第34回1000字小説バトル Entry30
月が落ちてくる、という噂が僕のところにも届いてきたのが6月のことで、月接近問題調査委員会からの公式見解としてそれが発表された7月には人々の不安はもう手がつけられないぐらいのところまできていて、治安は悪くなったし宗教団体も増えた。僕はというとそんなことにはあまり関心がなくて、4月の終わりに出した由美子へのラブレターのことだけが、気がかりといえば気がかりだった。
春に出したラブレターの返事がないままに夏がすぎて、秋になった。いかに僕の気が長いとはいえ、半年も待つとさすがに心労がたまってきて、僕は由美子の気持ちを直に確かめてみることにした。
火曜日の夜は、1週間のうちで唯一僕と由美子が店に二人っきりになるときで、会話を交わす機会があまりなくなっていた彼女に、思いきって声をかけてみた。
「あの」
僕の呼びかけが聞こえているのかいないのか、彼女は僕に背を向けて、月と反発しあうという斥月ハットをかぶったまま、ほうきで床を掃いていた。世界中の人がそれをかぶれば月の接近を遅らせることができるのだ、という科学者のような宗教家のような人の熱弁をテレビで見たことがある。そのころ世間では、月の粉を防止するマスクとか、月の音を探知する耳あてとか、そういう防月グッズが流行していたけれど、僕はひとつも持っていなかった。
「あの、ラブレターのことなんだけど」
彼女は手を止めて、きりっ、とこちらに振り向いた。斥月ハットが黄色く光っていた。
「なに?」
「ラブレターの、返事をさ」
「ラブレター?」
と彼女がまるでそんな言葉生まれて初めて聞いたわとでもいうような顔をするものだから僕は驚いてしまって、
「し、4月に渡したじゃない」
と裏返る声で言った。
彼女は3秒ぐらいうつむいてから顔を上げ
「ああ、あれね」
とうんざりしたような声で言った。
「返事をさ、聞きたいんだけど」
この僕の言葉が彼女の勘に触ったようだった。
「そんなの知らないわよ! こんなときに、よくそんなラブレターなんて気にしてられるわね」
「いや、だってさ、落ちてくるのって早くて90年後でしょう。僕たちには、関係ないじゃない。どうせ死んでる」
右の頬に強い衝撃がきて、左の頬も続いて叩かれた。彼女は僕にほうきを投げつけて、勢いよくドアを開けて店を出て行った。開け放たれたドアの向こうに見える月は、斥月ハットの効果があるのかないのか、ともかくまだまだ遠くにあった。