第31回1000字小説バトル Entry2
もう、どの位の時間が経っただろう。
汽車の窓から見える景色は、もうすっかり僕の知るそれではなくなっていた。
このままあの街から遠ざかっていく事に、僕は不思議と何も感じていなかった。全ての感情を置き去りにしてきたからかもしれない。それでも笑えと言うなら笑えるし、泣けと言われれば泣けるだろう。
なぜなら、僕はまだ生きているから。
汽車が止まった。
窓の外に広がるのは一面の緑。窓ガラスがまるでスクリーンのように感じられた。
そこに映る平和が、あまりに不自然だったから。
でも、それが現実なんだ。そこに非現実を感じるほど、僕は遠くに来たって事。
何人か乗客が乗ってきた。その中の一人、初老の婦人が僕の隣に座ろうとした。
「ここ、いいかしら?」
服装からして決して裕福とは言えそうもない婦人だったが、その声は気品に満ちていた。そこには誇りがあった。僕がよく知っているはずの、女の誇り。
座ったきり、婦人は一言も喋らなかった。背筋を伸ばし、ただ前を見つめていた。こんな時代に、これだけ力のこもった眼をする人が他にいるだろうか。そう思った。
汽笛が鳴り、少しずつ汽車は動き出した。
揺れがひどい。婦人も、僕も黙ったまま。彼女はただ前を見つめ、僕は窓の向うに目を遣った。
外は、まだ一面の緑。天気が良いから、よく映える。いい季節だった。口笛でも吹きたいような。それが今の僕には、ただの皮肉にしか見えない事を、僕自身よくわかっていたのだけれど。それでも僕は口笛を吹いた。こんな景色にぴったりの曲だ。曲名は思い出せない。
少し経って、それがあまりに滑稽だって事にようやく気が付いて、辞めた。
窓の向うはスクリーンの中の世界で、僕はそれを呆然と眺めるだけの傍観者に過ぎないから。
汽車がようやく緑を抜けた頃、婦人が口を開いた。
僕の目的地を尋ねる内容。僕は、正直に
「決まっていないんです。」
と答えた。すると婦人は笑って
「そうだと思ったわ。」
と返した。
その笑い方は、僕にとってあまりに残酷で、優しかった。
右手を強く、握り締めた。
汽車は、あの街からどんどん遠ざかっていく。
炎に包まれていく街並。
ビルも道も公園も、人も。
僕の愛した彼女も、あの炎に包まれ、行ってしまった。
気が付けば僕は、一人汽車に乗っていた。逃げたんだ。全てから。それが、別れた彼女の願いだったから。
最後に見た彼女の笑顔を思い出し、今右手の指輪を握り締める。
焼け焦げた、小さな指輪を。