第35回1000字小説バトル Entry17
新しい薬缶を買った。
それまで使っていた薬缶に穴があき、台所を湯びたしにしたのだ。
そいつに寿命がきたのは、昨日の夕方のことだった。
都合十年も使っていたそいつは、例えばコーヒーなんかが欲しい時によく活躍してくれたものだった。俺はドリップ用の道具に紙と挽いた豆をセットして、そいつを使って煎れたコーヒーの香りを、鼻をヒクつかせては楽しんでいたものだ。
俺が学生の頃からだから、随分と世話になった。
壊れてみれば、よく耐えたものだ、と、いつのまにか不恰好に変形しているそいつを、感嘆しつつ眺めた。
買った時はあんなにピカピカだったのに、と、そいつの姿をしげしげ眺めると、形あるものは壊れるものなのだと、改めて教えられるようだった。
そう、色々と思いを馳せると、ただ、用済みだからといって、ポンと捨てるのも妙にしっくりとこなかった。考えてみれば十年も付き合ってきたのだから、いずれはサヨナラしなければいけないのだけれど、それにしても、何かお礼みたいな事をそいつにしてやりたかった。
だからといって、供養というのも大げさみたいだし、それに抹香臭い事が似合うような柄でもない。
しばらく考えた末に、俺は下手くそではあっても、一応小説家を目指して書き物をしているのだからと、感謝の言葉を捧げて、そいつの中に入れてやることにした。
今まで、有難う
お前と別れるの、寂しいよ
でも、いつまでも置いてやれない
だからせめて、照れくさいけど
お前に感謝してるよ、と
書いておくよ
もう一回言うよ
今まで、有難う
俺は、とても他人には見せられない気恥ずかしくて拙い言葉を、ちいさなメモ用紙に書いてそいつの中に入れると、これもまた不恰好に変形した蓋を、そっと閉じて、そしてビニール袋に入れて堅くしばった。
そしてそれを、燃えないゴミの日まで待つのが耐え切れずに、夜中にこっそりとゴミ捨て場に持って行った。
そっと音がしないように置くと、そいつをじいっと見つめて佇んだ。しばらくは動けなかった。
やがて、意を決して最後のお別れを呟くと、俺は振り返って家の方向におずおずと進んだ。
その時風が吹いたのか、カラ と、そいつも返事をしたみたいに、少しだけ甲高い音がした。
俺はその音に、手で返事をしてそのまま家路へとゆっくり歩いた。