることはない。「宇宙人が付けたものだったりして」「馬鹿。そんなわけないだろ」「じゃあ、秘密結社の実験体?」「お前、この前見た映画の影響受けすぎ」「じゃあ、なに?」「そういや、昔お袋が言ってたな」「なんて?」「俺は一時……神隠しにあったって」「なーんだ、宇宙人と変わらないじゃない」 その後、二人はしばし“Sample.No0001”について議論している。 一時間後、川口恭吾はスーツに着替える。「また国会議事堂?」「そうだよ」「大変ね、議員の秘書さん」「おかげ様でね」 ラブホテルを出る川口恭吾。 歓楽街を歩いていると、妙な男が視界に入る。恭吾と視線があうと、瞬間目を逸らした。「マジかよ」 川口恭吾は男達に背を向け、歩いてきた道を引き返す。男達はその後を追いかける。 歩く。早く歩く。小走り。そして走り出す。男達はなお追いかける。 時折、歩行者とぶつかり、暗い路地を抜け、後ろを振り返りながら、川口恭吾は走る。男達も必死に後を追う。 川口恭吾はある事務所に入った。その周りには「座馬秀和」という名前のポスターが一面に貼り付けられている。 はあはあ、と息を切らして、川口恭吾は奥の部屋へ。そこには男が一人、椅子に座って電話をしていた。恭吾が秘書を務めている座間秀和だ。「はい、わかりました。お手数をかけて申し訳ありません。では──」 ピッと携帯電話を切る。堰を切ったように、川口恭吾は叫んだ。「議員、追いかけられたんです」「どうした? 落ち着きたまえ、川口君」「落ち着いてられますか! 私、変な男に追いかけられたんですよ!」 その声は静かな部屋に、わあぁん──と余韻を残すように響き渡った。座馬はにやりとほくそ笑む。「大丈夫だよ。大先生がなんとかしてくれるそうだ。私達が選挙違反をしたという証拠は揉み消される」「そうですか! 良かった! いや、ひやひやしてたんですよ」 この時、川口恭吾はホッと胸を撫で下ろしている。 ※作者付記: 『Sample File』よりSample.No0001地球人種『川口恭吾』の行動日誌から、2004年7月13日の行動日誌冒頭1000文字を抜粋。※作者注:これはフィクションであり登場する人物名、団体名、出来事等は実在のものとは一切関係がなく、また現実に起こっていたとしても、作者の知る範疇ではない。娯楽作品として楽しまれることをおススメするが、現実に起こっていないという保証は、個人的な思慮において、否定しかねる。
家に帰ると勉強机の上にノートが開かれていた。それは私が毎日つけている日記。顔に熱が籠り赤くなってゆくのが分かる。すぐに机に駆け寄り日記をのぞく。開かれたページには自分の字は書かれていなかった。それはうまいとは言い難い母の字。そこにはこう記されていた。未来ちゃんへお母さん突然いなくなってごめんね。未来ちゃんはいい子、優しい子、どんなことがあっても負けないで。お母さん未来ちゃん大好き、愛してる。遺書?だけど母はいつもどおりに皿を洗っている。1回だけ聞いたことがあった。父と母が結婚するほんの少し前。母の兄が母を精神科に入れると言い出して、父と喧嘩したことがあると。それに、時々母は「殺してやる」とか「お前のせいだ」とか独り言とは思えない声量で言っていた。きっとこうやって書くことで日頃のストレスを発散しているのだろう。このときはまだそう思っていた。遺書と思われる部分は破って捨てようとしたが少し気がひけるのでクリアファイルに入れておく。日記はリングノートなので簡単に破ける。次の日、また机の上に日記が開かれていて、書き込まれている。次の日も次の日も次の日も次の日も次の日も。クリアファイルはパンパンになり、日記はペラペラになってしまった。もう書ける所がなくなり母がどういう行動を取るか気になる。母はその日帰ってこなかった。真新しい墓の前で手を合わす。トートバックからパンパンになったクリアファイルを取り出し、中に入っていた何十枚もの紙を見つめた。頑張って 好きだよ 愛してるそんな言葉ばかり書かれている。それらをグシャグシャに丸めて線香の火を移す。すぐに燃え灰となる。どこからか雫が落ちジュッと音を立て灰が舞う。立ち上がり、服についた汚れをはらって歩き出す。一生なくならないリングノートを探すために・・・
新しい服、新しい時計、新しい筆箱、新しいヘアピン、新しい髪型。新しいモノが好きな私。というか飽きっぽい。買ったモノは1ヶ月足らずで買い換えてしまう。あ、この前買った筆箱は1ヶ月と1日は使ったかな?だけど、こんな私が1ヶ月たっても大事にするモノ……薔薇のハンカチ。ハッキリ言うと薔薇のハンカチは私の好みじゃない。大きいのか小さいのかよく分からない真っ赤の薔薇がいくつもいくつも自分の存在を表している。『コレ……あげる。また会う時まで持っててくれるかな……?』3年前、そう言い残してどこかへ去ってしまった彼。私は彼と付き合っていたわけでもないし、友達でもなかった。ただのお隣さん。なのに彼がこの街を去る時急に家に来て、渡してくれた。『……は?』コレが私の一言。でもコレが普通じゃない? 何の関係もない人がいきなり趣味の悪い薔薇のハンカチを渡してきた!! 私がポカンと口開けてるのに、彼は満足そうな顔をして行ってしまった。何度も捨てようと思った。持ってるだけで、何かナルシストみたいだし、どうでもいい人から貰ったモノだし。だけど捨てられなかった。なんで? なんで? なんで? 実は私って薔薇好きだった? 同情? それとも、恋? ありえないありえない。ずっと3年間悩み続けて結局持っている。答えはまだなし。ハンカチと一緒に彼の顔も忘れられずにいる。決して美男子とは言えないけど、あの満足そうな顔は彼しか出来ないモノだな、なんて思う。たとえこの気持ちがレモンでもリンゴでも、私はこのハンカチを一生持ち続けるのだろう。
