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第29回1000字小説バトル Entry34

芳醇な彼

 わたしが酸っぱいものが好きだ。
 その嗜好は食物に留まらず、飲料、香料、体臭までもその範疇に入った。

 夏はとても素敵だ。
 炎天下を走る電車、その弱冷房車両は、時として馨しいまでの体臭の巣窟と化す。わたしはできるだけ肥満型の紳士の下に寄り添い、その芳醇な香りを堪能する。
 鼻腔をくすぐる甘酸っぱい香りに酔いしれる。
 半分意識が遠のいていたのだろう。不意のカーブに気付かず、私はよろめいてしまった。
 横転する。そう思った。
 だけどわたしの身体は地に這うことはなく、あの馨しい紳士の胸の内にがっちりと受け止められていた。
 ――わたしは恋におちた。

 一ヶ月が経ち、残暑も厳しい盛りにさしかかったというのに、彼とはそれきり遭えないでいる。
 わたしを虜にしたあの香り。締め鯖が腐ったような独特の酸味を醸しだす人物なんて、彼以外に考えられなかった。
 わたしは血眼になって彼を探した。車両を一両ごと移動し、時間帯をずらし、時には遅刻すら覚悟の上で芳醇な彼を捜し求めた。
 十月の声を聞く頃、体臭の季節が終わると同時に、わたしの精魂は尽き果てた。

 しょんぼりと帰路につくわたしの元に、一抹の風が吹き込んだ。
 この香りは……
 風に運ばれてきたのはまさしく彼の臭いだった。
 腐った干物のようなドブ臭さが加わりはしたが、その強烈な香りをわたしは忘れていない。
 買い物袋を投げ捨て駆け出した。
 走った。ヒールが折れるくらい思い切り走った。風に乗って、彼の臭いを辿った。

 小さな公園に彼は居た。ダンボールに腰掛けた彼。くたびれたスーツ。ネクタイは外され、ワイシャツは黄色かった。
 彼が電車に居ないワケが氷解した。きっと職を失ったのだ。路頭に迷い、この公園でホームレスまがいの生活を送っていたのだ。
 こんなにも近くに居たのに気付かないなんて……。
 彼の体臭もさることながら、そのほろ苦く酸っぱい人生に、わたしは涙を堪えることができず泣き出してしまった。
 目の前で涙するわたしを怪訝そうな顔で見つめる彼。そのキョトンとした仕草がとても、とてもいとおしかった。
「もうだいじょうぶよ」
 わたしはそっと、彼の額に手を添えた。

       <了>

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