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第32回1000字小説バトル Entry24

古本屋にて

「この本を……売りたいんだが」
 周囲を伺いながら、その背の低い男は本を差し出した。
「買い取りですね」
 店員の野間紀夫は、カウンターに置かれた本に視線を向ける。
「あんまりいい値段じゃ買い取れませんよ?」
 本を一瞥するなり、野間はそう言った。
「いくらでも、安くても構わん。早く値段を言ってくれ」
 男の手は震え、その目に落ち着きはない。
「こんなところですが」
「それでいい、充分だ」
 野間が差し出した硬貨を引ったくって、男は店から出て行った。

(よほど金が欲しかったのか――それとも、この本を持っていたくない事情でもあるのか)
 野間は表紙の端を指先でつまむ。
 古びて、固くがさがさした感触。作られた当初の面影はない。
 ページをめくる。
 文字はアルファベットだった。
(英語――いや、違うな)
 なのに、何故か、野間にはその内容が分かった。
 また、ページをめくる。
 ――それは一人の男の物語。
(ふうん)
 野間は次のページをめくる。
 ――絶望の淵にいる男が、世界をも支配出来る力を持つ。それは神の領域をも侵す、冒涜的な力。
 無意識のうちに次のページをめくっている。
 ――その力を使い、自分の絶望を駆逐し、運命をも変貌させる男。
 目は常に先の行を追う。指は常に次のページをめくろうとする。
 ――だが、神ならざる身の彼に、その力はあまりに大きすぎ、あまりに魅力的だった。すぐにそれだけでは飽きたらなくなった男は、己の欲望を満たすためだけにその力を振るい始める。
 いつしか野間は、周囲の何も目に入らなくなり、何も聞こえなくなり、何も感じなくなっている。
 本の世界に魅入られていく。
 本に、魅入られていく。
 本に魂を奪われる。
 これ以上ページをめくり続けたら。
 ――力に溺れた男はついに。
 めくり続けたら。
 ――ついに。
 続けたら。
 ついに。
(だ、駄目だ、このままでは!!)
 ばたん。
 音を立てて、野間は本を閉じた。
「ふぅ……」
 彼は小さく溜息をつき顔を上げる。
 ガラス戸越しに見える店の外では、パリジャンたちが足早に夕暮れに染まる通りを行き交っていた。
 一体どれだけ時間が過ぎたのか、時計を見るのも何となく怖いほどだった。
「こんなの読んでるとこ、店長が見たら何て言われるか」
 野間は本を買い取り済みの棚に置いた。
「――留学すると色々発見があるっていうけど」
 本の表紙に視線を向けた。
「フランスでも出てるんだ、ドラえもんって」

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