第32回1000字小説バトル Entry22
夕陽を浴びた石段が上へ々と続いてる。
私はあの子にどんなに惨い事をしたんだろうか。そう思うとこの石段を上らずにはいられなかった。あの子がここを覚えていた事が何故か嬉しかった。
息が切れる。もう年なんだと改めて思った。
石段の上から望まれるこの海は昔と少しも変わらない。
私はあの子を待っている。暗くなった石段の下から黒い影がゆっくりと上って来てた。私はあの子を捨てた日の罪を今日も無言で受け入れなければならない。それでいいと思った。
「元気そうじゃねぇか。持って来たんだろうな」
少しにやついた言い方。私はさっきまでのあの子を胸の中にしまい込み他人に向う様に言った。
「もうここにはこないで。あなたと私はもう……」
擦れそうになる声を絞りだす様に言った。
「あんたの捨てた息子の姿はどうだい」
鼻で笑いながら私を軽蔑した素振りで両手を広げ夕陽に向って笑いだした。
――今だと言った。急に悪魔が現れて『そいつを突き落とせ』そう言った。私は何かに操られる様に男の背中を押す。目を閉じたまま思いっ切り。無情の響きが落ちていく――
怖くて目が開けられない。足が震えだす。だめよ、逃げちゃだめ。目を開けた石段の下にあの子が倒れている。私は夢中で石段を駆け降りた。
救急車で運ばれたあの子の倒れていた所には、赤黒く光る石畳と菜の花の香りが静かに残っていた。
あの日から私は苦しんだ。
『何度あの子を苦しめれば気がすむの』誰かがそう呟く。
私は無意識に歩いていた。そして病院迄の道程をどうやって来たのかも分からず、気付くと受付に立っていた。
「田崎さんは301号室です。でも――」
私は看護婦の言った言葉を呟いた。
(記憶がない……)
いつからか持っていた菜の花を見つめると、あの日の事を思いだした。
――白く輝く砂浜。エメラルド色の波が寄せる海。あの子は砂浜を駆けている。もう逢えなくなる事を思うと私の細い身体が震えた。あの子が駆けてくる。私は手を差延べてあの子に応える。私の腰を小さな両手で抱きしめてあの子が私の身体に顔を埋めた。瞳が熱くなるのを堪え私は無情の笑顔を作っていた――
病室にはあの子が横になり子供の頃の顔をしていた。
私は「気分はいかがですか」と言った。知らない人の振りをしてそう言った。
本当のあの子がそこに居るのだと思った。私は心の底で願う。
(時が止まってしまえばいい)
菜の花がそっと風に吹かれて、その香りもそう呟く様な気がした。