「見てる分には綺麗だな。本当に・・・綺麗だ」 そう提督は言った。あのときの言葉を僕は忘れない。 僕が提督に会ったのは、ある夏の日の夜の事だった。塾で先生に成績を馬鹿にされ、コンビニで不良に絡まれ、家に帰ったら父さんは出張、母さんは不倫相手とベッドで楽しんでいる真最中。僕は耐え切れなくなって、母さんと不倫相手に大声で怒鳴ったあと家を飛び出した。何ていったかは覚えていない。母さんが不倫をしていることは知ってたけど、その現場を見るのは初めてだった。その時、僕が感じたのは怒りか、恥ずかしさか、悲しさか・・・多分、その全てだろう。 家を飛び出した僕は、気がつくと夜風を浴びながら橋の上にいた。水面が、僕を招いている。飛び降りてしまえ、何もかも楽になるぞと言いながら。死ぬのも良いけれど・・・どうせなら、もっと別のやり方でここから逃げたい。そう思いながら手すりに手を掛けたその時、後からそれが聞こえた。長々と、恐竜の遠吠えのように大きい汽笛が。巨大な軍艦が僕を見下ろしていた。そして、いつの間に現れたのか橋の手すりに寄りかかっている一人の男性。「とっとと乗りな、船が出ちまうぞ」「え?」「え? じゃねえ、馬鹿かお前。お前が遅いから迎えに来てやったんだ、乗るぞ!」 男性は船乗りの制服を着ていた。僕の腕をつかむと強引に船体についている階段を上り始める。「あ、あの、あなた誰ですか?!」 誘拐されかけているのに、僕の口から出た間抜けな質問を受け、彼は振り返った。「俺か? 提督だ」 それから二時間、僕は軍艦の操舵室から夜の海を眺めている。ほかに船員はおらず、舵輪は勝手に動いている。この船には僕と提督だけだ。「あの・・・なんで僕をこの船に?」 彼は僕の言葉に答えなかった。ただ、闇の向こうにポツンポツンと光る点を指差した。「見てる分には綺麗だな。本当に・・・綺麗だ」「え?」「あの光に戻りたくないか?」 提督の言葉に僕は頷いた。「この船が、お前の願いをかなえてくれるよ」「この船が・・・ですか?」「そうさ。なに、心配するな。降りたくなったら別の同類を捜せ。船が勝手に見つけてくれる」 船が次第にスピードを落とし始めた。外を見ると、どこかの海岸に近づいている。 そして、そのまま静かに砂浜へ乗り上げた。「それじゃ、俺はオサラバだ」 そういって外に出て行った提督を僕は追いかけた。提督の足は速く、既に階段を降り終わるところだった。「あの!」 提督が僕を見上げた。「降りたら・・・どうなるんですか?」「二度とこの船には乗れない、それだけだよ」 提督はそう言うと僕にウインクし、砂浜に着地した。同時に船が別れの挨拶のように汽笛を長々と鳴らし、海へ戻り始める。声をかけようとしたが、汽笛にかき消され、あっという間に提督の姿は見えなくなった。 僕は、海を眺めながら提督に届いたかわからない、最後の言葉を思い出していた。“なんで、この船はあるんですか?” 多分、僕もその質問に答える事は、出来ないだろう。
俺は屋上のフェンスを乗り越えて、一気にコンクリの床を蹴った。少しよどんだ灰色の雲が俺の目に飛び込んだ後、俺はギュッと目を閉じて落下からくる浮遊感に身を任せていた。妙に時間の流れが遅く感じる。そう、俺は今飛び降りたのだ。慣れ親しんだ母校の屋上から…。5階建ての学校。その最上階にある屋上から飛び降りた俺は、未だに妙な浮遊感の中落下し続けている。1分経ったろうか、2分か?衝撃に供えて歯を食いしばっていたのだが、一向に地面にぶつからない。気になって目を開けるとそこには、黄ばんだ歯ニッとむき出して笑っている中年のサラリーマンらしき姿の人がいた。(待てっ!おかしいだろう…俺今飛び降りて、まだ地面じゃなくて…)「何? 君自殺? 何か辛いコトあったの〜?」呑気な声で語りかけてくる中年に、俺は驚きながらも怒りを覚えた。「気軽に話せるコトじゃないっしょ」少し怒鳴った。声はしっかり自分の耳に届いていた。中年はそうか、そうかと軽く頭を下げた。しかし顔には反省の色はなく、黄ばんだ歯が剥き出しになっているだけだった。その態度が俺の怒りを更に煽った。気づくと俺は怒鳴り散らしていた。「おっさんにわかる訳ねぇーだろっ! 俺がどれだけ苦労したか…」俺の自殺の要因は、ありきたりかもしれないが、いじめだ。母子家庭で、母親が夜の商売をしている。クラスの奴らはそれだけで俺を苛めの対象にした。いじめは、暴力から始まり、かつあげ、この前は教科書一式便器に投げ込まれ、水でびしょ濡れだった。それでも俺にはその教科書しかない。思い出すと涙が出てきた。「自分を哀れんで泣いてるの?それとも悔しくて?」中年の問いに俺は、一瞬考えた。「死ねば楽になるとでも?」中年の言葉がやけにハッキリと頭に響く「お前の死は逃避の死?」「違うっ!」とっさに否定の言葉が口をついた「じゃぁ〜何のために死ぬ?」また言葉を失った。なんのために…。考えようとしたその時ドンっ。強い衝撃に襲われた。全身を駆け巡る激しい痛み、思考回路はその痛みに支配され、考えを口にするコトは愚か息さえ出来なかった。地面は赤黒い血に彩られていった。その様子をただただ、見詰めて中年は呟くお前さんはなんで死ぬんだろうねぇ…まったく自分勝手なやつだよでも愉快だねぇ…お前さんが死んでもこの世の中は何もかわりゃぁしないのにさ…さて…次はドコかねぇ…どんな理由だろうねぇ
