第33回1000字小説バトル Entry25
ボサノヴァ歌手がギターをかかえて舞台から去るまで、彼女は水槽のなかで両手の水かきを打ち鳴らしているようだった。よかった。気げんがなおったみたいだ。
彼女は遠く木星の衛星エウロパからやって来た留学生だ。地球の衛星より小さなエウロパは、表面を厚い氷でおおわれ、その下の海中に暮らす人々は、それ相応の姿をしている。上半身は、体毛と鼻がなくて目がやたら大きいくらいで、地球人に似ていなくもない。けれど下半身に足はなくて魚の尾ビレのようであり、エラのような器官で呼吸をする。だから地球では、こんな大きく不格好な遮光ガラスばりの気密水槽に浸っていなければならない。
僕は車輪つきの水槽を押してコンサート会場を出た。もう夜になっていたので、遮光レベルの下がったガラスごしに、彼女の姿がうっすら見える。春らしくぬるい空気が、氷点に近い塩水で満たされたガラスに露をつくっている。
「さっきはごめん」
人波を抜けたとたん、あらためて僕はあやまった。やはりスシ屋なんかに連れて行ったのは僕の大失策だ。魚がさばかれるのを見て、彼女は尾ビレをのたうち気絶しそうになったのだ。
「モウ、イイヨ」
彼女は水中でキーボードをたたいて、そんな音声を外部に鳴らしてくれた。
「地球人てのは、野蛮でいけないな」地球人の僕は弁解じみたことを言う。「でも文化のちがいってことで」
「ワカツテルヨ」
それから公園に入った。古くさい博物館を通り過ぎて、僕は彼女をわきに置いてから、ベンチのはじっこに座る。
「サクラだよ」
満開のサクラが枝をひろげて、重たい夜空の暗黒を背負っている。もし彼女の色覚がもっと発達していたら、歓声をあげたろうか。
「ナントナク、ワカルヨ。キレイダネ」
「うん、きれいだ」
「チキユウニワ、オンガクト、ハナガアツテ、イイネ」
「じゃあ、一生ここに住みなよ」
水槽の奥から、大きな目がこちらを見つめていた。僕はそこに顔をよせた。彼女にまぶたがないので、僕が目をつむった。くちびるに、ひんやり濡れたガラスの感触。
「デモ、ムリダネ」と水槽が鳴った。「ワタシタチニワ、チガイガオオスギルヨ」
「うん」
うなずいて僕はくすりと笑う。たった今、チガイのない文化を確認したばかりじゃないか。
彼女がワカルと言った花びらを数枚、ガラスに貼りつけてあげてから、天をあおいで彼女の故郷を探す。たとえ肉眼で見えたとしても、こうサクラがまぶしくてはまずムリダネ。