第30回1000字小説バトル Entry26
回遊式の巨大水槽の前の母の背中はとても小さく見えた。通子はいくらか沈んだ気持になって母の横に並んだ。
「すごいでしょ」
「うんでも」と、母はマグロの群れを見上げながら平坦な調子で言った。「きれいじゃないね」
「まあね」、母には色鮮やかな熱帯魚の水槽の方がきっと面白いのだな、と通子は思った。
「あんたがまだ幼稚園だった頃、油壺に行ったね」
「お父さんと、三人で行ったんだっけ」
「そう」と、母は頷いて水槽から離れた。
父は五年ぶりの同窓会とやらでどこか東北の方に二泊ほどの予定で出かけていた。じゃあその間に遊びに来れば、と通子が珍しく母を誘ったのだった。母には何故か同窓会というものがなかった。女学校には行っていたと聞いていたけれどその頃の話というものを母がしたことも何故かなかった。
建物の外に出ると、ペンギンの柵があった。二人は並んで柵にもたれてペンギンを見た。柵は、母の背には少し高くて母は柵に載せた両腕で顎を支えるような形になった。平日のため辺りに人は少なかった。
「あんた昔、ペンギンみたいって言われたことあったわね」と、母が言った。
「うん、お腹が出てたからね」、腕輪をしたペンギンたちの集団を通子は面白く眺めた。通子はペンギンが好きだった。「頭もちっちゃくて丸かったし」
母はそれきり黙ってしまった。
通子をペンギンみたいと言ったのは、父と同じ会社に勤めていたおばさんだった。どういうわけかおばさんは通子のことをとても可愛がってくれた。休みの日に自分のアパートに連れてゆき、デパートで欲しいものを買ってくれたりした。おばさんの子供になってくれたらいいのになあ、とおばさんは通子ににこにこ笑いかけながら言った。どう答えたのか、通子は憶えていない。
「お昼、食べようか」と、母が言った。はっと通子は母の顔を見た。
昼食は駅で済ませたんじゃなかったっけ、と通子は焦りながら思った。ほんの少し前に。でも母は真面目に通子にそう言ったのだった。
「ああ」と、しかし母はすぐに笑って言った。「やだ、さっき食べたねえ、天丼」
「そうよ」と、通子は安心して答えた。「二回お昼食べる習慣なのかと思ってびっくりしちゃった」
出口近くのレストランのメニューを、それでも母は好奇心からか立ち止まって眺めた。そして通子が「この鉄火丼ていうのはあそこで泳いでたやつを出すのよ」と言ったのに、「じゃあおいしいのかしらね」と、真顔で答えた。