第35回1000字小説バトル Entry21
僕はベランダにいた。
初夏とは名ばかりの肌寒い五月の夜、夜とは思えない薄明の中に、副都心の幾何学的なシルエットが浮かび上がる。時折、天に脱色しきったような光の帯が走る。何かのライトアップ用の照明だろう。
東京の空にも星が出るんだなと感心するでもなくただそう思い、たばこに火をつけた。バスルームから亜希子が僕を呼んだ気がしたが、耳を澄ませてもそれっきり何も聞こえない。ただの空耳かも知れない。
ゆっくりと煙を肺に入れ、またゆっくりと僕は吐く。たばこの先から立ち上る煙は、まるでマリオネットの操り糸のようにゆらゆらと気ままに踊り、そのまま宙へと吸い込まれていった。煙が消えて無くなってしまうその境界線はいったいどこにあるのだろう、じっと目を凝らして探そうとしたが、僕にはどうしてもそれを見極めることは出来なかった。僕は、何も見極めることはできないのだ。
空に、赤色の一等星が見える。さそり座のアンタレスだ。空にぐったりと横たわる(そう見える)さそりも、そのひとつひとつの星は別にさそりの形になろうとしてそこに在るわけではない。彼らもやはり、それぞれに、勝手に生きているのだ。僕らと同じように。
僕はたばこを吸い終わった後も、しばらく星を眺めていた。やがてバスルームから出てきた亜希子が、少し不機嫌な様子で僕のいるベランダへとやって来た。
「ねえ、呼んだでしょう、返事くらいしてよ」
「ああ、ごめん、気のせいかと思ってさ」
僕は適当に言い繕い、また空を見た。亜希子も空を見た。
「明日は晴れね」
彼女は呟くと、タオルを巻いた頭のまま、また奥の部屋へと消えた。
明日は彼女の仕事が終わった後で、パキスタン料理の店へ行こうと約束している。僕は気楽な学生の身分なので、こうしてウィークデーでも東京に遊びに来ることが出来るが、亜希子は社会人だから、当然働いている。しかも忙しい。
空なんか普段ろくに見もしないくせに、なぜだろう、亜希子を抱いた後、僕はまたベランダに出て、天を仰いでいた。たばこの煙が、アンタレスまで昇っていくところを僕は想像した。そして、冷蔵庫から亜希子の買い置きの発泡酒を一本出して飲んだ。ベランダは相変わらず寒かったけれど、それでも飲んだ。
「ねえ、もう寝るわよ。明日早いの」
亜希子の声が聞こえた。ああいいよ、と僕は返事する。
僕はあと少しベランダにいる。そして僕らの関係のことを、あと少し考える。