第29回1000字小説バトル Entry12
あの晩、いつものように私はその日の最後の患者を玄関先まで見送ると診察室のあかりを消し、二階へ上がり、風呂も入らなければ食事もとらずに、白衣を脱ぎ捨てたそのままの格好でベッドのヘッドボードにもたれながらドライマティーニを啜りつつ、読みかけのつまらない探偵小説を眺めていた。
主人公が二件目の殺人を犯したところで、呼び鈴が鳴った。時計は午前三時を回ったところである。こんな時間に町外れのしなびた医院を尋ねてくる客人とはいかなる理由の持ち主であろうかと医師としては献身的とは言いかねる好奇心を感じながら階下へ降り、ドアを開けるとそこには薄汚れた身なりの婦人が柱にすがりつくような格好で立っていた。私は何も言わずに彼女を中へ通した。外は激しい雨が降っていたし、何より彼女のやせこけた顔や、物も言えないような疲弊ぶりをみればそうせずにはいられなかったのだ。
彼女に来訪の用件を聞く必要は無かった。というのも、彼女の厚ぼったい毛織の安物のコートを脱がせてやったとき初めてわかったのだが、このまだ年若い婦人は腹に子を宿していた。そして夜が明けるのを待たずに彼女はの男の赤ん坊を産み落とした。
その子供の誕生から一週間が過ぎようとしていたある晩、彼女はそれまでほとんど言葉らしきものを発しなかったが、(実際私は彼女の名前すら聞かされていなかった。)かすれた声で私に子供の名づけ親になって欲しいと訴えた。彼女の配偶者たる人間の存在を聞かされないものだから、さして抵抗も感じることなく私はその子供にウィリアムという名をつけてやった。ウィリアムというのは、ゲーテの作品に登場する主人公、ヴィルヘルムからとったなんとも即興的な名である。
ウィリアムと彼の母親はそれから数日の後に去っていった。去り際に彼女は私に銀製のシガレットケースを費用の代わりにと手渡した。もとより、患者を迎え入れること自体久しぶりだというのに、私はその品をつき返してしまうところだった。その小洒落たケースには「P・スタイナー」と刻印されていてそれは恐らく彼女の夫君の名であったと思われる。彼ら親子が訪ねてくることは二度と無かった。
それから数十年の歳月が過ぎ、私は今日七十歳を迎えた。ラジオのニュースは次期大統領選の開票結果を伝えていた。そして今回も、ミドルネームなしの「ウィリアム・スタイナー」は大統領の座を確固たる物にしたらしかった。