あの曲が街に流れていたよ二人の曲。やっと、忘れたと思ったんだけどねやっぱり、曲を聴いちゃうとだめだよね自分に嘘を付きとおせないよ思い出に出来るほど、君の事なにも知らないし、いとおしい君しか僕の心の中にはいないんだよこれってずるいよでも、ずるい君もすきなんだ。 くやしいけど。 君の知らない街、君がいるはずもない街でも、そのとき、君との曲が街に溢れているんだばかだろう 君を探してしまったよその曲が鳴り止むまでに君を探し出せれば、また きみに会えると信じて 僕は誰に語り掛ける訳でもなく、雑踏の中に消えていく時間を見送っていた。あれからどれだけの時間が無駄に過ぎていってしまったのか君とともに分かち合えない時間はすべて無駄なものに思え、いつのまにか僕に許されるものは時の傍観者になることだった。 君とはじめて出会ったのは、いつだったかな? どこで? どんなふうに?思い出せないんだよね。だって、気付いたときにはもう僕の心の中に君がいたんだそれが当たり前のことで、なんの不思議もなかったしねこんなこと言えば、君は怒るかな? でも、そんなときでも、君の笑顔しか思い出せないよ。これって、ずるいよね拗ねてもいいから、怒ってもいいから、君に会いたいどこにいるの? 僕の心の中に君を残したまま君はどこに行ってしまったの? どこかの街で、この曲を聴いている君がいるとしたら君もどこかの街で、僕を探してくれているのだろうかでも、僕は隠れたりしないよ街の時計台に上り、一番目立つように君に向かって手を振るよだから、僕の名前を叫んで欲しい何も見ないで 僕だけを見て欲しい こんなにも人がいっぱいいるのにねみんなどこかに帰るんだろうね僕はいつの間にか人ごみとは反対に歩き出し、静けさを求めたのかなあんなにいっぱいいた人たちはまばらになりながら、自販機の光がどこかまぶしげだよ僕自身の靴音が街にこだましだして、それがなぜか滑稽に感じておかしかっただって、一人なんだよいるはずの君がいないんだよ 僕のそばに だから 一人なんだよそれがなぜか滑稽に感じて涙が流れた。 なんか悔しくてね僕は何をしているんだろう?きっと、何もしなかったから、ここに君がいないのだろうってもう一人の僕が呟いていたよ ここって君と歩いた道かな?あまり覚えてないだって、ずっと君を見ていたからね君は気付いていなかっただろうな僕がずっと ずっと 君を見ていたこと あ 雨。なんでかな こんな夜に あの日も君が言っていたよね雨は素直になりすぎるってなにを飾る必要があるのかなって僕はそのとき思った君は君のままでいいのにでも、君はなにかを僕に言いたかったんだろうなそれすらもわからなかった僕が今夜の雨で素直になりすぎて おかしいよね だから 頬にしずくが伝わるよ 見上げるとね雨が瞳を濡らすんだだからね ポケットの中に手を突っ込んでたばこを取り出したんだでもね たばこにね 火がつかないんだよ雨に濡れちゃって たばこがでも、吸いたいんだよだって、君 怒ってくれるだろう「だめ」ってねだから、吸いたいんだくそ、雨で火がつかないよ ※作者付記: 詩のような物語
彼女はコンクリート詰めの家に住んでいた。都会から遠く離れた岩山の奥、彼女は独り住んでいた。 「人間なんて要らないのよ」 家の周囲には枯れ木一本無い。代わりにあるのは一面コンクリートの荒野。初めてこの家に移り住んだ日、彼女は敷地内のすべての土をセメントで覆った。 「木とか草とか、虫けらに無駄な住みかと餌を与えるだけよ。私、自分の回りで生物が呼吸をしているのかと思うと寒気がするの」 家には窓一つ無い。ただ灰色の四角い箱。初めてこの家に移り住んだ日、彼女は敷地内のすべての窓と扉をセメントで塞いだ。 「別に風景なんか見えなくてもいいのよ。私そんなものじゃ癒されないもの」 部屋はただ一面の灰色の壁。生活に必要なものは何一つ揃っていない。ガス室を連想させる、冷たい部屋。それが彼女の唯一の居場所。彼女はその無機質な立方体の中心に無気力に佇む。 「部屋を飾るなんて、意味が分からないわ。結局見栄を張ってるだけなのよ。綺麗な家に住んでるフリ?誰も迎え入れるつもりなんて無いんだから、家具だの調度品だの私には邪魔なだけね」 もちろん食糧も無ければ水も無い。人間が生きるために必要な条件を一つきりだって満たしてはいないその家で、彼女に生きる術はない。窓も扉も塞いでしまった彼女に逃げ道は無く、助けもこない。 「別にいいわ。生きていたい事も無い。そろそろ死に時よ」そうして彼女は死んだのだ。灰色の巨大な棺桶の中。そうして、死んでしまったのだ。人間を嫌い、人間以外の生物を疎み、誰に依存する事も無かった彼女は、独り誰にも知られる事も無く、そうして死んでしまったのだ。僕が全てを知ったのは幾分のちの事、無理矢理叩き壊した扉の残骸の向こうに、彼女の遺体を見た時。眠っているように安らかな表情を見て。生前は常時、眉間に皺を寄せ、何処かいつも苦しげであった彼女の、始めてみる解放されたように安らかな微笑。それを見てようやく僕は悟ったのだった。彼女が何故これ程不自然な屋敷を突然作ったのか。生命体の生存に全く適さない、こんなにも生きにくい場所をどうして選んだのか。彼女の血の気の無い白面が、教えてくれたようだった。 おそらく、彼女にこの家を住居として使う意志は始めから無かったのだろう。この屋敷に人間らしい機能をもたせるつもりなど、毛頭無かった。冷たく堅い、巨大なモノクロームの箱。彼女は、自分の人生に終止符を打つに相応しい、最高の墓場として、この家を、作った―――――灰色の、棺桶。彼女の、墓場。きっと彼女はこの屋敷を、自死する為だけに作った。安らかな、ひどく安らかな彼女の顔。誰にもその素振りを見せなかった彼女の矜持が、実にらしくて、らし過ぎて、あまりの彼女の冷静さに僕は一粒だけ涙を流し、すぐに彼女の墓場には相応しくない行為だと気付いて慌てて拭き取った。彼女の死んだということは悲しい。しかし、今までに見たことの無いほど幸せそうな彼女の死顔をみて、そんな彼女には涙は似合わないので。無理矢理笑みを浮かべた。そうだ、彼女にこそ笑みが相応しい。都会から遠く離れた岩山の奥。彼女は今も、灰色の墓場に眠っている。実に美しい、幸せそうな笑みを浮かべて。
