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第29回1000字小説バトル Entry5

あの公園へ

「お好きなんですね、桜」
公園を通りかかった女性が、声をかけてきた。
「ずっと見てらっしゃるわ」
「ええ。昔をね、思い出すんですよ」
僕は応えた。女性は、何も聞かなかった。ただ、僕と並んで桜を見上げた。

一年前の今日、美樹が死んだ。
僕は、婚約中の美樹を田舎に残して、東京へ出張していた。
戻ってきたら、すぐ結婚式だ、と僕が言うと、桜はもう散ってしまうわ、と美樹は微笑んだ。
美樹の両親は、親戚を説得して、僕が田舎へ戻るまで、葬式を延長してくれていた。
この二人を大切にしよう、と思った。

僕は、指輪を買いに行った。
「優しい感じの指輪、ありますか?」
僕は、一番最初に見せてもらった、ピンクダイヤをはめ込んだ指輪を買った。それを、美樹の墓の前に埋める。
もう一方を自分の左手の薬指にはめて、僕は美樹と向き合った。
「本当は、ウェディングドレスも見たかったんだけどな…」
僕はうつむいたまま、しばらくその場を離れなかった。

昼下がりの風は、薄曇りの空の下、僕の頬を撫でて、桜の淡い輪郭を揺らして、通り過ぎていった。
あの女性がいない。
けれども、彼女が立っていた場所には、眼にみえない、優しい何かがある気がした。
僕には、判っていた。
だってここは、美樹と初めて出会った場所だから。

美樹のいなくなった僕の世界には、前ほど、楽しさとか、そういった光が入ってこなくなった。
半年ほどは、友人たちは毎晩のように、酒を持って僕の家に押しかけた。
昔からお調子者の悟などは、酔いに任せて、僕が十点をとってしまった数学のテストを埋めた話などを始める。みんな、笑った。
でももう、笑いたいときに笑いあえる時代は過ぎたのだ。
僕は一人で酒を飲むようになった。
ある日、悟が電話をかけてきた。
『昨日、お前のこと見たよ。駅前で』
「そうか…」
『お前さ、そろそろシャキッとしろよ。何て言うか…見てた俺の方が痛い』
僕は黙ったままだった。
『美樹だって、今のお前は見てらんねぇと思うぞ』
悟は、僕の反応を待った。
『──じゃあな』
「あ、悟…ありがとな、電話」
僕がやっとそれだけ言うと、悟は、よせ、照れるじゃねぇか、と言った。

白いカーテン越しに、日が差し込んでくる。
テーブルには、飲みかけのビール。左の頬は、テーブルに押し付けた部分だけ、丸く赤くなっていた。
いつのまにか、朝になっていた。
静かだ。
指輪のピンクダイヤに、パタッと涙が零れた。

今日は、美樹の命日だ。

そうだ、あの公園へ行こう。

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