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第32回1000字小説バトル Entry26

緋色の桜

 桜の木の下には屍体が埋まっていると、幼い私に教えてくれた人がいた。それが誰だったのか、遠い昔のことなので記憶は定かではない。その人が言うには、世のほとんどの大人が、人を殺めて桜の下に埋めたことがあるのだという。こんなに多くの桜の木があるのは、人を殺した人間がそれだけ多い証なのだそうだ。
 その話を聞く前から、また大人になってからも、私は人を殺したことなどなかった。それは私のささやかな誇りであったが、同時に私の精神を脅かしてもいた。周囲の罪人達の中で、私一人が罪を知らない異質な人間なのだ。この世の在り様に同化できずにいた私は、いつも漠然とした不安と孤独を抱えていた。そして、その苦しみを誰にも告白できなかった。

 ある夜。痛いほどの静寂に追い詰められた私は、純粋だが孤独なそれまでの人生に、もはや耐え切れなくなった。誰でもいい、同志として自分を受け入れてくれる相手が欲しかった。しかし、密やかに生きる無垢な異端者を探し当てることなど、自分にできはしない。積年の孤独に終止符を打つ手段はただ一つ。人を殺して桜の木の下に埋めるのだ。
 折しも、桜の蕾がふくらみ始めた頃であった。犠牲を求めて闇夜にさまよい出た私は、気の早すぎる花見客が桜の下で酔いつぶれているのを見つけると、手にしていた鉈で首をザックと切りつけ、その場に穴を掘って埋めた。

 その年の春の盛りは、これまで感じたこともないほど安らかな心で迎えることができた。もう一人ではない。罪人の仲間入りを、私は果たしたのだ。件の桜がつけた花の薄紅色の花弁が舞い散る下で、私は陶然と立ち尽くしたものだった。

 そうして、幸福な一年が過ぎた。

 私は今、あの桜の木の下に、あのときと同じように立ち尽くしている。満開の桜の木々が霞のように淡い花を咲かせる中で、その桜は一本だけ、周囲を圧して燃え立つような、緋色の花をつけている。屍体から啜った血と腐汁とを、一年の歳月をかけて、桜は花と成したのだ。
 私は悟った。桜の木の下に屍体など埋まっていない。世の中は、私の信じていたそれではなかった。しかし私の手は、すでに血で汚されてしまった。善良な人々の中で、私はただ一人の隠れた罪人となり、再び異端者として生きてゆかねばならない。そして、生きている限り、この孤独が終ることはないのだ。

 風が口に運んだ緋色の花弁を噛むと、鉈で首を切りつけたときに浴びた返り血と同じ味がした。

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