男は銀行員。もう15年も勤めているベテラン行員だ。融資係として日々担保評価と書類作成に追われている。休息の無い企業戦士の心の支えは幼い双子の息子たちだった。「こいつらがいるから、俺もがんばれる。」男は苦しいとき決まって息子たちの写真を見るのだった。 そんな彼を子供たちは快く思っていない。なぜなら、平日は接待や付合いで遅くなる毎日。週末は疲れ果てた体を横たえるだけで、息子達との接点があまりに少なすぎるからだ。ある日、子供達に言われた言葉が男の心を重くした。「お父さんは毎日お酒飲んで遅く帰ってきて、週末は寝てばかり。お母さんが可哀想だ!!」 男は同僚にこぼす。「授業参観があるように、子供達に俺の働いている姿をみせてやりたい。そうすれば、あいつらも少しはわかってくれるだろう」同僚は言った。「お前、一日中座って書類作成している姿を見せることになるぞ」 男は、おもむろに煙草をくゆらせ遠くを見つめるのだった。
仕事が終わって家に帰る。 シャワーを浴びて、母親と一杯飲みながらニュースやドラマを見ていると、その電話がかかってくる。「長谷川ですが、タカコさんいますか?」 毎日ではないけど、決まって9時頃だ。「長谷川さん?」 電話に出た母は相手を確認するふりをして、私に「知ってる人?」と目で訴えてくる。 もちろん私は首を横に振る。 この間は阿部さんだった。 その前は松尾さんだった。 よくある(と言えるまでは多くない)名字の人からだ。「タカコは今いませんよ。どういったご用件でしょう…あ、切れたわ」 またか。と母は肩をすくめ、受話器を置いた。 私も真似して肩をくすめる。「ホント、何の勧誘なのかしら?」 どっこいしょと、テーブルを挟んだ向こう側に母は腰掛けた。「金貸しじゃん?」「あんたの情報、どっかで漏れてるんじゃないの?」「そうかもね」「気をつけなさいよ」「はーい」 いつものように、返事をした。 学生時代の友人にもよくかかってくるらしいから、実際、私はたいして気にしていなかった。「一緒に住んでない事にすればいいのかしらね。日本にいないとか」 母は食後だというのに、シュークリームの袋を開けた。 駅前の、有名な製菓店の100円シュークリームだ。 エクレアだったら一口もらうのにな…。「タカコに用があるなら、エアメールでも送ってあげて下さい。アメリカだから返事がくるまで、結構時間がかかりますよって」「余計なこと言う必要はないよ」 私はシュークリームの向こう側にある、母のお腹を見ながら返した。「だってそうでもしないと、またかかってくるでしょ」「じゃぁナンバーディスプレイの電話機買おうよ。番号が非通知の電話からは受けつけないらしいしさ」「そうねぇ、あんたの少ない給料でもなんとかできるでしょ」 はみ出たクリームを指ですくいながら言う母に、私は返した。「え!半分ずつでしょ」 母は無視してシュークリ−ムを口にした。 もう一度、私は母のお腹を見たが、何にも言わずにテレビに目を向けた。「はい」 すると母は、私にシュークリームの食べかけを差し出した。 お腹を見ていたことがバレたのかな? 何だか私は申し訳なくなった。 母も仕事をしていて、甘いものを食べることで癒しを得ているのだろう。「いいよ。おいしいなら食べちゃいなよ」 言葉と一緒に手で制すと、「だってあんた、半分ずつって言ったじゃない」
2月14日の夢をみて近所の豚小屋の豚がブヒーと鳴くと、そばかすにはだけたパジャマの少女を思い出す竹箒を手に豚の尻を叩く。ンゴンゴ叩く。ンゴンゴ僕は柵に手を掛けそんな光景をよく見ていた叩く。ンンゴゴねぇ。あぁしアメ持ってんだぁ。彼女が箒の房を引きずりながらやってきて握った手を開いてみせる僕は小屋に入って彼女の隣でアメをなめた僕らは座ってアメをなめてた。小屋の外は今みたいに雨が降っていて、大きな屋根の端っこから雨粒が滴っていたのを憶えてる。おも〜い雲と寒さでなんか哀しくてだから今、アメの味を思い出す。コーラ味かサイダーかなんて憶えているのは僕も竹箒をつかんだこといやいやコーラ味かサイダーきっとあの頃のアメ玉だそんな味なのだろうだからもういいや。僕らが座った房には豚はいなくて藁だけが敷いてあってそれが萎びていただのちくちく痛かっただのそんなことはどうでもよくていやいっそ彼女がいなかったことにしてしまおうなんてうすら笑うこともできて。彼女の親の声が聞こえるおーいはやくこっちへおいでー僕らは顔を見合わせて我先にと駆け出す外は今みたいにしっとりと雨で、おまけに寒くて。僕は彼女を追った広い小屋を最短距離で抜け出す一心に彼女の背中を追いかけた。また親の声が聞こえる箒はちゃんと片付けたのーンゴンゴなにかが違う。目の前には豚のけつおおきなおおきな豚のけつ雨音が聞こえるそう、確かに外は雨だった小屋中の、豚の鼻息混じりの声も鬱としていた彼女はこっちへ駆け寄ってきた僕はいつも柵に手を掛け見てるから箒を引きずりやってきたあぁし今度チョコあげるよ今度っていつ?14日、2月14日。それから場面は中学生。創立100周年を迎える校舎を前に僕はひたすらむなしかった空は限りなく青くて広くて白い雲がぽつりぽつりと浮かんでて風と戯れる少女をかたどった記念碑がどうでもいいようなところを見ていたひととおり並んだ生徒の前で知らない人がマイクに知らない声を飛ばしていた僕はどうでもよくてなにもかも剥ぎ捨てて駆け出したいほどどうでもよくて涙が出そうだった。2月14日の夢をみている場所に彼女がいない目線は素通って僕は微動だにしなかった小屋の中に動くものはなくただ謐として今にも野草が吹き出そうとしていた。あれは夏?蝉が鳴いてた。その小屋の最後の記憶は、太い柱の通った威圧感のある高い天井。僕は見上げた。見上げに見上げた。そして尻餅をついた。ひとりぼっちだった。
