第32回1000字小説バトル Entry13
私は硯に水を注し、ゆっくりと墨を磨り始めた。
我ながら、今時こうして年賀状を筆書きする人も珍しくなったなと思う。業者に印刷を頼んでしまえば楽だけれど、どうしてもそれは出来ない。この習慣は、父の真似をして始めたものだ。
二十年前、私が四十五歳の時に父は亡くなった。父は大変男らしく力強い字を書いた。決して達筆とは言えなかったし独特の癖もあったのだが、それは父そのものを感じさせてくれる気がして私は好きだった。私は滅多に里帰り出来ないくらい遠くに嫁いだ上に、早くに連れ合いを亡くしてしまっていた。毎年の正月に、いつも通りの父の字に触れる瞬間が心強かった。
だが、亡くなる五年くらい前から父の字は微妙に乱れるようになった。そうと気付いた時は、あんな父でも老いには勝てないのだなと寂しくなった。年を追うごとに、字の力や勢いも失われていく。やがて誤字さえ見られるようになり、書かれる文句もどんどん減っていった。
ついにある年、ただ、
「謹賀新年 元旦」
とだけ書かれた年賀状が届いた。まるでその漢字を覚えたてで意味も理解していない子供が書いたような、稚拙な字だった。
「ねえおにいちゃん、おじいちゃんって字が下手だねー」
「わあ、本当だー」
まだ小学生だった息子達がケラケラ笑い合っている傍らで、私は何とも頼りなくて不安な気持ちになった。
その年の暮れに、父は逝った。
父の年賀状は、もう二度と来なくなった。
からんからんと、石油ストーブの上の薬缶が音を立てる。軒先からは、じゃらり、と飼い犬の鎖の音。犬小屋に入り込んだらしい。
まず長男夫婦、それから次男夫婦に宛てて書き始めようと決めた。
背筋がぴんと伸びる気がして、墨を磨る手に、ぎゅっと力がこもった。