第34回1000字小説バトル Entry38
鏡の前に立ち、髪の毛を縛る。
なかなかうまくいかない。今度こそ巧くいくかな、と思っても、必ず一房の髪が耳の脇にまとわりついていた。それは近頃少し酷くなってきた不眠の為かもしれない。また、際限無く積み重なっていく時計のかちり、かちりという音の為かもしれない。
ようやく縛り終え、財布をポケットに仕舞う。
部屋は荒れていた。全ての物は所定の位置に納まっているのだけれど、それがかえって机やタンスについたわずかな埃を際だたせ、部屋の雰囲気を荒んだものにしていた。
物を捨てなくてはいけない、とあたしは思った。
捨てる物より捨ててはいけない物を探すのが大変だった。雑多な物に混じると、保険証だとか通帳だとか昔の写真だとかが捨ててはいけない物には見えなくなっていった。コンビニエンスストアのレシートが折り重なって出来たモノ、位にしか見えなくなった。どうするかを考え、結局全部捨てることにした。
一冊だけ残した本以外の全ての物をビニール袋に入れた。時計がまだ、かちり、かちりと鳴っているのが、ビニールに透けて見えた。時計は午前三時を指していた。
本を手に取り、サンダルを履き、外へ出た。
車の絶えた大通りの真ん中を歩く。街路樹の向こうに高架線路が見えた。連なったアーチ型の橋桁が、何処か扉に似て見えた。
幾重にも重なった扉の向こうに、幾重にも街が重なっている。
ふらふら歩いていると、いつの間にか目の前はマンションの工事現場だった。常夜灯のオレンジに包まれたそれは、あたしに少し異国を思わせた。
柵を乗り越えて中へ入った。
置き放しになっていた資材に腰掛け、持ってきた本を開いた。古本屋で買った一冊五十円の本で、あたしが産まれた二年前に印刷されたということが奥付に記されていた。
闇の中に、薄青くなったインクの文字達が解けていきそうで不安になった。そして同時に、あたしは何処へ行きたいのだろうか、とも思った。
あたしは立ち上がり、空を見上げ、そして。
そしていつの間にかもう今が真夜中では無いことを、夜更けが近いことを知った。
するりと、本が手の中から滑り落ちた。
家に帰ろう、とあたしは思った。
その帰り道の中であたしは、不思議な音を聞いた。うまく産まれることの出来無かった虫の、最初の、そして最後の鳴き声のような、しぃ、という静かな音だった。
街は急速に光を取り戻しつつある。
春が今、終わろうとしている。