ここがどこだか聞いても答えてくれる人はいないだろう。ここは美しく、冷たいところだ。寒いのでもなく、涼しいのでもなく、冷たいのだ。辺りには、ここの冷たさを増させるかのごとく、蒼い花たちがいた。風が吹いた。そのさわやかな風は私の体を通り抜けた。とても、生きていることを感じた。ふと、遠くを見るとそこには蒼い山が見えた。私はそこに行こうと思った。行かずにはいられなかった。一歩踏み出した。あぁなんて心地よいのだろう。歩けば、歩くほどその気持ちは高まった。あの蒼い山へ行けばすばらしいことがある。そう思えてしかたなかった。私は何も持たずその山へ急いだ風に誘われながら 私は長い間歩き続けた。何時間、いや何日歩いたのだろうか。ここの太陽は沈まない、それに私もどれだけ歩き続けても疲れない。時とは無縁のところなのだ。そのとき、私は蒼い花がなくなり始めたのに気がついた。そしてその代わりに森が現れた。その森は普通の森で、普通の森ではなかった。そこには静寂が流れていた。本物の静寂だ。なにも聞こえず、なにも感じない静寂、葉のささやき声も聞こえない、私は森へ入った。静寂が破れた。なにかを感じ、なにかが聞こえた。誰かの足音だ。私はふいに後ろを見た。そこには紅い服の少女が立っていた。「あなたはだれ?」少女は言った。途端暖かい風が吹き、葉がざわめき、少女は消えていた。残ったのは私は誰なのだろう、なぜここにいる、なぜなにも知らない。私は・・・また風が吹いた。その風は私をどこかに運んだ。 「お前はだれだ」また声が聞こえた。目を開けると、蒼い服の男がそこにいた。私はなにも言わなかった。男はしばらく答えを待ったが、答えられないのに気づいた。「疲れただろう、少し休め」と言った。確かに男の言う通り私は疲れていた。男は部屋へ案内してくれた。私が部屋に入った。そこは蒼の部屋だった。だが同じ蒼一色ではなくてそれぞれ微妙に違っていた。私はそこに紅を探していた。今も目から離れない、あの少女の紅を「あなたはだれ?」私は誰なのだろう、なんでなにも知らないのだ、私は自分が泣いているのに気づいた。悲しいのでもなく、怒りでもなく、それすら私はわからないのだ。暖かい風が頬をなでた。私は窓を開けた、するとそこは、あの蒼い山ということに気づいた。でもそんなことはどうでもよかった。眼下にある世界が大切だった。蒼の世界にある紅、それはあの森だった。葉は紅く、紅く色づいていた。とても美しく、とても希望に満ちた光景だった。それを見るのは初めてではなかった。そう、これは私が・・「わかったか?」蒼い服の男が言った。「私が誰かわかった。」私は言った。「私は「私」で「私」は画家だ」辺りは白に包まれた。その白の中で蒼い服の男の声が聞こえたように気がした。「導いてやりなさい」ふと、横を見ると紅い服の少女がいた。「私を助けてくれたんだね。」「私」が言うと、少女は恥ずかしそうににっこり笑ってくれた。その笑顔は、「私」が思い描いたもので、また少女のものだった。
「昨日お会いしましたよね。」 僕はそんなことを言った。その子とはほんとは長い付き合いで、気心の知れた友人だ。 「昨日だっけ。もっと前じゃなかった。一昨日。一昨昨日。ううん。もっとずっと会ってなかったよ。」 彼女はそんなことを言った。ほんとは昨日どころか、ほんの数時間前に別れたばかりなのに。 僕らはまっすぐ前を向いて笑った。何度も見てきた彼女の笑顔だ。本当に何年も前から、何度も何度も見てきた笑顔だ。風が流れ、時が過ぎ、変わっていくことが多すぎた。でも、その空間だけは何も変わらないでいた。本当は、本当は、前に彼女にあったのは、実に二年も前のことだ。僕らは水面に目をやり、何も語らず、かすかな音さえ立てずに佇んでいた。そこには音があった。どこかで生まれて長い旅を続けた波が、その旅を終える、或いは旅を始める音が、声が。恋人達が愛をぶつけ合う音が、無邪気にはしゃぐ声が。星がその命をたぎらす音も、その叫び声も聞こえてきた。精一杯の力を振り絞り短い命を生きる夜虫たちの悲痛な叫び声もまた聞こえてきた。僕もまた、そうなのかもしれない。と、思った。その時間は、ゆっくり、ゆっくりと、僕らの時計を元に戻した。いや、僕らの時計のねじを巻いた。僕らの時は、動き始めた。「ねえ。」彼女がそう言った。「ん。」僕はそう返した。二人とも、視線は水面に向けられていた。お互いの顔は、そこに映っていたから。「昨日のこと、覚えてる。」「覚えてるよ。」昨日のこと、二年前のこと。彼女は突然僕の前に現れ、僕のことを嫌いだと叫び、そして、去った。僕の知らない、どこか遠くへ。「返事、聞かせてもらおうと思って。」「僕も、返事がしたかった。昨日から、ずっと。」僕は彼女の方を見た。彼女は僕の方を向いていた。そこには何も無かった。どんな音も無かった。ただそこにあるのは空気だけだった。それも、僕達を生かすものではなく、僕達の言葉を生かすためだけの存在として。「僕も嫌いだよ。君のことが。」そして彼女は、僕のところへ帰ってきた。
