第34回1000字小説バトル Entry33
「散歩に行ってくる」
と、私は家のどこかにいるであろう妻に断わり、あくびのような返事を背に玄関を出た。たしかに土手に着くまでは散歩だが、それから先は、家族にさえ告げない秘密「土手ころがり」の時間である。
意義のない散歩を終え、土手のいただきに登った。芝は青々と栄え、点在するたんぽぽが風に微動している。いくらかかたむきつつある太陽の下、形のない雲が浮かんでいる。ごく平凡な風景――絶好の、ころがり日和である。
私はおもむろに、うつむきながら斜面を往復して、常用のルートをあらためた。石や犬のフンといった危険物がないことを確認すると、ふところに隠し持ってきた雨がっぱをすばやく着る。ないほうがよいものだが、衣服についた草を家族に指摘されないがための防護服である。
そしてようやく私は、ころがり始めた。
若いころは前転も後転も思いのままだったが、いまとなっては横転がせいいっぱいである。しかし、土手ころがりのすばらしさ! これに違いはない。
視界が回転する。青空、芝生、青空、芝生……鼻を草の臭気がつき、目に太陽がまぶしい。冷たい地面が体中をなめ、また同時に春の空気が体中をなで、めぐりめぐる天と地の走馬灯が加速を増し、やがて止まり、少年がいた。
「なにやってるの?」
ふもとに大の字となった私を、不思議そうに見下ろしていた。年のころは小学校低学年と見えた。
「なんでころがってるの?」
私は身を起こして、体についた芝をはらいながら、
「土手ころがりだよ」
「ふうん」
少年は納得した。われながら秀逸な名称「土手ころがり」は、この行動を説明するに雄弁あまりある。
「きみもやるかね?」
「うん」
私は、少年に土手ころがりの作法を基礎から教えこんだ。
「へえ、ただころがればいいんだね」
なかなか聡明と見えて、飲み込みは早かった。
そうして私たちは、ころがりにころがり、ころがってはころげ、ころころころころ、川の向こうが真っ赤に染まるまで、土手ころがりを続けた。
ふと私は、じぶんが初めて後継者を得たという事実に気がついた。はずむ息をおさえて少年にたずねる。
「きみは将来、なにになりたい?」
わが後継者は、ほおに芝を貼りつけたまま、笑顔でこたえた。
「ぼくはね、サッカー選手になるんだ」
「それではだめだ。もっとつまらない未来になさい」
そう言って私は、身を土手に投げ出し、思うぞんぶん、この平凡な天地をころがすのであった。