帰宅途中、電車の中で唐突に、迷いのある者は木の下へ行け、というインドの諺を思い出した。 別に悩み事があるわけでも、選択に迷っているというわけでもなかった。 ただ、なんとなく木が見たくなった。どうせ見るなら、大木がいい。 その下で座ってみたら、流行のマイナスイオンとやらで、少しは癒されるような気がしたのだ。 到着駅で下りると、駅前の旅行代理店に駆け込んで、屋久島行きのツアーを申し込んだ。会社に休暇届を出したのは、その後だ。この際、順番なんてどっちだっていい。人間、勢いに任せて動くことも大切だろう。 初めての一人旅に意気込んで出かけたが、生憎と初日は雨だった。思い切り出鼻をくじかれる。 降り荒ぶ雨は当初の予定を大幅に狂わせた。 南の孤島で、ツアー客は行き場もないまま旅館の中に押し込められる。 狭い島なので仕方がない。 暇をもてあまし、ぼんやりと宿のロビーで窓の外を眺めていると、同じツアー客の人から話しかけられた。「折角の旅行なのに、残念ね」 見知らぬ人と会話をするのが苦手で、曖昧に笑って誤魔化す。「でも、雨上がりに行く屋久島は、きっと一番綺麗よ。明日は晴れるといいわね」 そうですね、と相槌を打つ。「屋久島に行くのは、初めて?」 相手の問いに、ただ頷いた。「縄文杉だけがマスコミに取り上げられて有名になってしまったけれど、樹齢数百年くらいの木はたくさんあるわ。疲れた人がそういう木の下で休むと、気をわけてもらえるそうよ」 返事をせずにいると、彼女と目が合った。「信じてないでしょう」 まさか、肯定するわけにもいくまい。「やる気、元気、根気。そうね、あなたは若いから覇気みなぎるってのはどうかしら」 どうって言われても、返答に困る。「あなたにはどれも必要なさそうですね」 さっきから、すこぶる元気だ。「あら、私はあなたのような若い人達とお話して、生気を分けてもらっているのよ」 祖母くらいの年齢に見えるその人に、笑顔で切り返される。 「じゃあね」と、彼女は次の話し相手を求めて席を立っていった。 まいったなぁ、明日は晴れてもらわないと吸い取られるばっかりじゃないか、と思いながら窓の外を見ると、少しだけ雨脚が弱くなってきている気がした。 その時、窓に映る自分の口元が、少しだけ笑っているように見えた。 例えば人間も、齢を重ねるとマイナスイオンを発するのだろうか。 ふと、そんなことを考えた。
「私は暑いのが嫌いなの!」 人の部屋に入ってくるなり、由梨は叫んだ。「……どうしたの? お姉ちゃん、急に」 顔には出さずに心の中で思う。あぁ、また始まった、と。「どうしたもこうしたも……とにかく私は暑いのが嫌いなの!」 由梨の手に握られているカバンを見て思う。素直に言えばいいのに、と。「お姉ちゃん、先に行ってて。私もすぐに行くから」夏になると、決まって姉の由梨が「暑いのが嫌い」と言う。暑いのが嫌い、と言って涼しくなるわけじゃないのは誰もが知っている。数年前からそれが習慣になっていた。原因は由佳の言った一言。『そんなに暑いならプールにでも行ってくれば?』それから由梨が「暑いのが嫌い」と言うたびに二人でプールに行っている。準備をしながら由佳は、プールに行くたび毎回思う。何で素直に「プールに行こう」って言わないのかな? と。お姉ちゃんは大学生で、私は中学生。その年の差が素直になれないのかな、と。確かに一昨年は親子に間違えられたりもした。お姉ちゃんが大学生で私が小学生の時。けど、去年もやっぱりプールに行った。それをお母さんに話したら大爆笑していたのは鮮明に覚えている。大爆笑したお母さんを見て、私が大爆笑したからだ。笑うだけ笑った後に言った言葉も鮮明に覚えている。「由梨が素直じゃないのは由佳の前だけよ」今になってからその言葉の意味が分かった気がする。お姉ちゃんは私のことが好きなんだよね? 恋愛感情とかじゃなくて、妹として。だから素直になれなくて、我侭みたくなっちゃうんだよね?部屋を出て玄関に向かう。靴を履いてドアを開けると、目に飛び込んできたのは由梨の背中。──ほら、先に行っててって言ったのに待っててくれた。──本当に素直じゃないんだから。──でも、私はそんなお姉ちゃんが大好きだよ?──だから、来年もプールに行こうね!無言で歩き出す由梨の腕に、嬉しそうに抱きつく由佳。真夏の暑い日差しを背中に受け、二人は歩く。優しい風が、姉妹の長い髪を揺らしていった。
カタカタカタカタ「ん?」「どうしたの?」「何か音しなかった?」「そう?」 カタカタカタカタ「ほら音がする」「え〜? 聞こえないけど?」「よく聞けばわかるって」「そう?」 カタカタカタカタ「ねっ?」「?」「聞こえない?」「……あっ、わかった!」「聞こえた?」「怖がらせようとしているんでしょ?」「違うって、ほら」 カタカタカタカタ「聞こえた?」「聞こえな〜い」「……信じてないだろ」「もちろん」 カタカタカタカタ「どうして聞こえないかなぁ」「聞こえない〜」「もしかして、怖いから聞こえない振りしてるとか?」「違うわよ」「あっ、ちょっとムキになってる」「なってない!」 カタカタカタカタ「何かさっきより大きくなってない?」「知らない」「これってさぁ、近づいてきてるんじゃないかな?」「知らない」 カタカタカタカタ「これ一つの音じゃなくて複数が混ざり合っている?」「知らない」「……さっきから知らないしか言ってないけど?」「そう?」「ここ暗くて見えないけど、顔とか真っ青になってるんじゃない?」「んなわけないでしょ!」「怖いんだろ?」「怖くないし、何も聞こえない!!」「あっ!」 タタタタタタタ……「行っちゃった」 カタカタカタカタ「こんな暗闇じゃ探せないしなぁ」 カタカタカタカタ「ん〜さすがに一人だと、この音は不気味だ……」 カタカタカタカタ「大体この音って何なんだ?」 カタカタカタカタ「あいつのことも心配だし。きっと後悔して……」「いや〜!」「!?」 カタカタカタ……ガッガッガッ「今の声……それに今の音。何があったんだ!?」 カタカタカタカタ「……くそっ! 何なんだよ一体!」 カタカタカタカタ「手掛りはこの音だけか……」 カタカタカタカタ「待ってろ!」 タタタタタタタッ カタカタカタカタ タタタタタタタッ カタカタカタカタ「!?」 カタカタカタカタ「!」 カタカタカタ……ガッガッガッ「……!」「?」「……て!」「?」「起きてって!」 バシッ「あれ?無事だったんだぁ。良かった」「何がよ?」「何がって……、あれ、ここ何処?」「寝ぼけてるわけ?」「……そうかも。でも、ここマジ何処? 倉庫だよね?」 カタカタカタカタ「え? 何の音?」「何が?」 カタカタカタカタ「ほら、カタカタ……って音聞こえない?」「……本当に何も覚えていないのね。ほらもうすぐくるわ……」 ドンッ「!? ……何を」 カタカタカタ……ガッガッガッ「!!!!」 カタカタカタカタ……「さようなら」
こうやって、大の字になって誰もいない屋上で寝っ転がるのは好きだ。学校とか言う巨大組織の中で、同じことをただ規則正しく繰り返すのは、俺のしょうには合わない。 (綺麗だなぁ・・・)目の前にどこまでも広がる青いキャンバスには白い絵の具で所々に、幻想的な雲が。視界を閉じれば、鳥の囀り、そして見えない微風を感じる。最高じゃないか。ここは、俺だけの世界だ。そして俺はそのまま夢の中へ進んで行った。 (誰だ?)転寝が覚めた目でその人を見つめる。黒くウェーブのかかった長い髪が揺れた。「あ。起きたんですか。」振り向いた彼女は(美人だな・・・)即座にそう言えるほど、綺麗な容姿だった。でも、こんな女子生徒は知らない。そう考えていると、少女は、 「北村が怒ってたわよぉ。上沢どこ行った!って。だから私が探しに来たの」と担任の真似と自分がここへやってきた経緯を説明した。俺はまたコンクリの上に体を戻し「そうか。でも戻る気ないから」そう返答する。、とクスッとちいさな笑いが聞こえたとともに、距離を置いてもう一人、人間が横になった。「私もサボる」彼女はそう一言。青空を見上げた。「綺麗ね・・・」さっきの俺と同じことを言う。「ああ」・・・誰もいない屋上で・・・「またサボって!毎度呼びに来る私の身にもなってよ」少女はそう言いつつその顔にかけた黒ブチ眼鏡という仮面、鎖のように縛った三つ編みをとく。「んなこと言って、どうせあんたもサボるんだろ?委員長さん。」俺は、そんなもう一人の彼女を見上げ、悪戯に笑ってみせた。「あんたさ・・・眼鏡取った方が美人じゃね?」唐突な質問。「・・・お世辞はいい。」ちょっとムッとしている。「いや、まじだって。今度コンタクトできて。」「・・・」「・・・なぁ。」「・・・わかった。」静かに聞こえた答えに、俺は軽く微笑んだ。 ・・・誰もいない屋上でたまには息抜きしませんか?
ある日の夕刻の話です。 朝見の里の若い狐は、山岡の狐の里まで走っていました。というのは、先日、山岡と朝見で七夕の宴を開いたのですが、そのときに朝見の若い衆が調子に乗ってたいそうな無礼を働いたので、そのお詫びにと走っているのでした。この朝見の若い狐自身は何もしていないのですが、無礼を働いた狐達にお前行ってきてくれと頼まれ、馬鹿正直に一山向こうの山岡まで向かっているのです。名はオサム、近所でも大変気が利く良い子だと評判な狐でした。 オサムは休むことなく山岡の里までの道を走っていました。休まないで走っていけば、何か救われる気がしたからでした。珍しいことでもなく、オサムはよくそういうことを考える子でした。 山の半分程来ると、流石にオサムは喉が渇いてきました。けれども水を持っていません。立ち止まって耳を澄ませても、川のせせらぎも聞こえてきません。おまけにオサムは、途中人様の家の鶏を一匹土産ものにと失敬し、それを口に銜えていたので、鶏の羽が喉に張り付いて唾も出ないという有様でした。 ――― 一休みしようか。 オサムは鶏を足元に置いて、へーへーと息をつきました。 すると、オサムの頭の上にどさっと何か重たいものが降ってきました。そして、それはオサムの右目を引っ掻きました。 オサムは驚き、声も出さずに頭をめちゃくちゃに振りました。ところがそれは、オサムの頭にしがみついて一向に離れません。とうとうオサムは錯乱して、それのついた自分の頭を目の前の木に何度も打ち付けました。 十度目でようやくそれは動かなくなり、ずるっとオサムの頭からはがれました。 それは狸の子でした。やせていて、目の周りが腫れていました。どうやら生き物の気配を感じ、オサムに助けを求めていたようです。 しかし先ほどまでしっかりとしがみついて離れなかったその四肢も今はもう、ぐったりと、動きません。 オサムはその狸を見下ろして、こう言いました。 ―――ああ、狸でよかった、と。 そうしてその狸の皮を剥いで細切れにすると、山岡の里に、ほんのお詫びです、と言って置いていきました。
僕の背後にカメラがある。今、モニターに自分の後姿が見える。モニターの中の自分は、小さなモニターを見てる。その小さなモニターに、もっと小さな自分とモニターが見える。そのもっと小さなモニターにも、もっともっと小さな自分とモニターが見えるはずだ。ただ、小さ過ぎて目で見れない。後は、段々と小さくなることが、終わりなく続くはずだ。針の先ぐらい小さくなったところから、逆に段々大きくなるパターンもある。一回り小さい自分は、一回り大きな自分に見られている。その見ている側の自分も、少し大きい自分に見られている。それを繰り返すと、本当の自分にたどり着く。でも後のカメラに写されてるんだから、この僕も見られてるんだ。この本当の自分より、もっと大きい自分に見られているんだ。違うか?この僕を見ている、一回り大きい自分は、見られてるのかな。さらに大きい僕?が見ている…と思うのは間違いではない、ような気がする。目の前のモニターに見える自分は背後のカメラを知っている、筈だ。それを見てる生の僕も背後のカメラを知っている。見られてる、と認識出来ている。直感的には、数直線のように一定のパターンで、僕が無限に連続すると思える。だから、この僕より大きい僕が、背の順に無限に存在する、と思ってもいい、筈だ。でも、そう思うと不安な気持ちになる。僕自身は、連続する僕の中で、どのような立場なのかな。大きい順に、無限に並ぶ自分がいて、この自分は、単なる通過点に過ぎないとかね。ま、そんなことは人間の錯覚でしかないけどね。何だかよくわからないけど、子供じみた空想なんだよね。もう飽きたから、電源切ろう、と手を動かすと、モニターの自分達も同じようにする。僕の動きより、ワンテンポ遅れてるようにも見える。無理もない、君達はこの僕の影に過ぎないのだからな。本家本元の僕がまず動かないと、何も出来ないのさ。そう自分に言い聞かせながら、電源を切った。終了。
パンを買いたいとトリノくんが言うのでデートの帰りに駅前のダイエーに寄ったら、昔の恋人と出会った。トリノくんがトイレに行っている間に壁にもたれて立ち話をした。彼はまだ傷ついていて、少し物憂げで少し親密な空気の中で、少し悲しそうに目を細めて私を見ていた。私と一緒に買ったシャツを着て、私があげた靴を履いていた。大人っぽくなったねと不意に言うので、笑いすぎて涙が出てしまった。 トリノくんの方向音痴は並はずれている。私だって土地勘や方向感覚に自信のある方ではないけれど、彼は桁違いだ。25年生きてきたが、あんなにひどい方向音痴は他に知らない。 彼は少し忘れっぽいけど知的で博識で優しい、とてもステキな人だ。だけど、いともたやすく道に迷う。躊躇せずにどんどん道を間違う。 半年ほどトリノくんと行動を共にして気づいたことがある。どうやら彼の頭の中にある地図は平面の図形ではなく言葉だけで構成されているらしい。「バイク屋の並びの歩道橋を渡るとローソンがある」とか「S字の道の先には踏切がある」とか。それはそれで一つの方法かも知れないけれど、トリノくんがおかしいのはそれをいつも無造作に適用させてしまうことだ。少し見覚えがあるような場所に来ると、そこだと思いこんでしまう。初めて訪れた私の実家の裏に、彼のお気に入りのそば屋があるんじゃないかなんて平気で言い出す。電車で2時間かけて来たばかりなのに。そんなわけないじゃないといくら言っても彼がわかってくれないのは、たまにそれが通用してしまうからだ。 たちの悪いことに、方向音痴というものは極まってくると空間を超えるらしい。庭の灌木と塀を乗り越えてみたらそこは本当に彼の部屋の近所のそば屋で、私は自分の迂闊さに悔し泣きしながらそばを食べ(おいしかった)、それから家に電話して、訝しむ母親に紹介はまた今度にするねと告げた。 そればかりか、最近は時間まで超えるようになった。 ずいぶん経ってからトリノくんは戻ってきて、私と元恋人は軽く手を振って別れた。 店を出て、ため息をつく。駅前のダイエーは4年前につぶれたし、元恋人は真っ黒に日焼けしてヒゲなんか伸ばして二人の子供を抱いている写真を正月に送ってきた。トリノくんはダイエーがもう無いことを忘れたままパンを買いに行き、私もついつられてしまったのだ。彼といると時々そういうことがある。 困ったものだが、実は少しだけ楽しい。
・地地に這いて呼吸する。一時、空を舞う幻想。徒、自然のままなり。・月容赦なく追ってくる。感傷ごとき受けつけず。何れ鬼の嗤う声。・夜酔うて吟ふ地に海に。いづれ宇宙の塵と化す。嗚呼、最後の星の歌。・女抱いてみれば思い出す。我出闇也。感触柔らかく、なおおそろしい。・柔人肌も、暮れて恋しいアスファルト。土の匂いに誘われる。深き闇に濡れる土。・静迷うて醒める。静かなる音を聞く。静けさは耳に染み入る。・暗暗き声。底より響く。闇現ずとも。・偶数割り切れて闇に落つ。此、安堵なり。
「青の時間って知ってる?」IN THE BLUE TIME 市内の様子が見渡せる広場の時計によると、現在の時刻は午後五時三十一分。黄昏の幕が一面に覆いかぶさっている時刻。 青の時間、僕は美香子から聴くまでその時間の存在を知らなかった。 「いや、知らないな……何ソレ」 「夕方と夜の間に存在する時間のこと。太陽が沈んでほんの少しの間だけ都市が青に染まるんだって」 「だってって……何だ、ミカも見たことないのか」 「……仕方無いでしょ、毎日起こるわけじゃないし、本当にたまにしか起こらなくて、本当に短いんだからー」 「ふーん」その後どういう流れでそうなったのかは忘れたが、よく待ち合わせをする広場で青の時間を一緒に観るという約束をした。 結局叶わなかったけれど。 一緒には観られなくなってしまったけれど、観なくてはならないような気がして、何故だかそんな気がして、頻繁にここに来ている。今日こそ青の時間は訪れてくれるのだろうか。 どこか遠くを親子連れが、カップルが、ホームレスが、サラリーマンが忙しなく、でもどこか気だるげに歩いてゆく。以前は、ミカが在なくなるまでは、近くに認識していた人たち。自分も世界の一員だと思えていた頃。 −−−−そして、「それ」は気付いた時には始まっていた。蒼だった。青ではなく、蒼だった。ミカが観たかった、僕に観せたかった時間、空間。ふと周囲を見ると親子連れが、カップルが、ホームレスが、サラリーマンが皆一緒に「それ」を観ていた、見つめていた。その風景を見た瞬間に、僕は脊髄に電流が走ったように、ミカがそれを観たがった理由を理解した、どうして僕と一緒に観たかったのかも。 それはゆっくりとあっけなく終わっていった。そして親子連れは、カップルは、ホームレスは、サラリーマンは何事も無かったかのように元に戻っていった。でも僕は覚えている、そこにある全てが包まれて、一つになれた時間を、ミカの気持ちを感じた瞬間を。そして一度伸びをしてから僕は歩き出した、ミカのいない世界へ。